――七十余年前。
「おキヌちゃ――――ん!」
青く霞む尾根の合間にムロエの声が木霊する。
そこは御呂地岳の中腹にあるなだらかな丘の上。春の暦を向かえ、地面には青々とした野芝の絨毯に、そこかしこから蒲公英が咲いている。太陽がさんさんとふりそそぎ、仰ぐ尾根の頂にはうっすらと霧のような雲がかかっていた。
「あ、ムロエちゃーん!」
大きく手を振りながら無邪気な笑顔を振りまいて駆け寄ってくるムロエの姿をみとめたキヌは顔をほころばせた。彼女はこの地に縛られた幽霊だ。ふわふわと風船のように宙に浮いている彼女は人身御供として死んだときから変わらぬ巫女装束だった。しかしとても死者とは思えないような、言いえて妙だが生き生きとした幽霊だ。明るく朗らかな性格で、ほんわかとした雰囲気は傍にいるだけで人を安心させてくれる。
気性の激しいところがあり喧嘩っ早い性格のムロエは、男は男らしく女は女らしくという考え方が古来から当たり前のようになっている村の衆には避けられている節がある。口汚い者などは気狂いなどと扱き下ろしてくる。それでもムロエは周囲の目など気にせず、頑固なまでに生活態度や自分の生き方を変えようとはしない。それはなぜか、などと問われても大仰な答えがあるわけではない。自分は自分らしく。飢餓が貧困が蔓延する厳しい時代の中、ただ自分の心だけは何者にも縛られることなく自由でいたい。誰に迷惑をかけているわけでもないのだ。顔を伏せる必要は無い。堂々と前を向いて、あるがままの自分の姿で生きる。それが理由であり、ちっぽけでもムロエの矜持だった。
キヌとムロエ。
一見、正反対の気質を持つ二人だったが、似たもの同士だ。ずっと同じ場所に縛られ続けられる牢獄に閉じ込められたような営みの中でも心優しさを失わず朗らかに笑うキヌ。周囲の目や厳しい生活に縛られながらも、自分の生き方を曲げようとせず胸を張って生きるムロエ。
お互いがお互いを尊敬し、認め合っているからこそ、彼女たちは幽霊と生者という間柄でありながら、あの雪降る吊橋の上での出会いからわずか半年足らずの短い期間で生来の親友のような関係へとなっていた。
二人は草の絨毯の上に並んで腰を下ろしていた。そんな二人を包み込むように蒲公英の綿毛が風に乗って空へと舞い上がっている。
「ほっほっほ……どうだ!」
ムロエは利き腕である右手をせわしなく動かしながらお手玉をしていた。小豆をつめた小さな布袋が六個、宙で弧を描いていた。今まではお手玉などあまりやらなかったため、ずいぶん練習した。それでも十周ほどが限界だったので、ぼろが出ないうちに止めて置く。
「じゃあ次はおキヌちゃんだな」
「うん。じゃあいくわね」
キヌはムロエから渡されたお手玉を放り上げ始めた。最初は二個から初め、一個ずつ増やしていく。お手玉を右手で放りながら、左手で追加する。二個から三個、四個、五個。そしてムロエの限界だった六個目を放る。数こそ同じだが、ぎくしゃくとしていっぱいいっぱいだったムロエと比べてずいぶんと指の動きが流暢だった。手の位置も全く変わらない。寸分違わず同じ位置に布袋が落ちてきている。
「……どう?」
「ほへ~、スゴイだ、感動だ……上手だなぁおキヌちゃん」
「えへへ、そうかな」
お手玉歴二百年以上の熟練の腕前だった。更に数を増やしていく。ムロエが持参してきた九個のお手玉全てがきれいな弧を描いて等間隔で宙を舞っている。それをじぃと眺めていたムロエはその光景に吸い込まれそうな不思議な感覚にまどろんでいた。
「ムロエちゃん?」
「はへ?」
惚けていたムロエの顔をキヌが心配そうな面持ちで覗き込んできた。お手玉はいつの間にかキヌの膝の上に据わっていた。
「お、おお、こりゃあいかん。あんまりおキヌちゃんのお手玉がきれいだったから見惚れちまっただ」
