その突然の知らせは、僕を絶望させるのには充分だった。
絶望し、脱力し、生きる気力を失った。まぁ、だからと言ってリスカや自殺などをする勇気もない。
臆病な僕はただ、自分の部屋から一歩も出ずに、外に出ずに、引き篭もっていた。外に一歩出てしまえばその現実を受け入れなければならない気がして、僕は外に出られなかった。
――怖かった。
大好きだった彼女が自殺したという事実を受け入れるのが、どうしても出来なかった。
とはいえ、僕は彼女と何か接点がある訳ではない。ただのクラスメイトで、ただの片想いだ。
教室の隅でぼぅっとする彼女の、儚げさを見て、魅入られた。魅せられた。
消えてしまいそうな彼女は、本当に消えてしまった。
弱い訳ではないのだろう、運動神経もそこそこで、勉強も出来た。大人しい優等生という印象がやっぱり強かった。
あと、少し変わった価値観を持っていることを僕は知っている。
自殺の理由はよく分からないらしい。
「ただ、何となく、死ってどんなのかなって思って、首を吊ってみたら死んじゃった。いや、でもよかったよ、こうして
彼女は笑って、そんなことを言った。
そう、視えるのだ。僕は彼女が。幽霊が。
霊感があるという自覚はなかった。というか今もない。
だから最初、僕はそれを僕の脳が生み出した幻覚なのだと、妄想の塊なのだと思った。
だけど違った。彼女は、僕が知らず彼女なら知っていることを知っていた。
スリーサイズ、処女の有無、初恋の人、自殺の詳しい状況、そして彼女が今恋している人のこと。
今というと少しややこしい。幽霊というのは時を刻めないらしい。だから彼女にとっての今とは、死ぬ寸前のことで、つまり彼女が最期に恋をしていた人のことだ。まぁ、僕ではないことは分かっているし、怖くて聞けなかったのだけど。
「ん~、もう一ヶ月になるのか」
時は刻めないが、そういう違いを認識することは出来るらしい。現実にある日付を認識して、認識の更新なるものをしているらしい。
「時間が刻めないって言うけど、そもそもこの世界には時間なんて概念はないんだよ。一秒は、「セシウム百三十三原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移に対応する放射の九十一億九千二百六十三万千七百七十周期の継続時間」って定められていて、要約すれば「マイクロ波が九十一億九千二百六十三万千七百七十回振動するのに必要な時間」なの。だから、こう漠然とした時間の流れなんてないの。だから時間っていう概念がなくなっても私達幽霊はいつでもどこでも存在出来る。目的を果たすまでね」
「よく分からないよ」
「要するに、人間が勝手に決めた概念に幽霊は囚われることなく自由気ままに生きていけるって訳よ。時間感覚がなくなったおかげで時の進みを自覚しにくいんだけど、まぁ時計を見てたらいい話だしね。時間は刻めないけど、時計やカレンダーによって時間を認識することは出来る。だからほとんど、一緒なのよね」
「ふぅん。それで、君はずっと僕の部屋に居座って、ダラダラ時間を過ごしているのね」
「まぁね。他のみんなは私を死んだ人、この世から存在しなくなった人って認識を改めちゃったから、私を見ると怖がって怯えちゃうのよね、ちょっと辛いかったな、まぁ、今は傷心旅行ならぬ傷心サボり中よ」
さらっと彼女は、僕がまだ彼女の死を受け入れていないことを見抜きながらそんなことを言う。
「別にいいじゃない。お喋りは楽しいし。生前の私は、人に気を遣ってあんまり喋れなかったけど、死んじゃうと気遣いとかゴミ箱にぽいっだね。どうでもよくなっちゃった」
「気遣いの欠片もないのはそのせいなんだ」
まぁね、と彼女は楽しそうに笑う。
