意識を取り戻して目が覚めた時、視界は緑と青に染まっていた。ぼやけた頭を振り、上体を起こして周りを見ると、左右は木に囲まれており、上を見れば木の葉と空が見える。ぼやけた頭をフル回転させて、現状を把握しようと思考する。
寝ぼけている脳が必死に考えた末、結論が出た。
「森に出たのね、本物の木は初めて見るのだけど多分間違いないわ」
そんな当たり前の事に行き着くまで数分を要した。
本で読んだ知識によれば、森の空気は体に良いらしい。一度、思い切り深呼吸してみると、若木の香りや朝露に濡れた葉の香りといった、今まで経験した事の無い感覚が飛び込んできた。
……落ち着くわ。
初めて味わう感覚だが、そう思えた。病院では経験した事の無い自然の香りだ。よくよく考えてみれば、本は木から出来るのだから、自分は以前も木に囲まれて居たと言ってもいいのではないか。
……つまり私は森の申し子! いや、流石に妄言かしらね。
気を取り直して、未央はまずは自分の体を確認する。視線の高さから察すると、どうやら随分身長が縮んでいるようだ。足元までの距離感から、大体130cm程度だろうと当たりをつける。記憶が正しければ、十歳くらいの時にこれくらいだった覚えがある。
顔の造形や髪・瞳の色については、自分で確認する術は無かった。特に何も言われていないので、恐らく外見に変更は無いだろう。もし変更されていたとしても、相手に警戒心を与えない容姿である事を祈るばかりだ。少なくとも角や牙は生えていなかった。
そして体の調子を確認すべく、意識を向ける。
常に体を覆っていた倦怠感や痛みが無い。
頭痛も、腹痛も、関節痛も。
頭を悩ませていた痛みは欠片も無く、息をするだけで軋むようだった体は、何事も無く動いていた。
「……やだ、本当にアレは神様だったのかしら」
奇跡をその身で実感した今なら信仰してもいいと、本気で思った。
体の痛みが無い、それだけで随分救われる。両親に恨みは無かったが、やはり痛いものは痛かった。
自然と足が動き、走り出した。今まで出来なかった事をやってみたいという欲求が体を勝手に動かしている。右足、左足と踏み出し、そのまま加速に乗る。幼い体という事もありあまり速度は出ないが、それでも風を感じて走ってる。
心が軽い。
手を振って、足を前に。
木の根を飛び越えて、前へ、前へ。
前へ! 行き損ねた。
「へぶ!!」
飛び越えたつもりだった木の根に足を取られ、顔面から地面に突っ込んだ。鼻が痛い、でも、幾らでも走っていけそうな高揚感が満ちていた。
逸る心と鼻を抑えながら、ふと自分の身に着けていた服が変わっている事に気づいた。
緑のワンピースに、濃い緑のローブを羽織っている。凝った衣装ではなかったが、十分だ。下着もつけてる。人の目が今は無いと言え、流石に全裸は困るので、この服装は有り難かった。
しかし、何故緑で統一されているのだろう。
……まさか、ステルス迷彩です、とか言い出さないわよね、あの神。
偶然だろう。恐らく。
最後に、以前の世界ではなかった魔力と能力について考えを巡らせる。魔法が使えれば、灯りをつける事や身体能力を強化する事が出来る為、今後の生活に役立つだろう。いざ使おうと考えるも、ここで早くも壁に当たってしまった。
……魔法って、どう使うのかしらね。
熱心に原作を読んでいなかったが、確か自分なりの呪文詠唱があった後、使う呪文の詠唱があった気がする。適当にやれば発動するかもしれないが、大惨事を招く可能性もある為、魔法については保留とした。
そして、概念を司る能力を確認しようと、目の前に聳える巨木を見る。指を木につけ、そのまま文字をなぞると、自分の指に添うように青白い光が文字を作った。
【・──思いは通じる】
