◇◇0
椚が丘中学校の三年E組担任に『殺せんせー』という名前がつけられた翌日。椚が丘駅に一人の少女が到着した。
肩甲骨までかかる長さの髪を後頭部で不器用にひとつ結びにしている小柄な少女、湯島春である。
春は通勤、通学ラッシュ中の列車から降りるとふぅ、と息を吐き、人の邪魔にならないようにホームの端に寄り、疲れをとるように体を伸ばして言った。
「よし、今日も頑張ろう」
◇◇1
朝のチャイムが鳴り、椚が丘中学校旧校舎の三年E組教室では、ある一人の生徒が緊張感を漂わせていた。
もうすぐ暗殺対象である殺せんせーが入室してくる。今日はその女子生徒が暗殺トラップを仕掛けているのだ。
緊張感の主であり、トラップの仕掛人である女子生徒の湯島春は、少し開いた教室前方の扉を見ていることに忙しくて気がついていないようだが、他の生徒達は揃って何か言いたげにトラップや湯島春を見ていた。
教室の外から殺せんせー特有の足音が近づいてきて、教室の外で止まる。
春が前方の扉を両手を握りしめて見ていると、不意に扉が動いた。殺せんせーが入ってきたのだ。
同時にトラップが作動する。狙い通り扉に挟まっていた対先生用ナイフが重力に従って落下したが、殺せんせーに触れる前に触手が持つ布で受け止められた。
そして、暗殺が終わった。
「うわー!失敗したー!」
机に突っ伏して叫ぶ春。クラス生徒全員が『だろうな』と心の中でツッコミをいれた。
春がクラス全員が登校したE組教室の前の扉に対先生用ナイフを挟んで、開くと落下するというトラップを仕掛けたときから失敗するだろうと予想されていたのだが、いくらなんでもあからさますぎる、と諌められた春が「試行錯誤が大事なんだ!」と反論したためそのまま続行されていたのだ。
手足をばたつかせて本気で悔しがっている様子の春に隣の席に座る寺坂からの呆れ返った視線が突き刺さっている。他の生徒も苦笑いをしながらその様子を見ていた。
「湯島さんが仕掛人でしたか。はい、ナイフをお返しします」
ほっとしたように言う殺せんせー。それを不思議に思った緩い雰囲気の女子生徒、倉橋陽菜乃が質問する。
「殺せんせー、なんでほっとしてるの?」
「あまりに分かりやすすぎて教師いじめなのではないかと疑ってしまったからです」
その様子だと真面目な暗殺だったようで安心しました、と続ける殺せんせーに、クラス中から「ビビりか!」とツッコミがいれられた。
◇◇2
「ったくよー。テメェもあんなんで殺れると思ってなかったんだろ?いいかげんうっとーしいっつーの」
「ううー……」
一時間目が終わり、暗殺の失敗を休み時間になっても引きずって机に突っ伏している春に寺坂が言った。寺坂の席は春の右隣であるため、暗い空気を出している春の存在が授業中ずっと鬱陶しかったのだ。
と、そこに春の前の座席に座る狭間綺羅々が振り返って愉快そうに言った。
「あら、いいじゃない。私はずっと心地良かったわよ」
「そりゃお前だけだろ」
暗いものが好きな狭間に対し、呆れたように言うのはドレッドヘアーの吉田大成。すると、そこにふくよかな体型の原寿美鈴が近づいてきた。
「湯島さんどうしたの?」
「朝からずっと拗ねてんのよ」
どことなく嬉しそうに狭間が答える。狭間の横に座る村松拓哉は「なんで嬉しそうなんだよ……」と呆れていた。
「あ、ならいいものがあるわよ」
そう言うと原は自分の席に戻ってカバンを探り始めた。
春は興味を引かれて原の方を見る。
原はそんな春に見えないように何かを取り出すと、後ろ手で隠しながら春の前まで戻ってきた。
「じゃーん!」
「……!」
春の前まで来た原が出したのは、ラッピングされた美味しそうなクッキー。
春は突っ伏していた体を起こして原の顔を見た。
「クッキーを作りすぎちゃって持ってきたの。よかったら食べて?」
「……!!」
春はクッキーと原の顔を交互に見比べて言った。
「いいの?原さん」
「いいよいいよ」
「本当に?私、全部食べちゃうよ?」
「それは駄目」
全部食べるのか、と呆れている寺坂グループを他所にして、何やらショックを受けた春に原はにっこりと笑って言った。
「だって、みんなの分が無くなっちゃうじゃない。お菓子はみんなで一緒に食べた方が美味しいのよ?」
「……!!うん!わかりましたお母さん!」
「おかっ、……まあいいか」
春の機嫌はすっかりよくなり、殺せんせーは気を取り直した春に一日ずっと朝のトラップを仕掛けられ続ける羽目になったのだった。
春のお母さん呼びは素で間違えてます。
原さんの高い主婦力が成せる事ですね。