「おキヌちゃん!」
忠夫がキヌの元に戻ると、そこにはキヌと小さな毛むくじゃらの獣がいた。
「ちょっとダメ、これ横島さんのものなんですー!」
忠夫のリュックサックを胸に抱きしめて守ろうとしているキヌ。毛むくじゃらの獣はキヌからリュックサックをひったくろうとしているようだ。
「なにを……」
地面を蹴って獣に飛び掛る忠夫。
「しくさってんだテメエはっ!」
獣は忠夫の気配に気づき、すぐさまその場から離脱する。
「横島さん!」
「大丈夫だった、おキヌちゃん」
キヌをかばうように獣と相対する忠夫。獣は折れた樹の幹の上に乗っかりこちらを威嚇していた。雲の合間から月明かりが零れ、獣の姿を照らし出す。
「……お猿さん?」
キヌが獣の姿を捉えてそう言った。
猿。その獣は猿の姿をしていた。
一つ、普通の猿と違うことを上げるとすれば。
「動物霊、か」
動物霊。
その言葉の指し示すとおり、死後の動物の霊魂である。それぞれの土地の宗教観によってその捉え方は様々である。万物に魂が宿るとされる神道の考え方では、自然との結びつきが強いとされる動物の魂は古来より天災を引き起こしたり豊穣をつかさどるなど、人々に敬い畏れられてきた。
忠夫が動物霊と判断したとおり、その猿は生きているものではない。
その体はまるで黒い炎のように、輪郭が揺らめきたっている。ちりちりと肌をあぶるような奇妙な感覚が周囲に立ち込めていた。それは目の前の猿の霊から発せられるものだ。執念、妄念、言葉で表現するとそういった類の感情だ。死した魂がこの世にとどまり続ける理由は様々だ。理性と高度な知性を持つ人間にとってその理由は十重二十重である。金銭や法律などの人間社会の複雑な構造の絡んだ末の怨恨や、個人同士の諍いなど、細分しだしたらきりが無い。しかし自然の摂理の中で生きる動物にとって、死して尚、この世にとどまり続ける理由はもっと原始的で本能に直結したものなのではなかろうか。
忠夫が猿霊との間合いを調節するようにわずかににじり寄ると、猿霊もそれを警戒してか歯をむき出しにして警戒する。
「横島さん。あのお猿の霊が、横島さんが探していた悪霊ですか?」
「違う」
――違う。
キヌの問いかけに、忠夫はそうはっきり断言した。
「俺が昼間見た悪霊は人間霊だった。こいつじゃあない」
忠夫が昼間の悪霊に対して感じた怨念じみた敵意は、もっと汚泥のようにどろどろとしたものだった。複雑な感情が入り混じった粘りつくような気配は、人間霊特有のそれだ。
その時だ。
がさっと草むらの中から黒い何かが飛び出してきた。
「きゃっ」
キヌの短い悲鳴。
忠夫が振り向くと、そこには夜の森を先ほどまで追いかけていた霊の姿があった。
「て、こっちも猿ぅっ?」
忠夫が先ほどまで追いかけていたのも猿霊だったらしい。
猿の霊が二匹。
突然草むらから飛び出してきた猿霊はキヌの持っていた忠夫のリュックサックを奪うと、もう一匹の猿霊とともにすばしっこい動きで樹の上にするすると登っていく。
「あ、このヤロ待ちやがれ!」
忠夫の静止の声もなんのその。体をのけぞらないと見上げられないほどに高い樹木の上で二匹の猿霊はこちらを見下ろしていた。
『キキッ!』
しかもさっきまで脅されていたことの仕返しとばかりに折った小枝や小石を投げつけてきた。
「やめろ! この、いてっ」
夜の闇にまぎれた小石や小枝は避けることは難しかった。しかも高い樹木の上から落ちてきているため落下速度も加わり地味に痛い。
