空には満天の星空が広がっていた。
湯に体を沈め、手足をいっぱいに伸ばすと全身に痺れるような心地よさが広がり、酷使してきた体の疲れが湯に溶けて消えていくような錯覚さえする。
「くぁ~、さいっこうだなぁ」
感嘆のため息を漏らす横島忠夫。
彼は今、人骨温泉スパーガーデンの露天風呂にいた。
岩で形作られた浴槽に、湧き出している白濁した湯はしっとりとした肌触りがする。岩に背を預ける。
「夏場に温泉ってのもどうかと思ったんだけど、やっぱ来てよかったな、最高だわこれ」
体から力を抜き、湯の中にゆらゆらと揺蕩うような感覚はゆりかごに揺られているような眠気がする。
ほう、とついた息は涼やかな夜風の中にまぎれていく。
「…………これで酒の一杯でもありゃあ最高なんだけどな」
などと中学生にあるまじき発言をしている。
「湯に浮かべた桶の中にお銚子をお置いてよぉ、お猪口に注いだ酒を湯煙に陰る月に翳してから、一気にきゅうと煽る。そうするとどうだい、芳醇な酒の香りが喉の奥からふわりと上がってきて、次いで喉がカァと焼けるように熱くなるんだ。体の芯からほっこりと温まってきて、ほろ酔い気分でふわりふわりと夢心地よ。吐き出した吐息の中に入り混じった酒の香りが夜風にさらわれて、あの満天の星空の向こうに紛れて消えていく。それを温泉につかったままの俺は見て感じて思うんだ。ああ……これが極楽ってやつなのかってな」
「口上が長い! 横目でこっちをちらちら見ながら催促するでないわ!」
忠夫の横には見知らぬ老人がいた。湯に浸かっており、長い白髪を頭の後ろでまとめている。彼に寄り添うように湯に浮いた桶の中にはお銚子とお猪口が入っている。
忠夫はそれを物欲しげに見つめながら。
「極楽ってやつなのかってな」
「…………ああ、分かった分かった。ほれ、一杯だけじゃぞ」
三分ほど見つめていると、ついに根負けした老人がお猪口を差し出してくる。
「そっか、見ず知らずの人に催促したみたいで悪いねホント」
「催促しとったろうが」
とんでもないガキじゃ、と呟く老人。いつのまにか忠夫はお猪口を握り締めており、そこに渋々と酒を注いでやる。
ちなみに今日この時間に初めて会った老人だった。図々しいにもほどがある。
忠夫はお猪口に注がれた酒を煽る。
こいつはうまい。
この齢で酒の味が分かるとはある意味末恐ろしい少年だった。
「ほふぅ……、このすばらしき時間を分け与えてくれた見知らぬじいさんの親切に乾杯」
「まったく、おぬし一体齢はいくつじゃ? えらく堂に入った飲みっぷりじゃったが。子供のうちから酒なぞ飲んでいては頭がバカになるぞ」
「まあまあ、硬い事言うなよ。ほれ、じいさんも一杯どうだい?」
「わしの酒じゃろうが」
今度は忠夫が老人に酌をする。お猪口になみなみと注がれた酒を見て老人は呆れたように苦言をもらす。
「まったく分かっとらんのぉ、お猪口に酒を注ぐときはお猪口にお銚子を乗せないように注ぐもんじゃぞ。あと量も多すぎじゃ、せめてお猪口の八分目くらいにしておけ」
「細けえことはいいじゃねえか」
まったく、と呟きながら酒を煽る老人。
「ところで、じいさんはどこから来たんだい。奥さんと慰安旅行か何かかい?」
馴れ馴れしい口調で忠夫が尋ねると、老人はふんと面白くなさそうに鼻息を漏らす。
「わしゃあ一人身じゃ、妻なんぞおらんわい」
「へー、んじゃあ一人旅とか?」
「仕事じゃ、仕事。この温泉には仕事で来とるんじゃ。プライベートじゃあ、わざわざこんな山奥の温泉くんだりまで来ないわい」
一人でゆっくり飲ませろと、続ける。
犬猫を追い払うようにシッシと手を振るう仕草をするが、忠夫は気にせず続けた。
「はっはっは、そりゃあそうだな。じいさんには人骨温泉なんて名前の温泉はゲンが悪そうだもんな」
「おいこらクソガキ、そりゃあどういう意味じゃ。老い先短そうだって言いたいのか。骨になるのも時間の問題だって言いたいのか」
