【思春期奮闘録】
河川敷の橋の袂にぽつんと置き去りにされたダンボール箱があった。中をご覧くださいといわんばかりに口が開かれたダンボールを覗き込んでみると、そこには自分を見返してくる円らな黒い瞳があった。
心臓がどきりと跳ねた。
あまりの愛らしさについつい抱きかかえようと手が伸びてしまう。
しかし待て。
理性が衝動を押し止める。
抱きかかえたら、もう離せなくなってしまうかもしれない。拾って、それからどうするつもりだと自問する。
……駄目だ。同居人が知ったら、捨ててきなさいと無慈悲な宣告を告げることだろう。
踵を返してその場から立ち去ろうとする。しかしそんな自分を相も変わらず見つめ続ける熱い視線を感じる。
――そんな目で見るのは止めてくれ。
視線を振り切り、歩き出した。
一歩、二歩と歩を進める。髪をひかれる想いで振り返りそうになるが、そこはグッと堪える。普段より重く感じる足を前へと突き動かす。地面を踏みしめる足取りも自然と力強いものになってしまう。
しばらく歩いていると、ぽつりぽつりとアスファルトに一つ二つと黒い染みが落ちた。
空にかかっていた灰色の曇天から落ちてきた小さな水滴は、瞬く間に数を増し、やがて地面全てを黒く染め上げてしまう。それでも足りないとばかりに水滴は叩きつけるような豪雨となった。
突然の夕立である。
こんな雨に晒されてしまったら、あの子は……っ。
居ても立ってもいられず川原に置かれたダンボール箱へ向かって走り出した。
遊歩道を走り、橋の袂に戻ってくる。土手を滑り降りると、雨の緞帳に陰る河川敷の景色の中で雨晒しになっているダンボール箱が見えた。
駆け寄って中を覗き込む。
――ああ、こんなに濡れてしまって……っ。
ダンボールに覆い被さるようにして自分の体を傘代りにする。これで少なくともこれ以上濡れることはない。
ダンボールの主は、そんな身を呈した献身をじっと見上げていた。心なしか瞳が潤んでいるように見える。
それからわずかな間も待たずに雨は上がった。夏の日の通り雨は気紛れである。雲の合間から差し込んできた陽光に、濡れた草花がきらきらと輝きだす。
少年はダンボールの中に手を入れ、それをそっと持ち上げた。。
――大丈夫だ、もう放っておいたりなんかしない。さあ、一緒に行こう。
それは円らな黒い瞳の。
……半裸の美女が表紙の本である。
成人向け雑誌。わいせつ本。アダルト本。わい本。猥褻図書。
それを形容する単語はいくつもあるが、所憚らず、もっとも大衆的ながら少々低俗な呼称を用いるとすると、それは所謂……エロ本だ。
横島忠夫、一五歳。思春期真っ盛りの中学生である。
【思春期奮闘録】
八月に入り、極彩色の暑さもよりいっそう強烈なものとなっていた。
アスファルトから照り返される夏の熱気が、電柱やガードレールを陽炎の中でゆらめかせており、どこへ行っても何をしてても聞こえてくる蝉の大合唱が今季最高潮をむかえていた。暑さ寒さも彼岸まで、ということわざがあるが、ただ耐え忍ぶには少々この暑さは堪える。
横島忠夫は駄菓子屋のベンチに座って手足をだらしなく弛緩させていた。ベンチの影には二匹の野良猫が忠夫と同じように茹だるような暑さにやられて力なく寝そべっていた。
「あっつ……」
その日の忠夫はデニムブッシュのハーフパンツにTシャツ一枚とラフな服装だった。被っている帽子は某メジャー球団のものだが、忠夫は別段その球団のファンというわけではない。家にあった帽子を日射病対策で適当にかぶってきたのだった。普段はやんちゃっぽい印象を受けるややつりあがった瞳も今は暑さに顔をしかめているため藪睨みである。
するとそこへ。
「えい」
そんなかわいらしい掛け声と共に忠夫の首筋にキンキンに冷えたラムネのビンが当てられた。
「おぉうっ」
驚いて飛び上がり、ベンチから腰が少しだけ浮き上がった。
「はい、お待たせしました」
振り向くとそこにいたのは忠夫と同じくらいの年齢の少女だ。ただありえなことに体が宙に浮かんでおり、これまた奇妙なことに街中だというのに普段着のように巫女装束に身を包んでいる。
彼女は幽霊だ。名前はキヌ。つい数週間ほど前まで御呂地岳という土地に括られていた地縛霊だったが、今は解放され忠夫と共に東京までやって来ていた。幽霊というと多くの場合、未練や怨みを糧としてこの世に留まるものだが、そうなるとそれ以外の感情が希薄になる。しかしキヌは生きている人間と変わらないほど喜怒哀楽の感情をはっきりと発露している。霊体であるにもかかわらず物に触れることもできるとおおよそ幽霊らしくない。
ラムネを持ったままいたずらっぽく微笑んでいる姿を見ると殊更にそう思う。
「びっくりしたなぁ」
「えへへ、ごめんなさい」
「それで按配はどうだったい?」
忠夫はキヌが持った紙袋に目を向けた。
そこには今、駄菓子屋で買ってきた商品が入っている。
キヌは自分の戦果を自慢するように手にした紙袋を誇らしげに忠夫にかかげて見せた。
「はい、ばっちりです!」
「ほんとに?」
「ばっちり……だといいな」
急に自信なさげだった。
キヌは今、一人で買い物が出来るかに挑戦していた。
彼女が忠夫たちと共にこの街にやってきて二週間。今、彼女は字の読み書きをがんばって練習している。キヌが生きていた三百年前と違い、現在の識字率は高く、ほとんどの人が地の読み書きが出来る。一度街に出てみれば道路標識の注意書きや店の看板など、日常生活を送る上で字が読めなければ不都合がある場面がいくつもある。
忠夫などは勉強と聞いただけで吐き気や眩暈などの何らかなの体調不良を訴えるのだが、キヌはむしろ楽しんでいた。見るもの聞くものが全て新鮮で、知ることそのものがうれしくてしょうがないといったように、次々に新しいものに興味を持って接していた。忠夫が昔見た映画で現代にタイムスリップしてきた武士が、車に轢かれそうになって奇怪な鉄馬だと刀で斬りかかり、つまみをひねっただけで火が出るガスコンロを見て腰を抜かしたり、と生活水準のあまりの進化ぶりに飛び上がるほど驚くといった場面があったが、キヌの反応も往々にして似たり寄ったりだった。特にテレビを初めて見たときの興奮ぶりはすさまじかった。
小さな箱の中に小人が住んでいると驚くキヌに、テレビの概念や構造を正確に伝えるには忠夫には知識が足りなかった。普段何気なく使っている機械でも知らないことだらけである。
忠夫が一緒にテレビを見ていると、あれはなんだこれはなんだ、と矢継ぎ早に繰り出される質問に答えていくのだが、テレビの内容うんぬんよりもそれを見てころころ変わるキヌの表情を見ることを楽しんでいた。
彼女にとって最高の教科書は本である。最近までは子供が読むような絵本を好んで読んでいた。ひらがなが多くて読みやすいということもあるのだが、シンデレラや白雪姫、グリム童話など海を越えて伝えられた物語は、キヌにとってはじめて聞くものばかりで、感動も一入だった。同じ本をきらきらとした目で何度も読み返し、本を閉じて物語りの世界に想いを馳せるように悩ましげにため息をついているキヌを見ると、忠夫としてはついつい世話を焼きたくなってしまう。友人の家を巡り、いらなくなった絵本や児童文学書を貰ってきてキヌにプレゼントしたりもした。大好きなお菓子を目の前にした童女のようにぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでくれた姿を見たときは、こちらの気持ちまでほっこりとしたものだ。
キヌは元々頭も良く飲み込みも早かった。ひらがなやカタカナといった基本的な文字の読み書きを二週間足らずでマスターして、今は小学校低学年くらいで学ぶ漢字もだんだんと読めるようになっていた。
そして、今日。