いかんいかんと繰り返しながら両手で抱えた頭を振るムロエを見つめていたキヌが「もう、あんまりからかわないで」と苦笑をこぼした。
それから時間の許すかぎり、二人は語らった。
山からあまり広い範囲を動けないキヌにとって、ムロエの話を聞いていると文字通り世界が広がったような気持ちになる。人と人の集団生活というものから離れてずいぶん久しいキヌにとって、特に収穫祭の話や山向こうにある大きな集落での市の話などは心が躍る。ムロエは話し方がとても上手だ。身振り手振りを交えて、話の中でその時に自分が思ったことや感じたことを情感たっぷりに語るので、キヌ自身もそのときの様子を追体験しているような感覚になる。御山に縛られ続けてきたキヌにとってそれは目くるめく新鮮な時間で、今まで閉塞的だった世界が急に色づいたような感動を覚える至福の時間だった。
「それでオラはこう言ってやっただ。おめえらそんなに熊が怖いんだったらオラが代わりに退治しやる。鍋の準備さして待ってろ、てな!」
「あはは、もうムロエちゃんたら」
声を出して笑うなどずいぶん忘れていた。
こうして誰かと腰をすえて話すなど死んでから初めてのことだった。
楽しかった。
楽しくて……楽しくて。
――悲しかった……。
いつのことだったろうか、ムロエに話したことがある。
「夢? 寝ているときに見るほうの?」
川の辺に二人は座っていた。ムロエの手には竹で自作した釣竿が握られており、木綿糸を縒り合わせた釣り糸を河流に垂らしていた。今のところの釣果はなし。短気な性格のムロエは一つところでじっとしているのが苦手のようで、ちょこちょこと釣る場所を変えていた。キヌはその後ろをついていって、二人でぼーと川を眺め、たまに思い出したように会話をするという安穏な時間の過ごし方をしている。
「うん、同じ夢をよく見るの」
「幽霊って夢さ見るだか?」
ムロエのもっともな疑問に、キヌは首をかしげた。
「どうなのかな? そもそも私死んでからずいぶん経つから、生きているうちに見ていた夢っていうのがどういうものなのか忘れちゃってるの」
夢を見る、という感覚がどういったものだったか思い出せない。だからこそ死んだ後の今の自分が時折見るものが本当に〝夢〟と呼べるのかが定かではない。
「ムロエちゃんが見ている夢と幽霊の私が見ている夢、同じものなのかは分からない。私が見ている夢はひょっとしたらただの気のせい、幻みたいなものなのかもしれないけど」
気のせい。
何百年もの間、幽霊として過ごしてきた精神が歪みなく正常なものだと誰が断言できようか。
ひょっとしたらすでにどこかが壊れていたとしても何ら不思議ではない。
「う、う~ん……オラにはちょっと難しい話だなぁ。夢に違いなんてものがあるもんなのか分からねえけんども。え、というかそもそもの話、おキヌちゃんて寝れるだか?」
「うん。夜とかすることないから寝ていることが多いわ」
――むしろ夜からが幽霊が本領発揮する時間じゃなかろうか。
本当に幽霊らしくない幽霊だなぁ、と思いつつも話の腰を折るのもどうかと思ったので、ムロエはキヌに続きを促した。
「ところで夢って、どんな夢だ?」
キヌは物思いにふけるように空を見上げた。
「私はね、何もない真っ暗な場所に一人だけでいるの」
希薄な夢の思い出を手繰り寄せるように、目を閉じて記憶を引っ張り出す。
「そこは本当に何もないの。空を見上げても月も星もなくて、どこが終わりかも分からない真っ暗闇が続いている、とても寂しくてとても怖い場所。私はその中で自分が誰だったかも思い出せなくて、なんでそんなところにいるのかも分からないでいる――……」
どこにいけばいいのかも分からない。
なにをすればいいのかも分からない。
でもその場に留まっていることはできない。この暗闇に飲み込まれてしまいそうで、この暗闇にかき消されてしまいそうな自分自身の希薄な意識が、怖くてたまらなくて。
