ヨコシマ・ぱにっく!   作:御伽草子

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【01】

 

 

 

 

 

 

 

 東京都某所。

 都心から少し離れた閑静な住宅街に、立派な風格の日本家屋が建っていた。

 周囲を白漆喰で塗られた塀で囲まれ、観音開きの冠木門が悠然と構えている。門をくぐり、ぐるりと周囲を見渡すと、とても都内とは思えないほどの大きな庭が広がっている。青々と苔むした地面からよく手入れされた椛や松の木が屹立しており、玉砂利と飛び石でできた道がまるで緑の大地を流れる川のように曲がりくねりながら土蔵がある庭の奥へと続いている。

 門からまっすぐと伸びる石畳の道の先には、大きな切妻屋根の屋敷がある。それがこの家の母屋である。

 八畳ほどの畳敷きの和室に、横島忠夫が布団に包まって眠っていた。

 ちなみに寝坊だ。

 枕元に置かれた目覚まし時計は鳴るようにセットされた時間から、すでに一時間ほどが経過している。ベルが鳴らなかったわけではない。繭のように丸まった掛け布団の中からにょっきりと伸びた腕が、目覚ましのスイッチの上に振り下ろされている。目覚まし時計は自らの役目を果たすことができないまま沈黙していた。

 襖が開かれる。

 薄暗い室内に日の光が差し込む。そこに少女が立っていた。年の頃は十歳くらいだろう。白いワンピース姿。狐色の髪を後ろで九つの結び目で結わえた珍しい髪型だ。少女――横島タマモは襖縁に背を預けている。オタマで肩をならすように叩いており、片手にはなぜかラーメンのどんぶりを乗せている。冷ややかな瞳は布団に包まったままの少年を見下ろしていた。

 大きなため息を一つつき、眠ったままの少年に歩み寄る。

 膝を立ててしゃがみこむ。

 

「おーい、おきろー」

 

 一応、申し訳程度に声をかける。

 無論この程度では……というか、たとえ大声で怒鳴りつけてもこの大寝坊助が起きないことは経験で十二分に知っていた。

 果然、忠夫に起きる気配はない。身じろぎ一つせず眠りこけたままだ。

 少女は手に乗せたラーメンのどんぶりを揺らす。中に入っているものがぶつかり合ってガラガラと音がする。

 ニィ、と少女の口元が半月の形に裂けた。未だ世の中の艱難辛苦も知らないような少女の年齢には不釣合いなほどに室に入ったサディスティックな笑いだが、なぜだかこの少女が浮かべると全く違和感が見当たらないのが不思議だ。

 タマモは布団をめくる。ぐーすか眠りこけたままの忠夫の服の襟元を広げ、その隙間からどんぶりに入った大量の氷を一気に流し込んだ。

 めくった布団を閉じる。少し離れて、じっと眺める。畳の上に腹ばいに寝そべり、見世物を見るようなわくわくとした表情だ。

 もぞ。

 もぞ、もぞ。

 布団がうごめく。徐々に違和感がはっきりと感じられるようになったようだ。

 もぞもぞもぞもぞ……っ、バタバタバタバタ! バッタンバッタン!

 布団が跳ね馬のように弾けている!

 あきらかにパニックに陥っている。

 ちなみに犯人であるタマモは、この時点で腹を抱えてケラケラと笑っていた。

 

「ほわちょわぁぁぁ――っ!?」

 

 謎の叫び声を上げて忠夫が文字通り跳ね起きた。

 立ち上がり、短パンの中に入れた服の裾を捲ろうと必死だ。しかし寝起きということと焦りのあまりうまく指が動かない。爪先立ちでひよこ歩きのように畳の上をちょこちょこと足踏みしている姿は珍妙なダンスを踊っているように見える。

 タップダンス。マラカスでも鳴らしてやりたくなる。

 

「まんぼー」

「まんぼー、じゃない!」

 

 やっとのことで服の裾を捲ると、大量の氷が製氷機のように落ちてくる。すでに眠気など完全にすっ飛んでいた。

 少女は畳の上に頬杖をつきニッコリと微笑んだ。

 

「おはよ、眼は覚めた?」

「そりゃあもうバッチリとな!」

 

 あれで起きなきゃどうかしている。心臓がバクバクと激しく脈打っていた。

 