貨幣価値などを勉強する意味もあって、彼女一人でメモに書いた指定の物を買ってきてもらった。
駄菓子屋を選んだのは店自体は小さいながらも商品の種類は豊富であり、元々が子供向けの商品なのでパッケージに書かれた商品名もひらがなが多様されているという読みやすさからだった。
二人は公園のベンチに移動して紙袋の中身を広げた。
忠夫はキヌに渡していたメモ帳を片手に、そこに書いてあるものと買ってあるものが合っているか一つ一つ確かめていく。答え合わせだ。
時刻は正午を過ぎており、太陽の位置は中天から少し傾いている。大気が地面から照り返る熱によって温められ、今が一番暑い時刻だ。
公園には大きな噴水が水しぶきを上げており、この辺りだけ少し涼しい気がした。
噴水の前で小学生くらいの子供達が遊んでいた。男子と女子が三人ずつ、バスケットボールくらいの大きさのゴムボールをキャッチボールよろしく投げ合っていた。
「……どうですか?」
恐る恐るキヌがたずねた。
別に試験ではないのでそこまで肩肘張る必要はないのだが、結果はやはり気になるらしい。紙袋の中から細々とした駄菓子がたくさん出てくる。全部で三十点くらいはあるが、これで五百円以内なのだから子供の財布に優しい。忠夫も小学生の頃、遠足で金額内でおやつを持って行く時は小銭を握り締めて駄菓子屋に走っていったものだと、懐かしい思い出がよみがえってくる。うまい棒を三十本くらい買っていったら、リュックの中で押しつぶされて全部こなごなに砕けていたなんていうこともあった。
あの時は泣いたなぁ、などと取り留めの無いことを思い出しつつ、メモと駄菓子を照らし合わせていく。
結果は。
「全部正解だな」
「ほ、よかったぁ~」
胸を撫で下ろすキヌ。
「なんだい、そんなに緊張することないってのに」
「緊張しますよー。でもあんなにたくさんお菓子の種類があるなんて今はすごく良い時代なんですね」
「それってどういう意味?」
お菓子の種類が多いことが良い時代の証拠……。
娯楽が発達しているという意味だろうか。
「だって、お菓子って別に無くても生きていけるじゃないですか。それなのにアレだけの数を用意できるってことは、それだけ食べ物がたくさんあって、必要な食事以外の食べ物を帰るだけの余裕があるってことですよ」
それってすごく良い事ですよね、と言うキヌ。
なるほど、と忠夫は頷いた。たしかに飢餓や飢饉と言った言葉は、物に溢れた現代日本ではどこか現実感の無いものだ。飽食の時代、忠夫にとってはそれがあたりまえのように過ごしているが、今は戦乱や飢饉に苛まれていた果てに、たどり着いた裕福な時代である。幽霊として長い間人々の生活を見つめてきたキヌの目にはそれが顕著に写るらしい。
そのとき、ぽーんぽーん、と忠夫の足元にゴムボールが跳ねてきた。
「すいませーん、とってくださーい」
噴水の前で遊んでいた子供達だ。
ボールを投げていたコントロールが狂ってこちらまで飛んできたらしい。
「お、ちょうどいいな」
忠夫はボールを拾い上げると、子供たちに向かって声を張り上げた。
「おーい、おまえらちょっとこっち来いよー!」
怒られるのかと思ったのか、子供達はびくりと身を震わせえた。
リーダー格らしき体格の大きな男の子が飛び出してきた。ざんぎり頭がやんちゃな印象の少年だった。
「なんだよ、早くボールかえしてくれよ!」
かなり強気の語気だった。相手は年上にも関わらず結構な豪気だ。他の子供達を庇うように敢然と一歩前に出てきている。
――なかなか見所あるじゃねえか。
「早とちりすんな、菓子やるってんだよ」
そう付け足すと、子供達は我先にと忠夫の元に駆け寄ってくる。先頭を切るのは先ほど忠夫に食って掛かってきた男の子だ。
現金なものだと思いつつ、よくよく考えると自分がこいつらの時分はもっと意地汚かったような気がする。畑に生っていたトマトやりんごを勝手に取って食うのだ。畑に落ちていたというのが当時の忠夫の主張である。竹製のストローを自作して、スイカに突き刺して中の甘い果汁だけを吸うという蚊のような食い方もした。見た目では分かりずらいため、食ったのがバレ難い。
――どう考えても俺のほうが万倍タチ悪いな。
当時の出来事を思い出して頬に汗を伝わらせつつ、子供達に向かって紙袋の中身を差し出した。
「ほら、喧嘩せずに仲良く分け合えよ」
わー、とうれしそうに顔を輝かせながら紙袋の中身を覗き込む子供達。
「それから、そのお菓子はこのお姉ちゃんが買ってきたものだ。さて、この場合どうすればいいか……分かるか?」
忠夫はキヌを指差した。
キヌは集まった子供達の視線に「え、私?」と戸惑いぎみに声をあげた。
子供達は顔を見合わせ、それから。
『ありがとーございました』
一様にキヌに向かって頭を下げた。
キヌはそれに対して反射的に「どういたしまして」と答えた。
「なーなー、秘密基地で食おうぜ」
「さんせー」
「じゃあね、お姉ちゃんたち、菓子ありがとー」
「よしいくぞー!」
『おー!』
リーダー格らしい少年が掛け声をかけると、それに合わせて他の子供達も拳を空に突き上げた。
「って、おまえらボール忘れんなよ」
忠夫が投げ渡したゴムボールをキャッチするリーダ格の男の子。
「兄ちゃん!」
「あん?」
親指を立てた拳を突き上げた。
「サンキュー!」
「おーう」
忠夫も同じように拳を突き上げて返した。
子供達は公園の出入り口のアーチをくぐって走り去っていった。
「横島さん、良かったんですか? あのお菓子って横島さんのお小遣いで買ったものじゃ」
しかしそもそも幽霊であるキヌは食べられないし、忠夫自身も成長期とはいえあれだけの量の駄菓子を一度に食べきるのは胃もたれする。
「あーいうの買って帰るとタマモがうるさいんだ。『まったく、あんたは本当に無駄遣いが好きねぇ』って」
おどけたようにタマモの声真似をしてみせると、ちょっとツボに嵌ったのかクスクスと笑うキヌ。
――お、ウケた。
うれしくなって、そこで調子に乗る忠夫。
「あ」とキヌが忠夫の背後を見て驚いたような顔をしたのに気づかないまま。
「あいつはやたら俺の生活態度に口出してきてさ。『忠夫、学校の勉強はちゃんとやっているの? 今度のテストでまた0点とったらお小遣い半分カットするわよ』……おまえは俺の母親かってんだ」
「ほぅ」
ぞくりと忠夫の背中に悪寒が走った。
振り向くと、そこにいたのは。
案の定、タマモだ。
「た、タマモ……なんでおまえがここに?」
「買い物の帰りよ」
手に下げたスーパーのビニール袋をかかげて見せた。
「それより面白いこと言ってたわね。おまえは俺の母親か……ね。忠夫、今度のテスト、赤点が一つでもあったらお小遣い半分カットね」
「ハードルが上がってるだろ!?」
「これくらいクリアしなさいよ」
いつもどおりのやり取りだった。
妹に財布を握られている兄。情けなさがこみ上げてくる。
「あ、タマモちゃん。わたし買い物袋持つわ」
「いいわ、このくらいならそんなに重くないし」
つっけんどんに返した。
キヌが一緒に暮らし始めてから二週間ほどが経ったが、タマモはまだキヌに大して壁、というか隔たりを持っていた。元々人見知りする性格だったが、一つ屋根の下で暮らしているという身近な関係がややこしい方向に作用しているようだ。
「じゃ、先に帰っているわね」
そう言って公園から立ち去るタマモ。
「横島さん。すいません、私も先に帰りますね」
どうやらキヌはタマモを追いかけるつもりのようだ。
キヌは照れくさそうに笑った。
「私も、タマモちゃんともっと仲良くなりたいですから」
そう言って、キヌはタマモの横に並んだ。タマモから若干強引に買い物袋を掴みとり、そのまま帰路につく。