だからひたすら前に歩いていく。
恐怖にせかされた足は徐々に歩幅が大きく、やがて駆け足になっていった。
走っても変わらない真っ暗闇な景色、どこまでも続く終わりの無い道に、心が悲鳴を上げた。恐怖と焦燥に頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられて心がばらばらに壊れそうになる。きっとその時自分は泣いていた。幼子のように顔をくしゃくしゃにゆがめて泣いていた。けれども声は出さない。慟哭してしまったら必死につなぎとめていた糸がぷっつりと切れて自分自身が壊れそうだった。
走って、走って、不意に小さな灯りが目に飛び込んできた。駆け寄ってみるとそれは石灯篭だった。蝋燭の炎が揺らめき周囲を赫々と照らしていた。するとどうだろうか。また暗闇の向こうに小さな灯りが見えた。駆け寄ってみると、そこには先ほどと同じ形の石灯籠。灯りは蝋燭の炎だった。顔を上げると、暗闇の中にぽつりぽつりと灯りが見えた。それはまるで数珠繋ぎのように、緩やかにうねる道標となっていた。
その石灯籠をたどるしかなかった。他に寄る辺もなく、暗闇の中で
しかし他に寄る辺は無く、そこを歩くしかない。
ただの暗闇を闇雲に歩くのはもう恐ろしくてたまらなかった。
ずっと歩き続ける。どこまでも歩き続ける。いつまで歩いても終わりは来ない。
やがて、自分がなぜ歩いているのかも思い出せなくなってしまう。
「いつも、そこで目が覚めるわ」
キヌは寒さに震えるように自分の肩を抱きしめた。目の焦点が定まらないかのように揺れる瞳からはその夢に対する怯えのようなものが見て取れた。彼女にとっては見たくない悪夢なのだろう。
「おキヌちゃん……」
ムロエが何事かを言おうとしたとき。
「あ、ムロエちゃん、竿引いている」
「え、わ!」
慌てて竿の様子を確かめると、糸が引かれている。食いついた魚を引き上げようと、竿を立てる。釣ろうとする人間と釣られまいともがく魚の攻防は続き、やがてムロエが竿越しに感じていた手ごたえが無くなった。嫌な予感がして竿を引いてみる。
「うわ、やっぱ餌を持っていかれちまっただ」
釣り針には何も無かった。餌だけ食われてしまったらしい。
「あぁ――っ、こんちくしょうめ」
頭をガシガシと掻く。一方的にしてやられたみたいで心底悔しい。というわけですぐさま雪辱戦を開始する。釣り針に餌を引っ掛けて川に放り込む。竿をがっしり握って、その場に胡坐をかくようにどっかりと座り込んだ。
ふん、と鼻息荒くっとう気合も入っていた。
さらさらと水が流れる涼やかな音に、時たまどこかで魚が跳ねているのか水がはじける音が聞こえた。
「それで」
ムロエが釣り糸の先を見つめたまま、独り言のようにしゃべりだした。
「それで、そのおんなじ夢ってのを見る原因は分かるのか」
同じ夢を見る原因。
キヌにはその原因がなんとなくだが分かっていた。でもそれを答えるのは戸惑われる。言ってしまったらムロエに余計な心労をかけると思った。
「わからないわ」
だからキヌはそう答えた。
「誰かに聞いてほしかっただけなの。ごめんね」
キヌがそう言うと、ムロエはしばらく押し黙ったまま、一言。
「そうか」
とだけ答えた。その日一日はムロエはあまりしゃべることなく、機嫌が悪かったようにキヌには思えた。
――夢は心を写す鏡。
そんな言葉がある。
その夢がキヌの心をあるがままに映し出していたのだとすれば、それは――。
季節は巡る。
キヌとムロエ。村に住む人間の少女と、御山に住む幽霊の少女の奇妙な友人関係は、お互いの絆を深め合いながら続いていた。
それはとある秋の日のこと。