相変わらず彼女は儚げだ。いや、透けているという比喩ではなく、そう楽しそうに笑っていても、どこか現実味がないのだ。ああ、幽霊だから現実味はないのだけど、そうじゃなくて。
うん、どう表現すればいいのだろうか。
「あ、氷だ」
「ん? どうしたの?」
「ううん、君って氷みたいだよね、って思って」
「確かにクールビューティとはよく言われたけど」
「そうじゃなくて、なんて言うか、溶けない氷みたいだねって」
彼女との会話は楽しい。楽しくて、だけど、悲しい。
だって話しているのは幽霊だ。彼女が死んだ後の魂であり、この世のものではないのだ。
「氷って透明でさ、透けて見えるし、触れてしまうと熱で溶けてしまうでしょ。君はそういうイメージだなって」
透明で透けて見えてしまいそうな程に綺麗で純粋で、触れてしまうと僕の熱で溶けてしまいそうで、僕の想いで変えてしまいそうで、だけど、触れてみれば硬い形があって。僕の手を冷たくしていく、僕を変えていく。
ずっと存在していて、ずっと僕を変えていく。
そういう魔性のようなものがある。
「あはは、そんな綺麗なイメージだったんだ、私」
「うん。クールだったよ」
「ありがと、嬉しいよ」
そう言って微笑んだ彼女は、やっぱり美しい。美しくて綺麗で、だけれどもやっぱり
そしていつか彼女は成仏してしまう。
証拠として挙げるならば彼女の存在感が、視認出来る濃度が薄くなっている。どうしてだろう、彼女はただ僕とお喋りをしているだけだというのに。
「そういえば結局、君のやり残したことって何なの?」
「さぁ、なんだろうね」
「またそうやって誤魔化す」
「あはは、いいじゃない。こうして私は君との会話を楽しんでるし、君も楽しいでしょ?」
「そうだけどさ、ずっと一緒にいられると発散するものも発散出来ないんだけどな」
「それはごめんね、多分、もう少しだから」
「……え?」
突然のそれは、分かりやすいお別れの言葉だった。
「どうして、急に」
「どうしてって、普通なことだよ。私はもう、やり残したことはないからさ」
「だから、そのやり残したことってなんなの!?」
脈絡のない急な宣告。
一体彼女が何をしたのだと言うのだ。彼女は僕とずっとお喋りをして、楽しんでいただけ。なのに、どうしてそんなことになったのだろうか。彼女が何もしようとしないから、つまり彼女がずっと側にいてくれると思っていたのに、どうして、そんな急に。
消えていく。存在が薄れ、見えなくなっていく。
「どうして、どうして、どうして、なの」
「あはは、やっぱり、怖いな。死ぬ時も思ったけど、消えちゃうのはもっと怖いな。ねぇ、君は私のこと、ずっと覚えていてくれる?」
「覚える。覚えるから、だから、お願い、消えないで。いなくならないで!」
「ありがと。本当にありがとう、大好きだったよ」
そう言って、彼女は消えた。
溶けない氷は昇華して、気体となって、どこかへといったらしい。
どうして、と思う。
最期の言葉の意味は分からない。彼女のやり残したことも分からない。何も分からない。
だけど、もう、どうしようもなかった。
外も内も同じだ。
彼女はもういない。どこにも、いない。部屋に篭っていても外に出ていても一緒だ。ならば外に出よう。一ヶ月ぶりに、彼女の死を、消滅を受け入れて。
「……ありがとう、僕も大好きだ」
呟く。
死ぬつもりはない。そんなこと僕には出来ない。怖い。
彼女のように、思い付きでやってみて死ぬようなことは出来ない。僕はただの臆病者で、ただの心の弱い人間で、ただの人間で。
たった今、僕は恋が実ると同時に失恋してしまったらしかった。
幽霊って元は結構美人だったりしますよね。まぁ、それが理由で殺されたりしているんで、幽霊よりも人間の方が怖いってことなんでしょうけれど。