忠夫はここは自分が余計な手を出さず二人に任せようと思った。二人だけの時間も必要だ。少し散歩でもして帰ろうか。そう思い、忠夫も公園を後にした。
そして家への帰り道、夕立に見舞われ。
そして。
………抜き足、差し足。
足音を立てないように注意しながら石畳を踏みしめる。動きは素早く、無駄なく、気配を殺して。
不思議なものだと忠夫は思う。
目の前には十年来住み慣れた我が家がある。西洋文化が入り混じり進化を続ける東京の街並みの中で、そこだけ江戸時代からタイムスリップしてきたような立派な風格の武家屋敷だ。コの字型の邸宅の中庭には、紅白の模様が美しい鯉が力強く泳ぐ瓢箪池がある。春は連翹、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は椿と、屋敷の四季を彩るたくさんの庭木。プロの手により剪定された格調高い松の木。乱雑なように見えて美しく見えるように計算されて配置された重厚な庭石。それら全てが見事に調和しており、押し付けがましくない美しさという日本庭園の理念を体言しているようだった。
忠夫にとってその全てが幼い頃より見慣れた光景である。
思い出が染み付いた屋敷。
庭の飛び石の感覚は見ずとも足が覚えている。庭木の手入れなどいつの間にか覚えていてしまっていたし、雨漏りを直したりなどの家屋の簡単な補習や、家中のがたついた押入れのふすまを開けるコツは熟知している。
幼い頃より過ごした、心の底から安らげる我が家だ。
……しかし今はどうだ。
忠夫の頬に汗が流れる。暑さによるものとはまた違ったものだ。
彼は緊張していた。
住み慣れたはずの我が家が突然、気の抜けない戦場へと変貌してしまっていたことに驚愕を隠せない。
――こいつが家族にばれるわけにはいかない。
忠夫が上着の内に抱え込むようにして隠しているのは河川敷で拾った十八歳未満閲覧不可の表示が書かれた所謂エロ本が計五冊。
心臓がばくばくとビートを刻んでいる。
エロ本に興味持ったっていいじゃないか、男の子だもの。
忠夫は頭の中でそんなことを考えているが、その反面、この事が家族――特に妹に露顕した時のことを考えると肝が冷える想いだ。不潔と罵られるのならまだいい。いや、別になじられて喜ぶ趣味は持っていない。しかし妹は精神年齢が同年代より遥かに高い。思春期の男はこういったことに興味があるものだと理解しているだろう。万が一、エロ本を発見された時、罵られるよりも慈愛に満ちた瞳で肩を優しく叩かれる等々の理解を示すような行動をされた場合、最悪、思春期の心の繊細な部分がガラスのように砕け散る気がする。
忠夫はふぅー、ふぅー、と興奮した獣のような吐息をもらしていた。油断無く周囲を意識を張り巡らしながら玄関に向かって進撃する。
こんなときはこの無駄に広い庭が憎々しく思えた。
がさ、と庭の低木が揺れた。
忠夫は弾かれたようにその場から飛びのき、松の木の陰に隠れる。木の陰から音のした方向をそっとのぞき見ると、そこから一匹のカラスが飛び出してきた。ほっと一息つく。
どこに目があるか分からないという虚構じみた緊張が、彼の精神をすり減らしていた。
頬を伝う汗を拭う。
――さあ、ココからが本番だ。
忠夫は家の玄関の前へとたどり着いた。
裏口から侵入するという案も思い浮かんだが、それは悪手だ。腕時計の針は午後三時を指してる。今の時間、もしかしたら妹が夕飯の下拵えをしている可能性がある。窓などの出入り口以外からの侵入、それもノーだ。この家のセキリティーは洒落にならないくらい高い。この家の主人は霊能の世界に名を轟かす剛の者だ。警備会社との契約や防犯設備の充実はもちろんのこと、霊的な結界やら不審者に対して全自動で働く呪術などがわんさかとある。そのえげつなさを理解した上で不法侵入など、冗談がキツすぎて冗談の範疇を超えている。
家人に見つからないように、このエロ本たちを自分の部屋まで運ぶ……それが今回のミッションだ。
息を整える。
――さあ、行くか。
まるで死地に赴く兵士のような決意を滾らせ、引き戸の取っ手に手をかける。
と、その瞬間。
「横島さん」
「ふわっふぉっ!?」
突然かけられた声に反応して、悲鳴だか歓声だか分からない叫び声を上げてた。顔を上げると目の前にキヌの顔。玄関の戸は閉じられたままだ。幽霊であるキヌは物体の透過ができるため、上半身だけが戸から通り抜けていた。
ちなみに幽霊がこの家の外壁に触れるとそれだけで消滅しかねない。柱に霊的な力がこもった梵語を刻み込み、壁材は名のある陰陽師たちが霊力を練りこんで作られたものだ。もちろん幽霊である限りキヌとて触れれば相応の痛手を受けるのだが、今彼女が長い黒髪を結わえている布に括りつけられた鈴がこの家への出入り許可証のような役目を果たしていた。
「ひひゃっ!?」
忠夫の奇声に驚いて仰け反ったキヌは首から上が戸の向こうに通り抜けて隠れているという大変シュールな構図になっている。キヌは腹筋で上体を起こすように、元の位置に顔を戻す。
「ぷはぁっ、ど、どうしたんですか横島さん?」
「い、いいいいいいいイヤイヤイヤ、なんでもない問題ないんだ!」
動揺しすぎである。
「お、おおおおおおキヌちゃん。扉は開けるもんだ、通りぬけちゃあいけねえよ。みんながみんな扉を通り抜けたりしたら一生懸命扉さぁ作ってくだすった大工さんたちに申し訳がたたねえってもんだべさ」
自分でも何に対して注意をしているのか良く分かっていなかった。内容も然ることながら方言が入り混じってしっちゃかめっちゃかな言葉遣いになっている。
「は、はい。ごめんなさい」
それでも律儀に謝るおキヌちゃんは良くできた子だと思う。反面自分のやっていることの馬鹿馬鹿しさに無性に泣きたくなってきた。
「はぁはぁ………ていうか大丈夫、俺? 心臓とか口から飛び出してない?」
「え?」
「いや、なんでもない」
心臓が爆発するんじゃなかろうかというくらい跳ね回っている。不整脈か。多分、違う。
「それより横島さんずぶ濡れじゃないですか! さ、お風呂沸かしてあるから早く入ってください」
キヌのいうとおり忠夫は今頭のてっぺんから靴の中まで濡れていた。湿った髪の房からぽつぽつと水が滴り落ちている。パンツまでぐっしょりだが、腹に抱えたエロ本はしっかりと守っている辺りに執念を感じる。
「いや、風呂はまだいいかな」
まずはこのエロ本を部屋に隠さねばいけない。風呂はその後だ。
「駄目です。風邪引いちゃいますよ」
指を立てて、「メッ」と子供に説教する母親のようだ。
あれ、とキヌは目を丸くした。腹を抱えこむように背を丸めた忠夫の姿を見て、ぐいっと顔を近づけて覗き込んできた。「ひぃっ」と短く悲鳴を上げて仰け反る忠夫。
「横島さん、お腹どうしたんですか?」
「お腹ってなにっ!?」
1オクターブくらい上ずった声が、さも何か隠していますといわんばかりだ。
「いえ、お腹押さえちゃってどうしたんですか」
「ああ、なるほどなるほどそういうことかぁ! じつは今、腹がすっっっっっっっっっっげえ痛くってさ!」
「ええっ!?」
――しまった、“すげえ”の部分を強調しすぎた。どれだけ腹痛いんだ。
「そんなに痛いんですか!?」
「今のウソなんだ!」
切羽詰って言動が情緒不安定になっていた。
「じゃあどうしてお腹おさえているんですか!?」
「ええっ! なんでそんなにぐいぐいツッコんでくるの!?」
「だってお腹痛いんだったらお医者さんにちゃんと見てもらわないといけないです! 本当に大丈夫なんですか?」
「ホントホント! すっげえ大丈夫! すっげえ元気、超元気!」
ムン、とボディービルダーのように両腕で力瘤をつくるポーズで元気をアピールする。しかし果たしてそんな体勢になればどうなるかなどと分かりきっていることだろうに。
バサァ!
