ヨコシマ・ぱにっく!   作:御伽草子

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【02】

 

 

 

 

 

 

 

 人骨温泉。

 温泉に人骨なんぞというおどろおどろしい名前を冠してはいるが、その由来は諸説さまざまある。例えば、湯に落ちた木の枝が温泉に含まれる石灰質によって真っ白に染められ人骨に見えたのが由来という話などがあるが、今のところ真意は定かではない。高血圧や高血糖に効き、湯に含まれる硫黄成分が美肌効果を促すため、遠方から若い女性などが訪れることもある人気の温泉である。

 温泉を楽しみ、宿泊するための施設がいくつもあるが、その中で一頭目立つのが人骨温泉スパーガーデンである。まさにホテルといった概観で、安価で止まれる部屋もあれば、少しお高いが豪奢な部屋で潤沢なサービスと贅沢な時間を過ごせるワンランク上の部屋もある。最上階のスカイラウンジにはレストランがあり、前面ガラス張りの開放的な店内からは聳え立つ御呂地岳の景色が見える。そんな中で食事に舌鼓をうつのは非常に贅沢な時間の使い方だろう。もちろん温泉も中々のものだ。天然温泉の男女別大浴場と露天風呂を完備しており、観光客に人気の宿泊施設である。

 フロントに少年と少女がやって来ていた。

 少年は十四,五歳くらいで、少女は十歳くらい。兄妹のように見えるが、二人の容姿は兄妹と括るにはいささか無理があるように思える。少年のほうはこう言ってはなんだが、ごくごくありふれた容姿をしている。醜男ではないが端麗な容姿かというと首を傾げてしまう。十人に聞けば悩んだ末に三人が頷き七人が「そうでもないかな」という結論に落ち着くだろう。無闇矢鱈なバイタリティーというか、活力が内からあふれ出ているようなギラギラとした雰囲気があり、それを好ましく思う者はいるだろうが、万人受けするような要素ではないだろう。

 しかし少女のほうはというと、まるで御伽噺の中から飛び出してきたようなかわいらしい顔立ちをしている。その証拠にラウンジにいる客もちらちらと視線を向けては感嘆のため息をついている。長い髪を後ろで九つにまとめたボリュームのある髪型だ。慎ましい気品はまるで日本人形のように見えるが、西洋人形のような華やかさも併せ持つ、不思議な魅力のある少女だ。兄妹のように見えるが兄弟には見えない。そんな不思議な関係の二人だった。

 

「申し訳ありませんが、横島様は午後六時にご到着のご予定とお聞きしておりましたので、まだお部屋のご用意が出来ていません」

 

 申し訳なさそうに話すフロント嬢。

 ちなみに今は午後一時。五時間も早く来てしまったようだ。

 

「……だとさ」

「自分で予約したチェックインの時間くらい覚えてなさいよ」

 

 横島タマモは兄代わりである横島忠夫にじとりと呆れた視線を向けていた。

 普段住んでいる東京から遠く離れたこの街に自転車で来るという強行軍を果たし、意気揚々と宿泊場所であるホテルに来てみればこれである。出鼻をくじかれた気分だった。

 

「よろしければ、急いで部屋を用意させますが」

「いやぁ、そこまでしてもらうのはワルイっすよ」

「そうね。ちょうどお昼時だし、どっかでご飯食べて時間までぶらぶらしてましょうか」

 

 フロント嬢からの申し出をやんわりと断り、荷物(とはいってもバックパックが一つだけ)をフロントに預けて、いったんホテルを出ていく忠夫とタマモ。

 そういうことなら、とフロント嬢に勧められたおいしい料理屋をめざしてぶらぶらと歩いている。

 

「すぅー、はぁー。空気がウマイな」

 

 歩きながら深呼吸を繰り返す忠夫。

 森や山に囲まれたこの土地は、都会の排気ガスにまみれた大気とは違い空気が澄んでいるように思える。

 先導して歩く忠夫に対して、タマモは少し後ろを歩いている。そっぽをむいて景色を眺めているように見えるが、ツンとすまし顔だ。

 