「毎度毎度心臓に悪いわ! オマエ日に日起こし方が過激になってないか!?」

「だってアンタってば普通に起こしても起きないでしょ」 

「つってもお前、朝俺の起き抜けの反応楽しんでるだろ。昨日なんて耳にイヤホン突っ込んで大音量で浪花節聞かせやがって……鼓膜破れると思ったわ!」

「さあー、そんなこともあったかしらねー」

 

 忘れちゃったわー、とのん気にのたまう。

 

「とっくに朝ごはんできてるわよ。布団片付けて早く居間に来なさいよ」

「へーへー」

 

 タマモはもう用はないとばかりに部屋を出て行く。鼻歌でも歌いそうなご機嫌な雰囲気。そんな後姿にイヤミの一つでも言ってやりたくなる。

 

「なんか日を追うごとに生意気になっていくなあいつは……」

 

 だんだん頭が上がらなくなってきた、とも言う。忠夫は十五歳でタマモは十歳。一つ屋根の下に暮らし、血のつながりこそないが兄と妹に近い関係だ。五年ほど前、諸般の事情で身寄りの無いタマモの面倒を看ることになってから、流れ流れて今現在。最近兄と妹という立ち位置が逆転してきたように思える。

 生来の女王様気質を発揮しはじめたタマモに戦々恐々する毎日。近い将来奴隷にでもされそうで恐ろしい。冗談とかでなくヤツならそれくらいやりそうだと、直感が囁いている。男心を掌で転がす魔性の女とでも言おうか、そんな気質をタマモから感じる。

 気をつけようと、と心に誓いながら、ふと周りを見回す。

 

「つか、この氷ってやっぱ俺が片付けんの?」

 

 畳の上に散らばった大量の氷は、夏の外気にさらされてすでに溶け始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 横島忠夫という少年が親元を離れてこの家にやってきたのは、まだ五歳くらいの幼い時分のことだ。

 とある霊的障害が絡んだ事件に巻き込まれて、発現した霊力を制御するためにある霊能力者の元に預けられた。霊力という力は精神的な力のみならず、使うものが手順を踏まえて使えば物理的な破壊力すら付加することが出来る力だ。幼い子供が持つにはあまりに危険であり、自身の命のみならず他者の命すら害する可能性があった。しかし彼の両親は霊能力に関しては門外漢であり、結果として信用のおける霊能力者に息子を預けるという選択肢をとるしかなかった。

 それから十年ほどの月日が流れた。

 師である霊能力者の元で、霊力を扱うための修行をしている忠夫。

 霊能力者であることの一つの証明であるゴーストスイーパーの資格こそ未だ持ってはいないが、すでにその力は一流の霊能力者でありゴーストスイーパーである師の認めるところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 縁側のガラス戸の向こうにはこの家自慢の日本庭園が広がっている。ここは都内に持つには贅沢に感じるほどに広い敷地で、概観は武家屋敷と呼べるほどに立派な門構えの家だ。格式ある佇まいと言えば聞こえは良いかもしれないが、忠夫に言わせればただ古いだけの家だ。廊下を歩くたびにギシギシと悲鳴を上げる廊下に、半分以上の部屋は襖や障子やらの立て付けが悪く開け閉めに無駄な労力を使う。建物の耐久限界などとうに過ぎていそうで、地震での倒壊の危険性がおおいにありそうで恐ろしい。

 

「おいーす」

 

 居間の鴨居をくぐると「おそい」とタマモの文句が飛んでくる。

 

「ほら早く座んなさい。せっかく作ったご飯がさめちゃうわ」

 

 ちゃぶ台の上にはすでに朝食が用意されている。全てタマモの手製のものだ。皮までぱりぱりに焼かれたアジの切り身に、卵を絡めた五目ひじき、味噌汁は昆布と削り節でだしをとったものだ。そして米粒の一粒一粒がピンとたったピカピカのご飯。

 

「お、うまそうだな」

「トーゼンでしょ」

 

 食べ物の匂いを嗅いだら急に腹が減ってきた。

 いそいそとちゃぶ台の前に座る忠夫。

 

「それじゃ、いただきます」

「いただきまーす」

 

