相変わらず朝のネオ・ヴェネツィアは音が少ない。
水路を渡る風が、運河の水面をわずかに揺らし、
その揺れが、街を起こす合図のように広がっていく。
軍にいた頃は、毎日起床ラッパで叩き起こされ、ベットを整え、5分後には集合。それが普通だった。
それに比べて、なんと平和なことか。
火星は、ARIAカンパニーの桟橋を眺めながら、湯気の立つカップを手にしていた。
――昨日の夕方。
ふとした思いつきで、ゴンドラを降りた。
誰に言われたわけでもない。
ただ、足が動いた。
水際に腰を下ろし、靴を脱ぎ、
そのまま、海に足を浸した。
「……冷たい」
だが、不快ではなかった。
さらに屈み、
手ですくった水を、そのまま口に含む。
塩気。
雑味がない。
管理されていない、自然のままの水。
「……飲めるな」
その直後だった。
「ちょ、ちょっと火星さん!? 何してるの!?」
振り返ると、ゴンドラの上で櫂を止めたアリシアが、目を見開いていた。
「海の水を……飲んでる?」
「少しな」
「少しな、じゃないわよ。うふふ……でも……」
驚きと呆れが混じった声。
それでも、責める調子ではなかった。
火星は、今度は腰まで水に入り、
数歩だけ、泳ぐように身体を動かした。
「……地球の海じゃ、こうはいかない」
「ええ」
アリシアは静かに頷いた。
「ここは、元々の姿の海だから。
人の手も入ってない。環境汚染もない。そのままの、海。」
火星は、その言葉を噛み締めるように、
もう一度水面を見つめた。
――元々の姿。
――だからこそ、息をしている海。
それが、胸の奥に残っていた。
⸻
「で、その顔で考え事してたのね」
声に引き戻される。
朝食の席。
アリシアが微笑みながら、パンを差し出す。
「……悪い」
「いいのよ。あらあら、うふふ」
「ぷいにゅー!にゅ!にゅ!」
アリア社長がパンを食べながら火星の膝に飛び乗る。
こいつとは出会ってまだ1日だが、すっかり懐かれてしまった。
その時だった。
「アリシアさーーーん!!」
勢いよく扉が開く。
青い髪を高く結い、サイドに垂らした長い髪が揺れる。
「聞きましたよ!!
なんか今、居候してる男の人がいるって!!」
「あらあら、藍華ちゃん。おはよう。うふふ。朝から元気ね。」
「だって! だってですよ!?
アリシアさんの家に男の人って、それ大事件じゃないですか!!」
後ろから、少し落ち着いた声が続いた。
「……全くだ。お前は本当に騒がしい。」
黒ともブラウンとも取れる長い髪。
気だるげな表情だが、視線は鋭い。
「晃ちゃん」
アリシアが名前を呼ぶ。
「あらあら。お久しぶりね。うふふ」
「あらあら禁止」
「うふふ」
「うふふも禁止!」
「あらあら、うふふ」
「禁止!」
アリシアと、晃と呼ばれた女性が激しく言葉の応酬を繰り返す。
と言っても、アリシアは軽く受け流すだけだが。
それを見て火星は一目で2人の仲の良さを見抜く。
「随分と仲がいいんだな」
「晃ちゃんはね、私の幼馴染なの。うふふ。仲良しさんなのよ」
「そうだろうな」
「にゅ」
火星とアリア社長は、互いに納得するような仕草を取る。
しかし、藍華は、火星を見て一拍置いた。
「……誰?」
率直すぎる問い。
「火星さん。少し事情があって、しばらく滞在してもらってるの」
「へぇ……」
藍華は腕を組み、じっと火星を見る。
敵意ではない。
だが、距離はある。
「アクアって…珍しい名前。
ま、いいですけど!
アリシアさんが決めたなら」
その言葉に、火星はわずかに眉を動かした。
「…いいのか?」
晃が一歩前に出る。
「晃だ。よろしく」
「ああ。天城火星だ」
握手はない。
それでも、互いに視線は逸らさない。
晃は軽く笑った。
「この街ね、外から来た人には優しいよ」
藍華が続ける。
「でも……居場所になるかどうかは、別、かな」
空気が、ほんの少しだけ締まる。
火星は、静かに頷いた。
「……そうだろうな」
否定もしない。
反論もしない。
それが、逆に印象に残った。
「ま、でも!」
藍華が手を叩く。
「今は朝ごはんですよ朝ごはん!
難しい話は後です後!」
アリシアがくすっと笑う。
「あらあら。そうね」
その瞬間だけ、
場の温度が、少し上がった。
⸻
――side アリス
朝の空気は、嫌いじゃない。
でも、今日は落ち着かなかった。
朝のゴンドラの練習中、
ふと近くを通りかかり、ARIAカンパニーの方を見てしまう。
理由は分かっている。
やっぱりだ。
――あの人が、まだいる。
財布は返した。
それで終わりのはずだった。
なのに。
(……なんで、まだいるの)
拒絶したはずなのに。
距離を取ったはずなのに。
それでも、
あの背中が、目に残る。
彼は言っていた。
"守りたいものがある"
態度も曖昧だった。軍の存在しないこの星で、一体
何を守るというのか。はたまた、適当な嘘か。
薄緑の髪が、風に揺れた。
「……最悪」
小さく呟く。
信じない。
信じる理由なんて、どこにもない。
それなのに――
(……なんで、目、逸らせない。)
その事実が、
アリスを一番苛立たせていた。
⸻
朝の街は、今日も穏やかだった。
その穏やかさの中に、
新たな出会い。
新たな会話。
このまま、そうやって時間が流れていけばいいと。
だが――
居場所を持たない者が、
確かに、そこに立っている。