「あんたじゃ新緑の匂いも排気ガスの匂いも対して違いなんか分からないでしょ」

「んだよ、タマモ。ずいぶんご機嫌ナナメだな」

「べーつーにー」

 

 すまし顔で忠夫の横を通り抜けるタマモ。どうもなにかに拗ねているように見える。

 時折タマモは急に不機嫌になる。

 忠夫は考える。

 どこにタマモの怒りのツボがあるのかまだいまいち分からないでいるのだが。今回は俺がチェックインの時間を間違えたことだろうか。しかしホテルを出る時点ではお互いに軽口を交し合っていたし、そんなに機嫌が悪かったようには見えない。だが歩いているうちに少しずつ口数が少なくなり、今ではこの有様だ。道端の石を蹴っ飛ばしながら歩いている。なんだそれは、なにかのアピールか。後姿から不平がましい雰囲気をばしばし感じる。

 どうやらタマモの機嫌が悪くなったのは料理屋に向かって歩いている最中にだんだんと、というのが正しいだろう。

 多分だが。

 タマモは今なんとなくイライラしている、というのが正しい気がする。やっと温泉に入ってゆっくり休めると思ったらお預けされた。最初はまあいいかと思っていたが、まるでそれが呼び水みたいにイヤな思いをしたことを次々に思い出していったのではないだろうか。一度暗い気持ちになるとどんどん深みに嵌っていくみたいに悪いことばかり考えてしまうものだ。

 鬱々とした気持ちがどんどん溜まっていき発散できずに外にこぼれだしている、というのが今のタマモの状態だと忠夫は推測する。

 ……やっぱり俺が原因か。

 引き金を引いたのはチェックインの時間を間違えたことのようだ。

 どこか突き放すような雰囲気のタマモの背中を見ながら、忠夫はガシガシと頭をかく。

 しょうがねえなあ、と思う。

 こういうところが気難しいというか、面倒くさいというか、普段大人びているのに時々子供っぽいというか。いや、間違いなく子供なのだが。

 家族なんだから言いたいことがあればどんどんぶつけてくれればいいのにと思う。しかしこれが不器用だがこれがタマモ自流の甘え方なのだとも知っている。

 

「タマモ」

 

 忠夫はタマモに歩み寄った。

 タマモが振り向く。

 

「なによ」と全部言い切る前に。

「え、ちょ……」

 

 タマモの手を握った。そのまま上に引っ張り上げると身長差から、タマモの体が地面からわずかに浮いた。

 

「よっと…………やっぱ軽いなお前」

「ちょ、ちょっと急になにすんのよっ」

 

 困惑気味に怒鳴るタマモ。

 忠夫は口の端をニッと持ち上げた。

 

「久しぶりに手でもつないでみるか」

「はぁ……?」

 

 急に何を言うんだろうコイツは、とでも言いたげな視線だ。

 タマモを地面に下ろす。つないだ手をタマモの視線の高さに下ろす。

 

「手だよ、手。昔、まだお前がウチに来た頃はよくつないでただろ」

「だからってなんで今なのよ!」

「気にすんな。ほら、行こうぜ」

「ちょっと、やだ、恥ずかしいからヤメなさいってばっ!」

 

 聞く耳持たずというか、タマモの言葉を無視して手をつないだまま歩き始める忠夫。

 まるで仲の良い子供同士がやるみたいに、つないだ手を歩みにあわせて前後に大きく振っている。そんな自分たちを見る周囲の人たちのほほえましそうな視線。

 

「~~~~~~~っ!!」

 

 タマモは赤面したまま無言で爆発した。

 

「あ、ちょっとまてコラ、俺の足を蹴るな、あいてっ、いてぇって!」

 

 忠夫の足を靴の上からがしがしとスタンピングするタマモ。それから逃げるため、足をひょこひょこと動かす忠夫。それを見ていた道行く人たちはモグラたたきみたいだな、と思いながらクスクス笑っていた。

 しばらくして。

 ついにタマモもあきらめたのか、黙って手をつないで歩いている二人。

 とぼとぼ。

 とぼとぼと、歩いていて。

 ふいにタマモが。

 

