コンクールのオーディションがあと約一週間後に迫り部内の雰囲気の緊張は日に日に増していた。
部員は合計129人。そのうちオーディションを受けれるのは今年始めたばかりの人を除く約108人ほど。
コンクールの参加人数は31人以上55人以下と決まっている。コンクールで他の学校と戦う前に自分の学校内、もっと言うなら自分と同じ楽器を担当している人と戦わなくてはならないのだ。
チョロ松はそのことについてなんとなく残酷なものを感じていた。彼は部員数が多いからこれは仕方ないことであり、どこの部活であっても人数規定はあるのでどうしようもないのことだと分かっていたのだが、やっぱりどこかでそう思ってしまっていた。
しかも三年間一度もコンクールに参加ができない人がいたという話を聞いてその感じは強く彼にのしかかった。
せっかく三年間頑張ってきたのに……と気の毒に思う思いと、もしかしたら自分が三年間一度もコンクールに参加できない人になるんじゃないかと恐怖の念。
(でも僕はクラリネットがやれるだけで十分だしそれはまだ先の話だし、とりあえずは目の前のことを片付けよう)
そう彼は気持ちを切り替えスクラップブックをめくった。
(にしてもなぁ……)
(あと二ヶ月で12曲仕上げるって正気かよ)
以前より重く分厚くなったそれは五月の風に吹かれていた。
チャイムが鳴る。その合図で生徒たちは名残惜しそうに会話を切り、自分の席へ座る。そして先生が教室に入ってきたのでトド松は面倒くさそうに国乙のノートを開く。
起立、礼、着席
その彼の動きは重かった。
頬カバンから授業の用意を出す先生を観察するその目には覇気が無かった。あくびを一つしたあとに頬杖をつく。
今日は何故だか色々なことに無気力だった。いや今日だけじゃないここ最近ずっとだ。しかしトド松にはそれがいつからなのか見当がつかない。
いつしかふんわりとした日和の季節は通り過ぎ、午後の高い太陽に当たっていれば少し汗ばんでくる季節に差し掛かろうとしていた。果たしてそれは人のやる気を奪うものなのか。
(まさかこの僕が五月病……?そんなまさか……。)
トド松は視線を下に落とす。
” 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし ”
偶然開かれたノートにはそう書いてあった。これは四月の初めにやった短歌だ。あの頃は僕もキラキラしようとしていたなぁ…と思いながらその先を読む。
” 現代語訳 → 世の中に桜がなかったら春をのどかな気持ちで過ごせるのに ”
その文字はやる気というものに満ちていて四月の初々しさを感じさせた。
彼はため息をつきながら今やっているページを開く。そのページの文字は最初のものに比べると明らかに力が入ってなかった。
(はぁ…世の中に入学式とテストと吹奏楽部とカラ松兄さんの痛さが無ければ僕はのどかな気持ちで過ごせるのに……。)
ここのところ、吹奏楽部は嫌だった。レギュラー争いの雰囲気が嫌とかではなくて、ただ単に嫌だった。
朝練はあるし、何故か走らされるし、酸欠になるし、先輩怖いし。
長い時間を犠牲にしてフルートができるようになって何になるのだろうか。プロになりたいわけでもあるまいし。
なにが悲しくて自分は高校という青春の時間を削ってフルートなんかを吹いているのだろう。
そう思い始めたのは四月の終わり頃だった。
少なくとも四月の入部したての一週間はフルートが楽しくて仕方なかったのに。自分で風を起こせたことがすごいなと思っていたのに。
(あぁなんで吹奏楽部に入ったんだろ。他の緩い部活にしておけばよかったな。)
辞めれるなら辞めて、他の部活に行きたい。
しかし彼には転部届けを出す勇気は無かった。兄弟や先輩、同級生からなんて言われるだろうか。そして転部した先でやっていけるのか。
転部先の人たちから「あぁ、アイツ前の部活でなんかあったんだろうな」という視線を向けられながら、また一から始めるくらいなら今のままの方がまだいいだろう。
トド松はそう思うことにしている。
終業のチャイムが鳴り、掃除をし終えた者から部活に行ったり下校したりする。
トド松はたるそうにカバンを背負う。そのカバンは帰りのときだけ重い。
「ヘイ!マイブラザー!今宵もスペシャルタイムが始まるぜ〜。」
いつもこう言ってカラ松はトド松を部活に誘うのだ。トド松は浅いため息をついてカラ松と一緒に音楽室へ向かう。
この兄は僕がこんなことを思っていることを知らない。部活でトロンボーンが吹けることが楽しくてたまらないのだろう。
羨ましい、そんな純真無垢に没頭ができて。僕は一ヶ月もその状態が続かなかった。