 まずはアジの切り身から食べ始める。夏が旬のアジは今がちょうど食べごろだ。脂ののった身を口の中に放り込んでかみ締めるとじゅわっとうまみが口いっぱいに広がる。そこで一気に熱々のご飯をかきこんで一緒に咀嚼すると、アジの塩味とご飯のほんのりとした甘みが絶妙にマッチして思わず目尻が下がるほどウマイ。五目ひじきもご飯のおともにぴったりだ。こいつはお上品に食べるものじゃない。ぐわっと広げた箸で大きくつかんでそのまま口に運ぶ。磯の香りが鼻腔をくすぐり、ひじきに絡まったこんにゃくや大豆、鶏肉やにんじんといったいくつもの食材が見事に調和している、ご飯がすすむことすすむこと。

 

「うっめなあ、おい。腕上げたなタマモ」

「ふふん、もっとホメてもいいのよ?」

 

 得意げに鼻をならすタマモ。

 そのとき、チリンと涼やかな音色が鳴った。

 軒先につるした風鈴だ。朝顔が描かれた江戸風鈴で、つい一昨日押入れの奥から引っ張り出してきたものだ。

 

「……夏だなー」

「……ええ」と頷くタマモ。

 

 七月某日。忠夫の通っている中学校も一昨日から夏休みに入っていた。

 夏休み初日は掃除と夏支度から始まった。庭に面した部屋の襖を全て葦戸に替えたため、今彼らが座っている居間も葦戸に濾されたやわらかな日差しと共に葦の間から爽涼な風が吹き抜け、夏の暑さをずいぶん紛らわせてくれていた。

 ほうっと息をつく。

 遠くで聞こえる蝉の声に、時折混じる風鈴の音色。

 もう幾ばくかすれば、陽光がぎらぎらと輝きだすだろう。

 時節は夏真っ盛りを迎えていた。

 そこで忠夫はあることに気づく。食卓を囲っているのは自分とタマモの二人だけ。一人足りない。

 

「そういや、じいさんは? ここ三日ほど姿を見てない気がすんだけど」

「三日目にして不在に気づくって弟子としてどうなのよ。なんか海外のほうで除霊の仕事があるとかで出かけてるわよ。来月の頭くらいには戻るって」

 

 忠夫は自らの霊能の師匠であり、この家の家主の不在をタマモに問いかけるが、呆れ顔と共に返ってきた答えは少し意外なものだった。

 

「へー、あのじいさんが数日かかる仕事って結構ドデカイ事件なんじゃねえの」

 

 忠夫の師匠は業界では相当な有名人らしく、当代最強との呼び声もある腕利きのゴーストスイーパーだ。その師がてこずるほどの事件とは……。

 

「ん?」

 

 ふと思い当たったことがある。

 

「なあ、その除霊の仕事ってどこでやるって言ってた?」

「ええっと、確かミコノスって」

「あんのクソジジイ……、そういうことか」

 

 ギリシャのミコノス島。エーゲ海に浮かぶ美しい島で、夏の避暑地として有名な場所だ。きっと今頃、除霊などさっさと終わらせて、コバルトブルーの海を眺めながらカクテルをあおっているに違いない。

 猛然と腹が立ってきた。

 

「俺たちもどっか行かないか。海とか山とか」

「そんなお金ないわよ」

 

 すげなく却下される。

 生活費やら小遣いやらは忠夫の師匠により手渡されており、それをタマモが管理して、遣り繰りするという形で日々の生活が成り立っている。なぜ忠夫ではなくタマモなのかというと、単純に家の家事全般をタマモが取り仕切っているからだ。

 手渡される金額はあまり多いとはいえないが、家が貧乏というわけではない。むしろ金なら唸るほどある。ゴーストスイーパーという職業は命がけで魑魅魍魎を駆除するという仕事柄、依頼料が高額でとかく儲かる仕事なのだ。

 ……まあ、確かに子供にあまり大きな金額を預けるというの教育上良くはないだろう。

 そんなこんなで、タマモがお金を管理しているため旅行に行きたいと言っても彼女がダメといったらそこまでなのだ。しかし年齢は忠夫のほうが上なのに、その姿はまるで母親にプレゼントをねだる子供のようでいて、ちょっとばかり情けない。

 

「それより忠夫、あんたヒマなら買い物行って来てよ。今日は駅前のスーパーでティッシュが安いのよ」

「おー、任せとけ」

 

 ご飯を口にかきこみながら答える忠夫。料理なんかはタマモにまかせきりにしている分、日々の雑用は彼の仕事なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 河川敷にかかる橋を渡ると商店街のある地区に出る。

