ガタンゴトン。
電車が線路を走っている。車窓を流れていく景色はビルや人家などが徐々に少なくなっていき、今は緑の山々がその大半を占めていた。トンネルを抜けると、深い谷間と高い尾根が折り重なる景色が同時に見渡せた。高架橋の上を走る線路、そこから見える景色は絶景だ。日本は山国だ、というが都会にいるとそれを実感する機会はなかなかない。しかしいくら経済発展が進んだ現在でも日本という小さな島国の全てを無骨な建造物で埋め尽くすほどの、無遠慮さや金や時間はないらしい。少し足を伸ばしてみれば、こうやってありのまま自然というやつを感じることができる。もっとも線路が走っている時点で“ありのまま”なんて表現は適格でないのかもしれないが。
「わああぁぁぁ、はやぁぁぁい!」
車窓に顔をくっつけるほど近づき、車窓に映る景色に興奮したように感嘆の声を上げているのは幽霊の少女キヌだ。巫女装束に長い黒髪が印象的。幽霊と聞くとおどろおどろしかったり霧や霞のように不明瞭で判然としない外観を想像するが、このキヌという少女は本当に幽霊か、と首を傾げるほど生きている人間と変わらないほどはっきりとした実体を持っている。それもそのはず。童女のように喜色満面の表情を浮かべている彼女からは想像できないが、三百年という普通の人間からすれば気の遠くなるような時間を過ごしてきた幽霊なのだ。そんじょそこらの霊とは年季が違う。
「……ところでさ、一体なんだろうな、昆虫採集って」
そう切り出したのは横島忠夫だ。
今年十五歳になった少年で、いたずらっぽくつりあがった双眸が幼い子供のようなやんちゃっぽい雰囲気がある。
電車に乗っているのは今現在忠夫とキヌだけだ。周囲に他に人はいない。車両を移せば一人や二人いるかもしれないが、いちいち人がいるか調べるために電車の中を歩くつもりなんて忠夫にはなかった。まあ人がいないのも納得はいく。この辺りは元々電車の利用者が少ないというのもあるのだろうが、今はまだ早朝ともいっていい時間帯だ。腕時計の針は朝の五時十五分を指している。始発とともに東京を出発し二本の電車を乗り継いでここまできたが、ようやっと目的地に近づいてきた。
「昆虫採集ですか。横島さんのお友達の雪之丞さんって人からのお誘いなんですよね」
「お友達なんてお上品な関係でもないんだけどな」
伊達雪之丞との付き合いは三年ほどになる。
忠夫の霊能の師匠に出稽古に連れて行かれた先の白龍会で出会った。白龍会とは人里離れた山奥でひっそりとたたずむ寺を本拠地とする一つの霊能の流派のようなものだ。門下生は僧兵のごとく厳しい鍛錬をかせられたいっぱしの霊能力者達だ。忠夫は三年前に白龍会で雪之丞や他の門下生とまみえ、わずかな間だが共に修行した。そんな白龍会の面々の中でも伊達雪之丞とは同い年であり、実力も拮抗していたということもあり、いつのまにやらライバルというか、悪友のような関係になっていた。
「一体なんのつもりだ雪之丞のやつ……昆虫採集ってのがそのまんま言葉の意味とは思えねえしな」
忠夫が知る伊達雪之丞という人間は、脳筋でバトルジャンキーである。強くなることに直向と言えば聞こえはいいが、TPOをわきまえず喧嘩をふっかけてくるのは止めてほしい。
その雪之丞が昆虫採集なんてものを楽しむとは思えない。そんなことをするくらいなら鍛錬に時間を割くやつだ。
「ま、行きゃあ分かるか」
細かいことは現地で説明する、と電話口で説明されていた。たぶん口頭だけで説明するのが面倒だったのだろう。
「でもこうして横島さんと一緒に旅行できてうれしです」
はにかみながらキヌは言う。もじもじと身をよじっている姿が小動物っぽくてかわいらしい。
「おう、なにするかは未だ分からないけど、せっかくだから楽しもうぜ」
「はい! でもタマモちゃんも来れれば良かったのに」
そこだけは本当に残念そうにキヌが言う。
「あー、あいつ実は結構面倒くさがり屋だからなぁ」
――虫取り? そんなにヒマじゃないわよ。
一緒に行かないかと誘ったところそんなふうに返された。