忠夫の服の裾から手の押さえ失った五冊のエロ本が滑り落ちてきて地面にぶちまかれた。ページが開かれ晒される。男と女が生まれたままの姿でくんずほぐれつ、アレだ、ニャンニャンしている。
「あ」
「え?」
なんだろうと思い、キヌがそれを覗き込もうとした。
――しまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!
キヌの純真無垢な瞳に、エロ本などという野卑な代物を晒すことは憚れた。後、自分の尊厳とか威厳のためにも。彼女の視線からどうにかしてエロ本を外さねばならない!
しかし具体的にどうやって、エロ本を隠せばいいのかとっさに思いつかなかった。
明後日の方向、具体的には廊下の奥の暗がりを指差して、こう叫んだ。
「ああっ、あんなところにマスケラつけて竹槍ひっさげた七色の暴れ馬がっ」
叫んだ瞬間、家の中にそんなわけのわからないものがいてたまるかと思った。
「ええっ、なんですかそれ!?」
律儀に振り向いてくれたキヌ。
……ささくれ立った心にその純粋さが痛い。
素早くエロ本を拾い上げて腰のベルトに差し込む。
「ゴメン、見間違えた!」
「……あ、そうなんですか」
ちょっと残念そうだった。
見たかったのか、暴れ馬。
「ちょっと一体何を玄関で騒いでるのよ」
――やっかいなヤツが来た。
廊下の奥から現れたのは、妹であるタマモ。
彼女はかなり侮れない。勘が良いし、嗅覚も優れている。なにより忠夫の行動パターンを把握している点で今現在忠夫がもっとも会いたくない手合いである。
「……た、たたたたたタマモ! よう元気だったか?」
「何を隠しているのか今すぐ吐きなさい」
――シット! いきなりかよ!
目を細めて探るような視線に射抜かれた忠夫は思わず半歩後退った。それがタマモの疑惑の目をさらに深めることになったようだ。
「へぇ」
へぇ、ってなんだ。なにがへぇなんだ。
怪しむような目線はよりいっそう濃さを増していた。
「べ、べつに何も隠してなんかいないさ。なにを言っているんだ、ちょっと意味が分からないんだが」
「…………」
無言の圧力に膝を屈しそうになる。心の内を全て見透かされそうな鋭い視線が、グラインダーのように精神をがりがりと削ってくる。
たしかに今までタマモに秘密で屋敷中に対師匠用のトラップ仕掛けたり、池にゼラチン入れてゼリー状にしたり、家の隅に廃材で掘っ立て小屋の秘密基地を作って電柱から電気引き込もうとしたら配線間違えてブレーカー焼き切った上にご近所一体停電させたり等々したが、なにもそこまで怪しむことないじゃないかと、過去の悪戯悪行を棚の上に放り投げて嘆く忠夫。
「な、なんだよその目は、お、俺はべつになーんにも隠してなんかにゃいぞ」
「……ま、いいわ」
興味を無くしたように背を向けるタマモ。
助かったと思う反面、何かを悟られたのではないかと思い、気がでない。誤魔化しきれてないことは確実だ。
「ほら、さっさとお風呂入ってきなさい。おキヌちゃんがせっかく沸かしてくれたんだから、さっさとその濡れた服洗濯機に放り込んで温まってきなさいよ」
そう言い残しタマモは廊下の奥へと消えていった。おそらく向かう先は台所だ。エプロンをつけていたので夕飯の下拵えをしているのだろう。
ほう、っと大きく息をつく忠夫。
「ぶえっくしょん!」
安心したら鼻がむずがゆくなって大きなくしゃみ。するとキヌが慌てたように忠夫の腕を掴んだ。
「ほら、やっぱり体冷えちゃってます。さあこっち来てくださいっ」
忠夫の腕を力強く引っ張っていくキヌ。どうやら無理やりにでも風呂場に連れて行こうとしているようだ。
「ちょ、ちょっとおキヌちゃん、ほら着替え持って来ないといけないからさっ」
「それなら私が後で持っていくから大丈夫です」
「いや、パンツとかもあるからさ!」
「それも持っていきますっ」
「えぇ~~~……」
洗濯などの家事はキヌにしてもらっている手前、今更パンツの一枚くらいで恥ずかしがることは無いのだが、それはそれである。
そして忠夫はエロ本を隠し持ったまま脱衣所へと連行された。
「……さて、どうしたもんかなぁ」
忠夫は脱衣所を見回した。
人二人が寝転がれる程度には広い脱衣所はまるで銭湯のような概観だ。くすんだ板張りの床、壁に備え付けられた箱型の収納棚には脱いだ衣服を入れるための籠が入っている。格子窓からわずかしか日の光が差し込まない室内を淡く照らす赤色灯のほのかな灯りは、まだ電球が無かった時代の夜を照らしていた蝋燭の灯りに似ていた。脱衣所の隅には台はかり型の体重計がひっそりとたたずんでいる。その首の部分には幼い頃の忠夫が貼ったとあるスナック菓子についていたおまけのシールが今も残っている。
「こいつを隠せるような場所は…………ねえな」
忠夫はエロ本を手に持ったまま、悩みあぐねていた。
エロ本自体の体積はそれほど大きなものではないので隠すことはそれほど難しくない。しかし今現在忠夫がいる脱衣所は狭く遮蔽物も無いので何かを隠すには不向きだ。収納棚に入っているバスタオルの間に隠そうかとも考えたが、ちょうど一枚もバスタオルが置いていない。それも着替えと一緒にキヌが持ってきてくれるということだが、むしろだからこそどこにエロ本を隠そうか悩んでいるのだ。自分が風呂に入っている間に、着替えを持ってきてくれたキヌに万が一にもエロ本を発見されないようにしなければならない。天井や、床下……いや、それも駄目だ。霊体であるため壁抜けができるキヌに発見される可能性が無きにしも非ず。
となると、やはり。
「これしかない、か」
やむを得ず忠夫が取った行動は、エロ本を持ったまま風呂場に入ることだった。
もちろんエロ本が濡れないようにするため細心の注意を払わねばならぬが致し方なし。湿気も多少は大目を見よう。
服を脱ぎ、風呂場へと入る忠夫
浴槽は贅沢な檜作りである。足を伸ばせるくらいには広く、今は浴槽に並々と湯が張っている。壁に備え付けのリモコンからボタン一つで湯が湧き出て適切な温度に保ってくれるのだから便利な話だ。
湯船にざぷんとつかると、足先から広がっていく痺れにも似た心地よさはなんともいえない。
「くぁぁぁぁぁっ」
非常にジジくさいが、声に出るものは出るのだから仕方ない。
顔半分を湯船に静め、息を吐き出すとぶくぶくと気泡が水面に弾ける。天井から滴る水滴を見つめながらこれからどうしたものかと考える。風呂蓋の上には川原で拾ってきたエロ本が置かれている。
――とりあえず風呂から出たらまっすぐ部屋に戻って、それからこいつを隠す場所を考えないとな。
贅肉の無い引き締まった忠夫の体には無数の傷がある。それは彼が霊能と体術の苛烈な修行と幾多の実戦の中で刻まれた、いわば勲章のようなものだ。中にはまだ水ぶくれのようになっている治って間もない傷があるが、それは数瞬間前の御呂地岳の戦いで刻まれたものだ。逆に最も古い傷は、その背中にある。右肩から左脇腹まで袈裟懸けに走る大きな傷。それは幼い頃の彼が霊能に目覚める切欠となった事件で負った傷であり、横島忠夫が今の横島忠夫になった契機となった始まりの思い出をその身に刻んだものである。
冷えた体に暖かい湯が染み込んでくるような心地よさが眠気を呼び起こしてくる。重くなって来るまぶた。湯の中に揺蕩いまどろんでいる。すると。
『横島さん。服持ってきましたよ』
「ああ、あんがとー」
扉の向こうの脱衣所から聞こえてくるキヌの声に答える忠夫。
浴室の外に出て、バスタオルで体を拭い、キヌが用意してくれたジャージを着る。
「よし……」
力強く頷く忠夫。
エロ本を掴みズボンの裾に仕舞う。これでシャツによって外からは見えない。
――行くか!