二人は山菜摘みに懐の深い森の奥にまでやって来ていた。燃えるような紅葉の景色を眺めながらムロエはまだ真新しい落ち葉を踏みしめて歩いている。背には籠を背負い、きのこなどの山菜を見つけては収穫していく。
ムロエは変な唄を高らかに歌っていた。熊よけのためらしいが、こう言ってはなんだが歌自体はあまりうまくない。ただ力いっぱいで楽しんで歌っているのが伝わってくるため、不思議と元気が湧き出てくるような音調だった。とはいえ流石に山道を歩きつつ歌い続けるのは流石に息切れを起こしてしまうため、そんなときは変わりにキヌが歌っている。二人で交互に唄を歌っている楽しげな姿はまるで姉妹のように見えた。
その時だ。ぽつりぽつりと木々の梢の間に雨音が聞こえた。
「あ、こりゃあかん」
ムロエはそう言うと慌てて雨宿りできるところを探した。
そうしている間にもだんだんと雨脚は激しさを増していく。
「ムロエちゃん、こっち!」
キヌに先導されるまま、ムロエは駆け出す。この山はキヌにとって庭のようなものだ。山のことについてはキヌに任せておけば間違いない。
「ひゃー!」
叩きつけるような激しい雨は夏の日の夕立を思わせた。
キヌに誘われたのは、岩壁にある小さな洞窟だった。小さいといっても元々小柄なムロエが身をかがめば入れるほどの広さはある。
秋の冷たい雨にさらされたムロエの体は凍えていた。
「へっくちっ……う~、冷えるだなぁ」
ムロエは身を竦めた。濡れた服と冷えた外気がムロエの体温を徐々に奪っていく。
「ちょっと待ってて!」
そう言って洞窟から飛び出していったキヌは、それほど時間を置かず戻ってきた。手には焚き火をするための抱えるほどの枯れ枝と落ち葉。奥深い森であるため折り重なる木々の梢や潅木が傘となって濡れなかったらしい枯れ枝を三角錐の形に組む。ムロエが携帯していた火打石を叩き、落ち葉に火種を落とす。火が点くか心配だったが、洞窟の暗がりの中に蛍火のような小さな灯火が落ち葉を焦がした。すかさず息を吹きかけると、火種は少しずつ広がり枯れ枝を燃やした。
「あったかぁ~、ありがとなおキヌちゃん」
ムロエは焚き火に手をかざす。靴を脱ぎ素足も温める。冷えていた手足からジン、と熱が広がっていく感触がくすぐったい。
二人の間に沈黙が落ちる。
お互いの信頼関係があるからこそ沈黙は決して不快なものではなく、静かに寄り添っていられる安心感が二人の間に流れていた。
何を話そうか。
キヌは話してみたいことがたくさんあってちょっと迷ってしまう。
こうしてお互いに肩を寄せ合って過ごす時間も心地良いものだが、せっかく顔を突き合わせているのだからおしゃべりもしたい。キヌ自身会話に飢えているというのもあるが、心許せる友人との会話はどんな瑣末事でも心が弾む不思議な魔法がかかっていることを最近知った。ムロエが話してくれる話題はキヌにとっては懐かしくて新鮮だった。農耕の話などは自分が生きているときのことを思い出すし、都のほうでは海の向こうから渡来してきた文明によって大きな変化が起きているという話を聞いたときは、キヌは文字通り世界が広がったような感動に心がわくわくと弾んだ。
キヌは自分自身が話題に乏しいことを自覚している。山に縛られ小さな世界しか知らないため、しょうがないといえばしょうがない。しかしムロエはどんな小さな出来事を話しても大げさなまでに反応を返してくれたため、キヌも話題が澱みなく口をついて出てきた。
以前自分と話していて退屈じゃないか、と訊ねたことがあった。
するとムロエはこう答えた。
――おキヌちゃんの話は周りにある宝物に気づかせてくれる。
どういう意味だろうと思い、訊ねてみるとムロエは照れくさそうに笑って話してくれた。
