次から、少しずつ物語が加速していきます。
重ね重ね、ARIAの世界観が少しでも壊れるのが抵抗のある方はご注意を。
夜明け前のネオ・ヴェネツィアには、鐘の音がない。
代わりにあるのは、水の気配だ。
石畳を撫でるように流れる運河の水音。
夜の湿り気を含んだ風が、建物の間をすり抜けていく。
街が目を覚ます少し前――
人の気配より先に、生活が動き出す時間。
ARIAカンパニーの二階。
客間では、火星が黙々と荷造りをしていた。
ベッドはすでに整えられている。
シーツは昨夜のうちにクリーニングに出した。
あとは、受け取りに行くだけ。
「……よし」
短く呟き、バッグの口を閉じる。
長期休暇中とはいえ、
いつまでも居候を続けるわけにはいかない。
元々、灯里が来るまでの約束。
それより早く出る事も考えたが、結局長居をしてしまった。
(居心地が良かったということか、はたまた…)
次の家は決めては居ない。次の止まり木は太くなくてはいけない。
(やはり、家そのものを借りるべきだな…)
そこへ、控えめなノック。
「火星さん、起きてる?」
扉を開けると、アリシアが立っていた。
金色の長い髪を緩くまとめ、朝の支度を終えた様子だ。
「ぷいにゅーーー!」
同時に、アリア社長が入ってくる。
「にゅ、にゅ、ぷいにゅー…」
目に涙を浮かべているようにも見える。
「なんだ、お前、寂しいのか?俺はこの街にまだいる。
いつでも会えるよ」
「にゅ〜…」
そう言いながらアリア社長は火星の膝から離れない。
「あらあら、うふふ。アリア社長も悲しいのよ」
「ふっ、嬉しいよ。荷造りだが、もう、ほとんど終わってる」
「そう…」
アリシアは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「今日は、灯里ちゃんが到着するの。
そろそろ迎えに行こうと思って」
「……もう、そんな時間か」
「ええ。あらあら、私の方が落ち着かなくて」
そう言って、肩をすくめる。
「火星さんは?」
「クリーニングを取りに行ってくる。
戻る頃には……ちょうどいいだろ。新入社員迎えにいくのに、
俺が出向くのも変だ」
「ふふ。分かったわ」
「アリシア」
火星は、封筒を持ちながらアリシアに向き合う。
「短い間だが世話になった。これは礼だ。受け取ってくれ」
アリシアは、一瞬キョトンとした顔をする
「あらあら、なんだか申し訳ないわ、色々手伝いもしてもらったのに…」
アリシアは受け取ろうとはしない。彼女の性格上、おそらくそうかとは
思っていたが。
火星は、その封筒を机の上にそっと置く。
「まぁ…親しき仲にも礼儀アリ、だ。受け取るのに抵抗があるなら…
こいつで、灯里にでもなんか食わせてやってくれ」
そういうと、アリシアは一瞬呆気に取られたような顔をして、
でも、すぐにいつもの穏やかな顔に戻り、
「親しき仲…うふふ、嬉しいわ。そう思ってくれてたなんて」
「お前は、違ったか?」
ニコッと笑みを浮かべ、答える。
「まさか。うふふ。大事なお友達、よ」
「そうか…良かった」
アリシアはニコリと頷き、階段へ向かう。
「じゃあ、先に行ってくるわね」
「気をつけて」
⸻
宇宙港は、朝の光に包まれていた。
巨大なドームの中、
到着ゲートから人々が流れ出てくる。
その中に、ひときわ落ち着きのない少女がいた。
「……わぁ……」
灯里は、思わず声を漏らす。
広い空。
やわらかい光。
人工物なのに、どこか温かい。
「ここが……火星……ここが、ネオ・ヴェネツィア…すごい!」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「灯里ちゃん」
自分を呼ぶに、振り向く。
「アリシアさん!」
灯里は、駆け寄るように近づいた。
「お疲れさま。長旅、大丈夫だった?」
「はい! ちょっと緊張しましたけど……
でも、すごく綺麗で……!
あ、そうだ、あの!改めまして、今度からお世話になります、
水無灯里です!