快活に笑う忠夫に、老人は胡乱な視線で睨みつける。ちなみに忠夫に悪気はない。
――その時だ。
「わぁ、ひっろーい!」
「ホントだぁ、早く入ろうよ!」
などという声が風に乗って聞こえてきた。張りのあるかわいらしい声だ。
衝動的にバッとそちらに視線を向ける忠夫。視線をさえぎるための五メートルくらいの竹垣がある。
その向こうは、女湯だ。
忠夫は水音を立てないように迅速に温泉から出ると、腰を落としたまますばやい動作で竹垣に近づく。まるでジャングルの奥地で孤軍奮闘を演じる歴戦の兵士のような無駄の無い動きだった。
竹垣の前で耳をそばだてる。
「しっかしケイコってば大学入ってから更に胸大きくなってない」
「うん。ワンカップ大きくなったかなぁ」
「な、なんでだと、まだ大きくなるっているのっ」
「きゃ、やだちょっとも揉まないでよぉっ」
「肌の張りも弾力も抜群ですって……つ、うらやましいぞ、このこの!」
「もうっ、やだぁっ」
竹垣の前に張り付いたままの忠夫は鼻息を荒くしていた。なるほど、興味深い話だと、まるで論弁を講ずる哲学者のような神妙な面持ちで何度もうつむく。鼻の下が伸びきっているのが情けない。
女子大生。温泉。裸。
以上三つのワードによって、導き出された答えは明瞭簡潔だった。
「ここでやらなきゃ男じゃねえ」
すなわち、のぞきだ。
――こんなおいしそうなエサぶら下げられて大人しくしてられるほど聖人君子じゃねえんだよ俺は。
決意が横溢する瞳。それは覚悟を決めた男の顔だった。
ストレッチを開始する忠夫。柔軟体操は体を動かす前の基本中の基本だ。おいっちに、さんしー、と屈伸をする。
と、そこで気づいた。
「……おい、じいさん。あんたなにしてんだ?」
忠夫の横で老人も屈伸をしていた。枯れ木のような体だが最低限の筋肉はしっかりついている。ずいぶん高齢に見えるが、それにしては鍛えてある。先ほど言っていた仕事とやらが関係しているのかもしれない。
老人はさも当然のことのように答えた。
「ここでやらねば男がすたる」
こいつも鼻の下が伸びていた。
「へ、エロジジイめ」
「ぬかせ小童。わしゃあまだまだ現役なんじゃよ」
そして顔を見合わせ俯き合う二人。
「ついてこれるかよ、じいさん」
「ふん、おぬしこそ遅れるなよ」
獲物を見定めた野生の獣のようなぎらぎらとした雰囲気が二人の間に走る。核になっているのが劣情というのが情けないことこの上ないが、二人ともこれから戦いに赴く戦士の顔だった。
二人はそうっと移動を開始する。
夜闇の中に浮かび上がる行灯風のライトの煌々とした明かりが、立ち上る湯気をきらきらと輝かせていた。その中でうごめく影が二つ。腰にタオルを巻いただけの裸の男二人がしのび足でこそこそ移動する様子は怪しいことこの上なかった。
男湯と女湯の境は高い生垣によって隔てられている。とりあえず竹と竹の間に隙間は無いかと探してみるが見当たらない。流石に男湯側からの竹垣はのぞき見防止のため徹底的に隙間を埋めてあるのだろう。
『ち、さすがに隙がねえな』
声を潜めて老人と言葉を交わす。
『ふん、ならあきらめるのか』
『冗談ぬかせ』
忠夫は顎でそちらを見るように促す。
『見てみな、あっちは崖になっている』
忠夫の示した方向は露天風呂の入り口から見て一番奥になる方向だ。そこにはぽっかりと夜の闇が口をあけていた。昼間なら切り立った御呂地岳や遠く彼方に連なる山々の姿を眺望できる場所だ。女湯もおそらくその崖側だけは何の隔たりもないだろう。
『しかし危険じゃぞ』
崖をつたって女湯まで移動する。言う易し行うは難し。下手をして足を滑らせれば崖下に真っ逆さまだ。
忠夫は不敵な笑みを零した。
『スリルを楽しまないでなんの人生だってんだ。平坦なだけの刺激の無い日常を過ごしていたら心が腐っちまうぜ』