ここ最近、雨続きだったため、たまっていた洗濯物を片付けるらしい。そもそも必要以上に家の外に出ることを嫌がっている節もあるため、忠夫も無理には誘わなかった。タマモにも色々あるのだ。柵や、壁のようなものが。それらを取り払うには一朝一夕でできるものではない、まだもう少し時間が必要だろう。
そして電車は小さな無人駅へとたどり着いた。
その数時間後、日帰りの予定はずの昆虫採集。不慮の事態によって予定が大きくズレ込み。
日が落ち、夜となった――……。
【アルティメットサバイバー ◇序文◇】
無限に広がる大宇宙。
広大な海原に浮かぶ野球ボールがあるとする。
海全体の広さからすればそれのなんとちっぽけなことか。小さなボールは海の青と空の蒼の合間で所在などどこにもなく、自由に、ゆらりゆらりと波のまにまに漂っている。ボールを海の底を眺め、空を仰ぎ、己の小ささを知る。
この広大な宇宙をさまよう地球は、海原をさまよう小さなボールのようなものだ。その中でも、ちっぽけな星の、ちっぽけな島国の、ちっぽけな街の、ちっぽけな人間などには到底この宇宙の広さなど窺い知ることも、想像することだって難しい。
しかし。
井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る。
――こうして夜空を見上げれば、遥か宇宙に想いを馳せることは出来る。
大きな天の蓋にちりばめられた星々。そこに描かれた神話の世界。幾億光年もの遥か遠い場所から届けられたダイヤモンドのごとき煌き。新しく生まれては消えていく星々の営み。その悠久の流れの中では、ただ一人の人間の一生など、まさに夢幻のようなものなのだろう。
「……おい、横島」
「んだよ」
横島忠夫とその友人である伊達雪之丞、鎌田勘九朗の三人は、夜の密林にいた。
「なにやってんだ、おまえ?」
雪之丞は空気の読めない場違い者に対するような飽きれた視線を向けた。彼の年齢は忠夫と同じ一五歳で、野生の獣のようにぎらぎらとした瞳で
「あらあら、忠ちゃんたらそんな愁いを帯びた瞳も素敵よ」
鎌田勘九朗は二人よりも幾分か年上だ。上背があり、がたいも大きい男だ。もっとも今は首から下は地面に埋まっていて見えないが。彼は整った顔つきで髪型はリーゼントと、精悍な見目の青年であるが、口調は所謂おネエ口調。オカマである。勘九朗は頬を染め、夜空を見上げる忠夫の顔に見惚れていた。これは、いわゆる……まあ……そういうことだ。
「忠ちゃんて呼ぶんじゃねえ、気色わりぃっ! ごほん、……雪之丞、俺さ、思うんだよ」
わざとらしく咳払いをして、忠夫は目を閉じた。目蓋の裏に思い描くのは幼い頃に感じていた自然への憧憬だ。
――コイツがこういうふうにもったいぶったような、それでいて語りかけるような話の切り出し方をしたときは大概益体も無いことを考えているときだ。
雪之丞は三年来ほどになる悪友の言動を鑑みて、そんなことを思った。
まあ、聞いてやるか。
「俺がまだ世の中のことなんか全然知らない小さいガキの頃はよ、よくこうやって空を眺めていたもんだなって今更思い知らされたよ。抜けるような青空には一つとして同じ雲なんかなくってさ、一日中眺めてたって飽きやしねえ。夜空を見上げて流れ星を探して、学校で貰った星座表を見ながら星を探してさ。今の俺から見ればひどく退屈な時間の使い方かもしれない。でもあの頃の俺には空を見上げている時間はわくわくと心が躍っていたんだ。それが今はどうだい、日々の瑣事に心をすり減らしてさ、こうやって空を眺める余裕なんてずっとなかった。気づいたら自分がずいぶんつまらない人間になっちまったんじゃないか、そんな気がするんだ」
「まあ、忠ちゃんたら詩人。素敵! 惚れ直した!」
「おれにそっちの趣味はねえっっっっっつってんだよオカマ!」
雪之丞はため息をついた。
「横島、おまえよくこの状況でそんな暢気なこと行ってられるな」
この状況とは、一体どんな状況なのか。
――どういうわけか、三人とも首から下が地面に埋まっている。