「…………ありがと」

 

 ぽつりとつぶやいた。

 それに忠夫は「おう」とだけ答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事を終えた二人は街を散策していた。

 教えられた料理屋で出された料理は確かに美味だった。店内の座席はほぼ埋まっていた。その中には観光客もいたかもしれないがそのほとんどが地元民だったらしく、しゃべる言葉に訛りが混じっていた。レストランというよりは大衆食堂といった料理屋で、メニューには値段の安い家庭料理がずらりと並んでいた。忠夫はソースカツ丼を、タマモはきつねうどんを頼んだ。ソースカツ丼に使われていたカツは箸で切れそうなほどやわらかく、甘辛いソースと口に入れたとたんあふれる肉汁が、脳の奥までガツンと来るほどウマかった。タマモの頼んだきつねうどんも煮干でとったダシがよく効いており、ひとすすりでつるんとのどの奥に運ばれるようなのどごしが良かった。タマモにとっては何より大好物のおあげが大きかったのがうれしかったらしい。

 満足した二人は、腹ごしらえがてら商店街やみやげ物屋を見て回っていた。

 中でも物珍しかったのは、風鈴の屋台である。

 縁日などではおなじみだが、手押し車の屋台を実際に見たのは初めてだった。庇のついた手押し車に、ぶどう棚のように組まれた竹にいくつもの風鈴が吊るされていた。金魚や西瓜、花火など、さまざまに絵付けされた風鈴は見ているだけで心が和み、緩やかな風が吹くたびに鳴り響く音色は心の奥に染み入るように清涼な響きが辺りに響き渡った。もう一つ面白いことがあるとすればその屋台のオヤジさんだ。ひょろりとした痩躯で、屋台の横で裏返したビールケースにどっかりと座っている。口にはキセルをくわえていて、目深にかぶった麦藁帽子により表情をうかがうことは出来なかった。風鈴の屋台とセットでずいぶん懐古的な格好をしている。ほんの少し昔の映画の中から飛び出してきたような姿だ。

 ひょっとすると。

 親父さんのそれは衣装のようなものではなかろうか。例えばトレーニング器具を売る場合、やせ細った男より筋骨隆々の男がテレビで宣伝していたほうが売り上げが伸びるだろう。そうやって売り手自らがどこかノスタルジックな雰囲気をかもし出し、風鈴に対する購買意欲を高める効果があるのではなかろうか。

 いわばこれは高度な営業戦略と言えるのだろう。

 

「――……だから、つい買ってしまったんだ」

 

 手の平に乗るくらいの大きさの木箱に入っているのは金魚の絵柄の風鈴。定番だ。

 

「ずいぶん長い言い訳だったわね。そもそもウチにはもう風鈴あるわよ。あれほど無駄遣いするなって言ったでしょ」

 

 値段は1550円也。

 無駄遣いを母親にしかられているような構図だが、中学生の男が小学生くらいの女の子に滔々と説教されている姿は存外に情けないものがあった。

 時間は午後三時。

 のども渇いてきたし、どこか適当なカフェか甘味処にでも寄ろうかと思った時。

 不意に。

 ――背筋がぞわりと震えた。

 そこは街の中でも駅や商店街などがある活気がある場所だ。ボーリング場やカラオケなどの娯楽施設なども集中しており、道行く人も多く、車通りも比較的多い。

 忠夫たちの目の前には五階建てのテナントビルが建っている。建物の壁面から突き出した袖看板にそれぞれの階に入っている会社の名前と連絡先がでかでかと書かれていた。

 忠夫は目を凝らす。

 ビルの五階、証券会社の名前が書かれた袖看板の上で、蠢く影がある。それはまるでサルのように見えた。肉が骨に張り付いているのではと思うほどに細い手足に、頭だけが異様に大きく見える。

 それは看板の上で長い手足を闇雲に振り回して踊っている。

 いや、違う。踊っているのではなく、あれは……っ。

 忠夫はとっさにビルに向かって走りだす。

 次の瞬間、袖看板の取付金具がひしゃげて壊れた。およそ二十メートル強の高さから落下する看板。その真下に女の子が一人いた。高校生だろうか。紺色の制服を着ており、教科書を読みながら歩いている。彼女は落ちてくる看板に気づいていない。看板の重さは三十キロ近くあり、下敷きになれば命の保障は無い。

 

「くぉのおおおおおおおおおお――――っ!」

 

 忠夫は女の子を抱きかかえ、すばやくその場から飛び退る。

「ぎゃっ」女の子から短い悲鳴が上がる。なにが起こったのかと目を白黒させ、次の瞬間。

 がしゃぁぁぁぁぁぁんっ!

