川を水が流れる音がひどく耳障りだった。
体が鉛のように重い。
水を吸った衣服は全身を覆う重りのようだった。疲労感が全身を包み込み、足は自重を支えているだけで膝ががくがくと震えた。目が霞む。疲労感に今にも意識が飛びそうだった。
――なにが……あった?
自問する。
記憶が曖昧だ。今さっきまでのことが思い出せない。
周囲を見渡す。そこは河原だった。山の奥深いところにあるらしく木々の向こうに折り重なる緑の稜線が見える。河原の両岸から手が覆いかぶさるように樹木の枝葉が日の光を遮っていた。いくつもの樹の影が重なり、森の奥には黒々とした静寂を生み出している。
流れる水と緑の木々、そして夏の陽光が生み出す深遠な自然の景色。
ふらふらとした足取りで大きな岩のところまで歩いて行き、岩に背を預け、その場に力なくずるずると座り込む。体を支えるため地面に手を突くと、肘にズキンと痛みが走った。いや、肘だけではない。疲労感で気づかなかったが、全身のいたるところから鈍い痛みがする。この痛みは覚えがある。階段から転げ落ちたときの全身を滅多打ちにされったような痛みだ。
体中の痛みに、ずぶぬれの衣服、そして河原。
――ああ、そうか。
俺は……川に突き落とされたんだっけか。
覚えている。思い出した。
水の中を鞠のようにぐるぐると回転する感覚。どちらが上か下かも分からず、息継ぎすることすら間々ならず。川底から突き出した石にたたきつけられる痛みに、口や鼻から入ってくる水の苦しさ。
川幅が広がり水流が穏やかになってきたこの場所で、なんとか川から這い上がることが出来たこと。
――なんでだ、川に突き落とされたって、誰に?
意識が霞む。うまく思い出せない。
チチチ、と雀が足元に降りてきた。人間に慣れているのか、それとも人間とも認識されないほど存在感が希薄になっているのか。
重くなるまぶたに、ぼやけて細くなっていく視界。全身を覆う疲労感が、なんとか繋ぎ止めている意識を奈落の底に引きずり込もうとしているようだ。
寝るな思い出せ、と自身を叱咤する。
思い出せ、思い出さなくちゃいけない。
形の見えない焦燥感が急き立ててくる。少しでも時間を置けば、どんどん事態は悪い方向に進んでいく。取り返しがつかなくなる前に、早く、早く。
しかし無常にも。
彼は、横島忠夫はそこで意識を失った。
自身に降りかかった事件の顛末を走馬灯のように思い出しながら。
横島忠夫と横島タマモの二人がやってきた高原は、人骨温泉から三十分ほどバスに揺られてたどり着ける距離にあった。クーラーは壊れているらしく、ほぼ全ての座席の窓が全開にされていた。風は天然のクーラーだった。吹き抜ける風の涼しさが汗にぬれた頬を優しく撫で、車内を満たす深緑の香りに、車の揺れさえもゆりかごに揺られているような心地よさを覚えたものだ。
やがてバスは緑の山々と谷とを抜け、なだらかな丘陵地帯にある高原の牧場へとたどり着いた。
バスを降りた乗客を迎えたのは、遠く彼方の山々の裾野へと続く雄大な大地だった。地平線が見える、とまでは行かないが、その雄大さに観光客は感嘆のため息をもらした。風が吹く様子を教えてくれるのは波打つ緑の絨毯。青空を切り抜いたようにぽっかりと浮かぶ入道雲は巨人のようにこちらを見下ろしている。
やがて、高原の牧場の青年がやってきた。背は男性の平均からするとそれほど高くないが日焼けした浅黒い肌に引き締まった体は、精悍で朗らかな印象を覚える。
「では、牧場体験コースの方々は僕についてきてください」
両手をメガホンの形にして声を張り上げる。遠くまでよく通る声だった。
「よし行こうぜ」
「ええ」
忠夫とタマモの二人もこの体験コースに申し込んでいた。温泉到着当日にホテルの仲居さんに観光スポットを訊ねたところこの牧場体験コースというのを勧められた。なんでも都会から来たお客には普段味わう機会の少ない自然や動物とのふれあいがあり好評らしい。値段も負担になるほどではないということで、二人もこの牧場へとやってきていた。