キヌの話題は四季の移り変わりによる山の様子を克明に語り聞かせるものだ。それは普段自分たちが見ている自然の景色がいかに上っ面だけなのかということを教えられる。新芽の息吹や自然の中で生きる動物や昆虫たちの姿。キヌの目から通して見える世界は暖かさに満ちている。幼い頃に感じていた自然への畏敬の念を呼び起こす内容だ。キヌの話を聞いた後、ちょっと外を散歩してみようかという気持ちになる。
そんなふうにムロエは話してくれた。
キヌはそれがうれしくてたまらなかった。自分が過ごしてきた二百余年の月日は決して無駄なものではなかった。笑顔のムロエを見たらそう思えた。
――そうだ、ひまわり畑の話をしよう。
御呂地岳にはひまわりが群生する一角がある。夏も終わり、つい先日まで咲き誇っていたひまわりの花もすっかり散ってしまっていた。ぎっしりと詰まった種の重さに茎がたわみ頭を下げている姿は、ひまわりたちがいっせいにお辞儀しているように見えた。こちらこそきれいな花を楽しませてもらいました、とついついお辞儀を返してしまったキヌだった。種は零れ落ち、ひまわりの子供たちはきっと来年きれいな花を咲かせてくれることだろう。
パチパチと炎に枝が弾ける音が雨音に入り混じる中、不意にムロエが口を開いた。
「あのな」
ムロエは膝を抱えて座り、焚き火を見つめたまま、ぽつりと言葉をこぼした。
「オラのおっとうとおっかあが死んだ」
「………………え?」
その言葉の意味を理解したキヌは言葉を失った。
「流行り病でな。最近は結構良くなってたんだけれども、つい先日ぽっくり逝っちまっただ」
淡々と話すムロエ。炎を映すムロエの瞳があまりに真剣で、それが冗談ではないことを物語っていた。
あまりに突然のことに、キヌはかける言葉が見つからなかった。ムロエの様子はあまりに普段と変わらないように見えた。
「あ、あの……っ」
「あははっ、なんでおキヌちゃんがそんなに困ったような顔するだ?」
ムロエはいつも通りの快活な笑いを浮かべた。
「おキヌちゃんが気にすることでねえぞ」
「でも……っ」
「ウチ、家族仲があんまりよくなくってなぁ」
キヌの言葉を遮るようにムロエは話を始める。ムロエが自分の家族について話すのは初めてだった。キヌが訊ねてものらりくらりとかわされていた話題だった。
ムロエにとって家族というのは誰よりも近くて遠い存在だった。
家族仲が悪いというが、口喧嘩でお互いに罵り合うような仲の悪さではない。まだそちらのほうがマシだったかもしれない。
幼い頃からムロエは自分の考えや感情を家族に見せるのが苦手だった。切欠はぼんやりと覚えている。四、五歳くらいのとき、夜半に寝入っていたムロエがふと目を覚ますと両親が自分の悪口を影で言っているのを聞いてしまった。他人から見ればそんなことかと思えるような些細な出来事だ。自分でも両親たちが言っていた悪口の内容は覚えていない。それなのにそれで幼心をひどく傷つけられた。それからずっと両親に対してどこかよそよそしさを感じていた。無条件で甘えられる相手だった両親が急にどこか遠い存在に感じてしまった。それからムロエはこの齢に至るまで両親に対して隔たりを持っていた。無防備な心をさらして、また傷つけられるのを恐れていたのかもしれない。
その反動のように両親以外の周囲の人たちに対しては鬱憤を晴らすように攻撃的に接するようになっていた。男勝りの粗暴な性格は外に対してだけのものだけで、両親に対しては正面からぶつかることをしなかった。最後まで両親とは本当の意味で心を交し合えることはなかったように思えた。
「あはは、だからかな、おっとうとおっかあが死んでもあんまり悲しくなかっただ。親不孝モンだべ」
ムロエは自虐的に笑った。自分で自分の気持ちが分からない。悲しまなければいけないのに悲しめない。発散するべき方向を見失った鬱屈とした想いが心の底で沈殿していた。
「ムロエちゃん」
キヌはムロエの隣に座り、その手を握った。
「……後悔、してる?」
「…………うん」
自分でも驚くほど素直に俯いたムロエ。