猿霊は溜飲も下がったらしく、一瞬こちらを見てから、小ばかにするように一度鳴き声を上げた。そしてあっという間に樹から樹の枝へと飛び移り夜の森の中へと姿を消してしまった。
「ご、ごめんなさーい! 私がボーとしてたせいで横島さんのリュックサック盗られてしまいました!」
キヌが深々と頭を何度も下げる。思わずこっちが恐縮してしまいそうなほどの勢いだ。
しかし忠夫とは言うと。
「ふ、ふふふふふふふふふふ……っ」
笑っていた。不気味に、底冷えするような声で。
「よ、横島さん?」
キヌが恐る恐る顔を覗きこむ。
「猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた……――」
ぶつぶつと経文のように何事かを呟いている。
一匹の猿霊が忠夫を引きつけ、その隙にもう一匹の猿霊がリュックサックを奪い取る。単純だが効果的な手法だった。
そして簡単に出し抜かれた忠夫は。
「それは俺の脳みそが猿以下だってことかっ!?」
こじつけとも言いがかりとも思える角度でブチ切れていた。
「逃がさねえぞあのエテ公ども! 俺をおちょくってくれた礼はウン万倍にして返させてもらうぜ、さあ行くぜおキヌちゃん!」
「は、はい!」
意気軒昂というか怒髪天をつくというか。
激した様子で走り出す忠夫と、それを追いかけるキヌ。猿霊二匹の追跡を開始する。
軽快な身のこなしで立ち木やぬかるんだ地面の上を苦もなく走る忠夫。山の中を全力で疾走するには平地を走るときとは全く別の技術が必要だ。重要になるのはバランス感覚と危険を察知する勘の良さである。山は平地などの整備された道とは違う。踏み込めば腐葉土の地面は足の形に沈み込み、木の根や地面から突き出した岩など、足をとられる障害物が無数に点在している。層のように積み重なった落ち葉の下は一体どうなっているのか、目視だけで判断するのは困難である。腐葉土の地面も硬い部分とやわらかい部分とがあり、それによって踏み出した足の感覚が微妙にずれる。負担がかかるのが足首だ。踏み込んだ足が思いも寄らぬ角度で上下左右に曲がるため、山歩きに慣れた者でないと足を痛めてしまう。
忠夫が山の中を危なげなく走ることができるのは……わずかな時間で走れるようになったのは、野生の動物じみた勘の良さ、としか言いようが無かった。
「でも横島さん、あのお猿さんたちがどこにいるか分かるんですか?」
忠夫の横を宙を飛びながらキヌが話しかける。
彼女にとって樹木や障害物などは避ける必要がない。実体の無い幽霊であるため、すり抜けてしまうのだ。
「正確な位置は分からない。まだ俺が霊波を察知できる距離外にいるみてえだ……だけど遠くはない」
「え、どうして遠くないって分かるんですか?」
「あの猿の霊はなんでわざわざ人間を襲ったと思う?」
忠夫の問いかけにキヌはうーん、と頭をひねる。
「人間に恨みがある、とかですか?」
「いや、もっと具体的な理由さ。リュックサックの中に入っている食い物を奪うためだ」
忠夫が背負ってきたリュックサックにはいざというときの非常食やサバイバル道具が入っていた。霊とはいっても素体は猿なのだ。他の動物霊に比べ、知性は高いとはいえ猿がサバイバル道具を必要として、それを狙ってくるとは思えない。パンやスナック菓子といった非常食を狙ったと考えるほうがよっぽどしっくりくる。
「でも、幽霊じゃ食べ物なんてあってもしょうがないですよ」
私だって食べれないですし、と彼女自身も幽霊であるキヌ。
彼女の疑問はもっともだった。幽霊は基本的に食事をとらない。とれない、といったほうが正しいだろう。実体がないので当然だ。