バイタリティーとチャレンジ精神にあふれた言葉だが、この場においては目的が情けなさ過ぎた。
『……ふん、まさかこのような場でおぬしのような気骨のある者に出会うことにあるとはな。世の中事の他面白いように出来とるわい』
忠夫の言葉に感心したように何度も頷く老人。こちらも大概常識のタガが外れている。
ふわっとした曖昧な理由で命がけの策動をする二人。彼らの不幸を上げるとすると、頭のネジの緩み具合と、この場にバカの凶行を止める良識ある人間がいなかったことだろう。
忠夫が先行する形でミッションを開始する。
まず露天風呂から崖へと続く柵を乗り越える。
ごつごつとした岩の感触や小石が食い込むような痛みが足の裏から伝わるが、その程度で歩みを阻害されるほどやわな鍛え方はしていない。
崖の端ぎりぎりまで近づいて、崖下を覗き込む。そこは崖というよりは山の急斜面といったほうが正しいだろう。しかしかなりの急勾配だ。危険なことに変わりは無く、足を滑らせようものならそのまま転がり落ちてしまうだろう。
慎重に足を進める忠夫。老人もその後をついて恐る恐る移動している。
崖のふちぎりぎりの位置まで、男湯と女湯を隔てる竹垣は続いていた。そこさえ乗り越えれば女湯をのぞける位置に行ける。身をのけぞるようにして竹垣を超える忠夫。
そして、そろそろと女湯の目の前にある背の低い生垣の後ろに隠れる。
ちゃぷん、と水音が聞こえた。
「わあ、いいお湯~」
「肌がきれいになる効能があるらしいわよ」
「わ、そうなんだ。じゃあたっぷり浸からないとね」
そんな声が聞こえた。湯煙がかぶる向こうに女子大生たちの裸体が待っていると思うと期待が膨らまずにはいられない。
――さあいよいよ天女達の園を拝ませてもらうぜ!
意気揚々と生垣の隙間から女湯を覗き込もうとして。
「それにしてもキミって肌がすごく白いわね、うらやましいわ。この温泉には家族と一緒に来たの?」
「キミ、すっごいかわいいよね! ねえねえ、名前はなんていうの?」
「…………タマモです」
――緊急警報発令、戦術的撤退を開始する!
バレたら殺されると思った。
つか、あいつはたしか、しばらく部屋でごろごろしてからホテルのみやげ物屋を見てるとか言ってたはずだ。なんでもう温泉に入ってるんだ。
『おい、どうした、さっさとのぞかんかい。後がつかえてるんじゃぞ』
『戻るぞ、じいさん』
『はぁ? ここまで来てなんでじゃ?』
『厄介なやつがいる。下手にのぞこうとしたら速効バレちまう』
『知り合いか?』
『妹だ』
『大丈夫だ、バレやせんて。こっちはちょうど風下になるから湯煙で隠れられる』
『バレるんだよ、アイツは耳と鼻と勘が良いから』
『なんじゃそりゃ、野生動物じゃあるまいし。とにかく、わしは覗くぞ。ぐふふふふ、若い子女たちの裸体、この眼にとっくりときざみつけてくれる』
『ふざけんなよジジイ! 俺の妹の裸は干からびたミイラに見せてやるほど安いもんじゃねえんだよ!』
『誰が干からびたミイラじゃ!? おぬしの妹ってことはまだ子供じゃろうが。興味ないわいそんなツルペタ!』
『んだと!? じいさんがいい歳ぶっこいて色気づいてんじゃねえぞ! 大人しく盆栽でもいじってやがれってんだ!』
『なんじゃと、このうらなり瓢箪が! おぬしこそガキはガキらしく道端に落ちている艶本にでも胸をときめかせておれ!』
『あぁ?』
『おぉ?』
ひっつかみあってグダグダと揉める二人。
言い合いが罵り合いに変わり、ガンくれあって、語気も荒くなってきた。取っ組み合って、声も上がり調子でだんだん大きくなる。
……当然ながら、そんな騒がしい調子では、隠れている意味などない。
「ね、ねえ、ちょっと変な声が聞こえない?」
「もしかして……のぞき!?」
ハッ、と肩を震わせる忠夫と老人。
しまった。
――逃げるぞ!