チョロ松兄さんと十四松兄さんも楽器が大好きで部活が楽しいのようだ。特にチョロ松兄さんは最初に吹奏楽に入ろうと言い出しただけあってそのハマり方は尋常ではなかった。おそ松兄さんはよくわからない。楽観的な性格だし僕みたいに思ってはないだろう。一松兄さんはさらによくわからない。部活めんど…とか堂々と言うのかと思ったら案外そうでもなかったり。あ、でもこの前ファゴットなんかいらないって言っていたな。ダブルリードは一番平和なパートぽいのに……。
カラ松はカツカツと進む。あぁトロンボーンのことしか考えてないその背中が妬ましい。
ーー僕はそんなにフルートが好きじゃないよ。
ある日、フルートパートの一年生の一人がパートのメンバーの前で「部活を辞めます」とハッキリ言った。理由は一ヶ月部活をやってみて合わないと感じたからだとか。
トド松はそれを聞いて「先輩の前で言うなんて勇気あるなぁ」と感心する気持ちになったと同時に「先を越されたな」と少し悔しくなった。
先輩はこう言った。「でもそれは今の考えでしょ?辞めた数ヶ月後に『辞めなければよかった』って思わない自信ある?」と。「一ヶ月やってみてって言ってるけどまだ一ヶ月しか経ってないじゃん」「石の上にも三年とか住めば都とか言うしもっと続けてみたら?」と付け足した。
それは典型的な引き止め文句だった。
その子は視線をそらし「そ、そうですよね……」と細い声で言い、一言先輩に謝ってから練習に戻った。
あぁやっぱりこうなるのか。
「129人も部員がいるから辞めてもらっても構わないし、むしろそんなやつがいるのが目障り」などと言っておきながら実際に辞めることを切り出したらこうやって引き止められるのか。
予想はしていた。
先輩は彼女の返事を聞いて安心したような顔を見せた。
*****
それは聞きたくなかった。
でも聞いてしまった。
〜ウワンウワンウワンウワン〜
練習が終わりトド松たちフルート一年生は音楽室へ机の復旧に向かった。
僕らがあれやこれやと話しながら歩いている最中、その子は会話をニコニコしながら聞いていた。先輩の言葉で彼女は退部はきっぱりとあきらめたのだろうか?と思いながら僕はトークを続けていた。
「あ。」
「どうしたの?トド松くん?」
「譜面台を教室に忘れてきちゃった…。取り行ってくるよ。」
「いってらっしゃい。」
僕は彼女たちから離れて教室に向かった。
その教室のから聞こえてきた先輩たちの会話。
「今の時期に辞めるとか言い出すのはないわ。」
「一ヶ月しか経ってないのによく辞めたいとか思ったよね。」
「冷やかしにでも来たんじゃないんですか?」
「こっちは本気でコンクールに向かって練習してるのに!胸糞悪いわ。」
「あいつ辞めればいいのに。」
「でもあそこで一応形だけは引き止めておかないと、あとあとパーリー会議で他のパートから何言われるかわからないよね。」
〜ウワンウワンウワンウワン〜
トド松は冷たいナイフが背中を這っているような思いがした。
(忘れ物を取りに行って聞いちゃいてない会話聞いちゃう展開とか王道過ぎでしょ!)
胸がきゅっと締め付けられる。
その言葉が自分に向けられているような気がして。
いや、彼女が僕よりも早く切り出していただけで、本当は僕に向けられていたはずの言葉。
女子の二面性は知っている。表と裏で言っていることが真逆なときがあることを僕はよく知っている。だけど…だけど……。
やっぱり生半可な奴はいらないんだ。僕や彼女なんかがいると真面目にやっている人の迷惑なんだろう。
スゥッと胸のあたりが凍える。
〜ウワンウワンウワン〜
(この感じ…覚えがある……)
この逃げたくても逃げれない。
そこは鉛のような空気の空間……
毎日嫌だ嫌だと思いながらそこにいた。
〜ウワンウワンウワン〜
みんながみんな自分の爆弾を抱えていて
毎日それが触れあって爆発して
爆発によって生まれた**が
また新たな爆弾を作り出す
爆発が起きない期間があったけれど
それは平和とは程遠い冷戦状態で
また再開するかもしれないと思うと
その場にいるだけでムカムカとして
僕も爆発しそうになる
本当にそこにいるのが嫌で
顔を会わせるのも嫌で嫌で
だからといってその場からいなくなるのは
心の奥底が絶対に許さなくて
トド松は譜面台はトイレに行ってからもう一度教室に取りに行くことにした。堂々と足音を立てて、今そちらに向かってますよと言わんばかりの存在感を出しながら。そうすればなんてことはないだろう。
(あのときは逃げ出したかったけど…、逃げ出さなくてよかった。)
(まだその事が解決したかどうかはわからないのが玉に傷だけど。)
カラカラとトイレ扉を開ける。トド松を映すトイレの鏡は綺麗に光っていた。