パン、と頬を力強く手の平で叩く。
まるで腹にダイナマイトを巻いて敵陣に突っ込む兵士のような覚悟を決めた面持ちで忠夫は脱衣所の扉を開けた。もっとも、腹に巻いているのがダイナマイトならぬ、エロ本だというのが情けないのだが。
脱衣所を出て廊下へと出る忠夫。
しんと静まり返った廊下に、遠くで聞こえる蝉の鳴き声がかえって閑寂をかきたてるように聞こえていた。元々あまり日光が差し込まない日本家屋の構造的なこともあり、廊下はまるで影深い森の奥を覗き込んだように薄暗い。壁が少ない日本家屋は戸を開け放てば風が吹き抜ける構造になっているため、涼風が血脈のように家中を駆け巡り、天然のクーラーの働きをしていた。
ひんやりとした空気に、肌があわ立つ。
先ほどまでの過度な緊張は忠夫には無い。わずかな緊張こそあれど、事に望むためのコンディションとしては悪くない。全てはエロ本を守るため。
――その集中力の一握りでも学業にまわせばいいものを……。
廊下を飄々としたふうを装った足取りで歩く。
忠夫の部屋は母屋の二階にある。緩い傾斜の折り返しの階段を上り、幸いなことに部屋に戻るまで誰とも会うことは無かった。
後ろ手で簾戸を締め、大きく息をつく。
吐き出した息と共に強張っていた肩から力が抜けた。
「にひ」
いやらしく笑った忠夫はいそいそと窓の前に置かれた文机へ向かう。座椅子に正座で座り、エロ本を文机の上に広げた。
「いよーし、よしよしよし」
指を揉み解し、肩をぐるぐると回す。
「おいっちにー、さーんしー」
おいっちにー、さーんしー、と。
ストレッチをして体をほぐす。気合は十分。
「うおっほん」
ぴんと背筋を伸ばし、まるで難解な学術書を読み解こうとする学者のような怜悧な面持ちでエロ本をめくろうとする。
視線は獲物を狙わんとする鷹のごとく鋭いが、鼻の下が伸びきっていた。
「ん……、んんっ?」
おかしい。
ページがめくれない。
雨と浴室の湿気に濡れたため、まるで雑誌の袋とじのようにページどうしがくっついているのだ。
「く、この……っ」
爪でくっついたページの端をつまみ、ゆっくりページをはがしていく。
「あ、くそ」
少し破れた。
破れないように、ゆっくり。
ゆっくり、と、はがしていく。
「………WOW」
なぜかアメリカナイズされた歓声をあげる忠夫。
くっついていたページを開くと、そこには妙齢の女性が言葉にするにはちょっとばかり憚られるような大胆なポーズをとっている。服は身につけていない。
「むふふ、なんかすげえワクワクしてきた」
高揚感に急かされるまま次のページをめくろうとする。
「さてさて、次のページに参りましょうか参りましょうよ」
――しかし待て。
このまま本が乾いたら、ページがくっついたまま固まってしまう。
「おっと、いけないいけない。俺としたことが目先のことにとらわれて大事なものを見失うところだったぜ」
急いては事を仕損じる、という諺もある。
やれやれと頭を振り、忠夫が立ち上がって向かった先は脱衣所だ。洗面台に置かれたドライヤーを取る。これで1ページずつ乾かしていけば、後々ページどうしがくっつく心配はない。ちょっとくらい皺が入るかもしれないがしょうがない。
ドライヤーを手でくるくると弄びながら、陽気な足取りで自分の部屋に戻ろうとする忠夫。
と、そこへ。
「ちょっと、忠夫」
「ひょっ!」
声をかけられたことに驚き、身をすくませる忠夫。
しまった、油断していた。
振り向くと、廊下の奥にタマモがいた。彼女がいるのは台所の入り口。鴨居から垂れ下がる珠暖簾の下から小さな背丈を覗かせている。
「な、なんだ、タマモ?」
「…………なんでアンタ、ドライヤー持ってるの」
「あ、ああコレな! まだ髪が乾いてなくてさ!」
「脱衣所で乾かせばいいじゃない。なんでわざわざ持ってくの?」
もっともな疑問だ!
「そういうお年頃なんだ」
――苦しい、苦しいぞ俺!
言い訳にすらなっていない。しかしタマモはこれ以上は追求してこなかった。「ま、いいけどね」とあっさりと引いた。
やっぱりエロ本を拾ってきたことバレてるんじゃなかろうか、という予感が忠夫の脳裏を過ぎる。考えすぎだとも思う。なにかを隠している、というところまでは察知しているだろうが、その“なにか”までは推し量れていないはずだ。断定するほどの情報はない……はず。
それなのに……なんだ、この追い詰められているような焦燥感は。
なぜかタマモの手のひらで踊っているような感覚が拭えない。
「それで! なんの用だ?」
「ちょっと買い物行ってきてくれない? お醤油きらしちゃったのよ」
「おう、まかしとけ」
「忠夫がそこにいてくれてよかったわ。ちょうど、おキヌちゃんにあんたのこと呼びに行ってもらったところだったのよ」
「へえ、おキヌちゃんに……………なんだってっ!?」
つまりキヌは今、忠夫の部屋に向かっている、もしくはすでに部屋の中にいることになる。忠夫の部屋の、その机の上には。
――エロ本出しっぱなしじゃねぇかよぉぉぉぉぉぉっ!
「そ、そうか、じゃあ俺は部屋に戻るな!」
一秒でも早く部屋に戻ってキヌの目からエロ本を隠さねばならない!
慌てて身を翻した。
その瞬間。
ジリリリリリリリリリリリリ!
電話のベルの音が廊下に鳴り響いた。
「忠夫、ちょっと電話出て」
「えぇぇぇ――――っ!?」
――この切迫した状況で!?
電話に出てる時間などない。今は一刻でも早く部屋に戻らねばならないというのに。
「タマモが出てくんないっ?」
「あたし今、手が離せないの」
そう言って台所に引っ込むタマモ。
「それとも」
台所の入り口から一歩、タマモが姿をあらわした。こちらに背中を向けたまま。表情が伺えない。
「なにか……電話に、出れない理由でも、あるのかしら、ね?」
心なしか声のトーンが落ちていた。
……時々、タマモがすごく怖く感じることがある。
「そんなわけないだろ! 電話だろ、俺にまっかしとけぇっ!」
無駄にテンション高く、電話の前に立つ忠夫。ダイヤル式の黒電話は『早く出ろ』とがなり立てていた。
それどころじゃないというのにっ。
忠夫は息を整える。
この家――来洞家には、政財界の大物からの電話が時折かかってくる。この家の主人であり、忠夫の師匠は世に名を馳せるゴーストスイーパーだ。彼には海を越えた国家レベルの依頼も数多く訪れる。そのため、相手が大物であれば電話口での礼を逸した対応は、師匠の顔に泥を塗ることになる。情報の伝達力とは怖いものだ。権力を持つ者ほど情報をを重宝する。悪評など広められたらたまったものではない。忠夫は師匠のことについては『いつかぶち殺す』と心に誓っているが、義理を欠いたことはするわけにはいかない。
電話に必要なのは、誠実な対応である。
気持ちは精錬された仕草の執事だ。
こほん、と咳払い。指先まで意識を走らせ、おもむろに受話器を持ち上げる。
「……はい来洞です。お持たせして申し訳ありませんでした。本日は当家にどういったご用件でしょうか?」
『お、横島か。雪之条だけど、おまえ今度一緒に昆虫採集に行かね――』
「後にしやがれ!」
ガチャーン! と受話器を本体に叩きつける。
清廉な仕草など所詮は吹けば飛ぶがごとき軽い虚飾だった。
このクソ忙しい時に、しかも内容は昆虫採集。
――小学生の自由研究か!