「おかしい点はそこさ。なんで死んだ後まで食べ物を必要とするのか。俺がこの人骨温泉に来る前に立ち寄ったスーパーでもちょうど食い物に対して執着持っていた霊が悪さしていたんだよ」
忠夫が思い出すのは、自転車でこの街に来る道中に立ち寄ったスーパーでの一幕だ。食べ物など食べられないくせに異常なほどの執着を見せていた悪霊と遭遇した。どうやら生前、まともな食事を取れなかったことからの反動から、死して魂だけとなった後も食べ物を求めて彷徨っていたらしい。
「じゃあ横島さんは、あのお猿たちもそうだと?」
「かもな。でもどうも違うように感じるんだ。食欲ってのは人間だけじゃなく生き物全てにとって生存本能に直結した欲求の一つだ。食欲が原因で死んだ後も魂を縛り続けられると、本能的、言い換えれば直情的な行動をとりやすくなる。だけどあの猿の霊は違った。二匹そろって連携じみた行動をしやがる。とても本能だけで行動しているようには見えやしねえ」
「えっと、つまり……」
「つまりあの猿の霊たちは食欲以外の未練が原因で死んだ後もこの世にとどまってる可能性が高いってことだ」
あくまで推測だけどな、と続ける忠夫。
「そうすると、なぜ幽霊なのに食い物を狙うのか、って話に戻ってくる。さっきから山を走っていて思ったんだけどよ、なんかこのあたりに入ってから急に生き物の気配が少なくなったと思わないかい?」
「そういえば……」
キヌは周囲を見渡してみる。幽霊である彼女にとって夜の闇の中を視認することはそれほど苦になるものではない。
「このあたりに生えているのはほとんど杉の樹だ。多分元々生えていた樹じゃなくて人の手で植林された人工林じゃねえの? 杉や檜は木材として高値で取引されているっていうしな」
「あ、そういえば、50年位前にすごくたくさんの樹が切られたことがあったような気がします」
「たぶん大戦後の建て直しのために伐採されたものじゃねえの。それで丸坊主になっちまった山に新しく植林したはいいけど、そのまま放っぽといたんだろ。おかげでロクに手入れもされないまま、日照条件最悪の不健康な森の出来上がりってわけさ」
二人が走る森は確かに二十メートル以上はあろうかという高々とした杉の樹の枝葉によって、まるで天に蓋をされたように空が見えなかった。木漏れ日のようにわずかばかりの星明りが差し込んでいるだけだ。これではまともな陽光が森の中に差し込むことはなく、植物の生育条件としてはかなり悪いだろう。
風通しの悪いその森の中の空気は湿っぽくて肌にまとわりついてくるような不快なものだ。森に横溢する湿気のため、周囲にはむせ返るような濃い緑の匂いによって包まれている。
「あの猿の霊たちは地縛霊の類なんだろ。少し足を伸ばせば食べ物が豊富にある森に行けるのに、このあたりから離れることが出来ないから……」
「だから、近くにやって来た人間から食べ物を奪ったんですね」
「そ。つまりあの猿の霊どもはここからそんなに遠くない場所にいるってことだ。地縛された場所から離れられないってんならな」
そう締めくくると、キヌが感心したように「ほへ~」とため息を漏らした。
「すごいです、横島さん! そこまで考えているなんて!」
「おうおう、もっと褒めてくれてもいいんだぜ!」
などと調子に乗っていると大概痛い目をみるのがこの男だ。
「よ、横島さん、前!」
「は? ――ふがッ!」
ガアンと体に衝撃が走る。
ふらふらとのけぞるように地面に倒れ込む忠夫。
ぶつかったのは……壁?