原作の『終わりのクロニクル』では【人の思いは通じる】という概念で、思いが通じている人間の意思が交換されるという一風変わった概念だったが、今回はそういった効果は期待していない。人を削って条文を変える、こうすればテレパシーのような効果が得られるのではないかと想像して、実際に試してみた。仮にこれが成功すれば、自分の能力は概念の創造も兼ねている事になる。
「もしもーし、木の方。応答願います」
軽く手を振って、声をかける。反応を待つ間、ふと自分が周りにはどう映っているのか、という考えが巡ってきた。木に文字をなぞり、いきなり親しげに声をかけている少女。
……これで反応が無かったら、アホね私。
応答がある事を願うばかりだ。期待と不安に胸を高鳴らせていると、低く響く声が直接心に語りかけてきた。
(これは驚いた……お嬢さん、わし等と意思が通じるのかね)
巨木からの応答があった。月日を重ねた巨木に相応しい落ち着いた声には驚き、応答せねばと焦って声を出す。
「試してみただけですが、成功するとは……!」
(お嬢さんも通じるとは思ってなかったのかね、ハッハッハ)
正直な感想が口に出た。巨木からの笑い声が心に響く。笑っている巨木の反応で、ふと嫌な想像をしてしまう。
……木でも感情とかあるのねぇ。バシバシ切ってる時、実は地獄絵図なのかしら。
想像すると、あまりの凄惨さに鬱気味になる。しかし、そういう時ではないと思い返して巨木に問いかける。
「ん、失礼しました。実はこの辺りの地理に疎いもので、人里の方角を教えていただけますか?」
(良いとも、では枝の音を辿るといい)
回答と同時に、目の前の巨木、その左の枝から音が聞こえる。それを未央が確認すると、その向こうの木、更に向こうの木と、音のナビゲートが連鎖していく。
当初は呆然と見ていたが、気を取り直して走り出す。
「ありがとうございます」
感謝の答えか、文字をなぞった巨木からは思いの声ではなく、一際大きなざわめきが聞こえた。
●
木々のナビを受けて走りながら、概念能力の試験を続けて行った。まずは、主な使い方となるであろう空間への概念適用からだ。
【・──ものは下に落ちる】
概念を口に出しながら、走っていく方向を下と設定すると、確かに走っていく方向へと落ち始めた。垂直落下同然に加速しはじめ、足が地面に取られて転びそうになるも、地面に向かわずに下と設定された空間へ落ちている。
「おわああああ!?」
目の前には既に木がそびえており、このままでは木に墜落してしまう。慌てて概念を取り消すと、地面に落下。加速がついた分、地面を削りながらも木に激突する前に止まる事が出来た。しかし、服が汚れて顔を少々すりむいてしまった。早速二回も怪我をしてしまったが、今後の教訓として覚えておこう。
再び走り出しながら、この結果について考える。確かに結果として、概念は適用されたが、効果範囲を設定していなかった。まさか全世界に適用された訳ではないだろう、そう思いたい。
……いやでも、もしよ? さっきの数秒、全世界に適用されていたらどうしよう。
嫌な考えが浮かび、額に汗が浮かんでいる事に気づく。袖でふき取る。
大丈夫、ありえないって。無い無い大丈夫へっちゃら。
必死に自分を誤魔化す。
……でも次から適用範囲もちゃんと設定しましょうね。
●
時折休みながら、未央は長い時間森を走り続けていた。視界に森の終わりが見えた頃には、既に日が落ち始めていた。森から抜けると今度は一面の草原が広がっており、民家は見当たらない。
走る事に夢中で気にしていなかったが、野性動物の類も見かけた事を思い出す。野営の知識は無くはない。依然読んだ本の中には、野営教本があった。乱読派だった自分を褒めたいところだが、実地で試した事の無い技術は信頼が置けない。
さて、どうしたものかと周囲を改めて見回すと、焚き火の明りが見えた。この地域がどこかもわからず、住んでいる人間の知識は無い。迂闊な接触は危険ではないだろうか。
そう考えていると、未央の御腹から空腹であると抗議の音が鳴った。