 忠夫は昼食をとった後、ぶらぶらと腹ごなしの散歩がてらタマモに頼まれた買い物のために外を歩いていた。今はまだ午前中という事もあり、比較的過ごしやすい日和だ。これが正午ともなれば、夏の強烈な日差しと、アスファルトを照り返す熱によって汗だくになっていることだろう。

 スーパーで買い物を済ませると、レシートと一緒にチケットのようなものを渡された。どうやら商工会主催の福引のチケットらしい。

 

「福引ねぇ……せっかくだからやってみるか」

 

 福引を開催している場所も少し遠回りになるが、帰り道と同じ方向だ。

 行ってみると商工会議所の入り口の前で福引は行われていた。日よけのタープ付きのテントの下で、黄色いハッピを着た何人かの商工会の役員が立っている。テントの中央にはめでたそうな紅白の布がかけられた長机があり、上には六角形の箱型をした抽選器が鎮座してる。

 

「ようこそ、いらっしゃいました。福引券はお持ちですか。はい、結構です。三回回せますよ」

「三回、か」

 

 看板に書かれた福引の景品を見てみると、結構良い物が並んでいる。テレビに自転車、海外旅行に温泉旅行なんて定番のものから、有名人の直筆サインなんていう真偽が分からないものや、手品セットや観賞用の熱帯魚の飼育セットなんていうちょっとした変り種の景品までありる。いくつかの商品にはすでに

 ここはいっとう気合を入れて抽選器を回す。

 一回目、出てきた玉は――白。

 

「残念、はずれです。はい、残念賞のティッシュです」

「はずれかぁ」

 

 渡されたポケットティッシュをポケットにねじ込む。二回目、抽選器を回す。

 出てきた玉は白……はずれだ。

 そして三回目。

 抽選器を回すとがらがらと音が鳴り、中に入った玉を吐き出す。

 忠夫は緊張した面持ちで玉の色を確認しようとする。白ではないようだ。

 ちょうど自転車がこの前壊れたばかりなのだ。せめて自転車よ当たってくれ、と祈る。

 玉がトレーの上に転がる。その色は。

 

「お」目を見開く忠夫

 

 赤。

 赤色の玉だ。

 懸賞品が描かれた張り紙を見上げる。残念賞から七等賞、六等賞と下から順々に確認していき。

 赤色は――二等賞。

 ハンドベルの音色が商店街に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドタドタとけたたましい足音が近づいてきている。どうやら忠夫が帰ってきたらしい。タマモは掃除をしていた手を止める。するとそこへ。

 

「いよっしゃあァァァァァァァァァ――――っ!」

 

 スパァンと、葦戸を勢いよく開いて現れた忠夫。耳をつんざかんばかりの歓声に、タマモはびくりと肩を震わせた。

 

「な、なにごとよっ」

「タマモ!」

「な、なに……?」

 

 ぎゅっとタマモの手を握る忠夫。意味が分からんといぶかしむタマモ。

 

「俺さ、前々からお前に家の家事全部押し付けて悪いと思ってんだ。いつもありがとな」

「え、ええ、べつにいいのよ。好きでやっていることだし、そもそもあんた不器用だし」

 

 突然のねぎらいの言葉に、状況がうまく飲み込めずしどろもどろになるタマモ。

 

「今日の俺は季節はずれのサンタクロースだ」

「ハァ?」

 

 突然何を言い出すんだコイツは。頭でも打ったのだろうか。

 

「普段がんばっているお前に、今日は俺からプレゼントがあるのさ」

 

 ミュージカルの出演者のように大仰な身振りで手をひらめかせる

 なにか変だ。テンションが妙な方向にぶっちぎっている。

 

「ね、忠夫」

「なんだい、タマモくん」

「正直に言えば怒らないわよ?」

「なんか俺が悪さを誤魔化そうとしているみたいに言うんじゃない! そうじゃなくて、ほら、コレ!」

 

 ずいとタマモの眼前にそれを突きつける。

 

「……人骨温泉郷ペアチケット?」

「福引で当てた。二等賞だぜ」

「え、ええ――! すごいじゃない、やったじゃない!」

 

 普段お澄まし顔のタマモにしては珍しいくらい喜びをあらわにしている。チケットを握り締めて輝かんばかりの瞳で凝視している。結構な温泉好きなのだ。

 

「あ、でもこれ交通費は自腹みたいね」

 

