ネオ・ヴェネツィアの朝は、地球とは違う。
窓の外、水路に差し込む光はやわらかく、
街はまだ眠気を引きずったまま、ゆっくりと目を覚ましていく。
地球にいた頃は、街の全てが管理されていた。
無機質。
その一言に尽きた。
時間の流れがまるで違う。それをまじまじと感じさせられた。
火星は、ARIAカンパニーの客間――と言っても簡素な空間だが――で、天井を見上げていた。
相変わらず火星はここにいた。
長期休暇---とはいえ、滞在する場所も、観光する場所も、自由に変えていいはずだ。
だが、まだここにいる。自身が異物と認識しながら。
(……居心地、か)
そんな言葉で片付けるのは癪だが、嘘でもない。
アリスとの出会いがあったとはいえ、全てに否定されているわけではない。
そんなことを考えていると、
コン、と扉が軽く叩かれた。
「起きてる?」
聞こえた声は、柔らかく、甘い。まるでシルクの様な声。
次の瞬間、扉が少しだけ開き、アリシアが顔を覗かせた。
「おはようございます。昨夜はぐっすり眠れたかしら?」
「ああ、おかげさまでな。悪いな、滞在延長させてもらってよ。」
「あらあら、うふふ。いいのよ、気にしないで。それより、
朝食、一緒にどうかしら?」
火星は一瞬だけ迷ってから、短く頷く。
「……ああ。いただく」
「ふふ。じゃあ、用意して待ってるわね」
扉が閉まる。
その直後――足元で、何かが「にゅ」と鳴いた。
火星が視線を落とすと、丸い目がこちらを見上げている。
白い毛並み。ふっくらした体。
堂々とした顔。
「……あ?猫?」
その猫は、返事をするように、もう一度鳴いた。
「ぷいにゅー!!」
火星は眉をひそめる。
「お前、どっから入ってきた。つーか、なんだその鳴き声…」
猫は当然のように足元をすり抜け、火星の膝にぽんと乗る。
まるで最初からここが自分の場所だと言わんばかりに。
火星が困った顔をしたところで、扉の向こうからアリシアの声がした。
「うふふ。その子、アリア社長よ」
「……社長?」
「ええ。ARIAカンパニーの社長さん」
火星は膝の上の猫を見る。
猫は、当然のように顎を上げた。
「見かけによらず随分と冗談が上手いな」
「ふざけてないわ。うふふ」
アリシアが姿を見せ、アリア社長を見て少しだけ安心したように微笑む。
「私達の水先案内人業界ではね、青い瞳を持つ猫を社長にするのが慣わしなの。幸運の証よ。しばらく出かけてたのだけれど、今日、帰ってきたみたいね」
「へぇ…なるほどねぇ…。てか放し飼いかよ」
「ネオ・ヴェネツィアでは、わりと普通よ」
火星は溜息をつきながら、アリア社長を軽く持ち上げて床に下ろす。
…意外と重い。
だが猫--アリア社長はすぐ、火星の足元に付いてくる。
――相棒、か。
そんな言葉が頭をよぎって、自分で苦笑した。
「……お前、ついてくる気か」
「にゅ!」
返事になっているのが腹立たしい。
⸻
食卓は小さかったが、朝の匂いがちゃんとあった。
焼いたパン。
温かいスープ。
簡単なサラダ。
そして、机の端に堂々と座る猫――アリア社長。
「いただきます」
火星は短く言い、スープを一口飲む。
熱が喉を落ちる感覚が、思っていた以上に心地よかった。
「……うまい」
「よかった」
アリシアはいつもの笑顔で頷く。
その笑顔が、火星には妙に落ち着く。
「昨日は、色々あったでしょう」
「まあな」
火星はパンをちぎりながら、視線を逸らした。
財布が戻った。
問題は解決した。
それでも、居続けるのは――理屈ではない。
「ねえ、火星さん」
アリシアが、ふと声のトーンを変える。
「アリスちゃんと、なにかあった?」
火星は一瞬食事の手を止めるが、すぐ何事もなかったかのように
再開する。
「…あんた、あいつの事知ってんだな」
「ええ、有名な子なの。まだミドルスクールに通っているけど、
とてもゴンドラの操縦が上手くて…ついこの間、オレンジぷらねっとっていうウンディーネの会社にスカウトされて、入社したの。うふふ。将来有望なのよ。」
「…おどろいた。その年でもうちゃんとしたウンディーネ見習いなのか。まぁ、真面目そうだったしな…学業との両立は難しいだろうに。でも、なりたかったんだな。ウンディーネに。」
「本人がどう思っているかはわからないけど、そうだったら
嬉しいわ。とても素敵な事だと思わない?」
アリシアそう言って微笑む。
