Fate/strange fake Prototype 作:縦一乙
「――先生、大丈夫ですか! 先生!?」
身体を揺すられ呼びかけられた声に、女医ははっと顔を上げた。傍らには見慣れた看護師の姿があり、テーブルの上にはコーヒーだまりができていた。
「あれ? 私、一体……?」
朦朧とする意識を覚醒させながら、女医は看護師を振り返る。
「もう、疲れていてもこんなところで寝ていちゃだめですよ」
「寝てた? 私が?」
「先生が机の上でぴくりとも動かないから心配しました。ああ、気をつけてください、コーヒーが白衣に染みちゃいますよ」
「コーヒー……飲んでなかったっけ……?」
女医が起きたことを確認してか、看護師はティッシュを取り出してテーブルの上にぶちまけられたコーヒーを手際よく処理していく。その分量から女医がコーヒーを飲んでいないのは確実だろう。そういえば、飲んだ記憶はあってもコーヒーの苦みを味わった記憶はない。
「……あれが、夢?」
時刻はコーヒーを煎れた頃合いに確認している。あれからわずかに数分ほど。記憶に残る内容に要した時間とほぼ一緒である。コーヒーの熱もすっかり冷めていた。
試しに頬をつねってみれば、確かに痛かった。あれほどリアルであったにも関わらず、現実を鑑みれば夢であったと判断するより他はない。
「じゃあ、まだ椿ちゃんのところへ行ってないんだ……」
そういえば夢の中でも、どちらにしろ診察は行っていない。
「先生、椿ちゃんのチェックなら私がしますから、仮眠室で少し横になってはいかがですか? すごく顔色が悪いですよ?」
「そう?」
「そうですよ、ほら熱も……すごくあるじゃないですか!」
看護師が女医の額に手を当てると、そこは確かに普段よりも明らかに熱くなっていた。試しに常備している体温計で測ってみれば、医者でなくとも横になることを薦める体温である。
「さっきまで大丈夫だったんだけどな……」
先ほどまでは眠くはあっても、決して体調が悪いわけではなかった筈だ。けれども現実に身体は悲鳴を上げているようで、これでは除菌室の中にいる椿の元へ診察しに行くわけにもいくまい。
急激な体調悪化に頭を傾げるも、女医は自ら薬を処方して大人しく仮眠室へ向かうことにした。
自己診断では疲労によるただの風邪であり、まさかこの体調悪化がサーヴァントと呼ばれる存在によって引き起こされた症状であることなど、ただの一般人である彼女に分かる筈もなかった。
ライダーは困っていた。
黒い霧の形は右へ左へと揺れ動き、マスターたる繰丘椿の周囲を漂い続けている。
人間の感情を理解することのないライダーが『困る』などということはない。しかし、現状を第三者から見れば、確かにライダーは困っていた。
システマチックに行動する彼はマスターが是とする行動を取ろうとしても、それを解決する手段が明確でなければ何をして良いのかわからないからである。
繰丘椿は、ライダーの前でただひたすらに膝を抱えて泣いていた。
感情を理解せずとも椿の活力が著しく落ちているのはライダーにも理解できる。それが椿にとって良いことでないことも理解できる。だが、それをどうすればいいのかライダーはわからない。
女医がこの夢の世界に来たのはライダーが原因だ。しかしそれはライダーが意図した結果でなく、「病」というライダーの性質によるものだ。
たまたま椿の一番近くにいた人間が“感染”しただけのこと。そして感染したとしてもすぐに夢の世界へ来るというわけではなく、感染した人間の抵抗力が落ちた時にだけこの夢の世界へ来ることになる。
つまりライダーに“感染”した人間が風邪でもひけば、この夢の世界へ召喚されることになる。
先ほどの女医の場合、長時間労働による過労がそのトリガーとなったわけだ。
もちろん“感染”はライダーの意志ひとつで強めることも弱めることもできるので、夢の世界から追い出すことも簡単である。
椿が苦しんだ、とライダーは判断した。女医が椿の腕を掴み、椿はそれを忌避した。故に苦しみの原因となったであろう女医を夢の世界から追い出したわけだが、何故か状況は好転しなかった。
仕方ない、とライダーが思ったかどうかは定かではない。
ありとあらゆる手段をライダーは模索するも、なかなか最善の方法は見つからない。ならば、このまま何もせぬよりも次善策として経験上有効であると判定した手段をとろうとライダーは判断した。
次善策はすぐに椿の目の前で行われた。
現れたのは、一組の夫婦。椿をこの世に生み落とし、実験台として取り扱った二人の魔術師。椿がこの世で一番愛し、愛されたかった人物。そうした背景をライダーが理解しているわけもない。
唯一ライダーが理解していることは、マスターがこの二人に執着しているという事実だけ。
ライダーは椿に対する万能鍵として、繰丘夫妻を呼び出したのである。
しかし、
「つ……ばき……」