 途端に沈んだ声になる。

 つい先ほども言ったが、食費や光熱費以外にまわせるお金はあまり無いのだ。しかもこの人骨温泉とやらは東北のほうにあるらしい。新幹線なんか使ったら二人で一体いくらかかるか分からない。宿泊費がタダとはいえ、交通費を考えるととても行けそうにない。

 肩を落としたタマモに、忠夫はニィと歯を見せて快活に笑った。

 

「移動手段は俺に任せときな。考えがある」

 

 

 

 

 ――その言葉を信じた自分がバカだった。

 

 

 

 

 タマモは家の門の前で頬をひきつらせていた。

 まさか、そんな、いや、でも。

 もしかして、と思う気持ちがある。確信じみた諦念も、あった。

 温泉旅行出発の日。

 快晴に恵まれ、雲ひとつ無い青空の下。タマモは久しぶりの旅行という事もあって、いつもよりおめかしをしていた。お気に入りの白いワンピースに七分丈のスパッツ。この旅行のために新しく買ったパナマ帽をかぶった姿は端正な容姿と相俟って、ファッション誌の読者モデルもかくやという可愛らしさがある。

 対して忠夫の方はというとどうだ。

 ……ジャージ姿である。

 学校指定のものらしく白いシャツの胸元には『横島忠夫』と刺繍もしてある。ついでに頭にはハチマキ。旅行に行く格好としては明らかにナメくさっているが、むしろこの場合においてその姿は正しいといえる。

 

「さあ」

 

 忠夫がくいっと親指を向けた先にある物、それは自転車だった。

 

「乗りな」

 

 まるで洗練されたデザインのスポーツカーに誘っているような得意満面の顔だ。ハチマキに書かれた『初志貫徹』の文字に殺意を覚える。

 

「…………どしたの、その自転車」

 

 自転車などこの家には無かったはずである。いや、正確に言うと一週間ほど前に、忠夫が電柱に突っ込んでぶっ壊したのだが。

 家の前には見慣れない自転車が止まっていた。

 白いママチャリだ。少し改造してあるようで、荷台に幼児用の座席を取り付けるような形で座椅子が括りつけてある。自転車そのものはずいぶんと年季の入っている代物らしく、フレームのそこかしこに細かな傷がついている。タイヤはかろうじて溝がわずかに残っているだけだ。ブレーキをかけたら横滑りをしそうで怖い。

 

「おうコレな、ゴミ捨て場に捨ててあったのを拾って直した」

 

 得意げに答える忠夫。何台かの自転車の使えそうな部品を組み合わせて一台作ったらしい。相変わらず変なところで器用な男だと思いながら、タマモは恐る恐るたずねた。

 

「へ、へー、それでその自転車でどうしようっての」

「だからコイツで温泉まで――」

「私行くのヤメルわ」踵を返す。

「え、なんで?」

「言葉にしなきゃ分からないの、このバカ!」

 

 ほとばしる絶叫。

 バカだバカだと思っていたが、バカの桁が一つ二つ違っていたらしい。

 

「何考えてんのアンタ、こっから一体何百キロあると思ってんの!?」

「無理ってあきらめんなよ、走り続ければいつかはたどり着くって」

「なにかっこいいこと言って押し通そうとしてんのよ。とにかく、私はごめんよ」

「えー、そんなこと言うなよ。一人じゃ寂しいだろー」

「は・な・し・な・さ・い!」

 

 腕をつかんで懇願する忠夫を振り切ろうとするタマモ。。

 そして行く行かないで散々もめた挙句、結局はタマモが折れる形になった。彼女がその決断を後悔するのは自転車が走り出して、わりとすぐのことだった。

 まず季節は夏だという事だ。日光がひたすら暑い。そして目的地がとにかく遠い。一日で到着することなど到底不可能で野宿をした。虫除けのスプレーはしっかりしていたはずなのにそんなものは関係ないとばかりに、肌には虫さされの痕。三日目の夜に橋の下で眠っていたときなど、危うく警察に補導されそうになって逃げ回ったりと色々なことがあった。

 

 

 

 

 そんなすったもんだの騒動の末に、今現在。

 

 

 

 

「よっと、くおっのっ、着いたぁっ! ……うお、こりゃすげえなぁ」

 