――当然じゃい!
アイコンタクト。
脱兎のごとくその場を離脱する。
我先にと女湯と男湯の垣根を越えようとして……、それが致命的に悪かった。
思い出してほしい。男湯と女湯を越えるためには崖のぎりぎり際まで竹垣が続いていた。崖との間は人一人がギリギリ通れるかどうかのスペースしかない。
そんなところにを慌てて二人の人間が通ろうとすれば、どうなるか。
……デットヒートを繰り広げるレーシングカーがカーブを曲がる際に接触事故を起こしたようなものだった。
「げ!?」
「んがっ!?」
二人の体は出入り口でぶつかり、二人そろって崖に投げ出された。
崖下は黒い穴のようだった。二人の眼下には夜の闇がぽっかりと口を開けている。忠夫はとっさに突き出た岩をつかんで崖下への転落を免れる。老人も忠夫の足をつかむことで落下することはなかった。
『~~~~~っ! おい、じいさん無事か!?』
『な、なんとかの。頼むから手を離さんどくれよ』
『当然だろっ』
その崖は切り立ってこそいないがかなりの急勾配だ。手を離せば、たちどころに崖下まで転がり落ちることだろう。忠夫はぞっと身を震わせながら、さっさと男湯に戻ろうする。
ぐぐっと腕に力をこめて、体を持ち上げようとして。
ぼこ、とつかんでいた岩が真っ二つに割れた。
「おおぅっ!?」
ぐらりと崩れる体勢。忠夫は慌てて他につかむ所が無いかと探ってみるが、もはや間に合わなかった。
「「ひぃぃぃぃぃぃっ!?」」
……そして二人仲良く崖を転がり落ちていった。
女湯ではしばらくの間、女性二人が耳を済ましていた。
「声……聞こえる?」
「いや、聞こえないわね」
「気のせいだったのかな?」
「う~ん、ひょっとしたら夜鳥かなにかだったのかもしれないわね。よくよく考えたらアッチって崖だし」
「そうだよね。いくらなんでも崖を越えてまで覗きをする人なんていないよね」
そんなふうな結論を出した女性二人を尻目に。
タマモは湯船に浸かっていた。湯に浸からないように結い上げた髪に、たたんだタオルを頭にのせている。
冷ややかな視線は、崖のほうに向けられていた。
それから、ぽつりと。
「バカねぇ、ホント」
ため息交じりの一言は、女性二人に届くことなく夜の闇の中にまぎれて消えた。
人骨温泉スパーガーデンでチェックインを済ませ、忠夫たちが案内された部屋は十二畳の和室だった。部屋の中央には木の長机があり座椅子がある。床の間には山河が描かれた掛け軸が飾られ、床框にはテレビが置いてあった。このテレビというのがちょっとくせものだ。ブラウン管のテレビの側面にはコイン投入口があり『30分100円』と書いてある。お金を入れないとテレビが見れず、見ている最中にも入れた金額分の時間を過ぎると電源が落ちてしまうのだ。
障子で区切られた向こうには板張りの広緑があり、丸テーブルをはさんで向かい合うように二つの藤椅子が置いてあった。
部屋の隅に置いてある冷蔵庫には注意が必要だ。中には冷えたジュースがぎっしり詰まっているが、これらは全て有料だ。冷蔵の扉には張り紙がしてありそれぞれのジュースの値段が書いてある。しかもこれが若干割高になっており、これならホテルの一階にあるジュースの自動販売機で買ったほうが安く済む。
ホテルとしては一般的な内装だ。
今現在、風呂から上がった横島タマモは夕食をとっていた。机の上には刺身の盛り合わせや疣鯛の煮付け、天ぷらや鍋といった海の幸や山の幸をふんだんに使った豪奢な料理が並んでいる。
温泉から上がり、浴衣を着たて料理に舌鼓を打つタマモ。
ちなみに忠夫はというと。
「あのさ、タマモ。俺もそろそろ腹減ってきたからメシ食いたいんだけど……」
「誰が正座崩していいって言ったのかしら?」
「すみません」
おあずけをくらった飼い犬のように、部屋の隅で正座をさせられてた。
女湯をのぞくのに失敗して崖から転がり落ちた後のことだ。