「ちょっと忠夫、今の電話なんだったの?」
「間違い電話!」
慌しく走り去っていく忠夫の背中をじっと見つめるタマモ。
じっと、ガラス玉のような透明な瞳で……。
キヌは忠夫の部屋の前にやって来ていた。
「横島さん、キヌです。いますか?」
部屋の中に向かって語りかけて見るが返事がない。
「失礼しますね」
簾戸を通り抜ける。忠夫は、やはりいないようだ。
キヌはふわふわと宙に浮かびながら部屋の中央にちょこんと座った。そわそわと落ち着き無いように肩を揺らしながら、忠夫の部屋をぐるりと見回した。
忠夫の部屋は畳敷きの和室だ。かといって家具まで和風というわけではない。部屋の隅には黄色のカラーボックスが置いてあり、中には漫画がぎっしり入っている。その横には元々部屋に据え置かれていたと思われる色あせた大きな本棚があり、その中には霊能関係の本が整然と並んでいる。部屋の南側と東側には障子窓があり、鴨居のところにハンガーをかけジャケットをつるしている。東側の障子窓に向かい合うように置かれている文机に座椅子。畳の上にペルシャ模様の絨毯がひいてあり、丸いクッションが置いてある。
キヌはそのクッションを拾い上げた。
ぽんぽんと、ボールのように投げて掴んでを繰り返す。
そのクッションは忠夫が絨毯の上に寝そべっているときに枕代わりにしているものだ。
キヌはクッションをぬいぐるみのように抱きしめてみた。
「えへ」
なんだろう、すごく照れくさい。
――横島さん……。
忠夫の名前を心の中で呼んでみるキヌ。
彼女は今、満たされた生活を送っていた。御呂地岳からこの街にやってきて、二週間ほどの時が流れた。見るもの触れるもの、なにもかもが新鮮で、今は毎日が楽しくて仕方がない。この街には木や花といった自然が少ないのには寂しい気持ちも湧いてくるが、それ以上に心を許した人と一緒に日々を過ごすことの幸せを噛み締めていた。
まだ忠夫の妹であるタマモと打ち解けるには時間が必要かもしれないが、彼女が時折見せるぶっきらぼうな優しさには思わず顔がほころんでしまうほどうれしい。
キヌがふと顔を上げると、文机の上に何冊かの雑誌があるのを見つけた。
近づいて見てみると、どの雑誌も表紙には女性がいる。
「わ、わわっ!」
どうしてか、どの女性もかなり際どい格好をしていることをキヌは不思議に思った。これではほとんど裸ではないか。見ているだけで頬が熱くなってくる。しかしよく考えてみるとこの時代は水着はもちろんのこと、お臍をだした服装や、胸元が大きく開いた服装なんかもあるという。
――きっと、こういう格好も変なことじゃないんだ。
キヌはそう自分を納得させた。
しかし自分がこういう格好をしたいかと問われれば断固として拒否する。
だって、恥ずかしすぎる。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ……見てみようかな」
興味を引かれたキヌは、ごくんと生唾を飲み込み、恐る恐るといった指使いでページをめくろうとする。
その瞬間。
「その本は駄目だァァァァァァァァァァァッ!」
「ふへっ?」
叩きつけるように簾戸を開いて、忠夫が現れた。
忠夫はキヌが文机の上に置いてあった本を手にとっているのを見て目を剥いた。慌てて畳を蹴って宙に浮かんでいるキヌに飛び掛り、本を奪取して……。
「あ」
ガシャアアアアアアアァァァァァァァン!
――そのまま勢いあまって窓をぶち破り、忠夫の体は二階から外へと放り出された。
「よ、横島さはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
キヌの悲鳴から一拍遅れて、ドボォォォォン! と水柱が立ち上った。ちょうど忠夫の部屋の窓の階下は金魚などを飼っておくための小さな池があった。
「な、なに? なにが起こっているの!?」
電光石火の出来事にキヌは驚き戸惑うばかりだった。
とりあえずはだ。
「横島さん、大丈夫ですか――――っ?」
彼の安否を確認するために、身を翻し階下へと飛んでいった。
「馬鹿なのか俺は?」
本日二度目の湯船につかりながら忠夫は一人ごちた。
窓を割って池に落下した忠夫の体に傷は無かった。が、やはり窓を割ったことについてはタマモに「家を壊すんじゃないわよっ!」と散々説教を受けることとなってしまった。
辛くも、エロ本のことは家族に隠しとおせた。今はエロ本は部屋のカラーボックスの裏でひっそりと息を潜めている。大掃除でもしない限り見つかることはないだろう。
なぜこうもやることなすこと裏目に――でもないが、すんなりうまくいかないもんかと忠夫は常々自分の運の悪さについて悩みを持っていた。
――本当に呪われてんじゃないだろうな。
まだそちらのほうが説得力、もとい希望が持てる。それなら呪いをかけやがった術師をぶちのめすなり、呪いを解かせるなりすればいいのだから。しかしもし本当に呪いなら、自分はともかくとしてもタマモの嗅覚をかいくぐって呪いをかけられるとは思えない。
運の悪さについてはたぶん先天的なものだ。どうしようもない。
ため息をつく。
体を温めた忠夫は湯船から上がり、キヌの用意してくれた新しいジャージを着た。
濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながら脱衣所を出た忠夫。
「ごめんくださーい!」
玄関の方から声が聞こえた。訪問者らしい。しかしそれはどうしたことか、ずいぶん幼い印象を受ける子供の声だった。
この家に幼い子供が訪れるなんて珍しいな、と思いながら、忠夫は玄関へと向かった。
するとそこにいたのは五人の小学生くらいの子供達だった。見覚えがある。
「お、さっきのちびっこども」
公園で先ほど忠夫が菓子を上げた子供達だ。なぜ彼らがこの家にやってきたのだろと思っている忠夫に、子供達の一人が声をあげた。
「あ、さっきのお菓子のお兄ちゃん!」
「ほんとだ!」
「なんでこの家にいるの?」
「そりゃ俺のセリフだ。ここは俺んちだからな、おまえらこそどうしたんだよ? そういえば一匹足りないな、あいつはどうした?」
リーダー格らしき少年の姿が見当たらない。
忠夫が尋ねると、子供達は突然泣きそうな表情になった。
茶味がかった髪の男の子が答えた。
「……う、えぐっ、ビックボスは」
「ビックボスって」
すごい渾名で呼ばれているな、と思う忠夫だったが、どうやら茶々を入れるような場面でも冷やかすような空気でもないようだ。
今度は坊主頭の男の子が言葉を引き継ぐようにしゃべりだした。
「な、なあ、この家って有名なゴーストスイーパーの家なんだろ!」
「まあな、今いねえけど」
まだ忠夫の師匠は帰ってきていない。
忠夫たちが人骨温泉郷に出発する三日前にミコノスに出かけてから、そのまま南回りで各国を旅しているようだ。自由奔放。うらやましい限りの話だ。