いや、これは崖のようだ。
「つっ、つぁっ、つぅ……っ」
「大丈夫ですか横島さん!?」
慌てて駆け寄ってくるキヌ。
忠夫は突然目の前に峭立した岩の壁を涙目で睨みつける。鼻頭を結構強くぶつけたため、鼻の奥にをつんざくような痛みが残っている。
「は、はんでほんなほほろひはへははふんはひょお……っ!?」
「な、なに言っているのかぜんぜん分からないです…………よ、横島さん、あ、アレ! あれ、見てください!」
突然キヌが驚いたように叫んだ。
「はへ、ってなひ……ごぺっ!?」
忠夫の首をつかんで無理やり指定の方向に向かせる。かなり危険な角度で極まっていた。彼は断じてふくろうではないので、扇形の角度に曲がるような首の造りはしていない。
キヌはよほど驚いているらしく、現在進行形で自分が忠夫に行っている苛烈な仕打ちと、口から泡を吹いている忠夫の様子に気づいていない。
「ほ、ほら、あれですよ、あれ!」
更に忠夫の首を上下にゆする。
問答無用の追撃だった。
――あれ、あれってなに? 視界が真っ白に染まってて何も見えないんだけど。
かなり危険な兆候だ。
そろそろ止めてやらないと本当に死ぬ。
「横島さん、どうし……ひぃっ!」
痙攣しだした忠夫の様子で、やっと気づいたキヌ。白目を剥いている忠夫を見て、慌てて手を離す。
「ご、ごごごごごごごめんなさい! よ、横島さん、しっかりしてぇっ!」
「だ、だいひょうぶ……だいひょうぶ……」
頭をふり、散り散りになりそうだった意識をゆっくりとかき集める。幾分か回復してから、キヌを見つめ、真剣な表情で。
「俺はキミが怖い」
「ひ、ひぅ!」
「まあ、冗談は置いておいて」
「冗談? ほんとーに冗談だったんですか」
「置いといて」
「本当にごめんなさーい!」
キヌが先ほど忠夫に見せようとしていた光景がそこにあった。
忠夫の背丈ほどもある大きな岩が崖下に転がっていた。崖の上から落ちてきたものだろうか。元は更に大きかった岩が落下の衝撃で砕けたらしく、大岩の周囲に大小いくつかの岩が転がっている。
「これは、骨?」
忠夫が注視したものは、大岩の下敷きになっていた骨らしきものだ。人間に比べるとずいぶん小柄だ。多分だが、猿の骨。それも二体分。
「ひょっとしてこれがさっきの猿の霊の亡骸か? なあおキヌちゃんはどう思……」
「ひっぐ……ぐすん、ぐすん」
泣いていた。ひょっとしなくても泣かしたのは自分だった。
「ちょ、ごめん、おキヌちゃん! 本当にもう怒ってないから!」
「ち、違います、私、横島さんにひどいこと……っ」
「大丈夫大丈夫、本当に大丈夫だから。このくらいでどうこうなるほどヤワな体してないから!」
ほうらこんなに元気だぞー、と体操のお兄さんばりに高らかに叫びながら、ボディビルディングのポージングをしたりする。
「むん、ほ、は……どうだ!」
「ほ、本当にもう大丈夫ですか? 無理とかしちゃだめですよ?」
「ノープロブレム」
「のーぷろぶれむ、ってなんですか?」
「問題無いってことだ」
そういえばこの子横文字とか知らなさそうだ、と忠夫。
キヌ自身は三百年以上昔の人間だからしょうがないことなのだが。
「とにかく、こいつがさっきの猿の霊たちの亡骸ってことでいいのかな?」
「そう、だと思います」
忠夫は崖の上を見上げた。高さは三十メートルにほどだろう。岩はかなりの大きさで表面には緑の苔が生えている。崖っぷちが岩盤ごと崩れて落ちてきた、というのが妥当だろうか。
「そういえば、一週間くらい前に結構大きな地震がありました」
と、キヌが言う。
一週間。
なるほど、夏場でこれだけ湿度の高い場所なら、死骸が白骨化するのには十分な時間だろう。
地震によって崖の一部が崩落して、この猿二匹はそれに巻き込まれ命を落としたということか。
「それなら合点が行くな。このあたりの森に食べ物がないなら、あの猿の霊たちはなんのためにこの森にいて、なぜ命を落としたのかってのが分からなかったが、それなら納得がいく」
「供養してあげればあのお猿たちは成仏するんでしょうか?」
痛ましそうに猿たちの亡骸を見つめながら、キヌが尋ねてきた。
同じく死んで幽霊となっている彼女にとって思うところがあるのだろう。
「いや、あの猿たちがどんな未練を残してこの世に留まっているのかを見つけない限り、成仏させることは難しいだろうなあ。問答無用で退治するってんならともかく」