「何に対して?」
「え?」
予想外のキヌの問いかけにムロエは顔を上げた。キヌは真剣な顔で自分を見ていた。
果たして自分は何に後悔しているんだろうか。おぼろげに感じていた後悔。その明確な形はなんなのだろうか。問われて初めて、自分が何に後悔しているのか、ハッキリと理解していないことに気づいた。
「ご両親に自分の本当の気持ちを伝えられなかったことに対して?」
そうだけど、違う。それは根幹ではない。
「ご両親こそが後悔しながら亡くなったんじゃないかと思うから?」
「あ」
その答えは胸にストンと落ちた。
両親は気づいていたはずだ。娘であるムロエが親である自分達に心を開いていなかったことを。今までムロエは自分にしか目が向いていなかったが、両親はどういう気持ちだったのだろうか。自分達に対しては心を開かない娘。そしてその原因に思い至っていたのなら……。
両親達こそがずっと後悔して生きてきたのではなかろうか。そして最後まで分かり合えないまま死別してしまった。
――両親の気持ち、それらは全部想像でしかない。
だけど、もしその想像が当たっていたとしたら。
ムロエの顔がくしゃっと歪んだ。自分の泣き顔を見せまいと膝に顔をうずめたムロエを、キヌは腕を回して抱きしめた。
「きっと、ご両親にもムロエちゃんの気持ちは伝わってる」
「…………そうだと、いいなぁ」
ムロエはその日、両親が亡くなってからはじめての涙を流した。
実際に両親がムロエの気持ちを察してくれていたのかは分からない。今となっては確かめる術はない。それでも、キヌの言葉は今まで誰にも知られることなかったムロエの心の傷を優しく包んで癒してくれた。
良い事も悪い事も等しく飲み込んで時間は流れていく。
二人はたくさんのことを語らい、共に遊び、たまには喧嘩し、仲直りして、一緒に笑いあった。
信仰を重ねながら二人は時間が許す限り一緒に過ごしていた。
しかし、それも終わりがくる。
その日のムロエはいつに無く――というと失礼かも知れないが、真剣な表情だった。
季節は冬に差し掛かっており、禿げた枝木が寒風に晒されていた。山の天気は変わりやすく、午前中までは快晴であったのに日が落ちる頃になるといつの間にやら灰色の雲が空を覆っていた。これは雨が降りそうだ、とキヌは思った。時節を考えるとそろそろ初雪が降るかもしれない。
曇天ということもあり、水に墨を混ぜ合わせたように周囲は薄暗くなっている。
厚い雲に覆われているため太陽は見えないが、そろそろ日が落ちる頃だろう。こんな時間に待ち合わせとは珍しい。
待ち合わせ場所であるいつもの丘にやって来たムロエは表情に暗い影を落としていた。彼女のこんな表情は始めてみる。
「……あのな、おキヌちゃん」
先ほどからずっと押し黙ったままだったムロエが口を開いた。
「オラ、結婚することになった」
「――へ、結婚!?」
突然の告白にキヌは言葉を失った。
「け、けけけ結婚って、あの!?」
吃りすぎである。
あまりに予想通りの反応にムロエはプッ、と噴出した。
「くっくっく……、アノってそれ以外に結婚ってねえべ」
「そそそそそ、それは! そうだけど!」
キヌが落ち着くのを待ってから、ムロエはぽつぽつと事情を話し始めた。
「いわゆる許婚ってやつだ」
許婚。
親同士が決めた結婚相手。
ムロエに許婚がいたということははじめて聞いたが、聞けばムロエ自身もついこの間初めて聞いた話らしい。相手方、つまりムロエの夫になる人物の両親から伝えられたという。両親が亡くなり一人になったムロエのことを心配して元々の結婚の予定を早めたらしい。ムロエにとってそれがありがたいことなのかどうかはともかくとして。ムロエと相手の男性は所謂幼馴染らしく、村でも孤立ぎみだったムロエの世話を幼い頃より焼いてくれていたのだという。