「だ……じょ……ぶ……?」
椿の前に現れた繰丘夫妻は、とても椿をどうにかできる状況にはなかった。
頬は痩け、目は虚ろ。とても健康的とは言い難い顔色で、二人は立つこともできず床でわずかに蠢動するだけ。壊れかけのレコードの如く同じ言葉を何度も何度も、血反吐と共に吐き続ける。
両親のそんな姿を見せつけられれば椿もライダーを無視続けるわけにはいかない。両親に抱きつきながら、椿はライダーに懇願する。
「お願い! もうパパとママを休ませてあげて!」
椿の悲痛なその願いに、ライダーは満足したかのように身体を揺らめかせ、女医と同じように夫妻を消しさってみせる。同時に、この方法は有効であるという間違った認識を再確認していた。
椿がそもそも病院へとやってきたのは、この両親の変容が原因である。
ライダーが召喚された当初、椿は彼女の理想の両親に囲まれて一時の楽しい時間を過ごしていた。長いこと夢の世界で過ごしてきた彼女が両親に触れ合うのは実に一年ぶりのことであり、ある意味ライダーは聖杯に代わって椿の願いを叶えたと言っても過言ではなかった。
しかし、万能ならぬサーヴァントの能力には限界もあれば制限もある。
そもそもライダーは“病”という災厄そのものであり、“感染”することで身体の生理的機能や精神の働きを部分的に阻害した結果、操っているように見えるというだけの話。当然、阻害し続ければ弊害も出る。
結果、肉体は時間と共に衰弱していき、糸の切れかけた操り人形の状態となる。
特に繰丘夫妻は魔術師ということもあって、ライダーは強めに“感染”させてある。夢の中ですらあの状態であるのだから、今頃現実の世界では家の中で倒れ伏していることだろう。早い内に介抱しなければ近いうちに糸が切れてしまうことになる。
そんな状態の両親を見せつければ、椿が何らかの解決策を求め病院へとやってきたのも当然であろう。魔術師としての知識も、ライダーが一体どういった存在なのかも知らぬ椿は、とりあえず薬を手にせんと病院へと訪れ――自らの正体を知ることになる。
少女の精神は限界に近かった。
この広い夢の世界で、女医と出会えたことは果たして幸運だったのか否か。女医という第三者の存在は、彼女にある意味で正しい認識を導き出させてくれた。
自分が本当は意識不明であり、愛してくれた理想の両親も今は慰めることもできぬ有様。見守り続けるライダーは椿の意には沿ってくれるものの、空気を読んでいる様子ではない。
まだ十歳の少女にこの状況を打破すべく動け、というのも無理な話。
彼女は何もせず、何もできない。
ライダーから逃げることも、責めることすらしない。
ただひたすらにしくしくと幼子らしく泣き続け、時折ライダーによって現れる両親の姿に心を痛めるだけ。
そんないたちごっこを何回したことだろうか。気がつけば、椿は一人泣き疲れて眠っていた。椿が眠っている間は、ライダーは何もしない。彼女の意に沿うということは、彼女が何も望まない状況であれば何もしない、ということだ。
だが、しかし。
運命は思わぬ方向に突き進む。
自分が意識不明だと言うこと、そして女医という両親以外の他者に出会ってしまったという事実。
真に両親から愛されたわけでもなかった十年。
誰にも触れ合うことのできなかった一年。
偽りであっても幸福だった数日。
そのことが、椿にとってどれだけ大きな衝撃であったのか。人間ならぬライダーは無論、彼女自身であってもそれを推し量ることは難しい。
彼女の願いは今まで表層に現れ出でることはなかった。無意識の奥底に、深く澱のように降り積もるだけ。両親に愛されたいという願いは、一年前にあったもの。今の彼女の願いは、もっと単純にして身近である筈のもの。
他者と触れ合いたい。
椿をマスターと呼ぶライダーと出会った。椿を愛してくれる両親に出会い、そして別れようとしている。自分の担当医だという女医と出会い、そして別れた。
知ってしまったが故の不幸せ。
繰丘椿が夢の中で夢見た望み。
夢の中で眠る椿は無意識のうちに、こんな言葉を口にしてしまった。
「……もう、一人はいやだよ……」
その言葉の意味にはありとあらゆる意味が込められている。両親と別れたくない。友達と遊びたい。誰かと話したい。周囲と触れ合いたい。いろんなことを学びたい。孤独は嫌いだ。現状に不満がある。
――倒れた両親の代わりが欲しい。
そんなわずかな眠りの中の呟きを、ライダーは聞き逃さなかった。
サーヴァントはマスターからの命令を受諾した。
受諾してしまった。
大きく頷くようにライダーは黒い霧の形を震わせ、霧散させる。それはまるで風に乗って種子がばらまかれる様に似ていた。現実にはない夢の世界で、彼の姿は北へ南へ、野へ山へと広がってゆく。
それがいかなる結果を生み出すのか。
ライダーのマスターが結果を知るには、まだしばらく時間がかかる。