彼女の笑微笑みには邪念も、迷いも、含みも、一切ない。
---本当に、そう思っているんだな。
彼女の人となりがよくわかる。
「……あいつとだが…。別に。なにもなかったよ。」
火星は短く言った。
「財布を拾ってもらっただけだよ」
アリシアは一瞬だけ目を瞬かせてから、くすりと笑う。
「そう」
それ以上、追及はしない。
「うふふ。よかったじゃない」
「……なにがだ」
「ちゃんと、返ってきたでしょう?」
火星はスープを一口すすり、肩をすくめた。
「まあな。……運がよかっただけだ」
「違うわ」
アリシアは、あっさりと言った。
「この街では、そういうことが“普通”なの」
アリスも、同じことを言っていた。
「……信じすぎじゃないか?」
火星の言葉に、アリシアは少しだけ首を傾げる。
「信じているというより……」
一拍、間を置く。
「信じたい、かしら」
そして、いつもの穏やかな笑み。
「あらあら。難しい顔をしないで。うふふ」
火星は小さく息を吐いた。
「……あいつ、冷たいな」
「ふふ」
アリシアは否定しない。
「でも、優しい子よ」
「そうは見えなかったが」
「見せないだけ」
その言葉は、断定でも擁護でもなかった。
ただ、知っている人の言い方だった。
「仲良くなれると、いいわね」
火星は一瞬、返事に迷った。
「……どうだろうな」
「時間はあるわ。沢山」
アリシアは、静かにそう言った。
「ここでは、急がなくていいの」
アリア社長が、机の上で「にゅ!」と鳴いた。
ご丁寧に片腕を腕を上げて。励ましてるつもりか。
「ほら、社長もそう言ってるわ」
「……こいつは、ただ腹が減ってるだけだろ」
「ふふ。それも、立派な理由ね」
食事の空気が、少しだけ緩む。
「この後だけど…今日も手伝ってくれるの?」
「……勿論だ。世話になってるし、何もしないでいるのは性に合わない」
「ふふ。やっぱり」
アリシアは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、倉庫の整理をお願いできるかしら。物資の出入りが少し溜まっているの」
「了解」
即答する火星を見て、アリシアが肩をすくめる。
「あらあら、ほんとに即断即決ね。うふふ」
火星は一瞬、言うべきか迷った。
だが、今なら――言ってもいい気がした。
「……ひとつ、頼みがある」
アリシアが顔を上げる。
「なあに?」
火星は言葉を選びながら言う。
「時間がある時でいい。少しだけ……海の方にゴンドラを出してほしい」
アリシアは、驚いたようで驚いていない目をした。
「海の方へ?」
「この街の海は綺麗だ。
……ただ、運河だけじゃなくもっと、広いところも見てみたい」
理由は言わない。
いや、ある意味、言うわけにはいかない。俺がここに"居る"以上は。
アリシアは静かに頷く。
「いいわ。今日の夕方なら、少し時間が取れるかもしれないの」
「助かる」
「海はね、逃げないわよ」
アリシアは、いつもの調子で微笑む。
「あらあら。急がなくても大丈夫。うふふ」
火星はそれ以上何も言わず、スープを飲み干した。
机の端でアリア社長が、パンを食べながら、満足そうに「にゅ」
と鳴いた。
⸻
倉庫は、街の表通りから少し外れた場所にあった。
観光客は来ない。
石造りの壁、木箱、油の匂い、水の匂い。
ネオ・ヴェネツィアの“生活”が集まる場所。
その中でも、アリシアに頼まれたこの倉庫は、特に地球から送られた物資が多いらしい。物資だけでなく、過去の色々な資料も置いている区画もあり、閲覧も自由らしいので、それなりに人の出入りがあるらしい。
火星は木箱を抱え、黙々と運ぶ。
身体を動かしている方が落ち着くのは、もはや癖だ。
軍にいて、何もしない時間なんてないに等しいのだから。
ある程度荷物を運び終えた火星は、一般立ち入りもできる資料室に立ち寄っていた。
そこにはずらっと大小色々な書類が本棚に並べられ、各街の設計図から入植当時の各地の写真、その時の人々の様子を記した書物など、まるで惑星AQUAの歴史は全てここにあるといっても過言ではないレベルだった。
ふと、視線の端に薄緑が揺れた。
――アリス。
倉庫の奥、机に積まれた紙束を整理している。
細い指が、古い書類を丁寧に揃えていく。
火星は、その紙束の端に見えた単語だけで察した。
「航行停止」「優先度」「危険評価」――
(……軍の書類か)