神がかった悪運の良さでかすり傷だけですんだ忠夫と老人の二人は這々の体でホテルに戻ってきた。さすがに二十メートルほどの高さの急斜面を転がり落ちた恐怖と疲労で足ががくがくと震えていた二人であったが、更に問題があった。二人とも腰にタオルを巻いただけのほぼ裸だったことだ。さすがにこの姿でホテルに正面から入るわけにはいかない。そんな姿で何をしていたと問われれば、さすがになんと切り替えしたらいいのか分からない。素直に女風呂をのぞきに行ったら誤って崖から転落しました、などとぶっ飛んだ奇行を正直に告げようものなら間違いなく警察に通報される。
そこで二人はホテルの裏口からこっそりと入るという手段を選択した。リネン室を通り抜け、人目を避けるように温泉まで移動して、体についた泥を落として、着替えてからなんとか部屋に戻った。
そして。
部屋の扉を開けた忠夫を待ち構えていたのは、腕組みをして素敵な笑顔を浮かべるタマモだった。
この瞬間、事の露見を確信した忠夫は即座に逃亡を開始するが、その動きを予測していたタマモの動きは素早かった。タマモが手にしていた浴衣の帯をカウボーイばりのロープワークで首に巻きつけ、忠夫はもんどりうってその場に転倒。首を帯(縄)で括られたまま部屋に引きずり込まれる様は、精肉場に連れて行かれるのを察知して泣き叫ぶ子牛のようであった。
「あの、そういうわけでして私めはそろそろ件の悪霊を探しに行こうと思っております」
ずいぶん腰が低い。
一時間近くにわたるタマモからの説教と食事のおあずけはだいぶ堪えたようだ。
「悪霊ねえ、まあたしかに放っておくわけにはいかないわよね」
頷くタマモ。
話は夕方近くに現れビルの看板を落とし通行人を巻き込もうとしてた悪霊のことだ。忠夫が追跡をしたが諸般の事情により姿を見失った。しかしあの手の悪霊は殊更にタチが悪い。土地を不法に占拠していたり、自分のテリトリーに近づくものを攻撃する、というならまだ悪霊の目的はハッキリしているし近づかなければ怪我をすることも無い。しかし今回の場合は、悪霊自らが街中に出向き人を害し様としていた節がある。
「そういや、あのとき看板の下敷きになりかけた女の子はちゃんと保護されたんだろ?」
「ええ、警察がやってきてね。聞いた話によると原因不明の事故がここ最近多発しているみたいね。死人こそ出ていないけど、事故自体はだんだんエスカレートする傾向にあるみたいよ」
「なるほど」
神妙な顔で俯く忠夫。その事故が全て悪霊の仕業だったとすると危険だ。最初の事故はイタズラとよべるほど稚拙なものだったらしい。例えば学校帰りの小学生がいきなりランドセルを引っ張られて後ろに転倒したり、突然足を引っ張られたりといったことだったらしい。それがだんだん空から植木鉢が落ちてきたり、交差点で突き飛ばされたりと、一つ間違えば冗談ではすまされない事態へと発展してきた。
そして今回の看板の落下は、あと一歩忠夫が少女を助けるのが遅れていれば人命が失われていたかもしれない事件だった。
「さすがに警察や自治体もおかしいと思ったのか、今回の一連の事件を霊の仕業と過程して少し前からゴーストスイーパーに調査を依頼していたらしいわ」
ゴーストスイーパーとは悪霊などの魑魅魍魎を駆除する現代の悪魔祓いのことである。ちなみに忠夫も霊能力者であり、ゴーストスイーパーの見習いといえる。
「ゴーストスイーパーに?」
「ええ、結構ご高齢らしいけど、還暦を過ぎてからも第一線に立ち続けている著名な人物らしいわ。さすがにおじいちゃんほどじゃないと思うけど」
タマモの言うおじいちゃんとは彼らが今住んでいる家の家主であり、現在は海外での除霊仕事(という名のバカンス)に出かけている忠夫の霊能の師匠のことである。
だから、とタマモが続ける。
「べつにあんたがわざわざ解決に乗り出さなくとも事件は解決すると思うわよ。プロのゴーストスイーパーがすでに動いているっていうんだから」
ゴーストスイーパーへの依頼は非常に高額な報酬が必要となる。収入が大きなためみだりにその資格を悪用するものが現れないよう、ゴーストスイーパーの資格を手に入れるためには非常に難解な試験をパスしなければならない。