足りない、という事を意識すると少々の人恋しさを感じた。病院から出た事の無かった未央は、周りに誰も居ない、という状況に置かれた事が無かった。
考えていても、お腹は満ちる事は無いし人恋しさも紛れはしない。未央は意を決して焚き火に近づく事にした。
焚き火の主は、白いローブを羽織った男性だった。背後に置かれた背嚢に、杖が取り付けてある事から魔法使いなのだろう。赤い髪の毛を少しだけ伸ばしており、ぱっと見て温和な人と感じられるような顔立ちをしている。いきなり現れた未央に笑顔を向けた事からも、その印象が間違っていない事を思わせる。
意識せず、未央はほっと息を吐き出した。
「すいません、道に迷って……休ませてもらってもいいですか?」
「勿論だよ、お嬢さん」
許可をもらい、焚き火に歩み寄って腰を下ろそうと屈んだところで膝が落ち、尻餅をついてしまう。
……思ったより疲れているわね、少しはしゃぎすぎたわ。
焚き火の温度が体を優しく温めていく。病院で感じた暖房とは、暖かさの感じが違うものだ。走り続けた疲れもあり、眠気が一気に襲い掛かってくる。ふと視線を感じて顔をあげると、焚き火の主である男性がこちらをじっと見ていた。
「──ふぁにかぁ?」
迂闊にも、欠伸と同時に声をだした。しまったと思い、口を押さえながら男性を見ると微笑を浮かべており、
「いや、こんな場所に女の子が一人でどうしたのかと思ってね。迷ったのなら、うちの村に案内しようか?」
助かる申し出だ、しかし、即答するのはあまり好ましくない。この男性も目的があってここに来ているのではないだろうか。それであれば、自分を連れていく暇など無いはずだ。
未央がそう考えていると、男性は未央の意図を読み取ったかのように、苦笑しながら告げる。
「遠慮する事はないよ。僕も君と同じ位の歳の子供が居るんだ。森に自分の子を置いていく親にはなりたくない、どうかな? 僕を良い親になれそうな人間にしてほしい」
「──本当にいいんですか?」
「子供は遠慮するもんじゃないさ。まずは休むといい、起きたら村に案内するよ」
助かります、と声を作ろうとしたが、口がうまく動かない。安心したせいか、眠気が強く意識を引っ張っていく。細くなっていく視界で相手を見ると、背後に置いていた背嚢から毛布を取り出して、こちらに持ってきている。
……お人好しな人なのね。
そう思いながら、未央の意識は眠気に落ちていった。
●
安心したのか、少女はすぐに眠りについた。持ってきた毛布をかけ、自分も腰を下ろす。森から子供が一人で出てきた時は驚いたが、それ以上に思う事がある。
……こんなに疲れて、可哀相に。
少女は随分深い眠りについているようで、身じろぎ一つしない。支えながら、背嚢を枕代わりに横に倒す。起こしてしまわないよう、そっと頭を下ろしながら少女を見ると、あまり見ない容姿である事に気づく。
黒い髪に、黒い瞳。英国人ではないだろう。恐らく極東の、東洋人に見えた。
この近くではあまり見た記憶がない。だからこそ、嫌な想像もしてしまう。
……親に捨てられてしまったのかな。
そう思うと、先ほどの子供らしからぬ遠慮にも納得してしまう。事情を聞かずに憶測を重ねるのは、相手にも失礼だ。しかし、思わずにはいられない。家で待つ息子の笑顔を思い、自分の判断は間違っていないという思いを強くする。
少女が起きたら出来るだけ早く連れていこう。そう思っていると、森の奥から木々のざわめきが聞こえてきた。そのざわめきは、少しづつこちらに近づいてくる。
立ち上がり、目を凝らして奥を見ると、何かが近づいてくる。森の奥は暗く、はっきりとした輪郭は見えないが、間違いなく人ではない。恐らく、森に生息する獣だろう。