霊の退治。すなわちゴーストスイーパーの領分である。
「退治……っ、それしかないんですかっ?」
「あー、ほらほらそんな顔するなって。自分の意思で成仏できるってんならそれに越したことはないしな。なによりまずは俺のリュック取り戻さねえと」
おキヌの肩を叩く。
「さ、まずはあの猿の霊どもを探してとっ捕まえねえとな。話はそれからだ」
「……はいっ!」
その時だ。
がさがさと藪がゆれる音が聞こえた。
「――っ!」
忠夫はキヌをかばうように前に出る。藪の方向だけでなく油断なく周囲を警戒する。
藪の中から出てきたのは……。
「キッ」
猿だった。
「で、出た!」
キヌが叫ぶ。
忠夫もとっさに掴みかかろうとして……違和感を感じた。
「ん、こいつは」
意識を集中、よく目を凝らす。
猿は踵を返してその場から立ち去ろうとする。
忠夫は霊力で強化した脚力で素早く猿に近づき、その尻尾を掴んだ。
「キキッ、キーキー!」
「……霊、じゃないな。本物の猿だ」
尻尾を持ち上げてまじまじと見つめる。
猿は逃げようとジタバタともがいているが、忠夫の手から抜け出せないでいる。
「あ、かわいい。子供のお猿だ」
キヌの言うとおり、どうやらコイツはまだ子供らしい。
先ほどの猿霊と比べても体躯は一回りも二回りも小さい。小さな体にくりくりとした大きな瞳が可愛らしい。
「……こいつ、ひょっとして」
忠夫は小猿を見つめながら思考をめぐらせる。二匹の猿の亡骸に、小猿が一匹。そして何かの未練を残しているように食べ物を集める猿の霊たち。
――そうか、そういうことか。
「あ、横島さん。この子怪我していますよ」
キヌの言葉通り、この小猿は怪我をしていた。右足の骨折と、擦過傷。目立つ怪我はそれくらいだ。
「あー、しまったリュックの中になら治療道具も入っていたんだけどな。包帯は……ハンカチ破ればなんとかなるとしても、薬はなあ」
「あ、それならなんとかなります。ちょっと待っていてください」
そう言って、キヌは宙を飛んで森の暗闇の中、来たのとは別の方向へと飛んでいった。
しばらくして。
「ありましたー」
キヌが戻ってきた。
手に持っているのは小さな植物だった。緑色の葉っぱで、茎からはいくつもの花のつぼみがなっている。何輪かはすでに咲いており、黄色い小さな花だ。
「これを揉んで傷口に塗りつければ薬になりますよ」
「へー、薬草か。実際に使うのは初めてだな……いて、こら暴れるな。今から治療してやっから」
いまだ忠夫の手の中で猿は暴れていた。このままじゃ治療どころではない。
「横島さん。そのお猿、私が抱いていますよ」
「ん、でもこいつ結構暴れるぞ」
「ふふ、大丈夫ですよ。私幽霊ですもん、怪我なんかしません」
「……そっか、じゃあ頼むよ」
キヌに小猿を手渡す。キヌは幼子をあやすように小猿を胸の中で抱きかかえる。
すると、どうだろう。
先ほどまでとは違って、暴れるのをピタリと止めた。いや、むしろ本当の母親の腕の中にいるような安心した表情だ。ゆりかごに揺られているように背中を丸め、眠っている赤子のようにおとなしくしている。
「こ、このヤロウ、俺のときは暴れまくったくせに。しかもなんてうらやましい体勢だ」
「え、うらやましいって?」
小猿を胸に抱きかかえたままのキヌが不思議そうに首をかしげた。
「イヤなんでもない、なんでもないんだ。さあちゃっちゃと治療を開始するか」
「あの、ちゃっちゃはいいですけど、丁寧にですよ」
「りょーかい」
骨は、特に異常ないみたいだ。これなら添え木で固定しといてやれば自然とくっつくだろう。薬草を揉み解して傷口に塗る。それからハンカチを破き、包帯代わりに巻きつける。
「ほい、完成」
「わ、ずいぶん手際がいいんですね」
「おう、修行って名前の拷問でしょっちゅう怪我しているからな。そのせいで治療ならお手のもんだぜ」
「え、しゅ、修行? 拷問?」
「今のは聞き流してくれていい」
嬉々として語るような内容ではなかった。思い出すだけで全身の血が引いていくような、鬱々とした思い出の数々に若干げんなりする忠夫。
『ギギィィィィィィィィィ――――ッ!』
ざわりと背筋が震えた。
突如夜の森に響いた。不気味な鳴き声。
一体どこから……!