彼らが案内されたのは牧場にあるロッジだった。
緑の草原の中、陽光に煌くアスファルトの道を進んだ先にある木造作りのペンション風の建物で、中は広々としており天井も高く開放感があった。ガラス張りの壁の向こうには柵で囲まれた放牧地が見えた。遠目だが、羊や牛がのそのそと歩いているのがぽつぽつと見える。
「それでは皆さん好きな場所に座ってください」
牧場の青年の声で、思い思いの場所に座る観光客たち。忠夫とタマモの二人が座ったのは隅の壁際だった。近くの壁には暖炉がある。冬には煌々と暖かな炎を灯すのだろうが、今はその役割から開放されインテリアの一部として部屋を彩っていた。暖炉の上には陶器製らしきピエロの人形や欧州の絵本にでも出てきそうなデフォルメされた女の子の人形がある。天井の梁の上にも猫やリスの人形が見えた。壁に描かれた壁画には、ヨーロッパの古地図を思わせるような表情のある太陽と月、星座や飛行船などが描かれており、クラシックでどこかあたたかみのある部屋だった。
「それでは僕のほうから体験コースについての説明をさせてもらいます。あ、申し送れました。僕の名前は……」
案内役の青年の自己紹介の後、体験コースの概要を聞いた。
本日の牧場体験コースのでは次の三つの体験が出来るという。
一つ目は、牛の乳搾り体験。
二つ目は、動物へのエサやり体験。
三つ目は、取れたてのミルクで作ったアイスクリームの試食。
午前中で終わる予定の短いコースだ。
体験コースの説明が終わると、早速牛や馬がいる酪農畜舎へと向かった。この牧場は80ヘクタールの広さの土地らしい。これは東京ドームおよそ13個分。個人でこれだけの土地を管理しているというのは驚きである。
酪農畜舎は遠くから見るとまるで一昔前の学校のような風格のある木造建築だった。その横にはとんがり帽子をかぶったような石の塔――牧草などを詰め込んで発酵・貯蔵するためのサイロが建っていた。
ガイドの青年が畜舎の前に立って説明を始めた。
「では早速、牛の乳搾りについての説明を始めます。これは搾乳と呼ばれる作業です。搾乳にはまず数回ほど手絞りをして牛の乳房やミルクに異常が無いかを確認します。ここの作業にはもう一つ意味があって、これから搾乳が始まりますよという合図を牛に送ります。泌乳ホルモンの分泌を促すことで乳房が張ってきたら、本格的に搾乳を開始します」
説明は滔々と続き、「では皆さん、早速畜舎の中に入ってみましょうか」とのガイドの合図で観光客たちはぞろぞろと畜舎の中に入っていく。
「よし行こうぜタマモ!」
「ええ、ってどうしたの? ずいぶんやる気に漲っているじゃない」
「おうとも! いやぁ前から牛の乳搾りってのをやってみたかったんだよ! あれだろ、牛乳は搾りたてが一番ウマイって聞くしな!」
「多分飲ましてくれないと思うわよ。衛生面の関係とかで」
「そんならそんときだ。早速、牛のチチ絞りに行くぜ!」
「て……あの、忠夫。さすがに、その……あまり大きな声で――っていうのは恥ずかしいから勘弁してくれないかしら?」
「え、なに? よく聞こえねえんだけど。それはいいから早くチチ絞りに行くぞ、チチ!」
こいつにデリカシーて言葉はないのか?
乳、乳と連呼する忠夫に頬を染めるタマモ。見ようによってはセクハラだ。しかし牛の乳搾りというのはパンフレットに書いてあるような言葉だ。タマモはこれは多分自分が自意識過剰で恥ずかしがっているだけなのだろうと思い、深く考えるのをやめた。気を取り直す。
「ま、まあとにかく行きましょうか」
「おう! たくさんミルク絞ってやるぜ! チチ張らして待ってろよ雌牛ども!」
――イヤ、やっぱりすごく恥ずかしい!