 急傾斜の峠道を汗だくになって上りきった忠夫。峠道の頂上から俯瞰した風景はまるで自分が鳥になったかのような錯覚を覚えた。波打つように緑の海が足元に広がり、木々の間から覗くつづら折りの下り道は夏の日差しにきらきらと輝いている。天を突くように切り立った巨峰が、まぶしいほどの真っ白な入道雲とともに悠然とあたり一体を見下ろしていた。遠く彼方を飛ぶトンビの鳴き声が山々に木霊し、梢を揺らす風の音色が耳の奥にしみこむように通り抜けていく。雄大な自然のひとかけらを間近に感じる瞬間だった。

 

「わあ……」

 

 タマモが感嘆のため息をもらす。自転車に乗ったまま、忠夫の背中の横から顔を覗かせて見た景色。心の中に広がった感情をうまく言葉にすることが出来ない。感動という言葉で一括りにするにはそれはいささか繊細な想いだ。しかし忠夫にはその時のタマモの想いがなんとなく分かった。自分も同じ想いだったから。

 

「あ、おいあれ見てみろよ!」

 

 忠夫が指差した先。つづら折りの下り坂のずっと先に、街が見えた。

 

「あれじゃね、目的の街って」

「ええ、地図を見る限りあの街に人骨温泉ってのがあるみたいね

「よし、こっからは坂道だ。一気に行こうぜ!」

 

 目前に迫った目的地に向かって意気揚々と自転車を漕ぎ始める忠夫。

 自転車は軽快に坂を滑り降りる。吹き抜ける風を置き去りして、うねる坂道をコーナーにすいつくように滑らかに右に左に曲がって下っていく。

 

「イヤッホ――――イッ!」

「ちょっと、スピード出しすぎじゃないの」

 

 声を張って注意を促すタマモ。大きな声を出さないと音は風にまぎれて届かない。しかし言葉とは裏腹に、その声色には抑えきれない喜色が浮かんでいた。美しい山景色の中を風を切って走り抜けていると心の底から沸き立つような爽快感は言葉には出来ないほどすばらしいものだった。

 いくつものカーブを曲がっていくと、やがて街が見えてきた。

 その時だ。

 

「わ、バカバカ!? 前見なさい、まえェェェェェェェッ!」

 

 慌てて忠夫の肩を揺するタマモ。すぐ目の前に急カーブが迫っている。だというのに、自転車は減速する気配を見せない。このままじゃガードレールに激突する。

 

「悪り、なんかブレーキ壊れたみたいだわ」

「へ?」

 

 なにを言っているのか一瞬分からなかった。むしろ理解したくない内容だった。

 忠夫の両手はブレーキレバーをすでに力いっぱい握っている。何度も離しては握りを繰り返している。しかし自転車が減速することはない。つまり、だ。

 

「いやああああああああああああああああああああああ――――――ッ!」

「ぬわああああああああああああああああああああああ――――――ッ!」

 

 山々に二人分の絶叫が響き渡った。

 

「ぶ、ぶつかるぅぅぅぅぅぅぅっ」」

 

 猛スピードでガードレールに突っ込む自転車。

「俺にしがみつけ!」

 指示を飛ばす忠夫。腹に回されるタマモの両腕。忠夫は腕に力を込めて自転車のハンドルを自分のほうに引き寄せる。前輪が持ち上がりウィリーの形。そして自転車はガードレールにぶつかる――かと思いきや。

 スピードがついていたのが成功の要因だろう。まるでスキー板がジャンプ台から飛び立つように。

 ウィリーしたまま、うまい具合にタイヤがガードレールに乗っ掛かり忠夫とタマモの体は車体もろとも中空に飛び上がる。ふわりとした浮遊感。そして滑空。道路から飛び出し薄暗い山の中に自転車は躍り出る。頬を掠める木々の梢、地面に降り立つと同時に、ガシャン、と車体がきしむような大きな音がした。

 そのまま舗装どころか切り開かれてすらいない原生林の中を突っ走る自転車。

 

「と、が、ご、くっ!」

「ちょ、やだっ、きゃあっ!」

 

 地面から飛び出した岩や木の根に大きく波打つ車体。立木を避けるためにハンドルを切れば、ぬかるんだ地面にタイヤがとられそうになる。

 根性と体力で、暴れる自転車を押さえつける忠夫。普通なら自転車から投げ出されそうになるほどの衝撃も、全身のバネを使ってうまく逃がしている。

 

「げ」

 