「上っ!」
忠夫はとっさにキヌを押し飛ばした。
「きゃっ」
地面に尻餅をつくキヌ。
同時に、忠夫もバックステップ。
――次の瞬間。
ドスン! と地面が揺れた。
先ほどまで忠夫とキヌが立っていた場所にそれは落ちてきた。
それはまるで大岩のようだった。
三メートル近い巨躯はごつごつとした筋肉で覆われている。体から伸びる腕はタイヤのように太い。
一つの体に顔が二つある。
毛むくじゃらの頭から顔周りの皮膚だけがひょうたんの形に露出している。面長の顔に突き出た下あご。
「こ、こいつもしかして……」
ある意味特徴的な顔をしている。
信じられないが。
グリズリーみたいな馬鹿デカイ体から顔の部分だけ切り取って見てみると。
「さっきの猿の霊かよ!? なに、顔が二つあんだけど、二匹合体したの!?」
もはや別の生き物、というより怪獣だ。遊星からの侵略者といわれたほうがしっくり来る。宇宙ヒーローはどこだ。
『グググググググッ』
しかもどう見ても怒っている。
二つある顔はどちらも歯をむき出しにして威嚇してきている。そして体をバネのように撓ませ――。
「……げ!」
忠夫は弾かれたように横に飛んだ。
一瞬の差。
忠夫が立っていた場所を黒い突風が通り過ぎた。
忠夫は見た。猿霊が真横を通り過ぎていくのを。振るわれたその巨腕により、大地にどっしりと根付いていた杉の樹が粉砕される瞬間を――。
耳をつんざく破裂音とともに、支えを失った杉の巨木は自重により地響きとともに地面へと倒れこむ。
人間なんぞが巻き込まれたら一瞬でミンチだ。
「冗談じゃねえ……っ」
「横島さん!」
キヌの悲鳴が響く。その胸には小猿を抱えている。猿霊はその小猿を視界に捉えると、大きな咆哮を上げた。びりびりと肌を振るわせる大気の鳴動。ひりつくような怒気が周囲に撒き散らされている。
「ひぅっ!」
気圧され、後ずさるキヌ。
咆哮とともに襲い掛かる猿霊。
「行かせねえよ!」
しかし忠夫によって阻まれた。忠夫がバックスウィングの姿勢から放ったのは霊力の塊だ。雪を押し固めて氷の玉にするように、その圧縮された霊力は弾丸のように猿霊目掛けて放たれる。夜の闇を青白い残光が切り裂く。
猿霊はその巨体からは考えられないほどの速度でそれを避ける。
再び猿霊とキヌの間に距離が開く。
しかし猿霊はふたたびキヌに襲いかかろうとして。
「キーキー」
小猿の鳴き声によってその動きを止めた。
怒気に満ち満ちていた顔が徐々に穏やかさを取り戻していった。猿霊の姿が波打つ湖面に映したように揺らめく。次の瞬間には見上げるほどの巨体ではなく、二匹の猿の姿に戻っていた。
「キー」
「あ、お猿さんっ」
小猿はキヌの腕から抜け出して、ひょこひょこと怪我を押した拙い足取りで二匹の両親の元に向かう。
「とりあえず大丈夫っぽいな」
「横島さん。ひょっとしてあのお猿の霊とあの子って……」
「親子、なんだろうな」
親猿は死した後も怪我をして身動きが取れなかった我が子のために食べ物を集めていた。確たる答えはないがおそらくそういうことなのだろう。
猿の親子の間にいかなるやり取りがあったのかは分からない。
しかし二匹の猿霊はしばらく小猿と向き合った後、ゆっくりとその身を光の粒に変え昇天していった。
その瞳はずっと我が子へと向けられていた。
その成長を祝うように、これからの成長を祈るように。
「それで、おキヌちゃんはしばらくその小猿の面倒を見るのかい」
「はい。この子の怪我が治るまでですけど」
「キ?」
それ以上は小猿のためにも良くは無い。いずれ自分の力だけで生きていかなければ小猿にとって、それは過保護というものだ。
忠夫とキヌの二人は親猿の亡骸を埋葬した後、山を降りるために登って来た道を下っていた。忠夫の背中には奪われたリュックサックがある。あの後小猿がねぐらにしていたらしい小さな洞窟の中で見つけていた。キヌは小猿を抱えていた。
時間は夜十一時を過ぎている。
