日が落ちると、ネオ・ヴェネツィアは音を落とす。
昼間の喧騒が嘘のように、水路には水音だけが残り、
街はゆっくりと“生活の顔”に戻っていく。
火星は、桟橋の端に立っていた。
財布は、まだ戻らない。
火星がこの地に降り立ってから移動した場所をそれとなく探してみたが、見つからない。
少年を救った際にでも落としたか--いや、確証はない。
だが焦りはなかった――いや、正確には、焦る資格がないと思っていた。
(……軍人が、身分証を落とすか)
自嘲気味に、息を吐く。
訓練では何百回と叩き込まれてきた。
装備の管理、個人識別情報の厳重保持。
それを怠ることが、どれほど致命的かも。
悪用阻止のコードが施されているとはいえ、彼の持つIDは、基地外から司令部とコンタクトを取る際の必需品。それがなければ司令部と回線すら繋げない。
(休暇、か)
その言葉に甘えたつもりはなかった。
だが、緊張が緩んでいたのは事実だ。
――守る側でいるときは、落とさない。
――守らなくなった途端に、落とす。
皮肉だな、と心の中で呟く。
「……今夜は宿には戻れん、か…」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、アリシアがいた。
昼間と同じ、穏やかな表情。
だが、どこか“察している”目だった。
「身分証がない以上、移動は控えたい…
宿に戻るにも、確認が面倒だろう」
現実的な判断だった。
感情ではなく、状況から導いた結論。
アリシアは少し考えるように視線を落とし、
それから、あっさりと言った。
「じゃあ、ここにいらっしゃる?」
指の先には、ARIAカンパニー。
火星は眉をひそめた。
「……女の人がいるところに、
世話になるのは気が引ける」
一拍。
アリシアは、いつものように微笑んだ。
「あらあら。言ってなかったかしら?
「私は、ここに住んでいないの」
「……?」
「ARIAカンパニーは仕事場よ」
「困った人を受け入れることはあっても、
生活の場じゃないわ」
火星は数秒、黙ったまま彼女を見た。
合理的だ。
余計な感情を挟まない。
それでいて、突き放さない。
「……そうか」
「ええ。だから、遠慮しなくていいの」
そう言って、彼女は2階を指差した。
「客室は空いているわ」
「案内料は予約時にいただいているし、
滞在の謝礼は、後日で構わないから」
火星は、ゆっくりと頷いた。
「……世話になる」
「どういたしまして」
アリシアは、あらあら、と小さく笑った。
⸻
ARIAカンパニーの建物は、夜になると静かだった。
必要最低限の明かり。
水音だけが、遠くから聞こえる。
案内された客室は、簡素だが清潔だった。
「ここを使って」
「助かる」
「無理はしないで」
「この街は、急がなくても大丈夫だから」
その言葉を残し、アリシアは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
火星は、ベッドに腰を下ろした。
(……情けないな)
軍人としては失格だ。
だが、人間としては――まだ、踏みとどまっている。
そう思うことにした。
窓の外を見る。
運河に映る月明かりが、静かに揺れている。
(ここは、戦場じゃない)
その事実が、少しだけ胸を重くした。
その頃。
運河沿いの道を、薄緑色の髪の少女が歩いていた。
胸に抱えた、小さな黒い財布。
中身は、もう確認していない。
名前と肩書き――それだけで、十分だった。
少女は足を止め、運河の先を見る。
ARIAカンパニーの桟橋には、ゴンドラが戻っていた。
だが――
櫂はまだ立て掛けられたまま。
客用の灯りも、消えていない。
(……まだ、仕事中?)
一瞬、考える。
拾った場所。
時間。
そして、アリシアの性格。
困っている人を、放っておかない。
導かれる答えは、ひとつしかなかった。
少女は、ARIAカンパニーの建物を見上げる。
灯りは、ひとつだけ。
「……」
表情は、冷えていた。
怒りでも恐怖でもない。
ただ、明確な距離感。
少女は踵を返し、夜の街へと溶けていく。
まだ、彼を知らない。
だが、その肩書きが意味するものだけは――
知ってしまった。
アリスが1番可愛い。