シリアス7割 日常3割 あとはちょっと恋愛も絡めます。
朝のネオ・ヴェネツィアは、前日と変わらず穏やかだった。
水路を渡る風。
ゆっくりと進むゴンドラ。
街は今日も、何事もなかったかのように目を覚ます。
だが、火星にとっては違った。
ARIAカンパニーの一室。
簡素な客室で、火星は窓辺に立っていた。
(……まだ、戻らないか)
財布のことだ。
焦りはない――そう言い聞かせてはいるが、
軍人として染みついた“確認できない不安”が、じわじわと残っている。
身分証。
ID。
地球での立場。
この星では不要なもの。
だが、失っていいものではなかった。
特に、火星の身分。
2日前に宿にチェックインした時もそうだった。
宿主の明らかに眉をひそめる動作。
この星の歴史や、過去の様々な"事件"によって、この地の人間の
軍嫌いはもはや決定的だ。
「……」
火星は小さく息を吐き、上着を羽織る。
いつまでも部屋に籠っている性分ではない。
考えるなら、動きながらだ。
⸻
通りに出ると、すでに街は活動を始めていた。
市場へ向かう人。
仕事へ急ぐウンディーネ。
観光客の笑い声。
その中に――
ひとり、明らかに“違う空気”があった。
薄緑色の髪。
小柄で、華奢な体つき。
何より、美人だ。そしてまだ幼い。
だが、背筋は真っ直ぐで、歩き方に迷いがない。
(……)
火星は無意識に、その背を目で追っていた。
すると、少女が足を止める。
振り返る。
視線が、ぶつかった。
一瞬。
ほんの一瞬だったが、火星は確信した。
――警戒されている。
「……」
少女は、何も言わずにこちらを見ていた。
好奇心でもない。
恐れでもない。
拒絶だ。
「……何か?」
火星が先に口を開く。
声は低く、抑えている。
威圧するつもりはない。
少女は、一拍置いてから答えた。
「別に」
冷たい。
年相応とは思えないほど、感情を切り落とした声。
「ただ……」
少女の視線が、火星の胸元に落ちる。
そこにあるはずのものはない。
だが、彼女は“知っている”。
「ここは、あなたが来る場所じゃないと思っただけ」
「……どういう意味だ」
火星は、問い返した。
少女は少しだけ眉を寄せる。
「そのままの意味」
言い切りだった。
「この街は、争わない人のための場所」
「あなたみたいな人が、長くいる場所じゃない」
火星は、数秒沈黙した。
(見抜かれている)
理由は分からない。
だが、この少女は“察している”。
「……偏見だな」
火星はそう言った。
「ここで俺が何をした?」
「まだ、何も」
少女は即答する。
「でも、“何かをしてきた”顔をしてる」
その言葉に、火星はわずかに笑った。
「よく言われる」
「でしょうね」
少女は一歩、距離を取る。
「……それと」
ポケットから、黒い財布を取り出す。
「これ」
火星の目が、わずかに見開かれた。
「……それは」
「落としてた」
短い説明。
「中身は見てない」
「返すつもりも、正直、迷った」
迷いなく言う。
「でも――」
少女は、財布を差し出した。
「この街では、返す方が普通だから」
火星は、静かにそれを受け取る。
重さを確かめるように。
「……助かった」
「お礼はいらない」
即座に返される。
「私は、あなたを助けたわけじゃない」
そう言い残し、少女は踵を返す。
「待て」
火星が呼び止めた。
少女は、振り返らない。
「名前だけ、聞いてもいいか」
一瞬の沈黙。
やがて、短く答えが返ってきた。
「……アリス」
それだけ。
少女――アリスは、再び歩き出した。
その背中は小さい。
だが、どこか頑なで、強かった。
火星は、その背を見送りながら思う。
(嫌われたな)
理由は分からない。この星特有のものか。
だが、確かな拒絶だけが残った。
それでも――
(返してくれた)
その事実が、妙に胸に残った。
ネオ・ヴェネツィアの朝は、今日も穏やかだ。
だが、
火星とアリスの間には、
確かに“冷たい距離”が生まれていた。
それが、
この2人の物語の始まりだとも知らずに。
一旦ここまで。続きはまた近々。