まるでふぐ中毒を治すための迷信めいた治療行為のように見えるが、ハブなどの毒蛇やダニやヒルなどの吸血虫、猪や熊が出そうな奥深い密林で正気の沙汰とは思えない。しかし現実として三人は肩を並べあって仲良く地面に埋まっていた。
雪之丞の言葉に忠夫は現実に引き戻される。
木々が折り重なる周囲の景色は月の光すら届かず黒々とした闇が落ちている。近くに沢があるらしく蛙の鳴き声が間断なく聞こえていた。首から下が地面に埋められているため身動き一つ取れない。今日は茹だるような熱帯夜だが、ぬるま湯のような地面の温度が、体の芯から徐々に体温を奪っていく。
「うるせ! 現実逃避くらいさせろっ!」
色々言っていたが結局のところそれが本音だった。
「さっきから顔中が痒くてしょうがねえんだよ、蚊どもめ! 俺はおまえらに献血させてやるような博愛的愛護精神にあふれてねえんだよ!」
指の隙間までがっちりと土に固められているため、微動だにできない。さっきから顔を掻き毟りたいほど痒いのだが、どうしようもならなかった。
「俺だってそうだよ! だけどいつまでもこうしているわけにもいかないだろ!」
雪之丞が叫ぶ。
地面に埋められてかれこれ三時間ほどが経過している。
「あー、やだやだ! なんでこう毎度毎度メンドくせえこと極まりねぇことばっかになんのかなぁホントに!」
最近不幸にターボがかかってきた気がする忠夫が大げさなほどに頭を振り乱して絶叫する。耳元で蚊の羽音がやかましかったので、血を吸われないようにするためのせめてもの抵抗でもある。
「ペッペッペ! なんだよ口の中になんか虫が飛び込んできたぞ、どういうことだ雪之丞!」
「知るか! じゃあ、もうしゃべんな!」
双方共にストレス溜まって気が立っていた。不毛な怒鳴りあいを続けている。
「まあまあ落ち着きなさいな二人とも。そうやって我鳴りあってたって状況は好転しないわよ? 幸いにもあの幽霊の女の子はまだ無事みたいだし、ひょっとしたら助けにきてくれるかもしれないわよ? それに一応、陰念もいるわ」
年長者らしい落ち着きを見せる勘九朗。おネエ言葉というのもゴツイ男が使っていると違和感が半端ないが、柔らかな声色で話すと不思議と安心感のようなものを感じる。まあ、それはそうと、なぜ今日初めて会ったキヌの名前が最初にきて、一応で括られるのが同門の後輩である陰念なのか。
――陰念ておまえの中でどれだけ立場低いんだよ。
思ったが口には出さないでおく忠夫。なんだか忌憚なくボロクソに言いそうだ。
それは置いておいて、だ。
「クッソ、あのハエ、こんなマネしやがってタダじゃおかねえぞ!」
ハエと呼んだのは、何もその辺りをところかまわず飛び回っているハエのことではなく、ある種の卑称のようなものだったりする。そのハエが今現在忠夫たちが地面に埋められているという全くもって意味不明な状況を作り出した下手人なのだ。
「俺もだぜ。こんな舐めたことしやがって……覚えていやがれ!」
雪之丞も同じ気持ちだった。
ふつふつと怒りが溜まっていて、爆発する時を今か今かと待っている。
その時だ。近くの茂みが揺れた。風は吹いていない。草と草がこすれあうような音が聞こえた。
……なにか、いる?
じっとそちらを見遣る忠夫と雪之丞。
すると、茂みから現れたのは。
肥えたようにどっしりとした体躯、丸い耳に円らな瞳。鋭くとがった爪に、口の奥で月明かりを鈍く反射する牙。平均的な成人男性より大きな身長。夜の闇の中でその全身黒い毛並みはまるで幽鬼のように空恐ろしかった。
「ク……っ」
野生のクマが現れた。この状況でシャレにならない。
『じょ、冗談じゃねえええええええぇぇぇぇぇぇぇ――――――――!』
思わず叫びそうになるが、目の前のこのケダモノに対して刺激になるような行為をしようものなら命は無い、といった生存本能が絶叫を喉の奥で押し止めた。
クマの爛々と輝く瞳は、忠夫と雪之丞の二人を捕らえてた。ロックオンされている。
――お、おい横島、どうする……って、このヤロウ! もう死んだフリしていがる!
