朝のネオ・ヴェネツィアは、相変わらず穏やかだった。
水路を渡る風。
石畳を打つ、軽い足音。
街は今日も、急ぐ理由を持たない。
地球とはまるで違う。そう簡単には慣れなさそうだ。
火星は、ARIAカンパニーの桟橋に立っていた。
手の中には、戻ってきた財布。
中身も、身分証も、すべて揃っている。
(……戻った、か)
軍人としては、それで十分だ。
問題は解決した。
だが――
「どうしたの?」
背後から、アリシアの声がした。
振り返ると、いつものように穏やかな表情で立っている。
「財布、戻ったんでしょう?」
「ああ」
火星は短く答えた。
「それなら、もう宿に戻れるわね」
その言葉に、火星は一瞬だけ黙った。
合理的だ。
正しい判断だ。
だが、口がすぐには動かなかった。
「……もう少し、ここにいてもいいか」
自分でも、少し意外な言葉だった。
アリシアは、驚いた様子を見せなかった。
ただ、静かに続きを待つ。
「居心地がいい」
火星は、そう付け加えた。
「理由は、それだけだ」
誤魔化しでも、方便でもない。
本心だった。
何もしていないと、落ち着かない。
役割がないと、自分が空っぽになる。
だが、ここでは――
何かを“しなくていい”空気がある。
それが、逆に心地よかった。
「……そう」
アリシアは、ふっと微笑んだ。
「あらあら、困ったわね」
そう言いながらも、拒む気配はない。
「じゃあ、正式に延長ね。
実は、あと10日くらいしたら、新入社員の子が来るの。
だから、それまでで良かったらだけど。」
「ああ…充分だ。世話になる」
「その代わり」
アリシアは、桟橋に置かれた荷物を指さした。
「できることは、手伝ってもらうわ」
火星は、少しだけ口角を上げた。
「その方が助かる…。力仕事は任せておけ。」
「でしょう?」
アリシアは、いつもの調子で笑った。
⸻
その日、火星は一日、街を歩いた。
ゴンドラの手入れ。
荷物運び。
簡単な雑用。
戦う必要はない。
命を賭ける理由もない。
だが、体を動かし、街の中にいると、
少しずつ分かってくることがあった。
この街は、守られているのではない。
“選ばれている”。
争わないことを。
急がないことを。
疑いすぎないことを。
(……だから、軍を嫌う。そもそも、"守られる概念がない")
火星は、ふと考える。
守るために戦う者。
戦わないことで守ろうとする者。
どちらが正しいかは、分からない。
⸻
午後、運河沿いの道で、火星は足を止めた。
前方に、見覚えのある後ろ姿。
薄緑色の髪。
小柄で、華奢な体。
「……アリス」
名前を呼ぶと、少女は振り返った。
昨日と同じ、冷たい視線。
「何」
「財布の件、改めて礼を言う」
「いらない」
即答だった。
「返したのは、街のルールだから」
「それでもだ」
火星は、そう言った。
アリスは一瞬だけ黙り、視線を逸らす。
「……まだ、いるのね」
「ああ」
「もう用事はないでしょう」
「ないな」
「じゃあ、なぜ」
問いは短い。
だが、核心だった。
火星は少し考え、正直に答えた。
「ここが、落ち着く」
アリスの眉が、僅かに動いた。
「……変な人」
「よく言われる」
「軍人のくせに」
その言葉は、刃物のようだった。
まるで氷の様な表情。一体、何が彼女をそうさせるのか。
火星は、否定しなかった。
「そうだな」
アリスは、驚いたように火星を見る。
反論が来ると思っていたのだろう。
「……分かってるなら」
アリスは、一歩距離を取った。
「この街は、あなたの居場所じゃない」
「それでも、ここにいる」
「……勝手にすれば」
そう言い残し、アリスは踵を返した。
拒絶。
昨日と全く態度は変わらない。
火星は、その背中を追わなかった。
(嫌われてはいる)
だが――
(見られてはいる)
それだけで、今は十分だった。
⸻
夜。
ARIAカンパニーの明かりが、水面に揺れる。
火星は桟橋に腰を下ろし、静かに街を眺めていた。
戦場ではない。
任務もない。
休暇という名目でここまできたが、果たして心から休めているのだろうか。
この星にとって、自分は"異物"だ。
身分がバレなければ、どうということはない。
だが、"異物"はやがて居場所を失う。
なんだってそうだ。それが世の理。
あの少女---アリスとの出会いによって、それはより一層自覚した。
それでも---ここにいる理由がある。
俺はこの星の"海"をちゃんとまだ理解できていない。
俺が目指すべき"海"があるのかどうか、ちゃんと見極めたい。
火星は、ここ数日気が滅入って吸っていなかったタバコに火をつける。
白煙が昇ってゆく。心地よい匂いに包まれる。
男の心中は複雑、
だが、確かに――
この街は、火星を拒絶しきってはいなかった。
その事実だけを胸に、
火星は夜風を受けていた。