 けたたましい破裂音のようなものが周囲に響き渡った。

 地面に叩きつけられた看板は粉々に砕け、アスファルトの地面には陥没したようなひび割れが走る。びりびりと大気が振るえ、割れた看板のプラスチックの破片がぱらぱらと周囲に舞い落ちる。

 道行く人たちが、一瞬シンと静まりかえる。

 

「た、忠夫っ!」

 

 タマモの叫び声が響く。途端に音を取り戻す景色。

 

「お、おい、大丈夫か君たち!?」

 

 白いワイシャツを着たサラリーマン風の男が、忠夫と少女に駆け寄ってきた。

 忠夫は少女を抱きかかえるようにして、地面の上にへたり込んでいた。安堵に汗を拭う忠夫。少女のほうはというと呆然自失といった様子で、自分がさっきまで立っていた場所――落ちてきた看板によってアスファルトが砕かれた歩道――を眺めていた。

 

「おい、あんた!」

「あ、な、なんだ?」

 

 忠夫の誰何の声に、ハッと我を取り戻す少女。

 

「怪我はっ?」

 

 忠夫が尋ねると、少女は惚けたような表情のまま自分の体をぺたぺたと触り始める。その時になってようやっと死ぬかもしれなかったという実感がわいてきたのか、わなわなと震えはじめた。顔面を蒼白にさせ、自分の体を強く抱きしめて体を縮こまらせる。

 

「あ、あの、あの…………あ、ありが、ありが……っ」

 

 助けられたという事が分かったのか、目の前の少年に感謝の言葉を述べようとする。しかし震える歯が噛み合わないため、うまく言葉に出来ない。

 

「礼なんかいいさ。怪我は無いみたいだし良かったな」

 

 肩を軽く叩き、安心させるようにやわらかく笑う忠夫。少女は何度も無言で頷いた。

 忠夫はキッと頭上を見上げる。睨みつけるような視線は看板を落とした異形のモノへと向けられている。サルのようにも見えた黒い影は未だそこにいた。両手足をビルの壁に張り付け、蜘蛛のような体勢でこちらを胡乱げに見下ろしている。雰囲気で伝わってくるのは悪意と害意といったどろどろとした負の情念だ。それは死んだ後の人の魂が、なんらかの未練をもってこの世を彷徨っている霊と呼ばれる存在だ。しかしその中でも生きている人々に害を成す、悪霊と分類されるものだ。

 悪霊は誰も怪我をしなかったことが不満なのか目を細め、もう要は無いとばかりに体をたわめて跳ね飛んだ。黒い影は電柱を足場に、民家の屋根を飛び越えて去っていく。

 

「んのヤロウ……ッ」

「忠夫!」

 

 タマモが駆け寄ってきた。

 

「この子についてやってくれ」

 

 とだけ伝えると、「まかせなさい」と頷くタマモ。その視線は悪霊の消え去って行った方角を冷ややかに見据えている。彼女もおおよその事情は分かっているようだ。ついでに。

 

「徹底的に痛めつけてから地獄に蹴り落としてきなさい」

 

 とか命令口調で付け足してくるあたり、コイツも大概おっかねえ性格をしていると忠夫は思う。

 財布と手荷物と先ほど買った風鈴をタマモに預け、悪霊の気配――霊気を頼りに追跡を開始する。あまり離れた場所にいる霊は察知できないが、先ほどの悪霊はまだ忠夫の索敵の範囲内にいる。しかしそれもギリギリだ。少しのタイムロスがそのまま悪霊を見失うことにつながりかねない。

