ネオ・ヴェネツィアの朝は、静かだった。
夜の名残をわずかに残した水路に朝の光が差し込み、
運河は淡く、ゆっくりと色を変えていく。
火星は、約束の場所に立っていた。
昨日のアリシアとの出会い。
本来であればその後アリシアのゴンドラに乗る予定だったが、互いにずぶ濡れ、都合が悪いということで、翌日の早朝に予約を変更してくれたのだった。
観光客の格好。
軍服でも作業着でもない、ただの“訪問者”としての服装。
それが、少しだけ落ち着かなかった。
「おはようございます」
振り返ると、アリシア・フローレンスが立っていた。
昨日と同じ穏やかな微笑み。
だが今日は、はっきりと“仕事”の顔だ。
「時間通りですね」
「遅れるのは嫌いでな」
「ふふ、安心しました」
そう言って、彼女はゴンドラに乗り込む。
「では、行きましょうか。
ネオ・ヴェネツィアを」
その言葉に、火星は一瞬だけ考えた。
――観光。
――休暇。
――ここでは、それでいい。
「ああ。頼む」
短く答え、船に乗る。
櫂が水を切り、ゴンドラはゆっくりと動き出した。
火星は揺れる水面を見つめながら思う。
ここでは、海は戦場ではない。
少なくとも――今は、そうであってほしかった。
⸻
ゴンドラは、観光用の大水路を外れ、
生活の匂いが残る細い運河へと入っていった。
洗濯物。
古い石壁。
子供の笑い声。
どれも火星にとっては、どこか非現実的だ。
「この辺りは、観光客はあまり来ません」
アリシアが言う。
「でも、ネオ・ヴェネツィアを知るなら、
こういう場所の方がいいでしょう?」
「……ああ」
火星は短く答えながら、無意識に周囲を見渡していた。
逃げ道。
死角。
水深。
――いらない思考だ。
「あなた、やっぱり変わってるわ」
アリシアは櫂を止めずに言った。
「観光のはずなのに、
景色じゃなくて“街そのもの”を見ている」
「職業病みたいなもんだ」
火星はそう言ってから、一拍置いた。
「……前の、な」
アリシアは、そこで初めて櫂を緩めた。
「前の?」
「今は、ただの休暇中だ」
言葉を選んだ、慎重な言い回し。
アリシアは、それ以上聞かなかった。
「そう」
ただ、それだけ。
「でも……」
一瞬、間を置いてから続ける。
「あなた、“守れなかったもの”がある人の目をしている」
火星の視線が、わずかに揺れた。
「……それは、誰にでもある」
「ええ、そうね」
アリシアは頷く。
「でも、あなたの場合は少し違う」
「違う?」
「守れなかったことを、まだ終わらせていない」
それ以上、言葉は続かなかった。
水音だけが、運河に残る。
火星は、ゆっくりと息を吐いた。
「……察しがいいな」
「長くこの街にいるとね。
人の“沈黙”の方が、よく聞こえるようになるの」
⸻
昼を回り、船を戻す。
仕事としての案内は、そこで一区切りとなった。
「今日は、ここまでですね」
「世話になった」
「こちらこそ」
アリシアは微笑み、
船を桟橋に寄せながら、ふと思い出したように言った。
「……そうだわ」
火星が顔を向ける。
「何か、困ったことはありません?」
火星は一瞬だけ迷ってから、答えた。
体のどこを弄っても、財布がない。
「ありえん…財布を落とした」
「あらあら」
驚いたようでいて、声は落ち着いている。
「中身は……まあ、無事だといいが」
アリシアは、少しだけ考えるような素振りを見せてから言った。
「きっと、大丈夫よ」
「根拠は?」
火星がそう言うと、
アリシアは肩をすくめ、いつもの調子で笑った。
「あらあら、疑り深いのね。うふふ」
それから、ゆっくりと運河を見渡す。
「この街はね。
拾ったものを、ちゃんと“返す人”が多いの」
火星は鼻で小さく笑った。
「随分、信じてるんだな」
「ええ」
アリシアは迷わず言う。
「だから、この街は、まだ平和なの」
⸻
夕暮れ。
人の気配が少しずつ薄れ、
街が“生活の顔”に戻る時間。
運河沿いの石畳で、
薄緑色の髪を揺らした、華奢な少女が足を止めた。
足元に落ちていた、黒い財布。
拾い上げる。
中を確認しようとして、
ふと目に入る名前。
天城 火星
眉が、わずかに動く。
「……火星?」
この星と同じ名前。
だが、それ以上に目を引いたのは、
その下に記された肩書きだった。
一瞬、指が止まる。
この星では、
もう何十年も使われていない言葉。
少女は、唇をきゅっと引き結んだ。
「……」
何も言わず、財布を閉じる。
その表情には、
困惑でも恐怖でもない。
明確な距離感だけがあった。
少女は静かに踵を返し、
夕暮れの街へと溶けていった。