それと同時に悟る。なぜ彼女があんなにも火星--ひいては軍に対し
嫌悪感を抱いていたのかを。
(なるほど…おかしいと思った。あの年頃の女があそこまで軍を嫌うのには、何が理由があるはずだと。)
ここがただの倉庫ではないことを、火星は知っていた。アリシアに聞いたからだ。
地球から入植が始まった頃からある、物資を補完する場所。
即ち、ある意味地球とかなり因縁がある場所。
火星自身も軍で習った。
AQUAへの入植が始まってから、すでに長い年月が経っていた頃。
軍を置かないという掟も、この星の在り方として定着していた時代。
それでも現実には、
物資の輸送があり、航路があり、護衛が必要になる。
地球側は、長くその均衡を保ってきた。
協力も、介入も、慎重に選び続けてきた。
だが――
ある時期を境に、その判断は変わる。
入植が終わり、安定期に入り、AQUAが活発になり始めた頃、
地球側でAQUAでのテロ予告、武装勢力の活動が活発になり始めた。
そう、デスオーダーによって。
(…デスオーダー。奴らの出現で……。)
――「安全のため」
――「戦争を起こさないため」
その名目のもと、
地球側は航行と物流を停止した。
全面停止。
例外は、ごく僅か。
優先度の高い区域だけが救われ、
その他は、後回しにされた。
結果として、火星は戦争を免れた。
同時に、
助かるはずだった命も、静かに切り捨てられた。
撃っていない。
爆破もしていない。
ただ、来なかった。
“助けない”と選んだ――それだけで。
(あの子は…おそらく。家族がそれに…。)
火星は、自身の足が少しだけ重くなった気がした。
⸻
――side アリス
紙の匂いが嫌いだった。
古い紙は、時間そのものの匂いがする。
めくるたびに、過去が手に張り付く。
でも、見ないわけにはいかない。
ここに書かれているのは、ただの記録じゃない。
この街の“傷”だ。
アリスは書類の束を揃えながら、同じ行を何度も目で追っていた。
「航路封鎖」
「医療物資 優先度C」
「代替手段なし」
「住民への告知:最低限」
――最低限。
その言葉が、いつも刺さる。
(最低限で、死んだのに)
遠くで、足音ががした。
振り向かなくても分かる。
あの男がいる。
ご丁寧に先程まで木箱を運んでいるのが目に入ったからだ。
軍人。
そのはずだ。
肩書きを見た瞬間、身体が冷えた。
この星に、本来いないはずの存在。
それなのに――
(……まだ、いる)
しかも、ここで。
倉庫で手伝いまでしている。
意味が分からない。
アリスは紙を揃えながら、言葉だけ先に出した。
「……見ても、意味ない」
返事はすぐだった。
「見ない」
短い。
逃げるような響きじゃない。
むしろ、線を引く声。
アリスは少しだけ苛立った。
簡単に線を引けるなら、最初からここにいなければいい。
「知ったところで、何も変わらない」
「まぁ、過去は、な。」
その返しが、余計に嫌だった。
アリスは紙束から目を離さず、氷の様な表情で吐き捨てるように言う。
「最低」
「全く…随分なご挨拶だな。」
「…でも、私はしってる。」
机の上、古い書類。
そこにある数字と、冷たい言葉。
その全部が、“来なかった”という事実につながる。
「ここで……何があったか」
沈黙。
アリスは、机から少し離れて木箱に腰を下ろした。
言うつもりじゃなかった。
でも、口は勝手に動いた。
「祖父は、ここの人だった」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「船の修理」
「物資の管理」
「運搬の調整」
ただ、それだけの人。
軍人でもない。
政治家でもない。
この街を支えただけの人。
「……航路が止まった」
アリスは書類の束を指で叩く。
「“安全のため”だって」
少し笑ってしまう。
笑えないのに。
「汚染の疑い」
「テロの予告」
「武装勢力の活動」
可能性。可能性。可能性。
可能性を理由に、全面停止。
「医療物資が届かなかった」
「修理部品が届かなかった」
ゴンドラも、運搬船も、
“海の仕事”そのものが止まった。
「病気で死んだ人もいた」
「事故で助からなかった人もいた」
声が少しだけ震えた。
アリスは、目を上げずに続ける。
「撃たれてない」
「爆撃もされてない」
一拍。
「……ただ、来なかった」
「AQUAが混乱期なら、仕方ないって言えたかもしれない。