「そんな……」とショートカットの女の子が顔をくしゃくしゃにゆがめた。
ポニーテールの女の子が堰を切ったように声をあげたように泣き出した。
「おいおい、どうしたんだよ?」
「横島さん、どうしたんですか?」
キヌが玄関にやってきた。
「あれ、さっきの子供達……」
「おねえちゃーん!」
キヌに抱きついたポニーテールの女の子。キヌは最初こそ驚いた様子だったが、すぐに手馴れた様子で子供達を慰めた。
「ほらほら、どうしたの。お姉ちゃんにちょっと話してみてくれない?」
「あのね、ビックボスが?」
「びっくぼす?」
「さっきもう一人いた、こいつらのまとめ役っぽい子供のことらしい」
忠夫が補足を入れる。
子供達の話をまとめるとこうだった。
忠夫たちからもらったお菓子を食べるため秘密基地とやらへ向かった子供達。しかしそこにはいるはずのない先客がいた。
彼らの秘密基地を、幽霊と思わしき化け物のようなものが占拠していたらしい。
秘密基地を奪還すべく、果敢に立ち向かう子供達だったが手も足も出ず敗北。他の子供達を逃がすためにビックボスは幽霊の囮となったらしい。
「だから……」
だから、子供達はこの辺りでも有名なゴーストスイーパーの元へと助けを求めてやってきたらし。
状況は分かった。
「よし、じゃあ急いで行かねえとな」
「え?」子供達は不思議そうに忠夫を見上げた。
「俺が助けに行ってやるよ」
「横島さん」
キヌは忠夫がそう言ってくれたのをうれしそうに顔を綻ばせた。
「大丈夫なのかよ?」
「もちろんだ。なんだ俺じゃ心配かよ?」
「だって兄ちゃん、なんか弱そうだし」
「なんだとぉ~」
坊主頭の子供の頭をつかんでぐりぐりと掻い繰る。
「わぁっ、止めろぉ~!」
「まあまあ、横島さん。それに皆、横島さんはとても頼りになるのよ」
なんだかそんなド直球で誉められると照れるではないか。
「とりあえずおキヌちゃん。タマモにちょっと出かけてくるって伝えてくれ」
「タマモちゃんなら、さっきお醤油買いに行きました」
「ならいいか。よし行くぞおまえら、案内しろ」
子供達に案内され、やって来たのは街外れの小さな廃工場だった。もう長いこと人の手が入っていないらしく、トタン板は錆付いて所々に穴が空いていた。アスファルトはひび割れ草が生えている。ここが子供達の秘密基地らしい。
廃工場の前に立った忠夫は、その奥から漂ってくる臭気にも似たおどろおどろしい気配を感じ取っていた。
これは急いだほうがよさそうだ。
忠夫は廃工場の前に立ち扉を開いた。スライド式の大きな扉はキャスターがだいぶ錆付いているらしく重い。子供たちは普段、工場の隅にあいた穴から中に入っているようだが、忠夫くらいの体の大きさになると入れなくなる程度の大きさの穴だ。
忠夫が廃工場の中に入ると、そこは思ったより広々としていた。機材など、物がほとんど置かれていないこともあるだろう。鉄骨が剥き出しの高い天井は朽ちて穴が空いており、陽光が差し込んでいる。今日は雨が降ったということもあり、アスファルトの上には所々水溜りができている。このムッとした湿度の高い空気もそのためだろう。
「おい、出てきな!」
忠夫がそう大声を上げると、工場の隅の暗がりがずるりと蠢いた。
『なんだおまえは……』
しゃれこうべのように形取られた黒い影はくぐもった声で忠夫に向かって問い掛けた。
「さっきもう一人子供がいただろ、そいつはどうした?」
忠夫が子供のことについて問い掛けると、しゃれこうべは『くく』と笑った。天井を指差す。
子供はそこにいた。天井から蜘蛛の糸に娶られたように、工場にあった使われなくなった電気の配線によって縛られた子供の姿が見えた。
「無事なんだろうな?」
忠夫が戦意を滾らせ突きつけた言葉を、しゃれこうべは「さあな」と神経を逆撫でするようなねっとりとした声色で答えた。
「ああ、そうかよ」
轟!
と風が轟いた。
箭疾歩。忠夫の得意技である。
瞬きよりも早くしゃれこうべとの距離を詰めた忠夫が繰り出した拳がしゃれこうべの顔に突き刺さる。まるで豆腐を地面に叩きつけたようにこなごなに雲散するしゃれこうべのからだ。風に紛れて散り散りになる。
「横島さん!」
キヌの警告の声が飛んだ。
忠夫もその気配を感じ取った。その場から素早く飛びのく。
次の瞬間。頭上から黒い帯が鞭のようにしなって忠夫が立っていた地面を抉った。
『そんなことじゃオレは倒せんぞ』
虚空からずるりと這い出るように倒したはずのしゃれこうべが現れた。
――こいつはたぶん影みたいなもんか。
忠夫は推測する。どこかに依代たる本体があるはずだ。
「おキヌちゃん、子供を頼んでいいかい?」
「はい、任せてください」
キヌは力強く頷くと工場の天井につるされた子供を助けるべく飛んでいった。しゃれこうべはキヌの邪魔をすることなく放っている。それは奇妙な話だ。蜘蛛が糸に捕らえた獲物を保存しておくように子供を生かしているのだと思ったが、キヌの行動を一切阻害することなく黙認しているというのは……。
「――! おキヌちゃんダメだ、戻って来い!」
「え?」
天井につるされていた子供が突然顔を上げた。意識が戻った。いや、違う。子供の顔にはおおよそ生気といったものが感じられない。目はぽっくりと窪んだように真っ黒だった。口を開く。毒々しい黒の奔流が子供の口から吐き出され、キヌを貫かんと槍のように襲い掛かってきた。
「おキヌちゃん!」
忠夫が壁を蹴り中空高く飛びあがり、黒の槍からキヌを庇うように抱きとめた。黒い槍は忠夫の肩をわずかにかすっただけで、そのまま工場の屋根を突き破って空へと消えていった。
「横島さん、肩が!?」
「大丈夫だ、皮膚を軽く斬られただけだ」
忠夫はキヌを抱きとめたまま地上へと降り立った。キッっと鋭い視線で天井につるされた子供を――その体に憑依したしゃれこうべを睨みつける。
「テメェ、ガキの体に憑依しやがったな」
忠夫の言葉を肯定するように、子供の体からはしゅるしゅると黒い帯のようなものが触角のようにいくつも出てきた。体に縛り付けていた配線を引きちぎり、それでも地上に落ちることなく宙に浮いていた。
『なかなか勘の良いやつだな』
子供の声は先程のしゃれこうべと同じ声だ。
「チ、ガキを生かしていたのは撒き餌がわりってことか」
子供を助けにきた者を罠にはめるための布石ということだ。
『そのとおりだ、こんなふうにな』
手を上げると、工場中の地面からヘドロのように真っ黒な影が立ち上ってきた。それは先程忠夫が殴り飛ばしたのと同じしゃれこうべと同じ形になった。その数はゆうに百を超えていた。
「横島さん……」
「大丈夫だ」
服の裾にしがみついてきたキヌの頭をそっと撫でる。
「このくらいの数なんて屁でもねえよ」
『ふん、強がりを言うな!』
しゃれこうべの号令と共に忠夫とキヌにいっせいに襲い掛かってくる。
忠夫が手を上げた。手の平に収束する霊力。
襲い掛かってくるしゃれこうべたちに向かって、手を振るう!