ゴーストスイーパーとはいわば、その難解な試験をクリアして幾多の霊能力者の中から選ばれた霊能のエキスパートと呼ばれる人物なのだ。
たしかに忠夫が関わらなくても事件は解決するかもしれない。
しかし、忠夫はその言葉に対し首を横にふった。
「そうかもしれないけどよ、俺の目の前で人一人が死にそうな目にあったんだ。黙って他の誰かが事件を解決するのを待っているなんて性に合わねえし、俺が遊んでいる間に誰かが殺されたりしたら目覚めが悪いったらないしな」
その言葉に。
タマモは忠夫の瞳を慮るように、じっと見つめたままだった。
ふう、とため息をつく。
「……ま、あんたならそう言うと思ってたわよ」
変なところで意地っ張りというか、頑固というか。
それによ、と忠夫。若干震えている。
「あんの悪霊を俺が取り逃がしちまったまま、他の誰かが仕留めたなんて話があの師匠の耳に入ってみろ。地獄の折檻が待っているだろうが」
「あー、それはそうね。むしろそっちがあんたの本音でしょ」
想像しただけで顔を青ざめているあたり、相当にその折檻がキツイというのがうかがい知れる。
いやなことを思い出したと、頭をふってその想像を吹き飛ばす。
「ま、まあ、というわけで、だ。俺はこれから悪霊を探すために夜の山に入ってくる。昼より夜のほうがヤツらの領分だ。ただ闇雲に探すよりは見つかる可能性も高いだろう」
それは分かってるけど、とタマモ。彼女も忠夫がその辺の木っ端霊に遅れを取るとは思っていない。忠夫はこれでも霊能力者としては十分一流の力を持っているのだ。しかし、彼女の心配はそれとは別のところにある。
「……大丈夫なの? 夜の山に素人が行くなんて危険じゃない?」
タマモの言う事はもっともだった。
熊や猪といった野生の動物の危険もあるが、なにより足場が悪い。突き出した岩や、波打つように地面を這う木の根、場所によっては崩れやすい場所もあるし、草むらを掻き分けていたら突然崖が口を開けていた、なんて話も聞いたことがある。
「大丈夫だ。そこについては頼りになるガイドがいる」
「ガイドぉ、こんな夜遅くに?」
「ま、そこは心配しなくても大丈夫だってことだ」
要領を得ないが自身ありげに忠夫がそう答えるのだ、たぶん大丈夫なのだろう。
それならいいけど、とタマモ。
しかし、言葉とは裏腹にどこか不満そうだ。
「はは、ホントに心配すんなって。それによ」
「……それに?」
「明日はちゃんと約束したとおり、一緒に高原に遊びに行こうぜ。忘れてないから安心しろよ」
タマモはぷいっとそっぽをむいた。
「ああ、高原ね。そういえばそんな約束もあったかしら。すっかり忘れていたわ」
平坦な声でそんなことを言った。今さっきまで忘れていた、と言いたげな口調だ。
「なんだよ、つれないこと言うなよー。高原行ってウマいソフトクリーム食おうぜ!」
「あー、はいはい分かったから。行くならさっさと行きなさいよ」
シッシッと手を振るタマモ。
「いや、出かける前にメシ食いてえんだけど。さすがにこのまま山登りなんてしたら空腹でぶっ倒れちまう」
「それもそうね。ちゃんと反省した?」
「おう、したした、すげーした」
「ちなみに何についての反省かしら?」
「女湯をのぞいたことについて」
「もうしない?」
と、タマモがたずねると、ツイと視線をそらす忠夫。
こいつ……。
「まぁだ反省が足りないのかしらぁっ?」
「あーウソウソ! ほんとしない、絶対しない」
言葉がヘリウムガスより軽い。同じような機会があったら絶対再犯するだろうが、今この場はこれで納めてやるか、と嘆息するタマモ。
「たく、しょうがないわね……ヨシ、もう食べていいわよ」
まるで犬に対しての躾だった。
忠夫は苦笑いを浮かべ、「わん」と言ってから食卓についた。
夏だというのに夜の山は肌寒い。