忠夫は糸の切れた操り人形のように力なくうなだれていた。白目を剥いている。馬鹿みたいに口をぽっかりと開けており、唇の端から一筋の血が滴り落ちている。口内を自分で噛み切ったらしい。小技が効いている。
「あらー、これはちょっとマズイかもしれないわね」
この状況でも落ち着いている勘九朗。結構神経が図太い。
『おい、横島! クマ相手に死んだフリしても効果はないらしいぞ!』
『マジか!? いやでもこの状況で他にできることなんてないだろ、おまえもやっとけ!』
『そ、それもそうだな。よし!』
小声で怒鳴る二人。矛盾しているようだが、ニュアンスの問題だ。
確かに首から下が地面に埋まって身動きできないこの状況じゃ襲われても抵抗のしようがない。なにもしないよりは幾分か生存できる確率もあがるだろう。そう諭された雪之丞は早速自分も死んだフリを敢行する。
と、思いきや。
「……がはぁ! なんだこの胸を締め付けるような痛みはぁっ!? そうだ俺は昔から心臓が悪かったんだ! これはもう助からない、俺はもう死ぬ!」
――いきなり何をおっぱじめやがった!?
いきなりクマに向かって宣言するように叫び出した雪之丞の奇行に忠夫は死んだフリを忘れて凝視する。
「雪之丞って時々分けわかんないことすんのよねぇ」
あくまで落ち着いている勘九朗。こいつに危機感はないのか。
「ちなみに俺が死ぬと心臓からなにやらよくわからない毒が発生して全身を巡り、もし俺の死体を食おうものならそいつも毒におかされて死ぬ!」
――駄目だコイツ、テンパって意味不明なことやってる!
死んだフリっつったって……いっくらなんでも効くかそんなもん!
命の危機が迫った極限下で精神がやられたらしい。発想が小学生以下とか、死ぬと心臓から毒が発生するってどんな進化を遂げた生き物だ、とか色々言いたいことはある。しかしそれ以前の問題で、そもそも言葉が通じない動物に対して怒鳴り散らすように叫んでいる雪之丞の姿は、クマに対してある種の攻撃的な威嚇をしているようにしか見えない。身動きできないのに。なんだそれは、迂遠な自殺か。
クマが口を開いた。
鈍い光沢を放つ牙が雪之丞に向けられる。
「おい、いいのか!? 死ぬぞ、オマエも死ぬんだぞ!? うおおおおお、心臓が再び激しく痛み出したぁぁぁぁぁっ! はい、死んだ、今死んだぞ!」
そうして力なく項垂れる雪之丞。死んだらしい。
クマはのっしのっしと雪之丞に近づいてくる。
『おい、アホォォォォォォォ! 何してんだオマエ! 起きろ、死にたいのか! いや起きてどうにかなるもんでもないけど! とりあえず起きろぉぉぉぉぉぉぉっ!』
忠夫が必死で呼びかけるが応答がない。
雪之丞は忠夫と同じように口内を噛み切って、唇の端から血を流していた。役に入り込んでいるというか、結構本気で死んだフリをしている。しかし忠夫は見逃さない。白目を剥いている目だが、時折黒目が目蓋の上から下りてきてちらちらとクマの姿を視認しているのを。
命の刻限が刻一刻と迫ってきている緊張感。クマの豪腕が一振りされれば人間の首なんぞ千切れて飛んでしまう。今地面から首だけを出している三人の姿はギロチン台に首を乗せているようなものだ。
――ちくしょぉぉぉぉぉぉぉっ! ホントに俺の人生呪われてんじゃねえだろうな!?
徐々に近づいてくるクマを成すすべなく戦々恐々と見つめる忠夫。
朝、電車を降りてから忠夫の身に何が降りかかったのか。
それをこれから説明しよう…………。
最近ちょっと忙しく執筆の時間が取れないでいるので更新がだいぶ不定期になってしまっています。
……ごめんね!