Fate/strange fake Prototype 作:縦一乙
その男は気怠げに階段を上がってきた。
四〇代前半のサラリーマン。見るからに動くのが得意といった体格ではなく、疲れがあるのか足取りも重い。煙草の灰が落ちるのもそのままに、胡乱な目つきで周囲を見やる。砂漠化の進んだ頭皮をかきむしれば周囲にフケが飛んだ。
もう定時もとっくに過ぎたというのに、酒が入っていないのが不思議なくらいである。それでもわざわざ一度は明かりを落とした二階のオフィスへ足を向ける理由は、まだ仕事がたくさん残っているからに他ならない。
つまり男は貧乏籤を引いていた。
まだ夜も浅いというのにサイレンの音がよく耳につく。救急車かパトカーか。無数のサイレンが、夜のスノーフィールドのあちこちで響き渡り、共鳴して、奇妙な音楽を作り上げていた。
その数だけ事故や事件があるのかと思うと、一つ一つのサイレンが悲劇に群がる腐肉くらいのように思えてくる。
理性と切り離されたところで、益体のない妄想が膨らみ続ける。
スノーフィールドの夜は徐々に剣呑な雰囲気につつまれつつあった。昨日よりも今日の方がその傾向が強い。そして今日より明日の方が、その傾向はより強くなることだろう。
そんなことを他人事のように思いながら、誰とも知れぬ暗躍者にご苦労様と言いたくなる。そして自分にも誰か労ってくれないものかと嘆息する。
会社から残業は控えるよう命じられていた。何せ、昼間は会社の命令で外回りをするほどだ。
自警団という訳ではないが、社内の人間を本業そっちのけで外に出回らせ、取引先を巡り「ここだけの話」をして警戒を促している。それにどれほどの効果があるか分からないが、信頼関係の構築には意味があるらしい。
だが取引先といくら信頼関係を構築したとしても、男の仕事量が減るわけではない。どうせなら「控えろ」ではなく「禁止」と命令して欲しいところだ。
役所に提出する書類の数を思い返す。
期日を考えれば、余裕などあるはずもない。そして社長の意向が働けばそれだけ後ろにずれ込むことになるだろう。少なくとも今日一日が無駄に潰れたことでより締め切りが厳しくなったことは確かである。
となれば、生半可な残業をして一人寂しく帰宅するより、ここで一夜を明かした方が仕事も進むし安全でもあろう。
給湯室に隠しておいた酒はまだあったかと、男はドアノブに手をかけた。もう片方の手でポケットの中にある鍵を探って――
かちゃり、と軽い手応えに思わず口が開く。
咥えていた煙草が火のついたまま床に落ちるが、口から零れたのは煙草だけで済んだ。叫びそうになる口を反射的に手で押さえ、無理矢理悲鳴だけは抑え込む。
鍵が、かかっていない。
連想されうるべき状況に、一瞬で頭がパンクしそうになる。
今朝方行われた社長の訓示でもあったのだ。強盗や殺人が起こる可能性が高い。なるべく複数人で行動し、少しでも違和感があれば大声を出し異変を知らせる。そしてすぐさまその場から退避するように。
まだ階下に人はいる。叫ぶまでもなく、少し声をかけるだけで人は来る。センサーこそ設置していないが、万が一のことも考えて警備会社と契約もしているのだ。電話一本で呼びつけても責められることはない。
けれども、男はそうしない。
きっと、鍵をかけ忘れたのだ。もしくは同僚の誰かが既に中にいるのだろう。
ありもしない幻想に、男は縋る。
この騒ぎが始まりだしてから鍵は厳重に管理されているし、かけ忘れなど有り得ない。他に鍵を持つ同僚はついさっき別れたばかりである。帰宅の途につこうとしている彼らが、わざわざ別階段から迂回して男に先んじることなどあるわけがない。
ドアに取り付けられている擦りガラスの向こう側から明かりは見えない。オフィス街なだけに外に光源はたくさんあるが、だからといって明かりなしで何かすることができるわけもない。
もし明かりをつけるのを忌避する者がいるとしたら、それは泥棒か、あるいは――
脳裏に走った妄想に慌てて男は首を振る。
傍目から見ると、男は明らかにおかしな事をしていた。
けれどもその理由を察すれば、おかしな事ではない。
人を呼べば、この中を検めなくてはならない。この中に他人の目を入れることなど、絶対にあってはならない。何かがあったとしても、何もなかったことにしなくてはならないのだ。
敵以上に、味方に見られることは避けなければならぬ情報が、ここにある。
さっさと逃げ出すという選択肢を忘れてしまうほどに、男は取り乱してしまった。
本来知りえぬ事実を知っていたが故に、男はこれ以上にないほど、慌ててしまった。
それでありながら、恐怖に引っ張られて口端からよじれた声を漏らすことをしない。
本当の混乱は身体からスタートすることを、男の肉体はよく教え込まれていた。身体が感情を引っ張るから、収集がつかなくなる。だから頭がどれだけ混乱していても、頭の中だけにとどめていればエスカレートはしない。
数秒の後に男は正気を取り戻し、正しい選択肢を思い浮かべ実行することができる――筈だった。
喚き散らしたくなるのをじっと耐える、という特殊な訓練を受けていなければまずできることのないファインプレー。
それが男のミスだった。
「――お前、聖杯戦争を知っているな?」
何を、などと男は思わない。
男は、この聖杯戦争でここが調査される可能性を、知っていた。
ただの一般人の筈である男が、聖杯戦争の名前を、知っていた。
闇夜から零れ落ちるような怪しげな声と共に、ドアの隙間から赤い影が這いより男の手を無造作に掴んでくる。
熱いのか冷たいのかすら分からずとも、熱く荒い息遣いは瞬時に冷やされる。とても人間の力とは思えぬ力によって、ズルリと男の身体がドアの内側へと呑み込まれる。その様子は蛇が獲物を丸呑みする様を連想させた。
ドアの外に、静寂が戻る。
床に落ちた煙草が、しばらくして燃え尽きた。