---ピンっ
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夜のネオ・ヴェネツィアは静かだ。
昼間は観光客で賑わう大通り。
レストランはまるで劇場かのように
客とウェイターが入り混じっていたというのに、
一体、その観光客はどこに消えてしまったのだろうか。
そう思えてしまうほど、静寂が支配する夜。
火星は、誰も居ない部屋で、コイントスをしていた。
昔からの癖だ。何か困ったことがある時、二者択一を迫られた時、
火星は、コイントスでに決める癖がある。
カチ、と乾いた音が響いた。
火星は、指先で硬貨を弾き上げる。
銀色の円盤が、闇夜に照らされた海の光を反射しながら宙を舞う。
――ピン。
落ちてくる。
火星は、何の迷いもなくそれを掴んだ。
結果は、見ない。
(……賭け、か)
思い出すのは、先程の光景。
怒り。
拒絶。
そして――吐き出された感情。
あの言葉は、衝動じゃない。
逃げでもない。
「憎むなら俺を」
あれは、賭けだった。
実際、コイントスで決めた事。
言うも、言わないも、どちらも正解、だったと思う。
火星は決めかねた。どちらがいいか、悩みに悩んだ。
言うと、アリスは自分を恨み、楽になるかもしれない。
言わないと、自分が去れば、忘れるかもしれない。
しかし、彼女のあの悲痛な顔は---
(そう簡単に、癒せるものではない…やはり悪手だったか…)
(だが、もう引き返せない)
(---どちらにせよ、俺がここにいる以上は…)
コイントスをした後、
次に会った時、
もしも、同じ目をしていたら。
もしも、同じ沈黙を抱えていたら。
――言うと、決めていた。
火星は、硬貨を指で転がす。
その結果は、まだ分からない。
いや、そもそも事態が好転すると、俺は本気で思っているのか?
なによりあいつの言う通り、
(気持ちよくなってるだけ)
「…はっ。実際、そうかもな……」
だが。
(それでも、後悔はしてない)
今の自分に、あの子にしてやれることは、
それしかなかった。
それだけは、確かだった。
⸻
side アリス
同時刻
オレンジぷらねっとは、創業10年程度の新興店であるにも関わらず、
80名近いウンディーネが所属している、大所帯の会社だ。
姫屋と業界No. 1のシェアを争えるだけあって、その規模がうかがえる。
大浴場、食堂、ロビー、昼夜を問わず、観光客や所属ウンディーネで常に賑わっている。
だが、それに反して、寮の部屋は、静かだった。
寮の一室で、少女、アリスは、ベッドの端に腰掛けたまま、膝の上で指を組んでいた。
胸の奥が、ざわついている。
(……どうして)
分かっている。
彼が、直接何かをしたわけじゃない。
彼が、あの判断を下したわけでもない。
それでも。
(軍、という存在があるだけで)
どうしても、消えない。
嫌悪感。
拒絶。
恐怖に近い、感情。
生理的に、受け付けない。
そして――
(……どうして、あんなことを言われたんだろう)
「憎め」
そんな言葉を、真正面から向けられるとは、思っていなかった。
感情が、溢れた。
自分でも、驚くほど。
アリスは、そっと目を伏せる。
(……会いたくない)
少なくとも、今は。
彼がいると、
忘れようとしていたことを、思い出してしまう。
その時、扉が静かに開いた。
「……アリスちゃん」
アテナだった。
銀髪の先が、やわらかく揺れる。
「おかえりなさい」
アリスは、少し遅れて顔を上げる。
「あ…おかえりなさい。アテナ先輩。早かった、ですね」
敬語は、崩れない。
それが、彼女の距離感だった。
アテナは、靴を脱ぎながら、アリスの様子を一瞥する。
「うん。今日は夜のお客様はいなくて、もうご飯も済ませて
きちゃった。アリスちゃんも、今日は少し早かったね」
「はい。今日は、練習も早目に切り上げたので…」
それ以上、言わない。
アテナも、追及しない。
ただ、同じベッドに腰を下ろす。
沈黙が落ちる。
それは、気まずさではなかった。
「……最近」
アテナが、ぽつりと言う。
「少し、操縦が荒い、かな?」
アリスの指が、わずかに動いた。
「……ごめんなさい」
「責めてるわけじゃないの」
アテナは、穏やかに続ける。
「あなたは、元々とても丁寧だもの。だから、分かる」
少し、間を置いて。
「何か、あったのね」
アリスは、答えない。
視線を落としたまま、黙っている。
「……言いたくないなら、いいの」
アテナは、そう言って微笑んだ。
「無理に話さなくていい」
それから、静かに言葉を重ねる。
「でもね」
「覚えていてね、アリスちゃん。
何があっても…あなたが苦しい時、私は味方よ」
アリスの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「……ありがとうございます」
声は、落ち着いている。
だが、完全ではない。
アテナは、それを見逃さなかった。
「ねぇ、アリスちゃん。ひとつだけ、言わせて」
アリスは、ゆっくりと顔を上げる。
「あなたは、とても感情が穏やかな子」
「だから……もし」
言葉を選ぶ。
「もし、感情を爆発させるようなことがあったなら」
アリスは、じっとアテナの瞳を見つめる。
「それは、きっと」
アテナは、やさしく笑う。
「多分だけど、それはそんなに、悪いことじゃないんじゃないかな?」
アリスは、そんな言葉を受けて、
考えるような、迷うような、戸惑うような、
そんな表情を繰り返しながら、俯く。
アテナは、そんなアリスを見て、ハッキリと、
「だってね…私は、
そんなアリスちゃんを、ちゃんと見たことがないもの」
顔に少し笑みを浮かべながら、アテナは言う。
沈黙。
アリスは、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……先輩」
「なあに?」
「私は……」
言葉を探す。
「まだ、自分の気持ちが、よく分かりません」
正直な答えだった。
アテナは、頷く。
「それでいいの」
無理に結論を出さなくていい。
「時間は、ちゃんと流れるから。大丈夫よ、アリスちゃん」
アリスは、小さく頷いた。
⸻
夜。
火星は、新しい部屋を探す決意をしていた。
宿ではなく、家そのもの。それがベストだと。
(……今は、距離を取るべきだ)
それが、最善だと判断した。
アリスにとっても。
自分にとっても。
外に出て、桟橋の先で、タバコを咥える。
キンッという澄んだライターの蓋の音。
火をつけ、空を見上げる。
(これでいい)
そう、思うことにした。
だが。
遠く、同じ空の下で。
アリスは、まだ眠れずにいた。
言葉にできない胸のざわめきと、1人戦いながら。