すると忠夫の手から研ぎ澄まされた霊力が幾十幾百もの針のような形になってしゃれこうべたちに向かって解き放たれた。同時に多数の敵を倒すための技。しゃれこうべたちは体中を穿たれ、一匹残らず塵へとかえった。
「すごい……」
キヌの感嘆する声。
しゃれこうべ一体一体の力はそれほど強くはないとはいえ、百もの数を一瞬で駆逐した忠夫の力は圧倒的なものだった。
「舐めんなよタコ」
子供に憑依したしゃれこうべの本体に向かって不敵に親指を下に向ける忠夫。
『グッ……』
予想外の抵抗にしゃれこうべは歯軋りをした。
「自分の分進体をいくつも作り出すなんて大掛かりなことをやったんだ。もう力なんて残ってねえだろう。それに」
忠夫がいつのまにか手に持っていた、小さな手鏡をかざして見せた。古い手鏡だ。
『それは……っ』
「こいつがおまえの本体だろ。物が長い年月を隔てて生まれた付喪神の一種ってとこか。おまえの――おまえが取り付いたそのガキのポケットから掏り取らせてもらったぜ。大事なものなら身につけとくもんだけど、馬鹿正直すぎたな」
『か、返せぇぇぇぇぇっ!』
襲い掛かってくるしゃれこうべ。それより忠夫が手鏡を浄化するほうが早かった。
『お、おのれぇ……っ』
ぼろ墨のようにぐずぐずに崩れるしゃれこうべの黒い影。憑依していたしゃれこうべが消滅するのと同時に、宙に浮いていた子供の体はぐらりと揺れ、そのまま重力にしたがって地面に向かって落ちてくる。
「おキヌちゃん!」
「はい!」
子供の体を抱きとめたのはキヌだ。そのままゆっくりと地面に下ろしてやる。子供の脈をとる忠夫。外傷も無い。
「うん、大丈夫みたいだな」
「よかった……」
安堵のため息を漏らすキヌ。と、そこへ。
「兄ちゃん!」
「ビックボス!」
「みんな大丈夫!?」
子供達がわらわらと工場に入ってきた。忠夫はあきれたように子供達を見つめる。
「おまえら、外で待っとけっつたろ」
「だって! さっき黒い光みたいなものが工場から空へ飛んでいったから」
「うん、こうバヒューンて」
「だから兄ちゃんたちに何かあったんじゃないかって……」
しょうがねえなぁ、と頭をかく忠夫。
「ん、ん……っ」
キヌの腕の中でビックボスと呼ばれている子供が身じろぎをした。
「お、起きたか」
「ビックボス!」
子供達がビックボスの回りに寄る。
「おい」
忠夫がビックボスに声をかける。
「あ、菓子の兄ちゃん……。兄ちゃんが助けてくれたのか?」
「おう。それよりもおまえ仲間を守るためにあいつに立ち向かったんだってな。無茶しすぎだぜ」
「だって、おれはこいつらのボスだから……守るのは当然だ」
そんなことは当然だろ、と照れくさそうに笑った。
忠夫もビックボスと呼ばれている少年のこの気持ちはよく分かる。
頭を乱暴に撫でてやると、「や、やめろよ!」と跳ね起きて、工場の隅に走って逃げた。どうやらもう体も大丈夫なようだ。
「そういや、おまえらこの鏡に見覚えないか?」
それはあのしゃれこうべの付喪神の本体だった手鏡だった。子供のうちの一人が手を上げた。ショートヘアの女の子だ。
「あ、それ、あたしがこの前おばあちゃんの家の押入れで見つけたやつだ」
返して返して、と手を差し出して、ぴょんぴょんと飛び跳ねるショートヘアの女の子。
「そっか、大事にしてやれよ」
忠夫は女の子の手に手鏡を置いてやる。女の子は大事そうに手鏡を抱きしめた。
キヌが忠夫に耳打つ。
「横島さん、いいんですか? あれって……」
「大丈夫さ。もうあいつは消滅したし、それにああやって大事に扱ってもらうほうがあの手鏡にとってもいいだろ」
ショートヘアの女の子の笑顔を見て、キヌも「そうですね」と言って笑った。
「ただいまー」
玄関の引き戸を開け、靴を脱いだ。
もう日もだいぶ落ちていて、周囲はだいぶ薄暗くなっていた。
「あら、お帰りなさい」
帰宅した忠夫達をタマモが迎えた。夕飯の準備中だったらしい。エプロンで手を拭きながら玄関へとやってきた。
「ただいま帰りました」
「ええ、おキヌちゃんもこいつのお守り大変だったでしょ」
「俺は駄々こねる子供か。それと悪いな、醤油買いに行かせちまったみたいで」
「べつにいいわよ。それと、忠夫……」
ちょいちょいとタマモが手招きしている。
「んだよ?」
タマモの傍に寄る忠夫。今度は人差し指で地面を指し、しゃがむように促す。状況がよく飲み込めないが、とりあえずタマモの言うとおりにする。
すると、ぽん、ぽん、と優しく肩を叩かれた。
訝しく思ってタマモの顔を見ると、まるで全てを包み込む慈母のようなやわらかい笑みを浮かべていた。
「は?」
疑問の声を上げる忠夫に、タマモはなにも言わなくていいと言うように、ゆっくり頭を振り、夕食の準備をすべく台所へと去っていった。
「あ、私も手伝うわタマモちゃん」
「そう、じゃあお皿の準備お願いね」
「うん。それじゃあ横島さん、夕食出来たら呼びに行きますね」
「あ、ああ」
忠夫はじっとタマモの背中を見つめていた。
――なんだ……あいつ?
いまいち要領を得ないタマモの態度に首を傾げながら、忠夫は自分の部屋へと戻った。クッションを枕にしてごろりと絨毯の上に寝転がる。電灯を見つめながら、今日も色々あったなぁと疲れた体を休めていた。
「お、そうそう、忘れてたぜ」
上体を起こして、カラーボックスの裏に隠しておいたエロ本を引っ張り出そうとする。雨に濡れたエロ本はまだ乾いていないはずだ。これから丹念に1ページ1ページ乾かしてやるという重要な作業が残っていた。
「……あれ?」
おかしい。
カラーボックスの裏に指を突っ込んで調べて見るが、指先にそれらしい感触が感じられない。
カラーボックスごと持ち上げて、覗きこんでみる。
「な、ない!?」
あるべき場所にエロ本がない。いつのまにかキレイさっぱり消えていた。
おかしい、自分はたしかにカラーボックスの裏にエロ本を隠したはずだ。
なぜ、と頭をひねる。
脳裏に、ふと。
――先程のタマモの生暖かい笑みが思い出された。
「……まさ、か…………っ」
ド、ド、ド、と心臓が激しく動悸していた。呼吸も荒く、大粒の汗が次々に湧き出て顎を伝って畳に落ちた。
ごくりと生唾を飲む。まるで拳銃を突きつけられたような緊張した面持ちで、ゆっくり、とそちらを見遣る忠夫。
……エロ本は、あった。そこに、あった。
忠夫の机の上に、きれいに並べてあった。
「あ、あ、あ、あああ……っ」
膝ががくがくと震えていた。頭のてっぺんから氷の槍で突き刺されたような、全身が凍りつくような冷たさに侵された。
濡れていたはずのエロ本はしっかりと乾かされていた。雑誌を撓ませパラパラと捲ると、滑るようにページが送れた。皺もあまり寄っていない。1ページずつ丹念にアイロンでもかけなければこうはなるまい。
そして、この家にいて、なおかつそんなことができる者は一人しかいない。
横島タマモ。忠夫の、妹だ。
――これをタマモに、妹に、全部、見られたってのか……っ?
震える指でページをめくる。
そこにはでかでかと卑猥な単語が踊っていた。
『熟女の熟れた体』
『兄と妹の一夏の思い出』
『女教師のイケない課外授業』
『女子高のプールの授業を盗み撮りました』
『巫女さんの乱れ模様』
『お兄ちゃん、カコをお仕置きして』
『ある日の団地妻の日記』
『兄さん、私達兄妹なんだよ……?』
『妹に欲情した兄の凶行』
ぷつん、と忠夫の中でなにかが切れた。
全てが終わった。そんな気がした。
脱力して膝から崩れ落ちる。生気の抜け落ちたような表情で、床を見つめぶつぶつと何事かを呟いていた。そんなつもりじゃないんだ、とか、中身まではどんなものか知らなかったんだ、とか、風に紛れてかき消された。
そのときだ。ちょうど分厚い雲の切れ間から日の光が部屋に真ん丸く差し込んできて、忠夫を照らした。ばさばさと鳩が羽ばたく音が聞こえ、抜け落ちた白い羽が割れた窓から忠夫を包み込むようにふわりふわりと舞い散った。空を見上げる忠夫。瞬き一つしない。
図らずも、ヨーロッパの絵画のモチーフで見かけるような聖人が天に召される瞬間を捉えた構図のようになっていた。
光に導かれるように、立ち上がり、ふらふらと、夢遊病者のような頼りない足取りで窓辺へと立つ。窓枠をがっしりと掴んで顔を伏せる忠夫。
なにもしゃべらない。
ぶるぶると震えだした。やがて溜め込んだ感情が爆発する。
顔を上げる忠夫。
目をカッと見開き、滂沱の涙を流していた。
天を睨むように。
それは、魂からの慟哭だった。
「おまえは俺の母親かあああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ!!」
――……その日、夕食に呼びに来たキヌが見たものは、電気もつけず真っ暗な部屋の隅で布団を被ってさめざめと泣く忠夫の姿だった。
横島忠夫、一五歳の夏。
その日、彼は心に生涯消えることの深い傷を負ったのだった。