 呻く忠夫。自転車は、今。

 ……再び、宙を飛んでいた。

 背後を振り返ると、自分の背中にしがみついたタマモの頭の向こうに、今自転車で飛び出してきた崖が見えた。

 下を見ると、五メートルほどの高さ。眼下にはみやげ物屋が立ち並ぶ石畳の道路が広がっていた。どうやら森を抜けて目的の街にたどり着いたらしい。

 この上なく最悪の到着の仕方だった。

 そのまま放物線を描きながらミサイルのように道路に墜落する。それに気づいた観光客たちが慌てて逃げ惑う。

 忠夫は自転車を横滑りするように倒して、地面に叩きつけられるような衝撃を最大限和らげた。全力で足ブレーキ。タイヤが石畳に摩り下ろされるのではないかというほどの摩擦音。ゴムの焦げ臭い匂い。十数メートルほど走って。

 やっと、自転車は止まった。

 観光客らしき周囲の人々のざわめきの中。みやげ物屋の店員たちも何事かと店の暖簾の奥から顔を覗かせていた。

 忠夫の腰にしがみついていたタマモがゆっくりと顔を上げた。

 

「なにか…………弁明はある?」

 

 怒気に満ち満ちた声だった。死ぬかと思った。普段気丈な彼女とはいえ、流石に今のは堪えたらしく目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 大きく息を吐く忠夫。まいったぜ、と諸手を上げる。

 

「今の道、まだまだインフラが整備されてなかったみたいだな」

「道じゃなかったわよ!」

 

 怒声を張り上げ、伸ばした手で忠夫の首を締め上げる。

 

「ちょ、や、やめろ……っ」

「なんであんたは毎度毎度人の寿命縮めるようなことばっかすんのよ! 自転車の整備くらいちゃんとしときなさいよ、ばかぁっ」

「わ、悪かった。ホントに悪かった。だ、だから首を絞めるなっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。

 奇異の視線を向ける周囲の人たちに対しては「ど、どうもすいません。お騒がせしました――!」などと笑ってごまかし、そそくさとその場を退散してきた。

 トンカントンカンと、みやげ物屋街の外れで自転車を叩く音が辺りに響いていた。

 

「どうなの?」

 

 タマモは縁石の上にへたり込んでいた。さっきの運転で腰が抜けたらしい。今は近くの店で買ってきた缶ジュースを飲みながら、自転車を直そうと躍起になっている忠夫を眺めている。

 

「だめだこりゃ、フレームからリムから全部ゆがんでやがる」

 

 忠夫は手ごろな石をハンマーのように用いて自転車のゆがみを直そうとするが、どうしようもならない。墜落の衝撃で分解しなかっただけマシだろう。

 

「それよか、体はもう大丈夫なのかタマモ」

「ええ、もう大丈夫よ」

 

 ほら、と立ち上がる。

 

「そっか……悪かったな、怖い思いさせて。おまえに怪我が無くてよかったよ」

 

 殊勝にそんなことを言う忠夫。

 だから、コイツは油断なら無いとタマモは思う。不断はひねくれたような言動が多い中、時折こっちがドキリとするほどまっすぐな気性を見せる。

 

「べ、べつにいいわよ。なんだかんだでちゃんと私のこと守ってくれたしね」

 

 こいつといるとトラブルばかりだが、なんだかんだで最後はうまく事を収めてしまうのだ。悪運と無駄にあふれるバイタリティーがそうさせているのだろうか。

 

「そっか」

 

 石を放り投げ、体のこりを解すように大きく背伸びをする。そして朗らかな笑顔を浮かべて。

 

「さ、温泉行こうぜ」

「――って、自転車は!?」

「完全にオシャカだ。どうしようもなんねえよ」

「か、帰り道はどうすんのよ」

「そのときになったら考えよう。今は温泉に入って旅の疲れを癒そうぜ」

「あんたその行き当たりばったりな性格なんとかなんないの?」

「まあまあ、いざとなればヒッチハイクでもなんでもして帰りゃあいいじゃないか」

「ああ、それもそうね、ヒッチハイ――…………ねえ、最初からそうすれば野宿してまで自転車漕いでくる必要なかったんじゃないの?」

「さあ、さっさと温泉行くぞ」

「聞きなさいよ、ねえ」

 

 

 

 

 騒がしくも目的地である人骨温泉郷にやっとの思いでたどり着いた二人。

 

 

 

 

 ――これから更なる珍騒動に巻き込まれることになるとは二人は未だ知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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