 まずはあの悪霊をとっ捕まえて、看板の下敷きにされそうだった女の子に土下座させてやろう。

 看板を人目掛けて落とした悪霊の真意は不明だが、どう考えても人間に対して友好的な理由はないだろう。生きている人間に害を成すから悪霊なのだ。今回のことは未遂に終わったが、このまま行けば無差別の傷害事件へと発展しかねない。

 あともう一つ許せないことがある。

 あの悪霊は立ち去る間際、女の子を助けた忠夫をしかと見て、看板を避けた後の安堵感に地面にへたり込んでいる姿を見て。

 ……指差してケタケタと笑いやがった。

 

「この横島忠夫様をおちょくってただですむと思うんじゃねえぞゴラァァァァァッ!」

 

 びっくりするほどの沸点の低さである。

 怒号と共に地響きを起こしそうな勢いで走る忠夫。それはまるで突貫する猪のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ずっと一人だった。

 遠い。

 遠い、昔。

 私は山の噴火を治めるために人柱となった。

 霊となった私は本当なら地方の神さまになるはずだった。

 しかし神さまになることはできず、成仏もできないまま、ずっとこの土地に縛られ続けてきた。

 人恋しくなって時折山から村に下りてきた。誰かと話すわけでもなく、小高い丘の上から人々の営みをひっそりと眺めるだけの時間。

 時代の流れと共に人々の服装が変わり、住む家も変わってきた。村が街になり、人々の暮らしは確実に変わっていた。

 人々の生活を見るたびに、どうしようもなく一人だということを思い知らされてしまう。

 やめなきゃ、と思うが人恋しさに蓋をすることは出来なかった。せめてそうしなければ孤独におしつぶされてしまいそうだったから。 

 春の暖かな日差しを感じることができない自分の体がもどかしかった。

 生命の活気に満ち溢れた山の夏景色の中で、自分だけが取り残されている気がした。

 落ち葉入り混じる秋の風に巻かれて消えてしまえればどんなによかっただろうか。

 舞い落ちる雪たちは何も答えてくれない。山を覆いつくす一面の白銀の世界に飲み込まれて自分も真っ白になりたかった。

 そうすれば何も考えないですむ。そうすれば、もう苦しまないですむのに。

 

 

 

 くるしいよ。

 さみしいよ。

 だれか。

 だれか……。

 たすけて。

 

 

 

 いつまで続くともしれない魂の牢獄。

 この孤独から助け出してほしかった。

 三百年。

 三百年も待った。助けなど来ないのはとうに分かっている。

 待って、待ち続けて……待ち疲れた。

 それでも私はどうしようもない暗闇の中で手を伸ばす。

 誰かにその手をつかんでほしくて。

 目を瞑っても、その誰かの姿は思い浮かばない。この世界に、私を知る人間はいなく、また私が知る人間は誰もいない。この世界に一人きり。未来永劫一人きり。

 

「よお」

 

 暗闇の中で声が聞こえた。

 だれ?

 と目を開ける。この世界には私しかいないはずなのに。私がいるのを知るのは私だけのはずなのに。

 目の前に男の子がいた。

 まばゆいばかりの夏の輝く景色の中で。

 そっと手を伸ばしてきた。

 

「待たせたな。さあ、俺と一緒に来な」

 

 それはずっと待っていた言葉だった。何度も夢想しては、その度にせつなさと虚しさがこみあげてきた。

 暗闇の中に一筋の光が差し込んだ気がした。

 私は。

 その手を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なにがどうしてこうなった?