「あいつも気の毒だんべ、こんな男勝りを嫁にもらおうってんだから」
「ううん、ムロエちゃんならきっといいお嫁さんになると思う」
キヌの本心だ。
たしかにムロエは勝気な言動でそれを倦厭する人間はいるだろうが、少し傍にいれば彼女の心根にある太陽のような力強さを兼ね備えた優しさに気づくだろう。相手の男の人のことは知らないけれど、話を聞くに良い人らしい。
「……うん」
キヌは一つ大きくうなづいた。
「あ、でもな、結婚するとはいってもおキヌちゃんとは今までどおり一緒に」
ムロエの言葉を遮って。
――自分も、決心をつけねばならない。
「ねえムロエちゃん、私とは」
――もう会わないほうがいいと思う。
新しい道を踏み出そうとしているムロエにとって、時間が止まってしまっている自分との関係はきっといつか枷になる。
キヌは気づいていた。ムロエがいつしか自分に依存してきていたことに。
キヌ自身の責任もあるだろう。ムロエの内面に踏み込みすぎていたことに気づいたときにはすでにどうしようもならない状況になっていた。
いつか終わりがくることなど分かっていたはずなのに。
少しでも早く離れるのがムロエと自分のためだった。だけど、欲張ってしまった。ムロエといる時間は楽しかった。孤独で寂しかった暗闇の中に差し込んできた陽だまりの暖かさを手放したくなかった。
もう少し。
あと少しだけ。
そんなふうに先延ばしにしてしまった。
キヌはムロエに幸せになってほしかった。
それがムロエの意思を無視したどんなに一人よがりで最低な考えでも……。
――いつか来ると思っていた終わりはその日唐突に訪れた。
「おキヌちゃんはかわらななぁ」
ムロエは懐かしい友人との再会に目を細めて笑った。
「オラなんて、ほれ、こんなにしわくちゃのオババになっちまっただ」
「ムロエちゃんも………変わらないわ」
それだけ言うのが精一杯だった。
姿形がどんなに変わってもムロエはムロエだ。
気まずくて、申し訳なくて、うれしくて、ない交ぜになった想いがぐるぐると頭の中で回って、それ以外に何を言ったらいいのか分からなかった。
言いたいことはたくさんあるのに、それが一つも出てこない。
ムロエは黙ったまま何も言わない。
にこにこと笑みを湛えながら、キヌの言葉を待ってくれている。
やっとのことでキヌは口を開いた。
「ごめん、なさい……っ」
「なにがだ?」
穏やかな声色でムロエは問い返してきた。まるで子供を諭す母親のような優しい口調だ。
「私、あなたにひどいこと言った」
それは違う、とムロエは首をふった。
「分かってる。全部分かってるだ」
ムロエはキヌに近づいた。キヌの手を取る。
「ありがとうな」
「……うん」
「よ」
「横島さん……」
ムロエが去った後、入れ替わるように横島忠夫がやってきた。片手を上げ。さくさくと地面を踏みしめながらキヌの傍らに立つ。
森の奥に消えていくムロエの後姿を視界に捕らえた忠夫は首をかしげながらキヌに向き直った。
「誰か来てたのかい」
「友達が、来ていました」
「友達?」
キヌはこくりと頷いた。
そのときのキヌの顔は泣き笑いとでもいうのだろうか。潤んだ瞳には涙が溜まっていた。そんなキヌの顔を見ていたら、あまり無粋な詮索はしてはいけないように思えた。
「それで、考えてくれた?」
忠夫はキヌに先日の返答を聞きに来ていた。
――成仏したいか。
今まで山に縛られていたキヌは成仏したくともできないでいた。しかし今は違う。不幸中の幸いというか、荒脛御呂地神に今までキヌを縛っていた地縛の力は移り今はすでに自由の身になっている。今なら成仏できる。しかし忠夫はそんなキヌにもう一つの道を提示していた。
「私は……」
まだ少し迷いがあった。
「それって横島さんたちに……その、迷惑じゃないですか?」
忠夫は目をぱちくりとさせた。
迷惑?