でも、あの時は違った」
来ないと決めた。
それが“選択”だった。
「祖父は、最後まで言ってたらしい。」
アリスの指が、紙の端を強く掴む。
「『あの人たちは、私たちを守ろうとしてる』って」
あまりにも優しい言葉だった。
優しすぎて、残酷だ。
「でも、守られなかった」
守るための判断で、切り捨てられた。
「……そうか」
あの男が言った。
淡々としていた。
否定も、正当化もない。
それが、腹立たしい。
アリスはようやく顔を上げ、薄く笑う。
「それで、軍は嫌い」
言い切った。
「守るためだって言うなら…
どうして、あの人たちは“優先外”だったの」
最後の言葉が、少しだけ滲んだ。
――端っこだった。
――地図の端。
――代替が効くと判断された場所。
ここは、選ばれなかった側。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、あの男が言った。
「……悪い。答えは、持ってない」
それだけ。
アリスは小さく鼻で笑った。
「でしょうね」
そして立ち上がる。
「だから、あなたも信じない」
言い捨てるつもりだった。
でも――
あの男は、追わずに言った。
「それでも、ここにいる」
アリスは足を止める。
「……どうして」
声が低くなった。
あの男は、短く答えた。
「守りたいものが、あるからだ」
「……この街?」
「…かもな」
その言葉が、胸に残った。
アリスは、わざと冷たく返す。
「……なにそれ。いい加減。」
「あいにく、そういう人間なんでね。」
アリスは倉庫の出口まで歩いて、もう一度だけ振り返った。
信じない。
絶対に。
けれど――
(……この人の目は、嘘つきの目じゃない)
そう思ってしまった自分に、苛立った。
「……私はあなたを信じない」
「それでいい」
あの男は、たったそれだけ言った。
逃げない声だった。
⸻
倉庫を出ると、運河の水面が静かに揺れていた。
火星は空を見上げる。
(軍が全部間違っていたとは思わない)
だが、
(正しかったとも言えない)
その狭間に立つことが、
今後のアリスとの関係、はたまた、街での身の振る舞い方に役立つかもしれない。そう思った。
アリア社長が、足元で「ぷいにゅー!」と鳴いた。
いつの間にか、倉庫の外まで付いてきていたらしい。
「……お前、ほんとに相棒気取りだな」
「にゅ!」
火星は小さく息を吐き、猫の頭を一度だけ撫でた。
⸻
夕方。
ARIAカンパニーの桟橋。
アリシアが櫂を整えていた。
火星は、ただ海の方角を見ている。
理由は言わない。
言わなくても、胸の中で十分に鳴っている。
――憧れた海を、見たい。
アリシアは、ちらりと火星を見て、穏やかに微笑んだ。
「あらあら。そんな顔をしてたら、海も緊張しちゃうわよ。うふふ」
火星は、短く笑った。
「……悪い」
「いいの。行きましょう」
ゴンドラが静かに水を切る。
街の音が少しずつ遠のき、風が変わっていく。
その背中を、誰かが遠くから見ていた。
薄緑色の髪が、夕陽に揺れる。
アリスは、何も言わずに立っていた。
信じない。
けれど――
目を逸らせなくなっている。
その事実だけが、
今日という日を、少しだけ特別にしていた。
補足
時系列
約150年前 惑星AQUA テラフォーミング完了。入植開始。
同時期、地球にて第三次世界大戦勃発(AQUAの利権争い)
その結果、各国の国力が大幅低下。AQUAとの間で不戦条約成立。
入植時は混乱もあったが、以後、惑星AQUAでは安定期を迎えるまで大きな事件はなし。
また、戦後、デスオーダーが小規模ながら地球で成立。初期は目立った活動はせず。
約100〜40年前
各国の軍縮が進む中、デスオーダーが地球の海で本格的な海賊行為を開始。以後、各国の海軍とデスオーダーが一進一退の戦闘を繰り広げる。
この間、デスオーダーが多くの海域を支配。
約35年前
デスオーダーがAQUAに向けてテロ予告。及び先進国周辺での海賊行為激化。
地球側は不戦条約により万が一の際、AQUAの手助けは不可。よって、一切の宇宙船の運行を停止する事で事態の沈静化を図る。
しかしその影響で、AQUAの一部の地域で物資不足が発生(地球でしか作れない薬品など)。一部の人が被害に遭い命を落とす。アリスの祖父もこの被害により死亡。
約5年前
アリス、資料でその事を知る。