宜しくお願いしまふ!!あ、噛んじゃった…」
灯里は慌ただしく、コロコロと表情を変えながら、アリシアに
自己紹介をする。幾度となく連絡は取っていたが、実際会うのは初めてだ。
「あらあら、うふふ。緊張しなくていいのよ。よろしくね、灯里ちゃん。
とっても綺麗なところでしょう?私、ここで灯里ちゃんと会うの、
とっても楽しみにしていたの。」
そう言うと、灯里はぱあぁっと笑顔を溢れさせる。
そうして、アリシアは、灯里の荷物を受け取り、
「じゃあ、帰りましょうか。
ARIAカンパニーへ」
「はい!」
2人で、光に照らされたレンガの上を、歩き出す。
⸻
一方その頃。
火星は、クリーニング店を出ていた。
肩にバッグをかけ、ゆっくりと歩く。
足元には、アリア社長。
2人(正確には1人と1匹)でとことこと歩く足音が心地よい。
(……これで一区切り、か)
短い間だが、色々あった。一旦この生活にも区切りだ。
「良かったのか?お前、ついてかないで」
「にゅ!にゅ!」
アリア社長はそう言って、火星の側を離れない。
短い間だったが、コイツに少しは助けられた。
「ありがとな、そばにいてくれて」
「ぷいにゅ!」
そう言って満足そうにアリア社長は走り出す。
その時、
ちょうどARIAカンパニーの桟橋が見えてきた。
ゴンドラが着き、人影が降りる。
――ピンク色の髪。
「……?」
その隣にいるのは、アリシア。
「……ああ」
察した。
桟橋に戻ると、ちょうど目が合った。
「火星さん」
アリシアが声をかける。
「こちら、灯里ちゃん」
「は、はじめまして!」
灯里が、少し緊張しながら頭を下げる。
「天城火星です。よろしく」
灯里の瞳が、ぱっと輝いた。
「えっと……アリシアさんから、
少しの間、お手伝いしてくれてたって聞きました!」
「まあな」
「すごいですね!
お仕事は、何をされてるんですか?」
あまりにも、まっすぐな問い。
火星は、一瞬だけ言葉に詰まる。
そして――
「……何でも屋、みたいなもんだ」
言った瞬間、心の中で舌打ちしてしまう。
(……なんて答えだ、もっとマシな答え方があっただろう!)
アリシアの動きが、一瞬だけ止まった。
ほんの僅か。
視線が、火星に留まる。
「……そう」
短い返事。
けれど、すぐに微笑みを取り戻す。
「あらあら。便利なお仕事ね、火星さん」
灯里は、疑いもせず笑った。
「素敵です! AQUAには、そういう人、必要だと思います!」
その言葉が、胸に刺さる。
(……そう思わせちゃいけない)
「ぶいにゅー!」
アリア社長が灯里に飛びつく
「わわ、猫さん!?かわいい…!」
「ふふ、アリア社長よ、うちの会社の社長さん」
「え、猫がですか…?」
「にゅ!」
アリア社長は得意気だ。
(やはりそういう反応になるよな…)
当然の反応だろうと火星は腕を組みながら思う。
「灯里ちゃん」
アリシアが、柔らかく声を挟む。
「少し部屋でお茶でもしながらゆっくりしない?
長旅の後だもの」
「はい! ぜひ!」
⸻
別れは、あっさりとしていた。
「……世話になった」
「…こちらこそ」
2人の間に、なんとも言えない空気が流れる。
あっさりとしていながらも、アリシアの表情は、寂しげだ。
火星は、そんなアリシアを見て切り出す。
「俺はまだ、この街にいる。
しばらくは、別の場所に拠点を構える。
……だが、また手伝いが必要なら、声をかけてくれ」
「まぁ」
アリシアは、嬉しそうに微笑む。
「遠慮なく、お願いするわね。
何でも屋さん、うふふ」
その言葉に、火星は小さく苦笑した。
(……本当に、何でも屋になるかもしれないな)
「じゃあ……」
そう言って火星は歩き出そうとする。
「もう、行っちゃうんですね…」
灯里が言う。今日会ったばかりだというのに、もう寂しそうだ。
感受性が高いのだろう。
「灯里ちゃん」
灯里が、ぱっと顔を上げる。
「これから、この街で色んなものを見るだろう。
……いいものも、そうじゃないものも」
「はい……?」
「それでも、君なら大丈夫だろう。楽しめよ、全部」
灯里は、少し考えてから、にっこり笑った。
「はい! ありがとうございます!」
その笑顔を見て、確信する。
----こういう子こそ、この街には相応しい。
運河の上。
ゴンドラの櫂を動かしながら、
アリスは、遠ざかっていく背中を見ていた。
……行った。
それを確認して、胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
(……良かった)
会わなくて済む。
話さなくて済む。
これ以上、心を揺らされなくて済む。
そう思ったはずなのに――
胸の奥が、ざわつく。
理由が、分からない。
安心したはずなのに。
静かになったはずなのに。
どうして。
どうして、こんなにも落ち着かないのだろう。
アリスは、櫂を握る指に、少しだけ力を込めた。
水面に、小さな波紋が広がる。
(……分からない)
そう結論づけて、視線を逸らす。
けれど、その背中の残像だけは、
いつまでも、消えてくれなかった。
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別れを告げ、歩き出す。
歩く、歩く、ひたすら。
どこに行くかは、決めていない。本日の止まり木は、まだ未定。
その時、胸ポケットの端末が震えた。
なんとなく、予感はしていた。
長期休暇
惑星AQUA
あえて考えないようにしていた。何を思おうと、あくまで憶測だ。
点と点を繋げる事に、現状では意味がない。
しかし、
画面に表示される文字。
「至急、司令部ト交信スベシ」
火星は、静かに息を吐いた。
(……来たか)
歩き出す。
この街も、
彼女たちも、
やがて避けられない因果に巻き込まれていく。
その始まりは、もう――すぐそこだった。
次から、2章に入ります。