だったら最初からこんな提案などしない。
ほーほー、そんなこと言っちゃいますか。
若干の怒りを滲ませながら忠夫はキヌの手を掴んだ。
「よ、横島さん」
「おキヌちゃんがそんなこと言うなら俺にも考えがあるぜ」
もし、とか、よかったら、なんて選択の余地は与えない。
「俺と一緒に来いよ」
状況と言葉の噛み合いはほとんどプロポーズなのだが、当人に自覚はない。ほぼその場の勢いで深い考えなどないのだ。
「へ……、ええ!?」
キヌは顔を朱に染め、口をパクパクと開閉させた。
「もったいないだろ。まだまだこの世界にはたくさんの楽しいことがあふれているってのに、ここで終わらしちまうなんて」
ニカ、といつもどおりのイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「知らないってんなら見せてやる。もう満足ってんならそのときは俺が責任もって成仏させる」
だから、と忠夫は続ける。
「たくさんの宝物、一緒に探しに行こうぜ」
キヌはぽけっと忠夫の顔を見つめ、その言葉を何度も頭の中で反復させた。結論はもう出た。
どうやら彼女を縛り付けていた悪夢は終わったようだ。
その役目を果たしてくれたらしい少年には感謝の気持ちしかない。
大胆にもキヌが目の前の少年に抱きついた光景を見ながらムロエは背中を向けて歩き出した。キヌは笑っていた。きらきらと輝くような笑顔で。
「………よかった」
――人々が笑顔になる街づくり。
ずっと昔に自分がかかげた言葉。
一番笑っていてほしかった大切な友達は今、暗闇を抜けて日の光の下で笑っている。
キヌと一緒に野山を駆け回っていた日々が思い出される。一緒に御手玉ををした、蜂蜜を採りに行った、時間を忘れるほどおしゃべりをした。遠く霞むセピア色の思い出は今もムロエの胸の中で燦然と輝く大切な宝物だ。
あれから何十年もの月日が流れた。
変革する時代の波に翻弄されたくさんの苦しいことや悲しいことがあった。家族を失い、いつのまにか背負っていた荷物は増えていき、その重さに押しつぶされそうになったときもあった。でも一緒に支えてくれる人たちがいて、見守ってくれていた大切な友人がいた。
人生に悔いが無いと言えば嘘になる。
それでも、たどり着いて、振り返ってみれば自分の歩んできた道は獣道のように不恰好だけど、しっかりと自分の足で歩いてきた誇るべきものだ。
一生懸命、力いっぱいに生きた。
ムロエは御呂地岳から街を見下ろした。
山間の中にあるにぎやかな街が広がっている。
「うん」
ムロエはこけしの顔をそっと撫でた。
「がんばった」
こけしも優しく笑い返してくれた気がした。
……ぽつり、ぽつりと、灯篭の明かりが見えた。
夜陰の辺。どちらが上か下かも分からない漆黒の暗闇の中にいる。空には月も星もない。物音一つしない深海の底のような静謐な世界。混じるもののない澄みきった空気には、がらんどうの寒々しさしか感じない、
ここが何処で、自分が誰だったかも思い出せず。
どこに進めばいいのかも分からず、どこに戻ればいいのかも分からない。
視界は一面の黒、黒、黒。
まるで墨をぶちまけたような真っ黒な世界。
歩いても、歩いても。
どこまでも続く、いつまでも終わらない、闇の中。
焦りと恐怖に急き立てられ、歩幅は少しずつ大きくなり、歩調はだんだん速くなる。
暗闇に覆われた世界に、狂いそうになるほどの恐怖に心を蝕まれ、やがて走り出さずにはいられなくなる。
走って、走って、走って。
それでも暗闇からは抜け出せない。
ふいに……光が見えた。
視線のはるか先に、豆粒ほどの小さな光だ。
しかし、闇の中で見えたただ一つの光に、叫びだしたいほどの歓喜に身を震わせ、そこに向かって走り出す。
暗闇の中にぽっかりと浮かぶ灯火は、石灯籠の明かりだった。
ぽつり、ぽつりと、小さな明かりが、一つ二つと増えていく。それらは夜道を照らす街灯の明かりのように、道なりに並んで遥か彼方まで続いている。
延々と続く石灯籠の道。
わざわざ次の光を目指さなくとも、今いる暖かな光の中に留まっていることもできた。けれどもそうすることはせず、次の光を目指して歩き始める。
平坦だった道は、やがて上り坂になり、そして階段になった。石造りの急な階段はまるで神社へと続くような階段を思わせる。
石灯籠小さな光が数珠繋ぎに照らし出す階段を、いつまでも歩き続ける。
いつまでも、いつまでも歩き続けて。
どこまでも、どこまでも歩き続ける。
出口の無い暗闇の中で。
彼女達はやっと、優しい日の光の下にたどり着いた。