ARIA The SUBMARINER   作:ルナ中尉

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7年ぶり?8年ぶり?ラストまで構想はあるので、せっかくなので完成させます。ここから文体がガラッと変わるかもですが悪しからず。流石に8年前と同じ文章では書けない…。


第3話 ~その、見透かす人は~

ネオ・ヴェネツィアの朝は、静かだった。

 

夜の名残をわずかに残した水路に朝の光が差し込み、

運河は淡く、ゆっくりと色を変えていく。

 

火星は、約束の場所に立っていた。

 

昨日のアリシアとの出会い。

本来であればその後アリシアのゴンドラに乗る予定だったが、互いにずぶ濡れ、都合が悪いということで、翌日の早朝に予約を変更してくれたのだった。

 

観光客の格好。

軍服でも作業着でもない、ただの“訪問者”としての服装。

それが、少しだけ落ち着かなかった。

 

「おはようございます」

 

振り返ると、アリシア・フローレンスが立っていた。

昨日と同じ穏やかな微笑み。

だが今日は、はっきりと“仕事”の顔だ。

 

「時間通りですね」

 

「遅れるのは嫌いでな」

 

「ふふ、安心しました」

 

そう言って、彼女はゴンドラに乗り込む。

 

「では、行きましょうか。

 ネオ・ヴェネツィアを」

 

その言葉に、火星は一瞬だけ考えた。

 

――観光。

――休暇。

――ここでは、それでいい。

 

「ああ。頼む」

 

短く答え、船に乗る。

 

櫂が水を切り、ゴンドラはゆっくりと動き出した。

火星は揺れる水面を見つめながら思う。

 

ここでは、海は戦場ではない。

少なくとも――今は、そうであってほしかった。

 

 

ゴンドラは、観光用の大水路を外れ、

生活の匂いが残る細い運河へと入っていった。

 

洗濯物。

古い石壁。

子供の笑い声。

 

どれも火星にとっては、どこか非現実的だ。

 

「この辺りは、観光客はあまり来ません」

 

アリシアが言う。

 

「でも、ネオ・ヴェネツィアを知るなら、

 こういう場所の方がいいでしょう?」

 

「……ああ」

 

火星は短く答えながら、無意識に周囲を見渡していた。

 

逃げ道。

死角。

水深。

 

――いらない思考だ。

 

「あなた、やっぱり変わってるわ」

 

アリシアは櫂を止めずに言った。

 

「観光のはずなのに、

 景色じゃなくて“街そのもの”を見ている」

 

「職業病みたいなもんだ」

 

火星はそう言ってから、一拍置いた。

 

「……前の、な」

 

アリシアは、そこで初めて櫂を緩めた。

 

「前の?」

 

「今は、ただの休暇中だ」

 

言葉を選んだ、慎重な言い回し。

アリシアは、それ以上聞かなかった。

 

「そう」

 

ただ、それだけ。

 

「でも……」

 

一瞬、間を置いてから続ける。

 

「あなた、“守れなかったもの”がある人の目をしている」

 

火星の視線が、わずかに揺れた。

 

「……それは、誰にでもある」

 

「ええ、そうね」

 

アリシアは頷く。

 

「でも、あなたの場合は少し違う」

 

「違う?」

 

「守れなかったことを、まだ終わらせていない」

 

それ以上、言葉は続かなかった。

水音だけが、運河に残る。

 

火星は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……察しがいいな」

 

「長くこの街にいるとね。

 人の“沈黙”の方が、よく聞こえるようになるの」

 

 

昼を回り、船を戻す。

仕事としての案内は、そこで一区切りとなった。

 

「今日は、ここまでですね」

 

「世話になった」

 

「こちらこそ」

 

アリシアは微笑み、

船を桟橋に寄せながら、ふと思い出したように言った。

 

「……そうだわ」

 

火星が顔を向ける。

 

「何か、困ったことはありません?」

 

火星は一瞬だけ迷ってから、答えた。

体のどこを弄っても、財布がない。

 

「ありえん…財布を落とした」

 

「あらあら」

 

驚いたようでいて、声は落ち着いている。

 

「中身は……まあ、無事だといいが」

 

アリシアは、少しだけ考えるような素振りを見せてから言った。

 

「きっと、大丈夫よ」

 

「根拠は?」

 

火星がそう言うと、

アリシアは肩をすくめ、いつもの調子で笑った。

 

「あらあら、疑り深いのね。うふふ」

 

それから、ゆっくりと運河を見渡す。

 

「この街はね。

 拾ったものを、ちゃんと“返す人”が多いの」

 

火星は鼻で小さく笑った。

 

「随分、信じてるんだな」

 

「ええ」

 

アリシアは迷わず言う。

 

「だから、この街は、まだ平和なの」

 

 

夕暮れ。

 

人の気配が少しずつ薄れ、

街が“生活の顔”に戻る時間。

 

運河沿いの石畳で、

薄緑色の髪を揺らした、華奢な少女が足を止めた。

 

足元に落ちていた、黒い財布。

 

拾い上げる。

 

中を確認しようとして、

ふと目に入る名前。

 

天城 火星

 

眉が、わずかに動く。

 

「……火星?」

 

この星と同じ名前。

だが、それ以上に目を引いたのは、

その下に記された肩書きだった。

 

一瞬、指が止まる。

 

この星では、

もう何十年も使われていない言葉。

 

少女は、唇をきゅっと引き結んだ。

 

「……」

 

何も言わず、財布を閉じる。

 

その表情には、

困惑でも恐怖でもない。

明確な距離感だけがあった。

 

少女は静かに踵を返し、

夕暮れの街へと溶けていった。

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