焚き火に土をかけ、火を消しながらゆっくりと少女を背中におぶる。この一帯で倒せない獣は居ないが、今交戦しては少女が危険だ。背嚢から魔法の杖だけ取り外し、他は置いていく。音を立てないよう、慎重に距離を取ろうとするが、木々のざわめきがどんどん近づいてくる。少女が起きるかもしれないが、追いつかれては意味がないと思い、駆け出した。
心配を他所に、少女は駆け出した後も眠り続けている。良かったと思う反面、深い疲労を心配する心がある。その心配も、背後に迫る獣──大型の狼を振り切らない事には、無意味な事となる。更に速度を出すべく、前に姿勢を倒しながら、勢いに乗る。
背後から、狼の唸り声が聞こえる。
走り負けるわけには行かない。背中で眠る少女の為にも。
思いを強くして、地を蹴る足に力を込める。背に人を背負うハンデをおっているにもかかわらず、体は意思にこたえて加速していく。
●
未央は、体に伝わる振動で目を覚ました。最初に目に映ったのは赤い髪。自分の腰に手が当たっており、背負われているのだと気づく。自分を背負っている男性は、大きく前傾しながら走っていた。自分を抱える手に力が篭っており、彼の思いを感じる。
息を荒くしながらも、自分を抱える手の力は微塵も落ちない。地を蹴る足は、立ち止まる気配を見せない。何から逃げているのか背後を見ると、茶色の毛並みを持った狼が猛然と迫ってきているのが見えた。
……やっぱり善人なのね。
恐らく見ず知らずの他人である私を守る為に、この男性は行動しているのだろう。未央はそう確信した。唸り声を上げながら迫る狼は、未央達に十メートル程度しか離れていない。見ている間も、少しづつその牙を近づけている。この男性の脚ならば、自分を置いていけば本来逃げ切れているだろう。それをしない男性の為、思う。
……後悔は、させないわ。
自分と関わった事を、後悔させたくない。救えなかったと思わせたくはない。自分のせいで怪我をさせたくない。そう思うと、心に闘志が沸いて来る。まだ魔法は使う事が出来ない、使うならば概念能力だ。
今の状況で攻撃に移れる物を考えると、最も応用の利く能力を思いついた。
……半径100mに、概念を展開!
【・──文字は力を持つ】
「──ッ!? 起きてたのかい!?」
男性が驚いているが、返答している暇はない。自分を包んでいた毛布を剥ぎ取り、文字をなぞる。
【鋭い投刃 狼さん大当たり】
文字をなぞり、小さな体で精一杯の力を込め、毛布を投擲する。投擲された毛布は金属のように風を裂きながら狼に向かう。真っ直ぐに狼へ向かう毛布を、狼は右にステップ、それだけで二メートルは横に移動する。毛布は無情にも狼の真横を通過、背後に飛び去っていく。狼がこちらを睨み、不敵に笑ったように感じるが、
……甘いのよ、この犬ッコロ!
大当たりを命じられた毛布は、狼を決して逃がさない。後方まで飛び去って更なる加速を得た毛布は、高度を上げながら急ターン、鋭い角度で降下しながら狼を背後から襲う。
「───!!!」
毛布がまるで金属の刃のように、狼を横一文字に切り裂いて命を刈り取った。役目を果たした毛布は狼を切り裂いた勢いのまま、地面に突き刺さる。毛布は狼の血で真っ赤に染まっていた。やばい、あの毛布もう使えないわ、とどこか見当違いな感想を持った。
「もう止まっても大丈夫ですよ」
「君は、一体……」
男性は、突き刺さった毛布を見ながら呟く。その声には単純な疑問だけが含まれており、疑いの感情が無かった。自分を相変わらず抱えており、手を離す気はないようだ。
……此処まで人を疑わないと、善人というよりお人好しね、親の顔が見たいわ。
恩人に向かって失礼だとは思うが、そう思う。流石に概念能力といっても通じないと思い、少々罪悪感を持ちながら嘘をつく。
「ちょっと変わった魔法を使えるんです」
そう答えると、男性は成る程と首を縦に振った。
どこまでお人好しなのやら、そう思っていると、体が再び眠りを要求してきた。抗うすべはなく、未央は改めて男性の背で眠り始めた。