遠くから聞こえる気味の悪い泣き声は、動物にそれほど詳しくない忠夫には判別できなかった。一歩一歩しっかり地面を踏みしめるように歩く。頭には自転車用のヘルメット。ヘッドライトの明かりが心細げに夜の山道を照らしている。木々が群れる山の奥をライトで照らしてみると、時折光る瞳がこちらを伺っているのが見える。ずいぶん背の低い動物のようだ。おそらくハクビシンやタヌキだろう。
耳元で聞こえる蚊の羽音が耳障りだ。ライトには紫外線をカットする特殊なフィルムを張っているおかげで蛾や虻といった虫は寄ってこないが、体温を感知して寄ってくる蚊などには意味がない。一応虫刺され防止のスプレーを大量に吹きかけているが、それもどこまで効果があるかは分からないだろう。
しかし虫より怖いのがヘビだ。とくにマムシは夜行性なので草むらなどを歩くときは注意が必要だ。杖のように長い木の棒を持ち、地面をトントンと叩きながら歩く。これはヘビに対して威嚇の効果があるので、突然噛まれる可能性はグッと減るだろう。
……やっぱり、夜じゃなくて昼に来ればよかったかなぁ。
ついつい後悔しそうになる忠夫。
夜の山道を歩くというのは、思ったより神経を使う作業だ。ついでに、というかこちらが本命なのだが、悪霊の気配を探るため意識を集中しなければならない。霊からは霊波と呼ばれるものが出ている。これは霊力を感知できる霊能力者なら程度の差はあるが察知できるものだ。水面に波紋が広がるように、ある程度離れていても霊の存在は感知できる。
すると。
「ん?」顔を上げる忠夫。
霊の気配だ。
悪霊?
いや、違う。これは。
「お待たせしました、横島さん」
ふわりと、空から巫女装束の女の子が降りてきた。
傍らに人魂が浮いている。夜の闇にまぎれるような長い黒髪で、可愛らしい顔立ちの幽霊だ。
「お、待ってたぜ。悪いね、おキヌちゃん。わざわざ来てもらってさ」
おキヌと呼ばれた幽霊の少女は、はにかみながら答えた。
「いえ、いいんですよ。私もこうやって誰かと一緒にお出かけするのってすごく久しぶりだからホントにうれしくて……」
えへへ、と小さく笑うキヌ。
「はは、そりゃよかった。出かけるっていってもちょっと色気の無い目的だけどね」
「ええ、この山のことなら私に任せてください。なにせ三百年もここで暮らしてきたんですから」
朗らかに微笑みながら、胸を張って言うキヌ。
正直、このあたりの話については「そうだね」と同調して笑っていいのか判断に迷う。昼間の孤独に震えて泣いている姿を見てしまったから尚の事だ。
「よし、じゃあ先導はおキヌちゃん、任せたぜ!」
「はい、任されました。それじゃあ私に着いて来て下さいね」
宙を舞い、移動するキヌ。忠夫はキヌの後をついて歩き出す。
忠夫はまだこの少女のことをほとんど知らない。昼間聞いた話だと、三百年前に人柱になったこと。神になれず、さりとて成仏もできずにずっと地縛霊として過ごしてきたことと。知っているのはそれくらいだ。
柔らかな微笑の似合う女の子。
そんな彼女が一体どんな思いでこの三百年間を過ごしてきたのかを、まだ生まれて十五年足らずの人生しか送っていない忠夫には、想像だにできない時間だったのだろう。
「なあ、おキヌちゃん」
「はい、なんですか?」
「せっかくだからさ、もっとおキヌちゃんのこと聞かせてくれよ。この山のこととかさ。きっと冬なんかはあの尖がった山なんかに雪が積もってきれいなんだろうな」
「は、はい! そうなんですよ。春なんかは菜の花がたくさん咲くきれいな場所があってですね――……」
顔を輝かせて話す彼女。ずっと話し相手に飢えていたのかもしれない。本当にうれしそうにしている彼女の顔を見ているとこちらまで楽しい気持ちになって、ついつい目的を忘れそうになってしまう。
「あ、横島さん。そこ木の枝が道に飛び出しているから注意――」
「あいたぁっ」
「きゃあ、ごめんなさい! 私がもっと早く言っていればっ」
「い、いや、ちょっと驚いただけだから」
横島忠夫とキヌ。
霊能力者と幽霊という、ある意味対極に位置する二人の、少しばかり摩訶不思議な悪霊探しの探検が夜の山で始まる。