さすがにタマモはもう眠っているだろう。
自分もさっさと部屋に戻って眠りたい気分だ、と忠夫。今日一日で色々ありすぎた。自転車をこいでやっと人骨温泉郷にたどり着いたと思ったら、悪霊に遭遇するわ、夜の山登りをするわ、キングコングみたいなのと戦ったりと、体力の限界に挑戦しているのではないかと思うようなハードスケジュールだった。
「横島さんが探しているって悪霊は結局見つからなかったですね」
「ああ、そだなー。むしろ今出てこられても困る。今日はいい加減疲れた。また明日だ明日。今日はもう帰って寝る」
会社帰りのサラリーマンみたいなことを言いながらぐったりとした表情を浮かべてる。
「う~ん、私がちゃんと神様になれてればもっと横島さんの手助けも出来ていたと思うんですけど。こう神通力みたいな力で」
「そいつは無いものねだりってもんだぜ」
「そうですけど、ちょっと悔しいです」
そう言って顔を俯かせるキヌ。
忠夫は今まで気になっていた質問をすることにした。
「おキヌちゃんはさ……これからどうしたいんだ?」
「え、これからって、どういうことですか?」
「神様になりたい? 成仏したい? それとももっと他の生き方……ていうのも幽霊なのに変な話だけど……をしてみたい?」
「私は……」
キヌはそこで言葉を区切った。自分の気持ちを整理するように。
ゆっくり。
心の中で、ゆっくりと、考えて。
「成仏、したいです」
はっきりと告げた。
「…………じゃあさ」
忠夫は告げる。
「俺にまかせときな」
「……え?」
キヌが顔を上げる。
「地縛を解くことさえできれば成仏できるんだろ。だったら俺がなんとかしてみせる」
「で、でも――」
「任せろ」
「あ」
ずっと。
ずっとこのまま同じ時が続くものだと思っていた。
ずっと一人で、自分だけが取り残された時間の中で、ただ無為に過ごしていくものだと思っていた。
心のどこかであきらめていた。
寂しさで心が壊れそうだった。
だけど。
不意に差し伸べられた救いの手がここにあった。
任せろ、と言ってくれた。
その力強い瞳を見ていたら。
涙が零れた。
「ありがとう……ありがとうございますっ、わた、私」
言葉が詰まった。言いたいことがあるのにうまく言葉が出てこなかった。
星明りの下で、しばらくの間、孤独に打ち震えていた少女の鳴き声が響いていた。
「あの……ところで横島さん」
「ん?」
「さっき、私が小猿を抱いていたのを見てうらやましいって言いましたよね」
「う、それは」
「えっと……」
ちょっと戸惑うように視線をさ迷わせ。
頬を染め、やがて意を決したように。
「はい、どうぞ」
キヌは忠夫に向かって腕を広げた。
「なん……だと……?」
ハチャメチャな一日。
――ラストラウンド。
理性と本能による戦いのゴングが、今高らかに打ち鳴らされた。
そんな二人を見つめる視線があった。
遠く、小高いところにある一本杉の真上。それは黒く塗りつぶしたような人型で、輪郭は陽炎のように揺らめき立っている。
忠夫が探している悪霊だった。
『神?』
くぐもった、重く響くような声で悪霊は言った。
『神の、力。あの、幽霊に?』
途切れ途切れだが、はっきりとした言葉だった。
『ク、ククク……ククククク……――』
瘧のように体を震わせ、悪霊は笑いだした。
その鈍く輝く瞳はただ一点を見つめている。
人柱となってから三百年以上もの間、神になることが出来ず地縛霊として過ごしてきた幽霊の少女キヌ。
彼女には神の力を得るための切欠が眠っている。
それを、知った。
その悪霊が、知ってしまった。
彼には目的があった。死して尚この世をさ迷う理由が。決して誰にも譲れない怨念じみた執念が。
目的を達成するために、本当に必要なものが今目の前に現れた。
その事実に悪霊は嗤っていた。
『神の力、俺が、もらう、ぞ』
告げられた予言じみた言葉は、彼以外の誰にも届くことなく夜の闇へと消えていった。