 横島忠夫は混乱していた。

 悪霊の逃げた方向につっ走っていて霊の気配を感じた。そこは街の中心街から飛び出して、小川にかかる橋を渡って農地の向こうから感じる。田んぼのあぜ道から農道に外れた先にある崖の上だった。崖といっても高さは二十メートルほどだろうか。回り道して山を突っ切れば行ける距離だ。忠夫が霊の気配に向かって藪を掻き分け、木の根っこを飛び越えては、岩から岩へ飛び移るという野生動物のような動きをしている最中も霊の気配は動くことは無かった。

 アッチは忠夫が近づいていることに気づいていないのか、それとも気づいた上で待ち伏せしているのか。

 後者なら面白い。罠なら正面からぶち破っている。

 獣じみた笑みを浮かべながら、崖の上にたどりついた忠夫。そこからは街が一望できた。

 霊は、そこにいた。その後ろ姿に向かって、荒げた声をぶつける。

 

「よおよおよお、待たせたなぁオイ!」

 

 高らかに声を上げながらポケットに手を突っ込んで、肩で風を切るようにゆらゆらとした足取りで近づく忠夫。

 

「さあ、俺と一緒に来な! まずはテメェが怖い思いさせた女の子にワビいれろやワビッ! イヤというなら五臓六腑に痛みという痛みの概念をぶちこんで――」

 

 893の人もかくやというくらい恐ろしくドスのきいた声で悪霊を恫喝していて。

 ふと気づいた。

 ――悪霊?

 には、とても見えない。 

 目の前にいるのは自分と同い年くらいの女の子だ。

 気配から見て幽霊には違いない。しかし先ほどのサルのような姿の人間霊とは似ても似つかない可愛らしい女の子の幽霊だ。緋袴に白衣といった巫女装束。長い黒髪で、周囲には人魂が浮かんでいる。

 ――やべ、間違えた。

 霊の気配を追っかけてきたら、全く別の霊だった。

 おまけに出会い頭に罵倒するという痴態を演じてしまった。

 しかも、なんだ。

 ――この子、すっごい泣きそうになってる!

 忠夫は心底焦った。幽霊とはいえ相手は女の子。脅して泣かせてしまったなどとタマモの耳に入ったりしたら、それはそれは大変不幸な目に合わされることだろう。

 すぐさま謝ろうとして。

 ……手をつかまれた。

 

「へ?」

 

 素っ頓狂な声を上げる忠夫。

 精神体であるはずの幽霊が物に触れるという時点で驚きだが、問題はそこじゃない。

 女の子の幽霊は忠夫の手にすがりつくようにつかんでいた。ぽろぽろと涙をこぼしながら忠夫の手を離すまいとしっかり握り締めている。

 

「ひっく……えぐ……っ」

 

 嗚咽をこぼしている。何かも言おうとするが言葉にならない。

 状況が良く分からない。

 だが幽霊のまま成仏せずにこの世に残っているということは、なんらかの事情があるのだろう。

 

「まあ、なんだ……その」

 

 かける言葉が見つからない。忠夫は彼女のことを何も知らないのだから当然だ。

 

「元気出せ。な」

 

 無難に一言。

 女の子の幽霊は忠夫の顔を見上げた。涙に潤んだ瞳に心臓が跳ねうった。

 涙は女の武器だというが全く持ってその通りだと思う。

 

「……………………さみしかったっ」

 

 女の子の幽霊はそれだけ言うと忠夫の胸に顔をうずめて声を上げて泣き始めた。

 

 

 

 

 ――いや全くもって、どうしてこうなった。

 状況が未だ全く飲み込めない。取り逃がした悪霊もさっさと追いかけないといけない。しかし自分にすがり付いて泣いている女の子を放っておくわけにもいかず、忠夫は彼女の頭を慰めるように撫でていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある夏の日のこと。

 山の袂を吹き抜ける涼風の中。

 偶然紡がれた一つの出会いがあった。

 同じ時代にたくさんの人たちが生まれ落ちては死んでいく、幾星霜と続く命の連鎖。連綿とつながる時代の移り変わりの中で、たくさんの国があり、たくさんの人が生きている。そんな中でたった一人の大切な誰かと出会う。それは数え切れないほどの偶然の上に成り立っている一つの奇跡だ。

 そこに時代を超えた出会いがあった。

 現代を生きる霊能力者、横島忠夫。

 三百年前に人柱になった幽霊の少女キヌ。

 

 

 

 

 それはとても大きくてとても小さな出会いの奇跡だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 人骨温泉の名前のいわれについては、長野県の白骨温泉の名前の由来(とされている説の一つ)から持ってきました。

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