というか、周りの人たちがこちらをチラチラ見ながらクスクス笑っているのが、現在進行形で恥をかいていることの証拠だ。乳、乳と、わざとやっているのではないかと思うくらい大声で連呼するバカの真横でタマモは恥ずかしげに顔を伏せた。
「た、忠夫、お願いだからちょっと声絞ってくれないかしら」
「は、なに言ってんだ? 絞るのは声じゃなくてチ――」
「もう、いい加減にしなさい!」
「――ぢっ!?」
もうあんたは黙っていろ。
そんな意思を込めた渾身の右ストレートが忠夫のわき腹を打ち抜いた。
牛の乳搾り自体はそんなに簡単な作業ではなかった。ガイドの人が最初にやって見せたように勢いよくミルクは出てこなかった。
それに対し忠夫はというと。
「なんっかうまくいかねえな。絞り方が悪いのか? 勢いがねえな勢いが。ちょろちょろちょろちょろと切れが悪い。これじゃあまるでジジイのショ――べぐッ!?」
――それ以上言わせるか!
タマモのコークスクリューアッパーが忠夫の顎を打ち合げ、強制的に口を黙らせていた。
「暴力娘め。なんだ少し早い反抗期か?」
「うるさいわよ。いいから黙って草刈りなさい」
二人はカマを片手に牧場にある草を刈っていた。動物のエサやり体験で、牛に食べさせるためのものだ。かれこれ四十分くらいは刈っている。
ガイドにもらった手ぬぐいで汗を拭いながら忠夫がつぶやく。
「しっかし、うまい具合にできてんなこのシステムはさ。客に雑草刈らせて、牛のメシを確保した上で、金も入ってくるってんだから。牧場は元手ゼロどころか労働力を確保できる……一石三鳥じゃねえか」
「そういうこと言わないの。ガイドの人は素人相手に説明したりしなきゃいけないんだから、その手間代考えると一概に牧場が得しているとはいえないでしょ」
返答するタマモの頬にも暑さのために汗が伝っていた。
「俺は褒めてんだよ。よく考えられてんなぁって」
「皮肉に聞こえたわよ」
それからしばらくして、ガイドから動物たちのところに案内された。
忠夫たちの前にいるのは羊だ。
忠夫は羊と目を合わせる。じいっと目を合わせ、微動だにしない。黙ったまま、ひたすら見つめる。それから。
「メェ~」
と羊が鳴き声を上げた。
忠夫も。
「めぇ~」
裏声で羊のモノマネをする。
すると。
羊がそっと擦り寄ってきた。
背中を忠夫の足にこすり付けている。
……種族を超えた何かが芽生えた気がした。
「こんな感じだ……分かるな?」
「分からないわよ! 今のが動物になつかれる秘訣? そんなんでなつかれれば苦労しないわよ」
「まあまあ、ほらちょっと試してみろよ。心を開け、心を無にしろ」
悟りの境地みたいなことを言いながら、忠夫は羊から見て正面をタマモに譲った。
静々と羊の前にやってくるタマモ。
ドキドキとはやる鼓動。手に持った草をおずおずと羊の前に差し出す。
「ほら、お食べ」
それを見て羊は。
――一目散に逃げ出した。
「あ」
「あー……」
これは、なんと言えばいいのだろうか。
タマモが目の前にやってきたら、まるで獰猛な肉食獣がやってきたのに気づいたように即、逃げ出した。ものすごい勢いで。
羊じゃなくとも犬、猫などたいていの動物はタマモが近づいた途端に逃げ出してしまう。ひょっとしたら動物だけに野生の本能によってタマモにある何かを察知しているのかもしれない。
「あ~、ほら、あれだ。今度は俺がやったみたいに鳴き声のモノマネしてみろよ。うまくいくかもだぜ」
「……本当?」
弱弱しくタマモが訪ねてきた。逃げられたのが結構ショックだったらしく、いつもの強気が少々鳴りを潜めている。
「ものはためしだ。ほらあそこにも羊がいるぞ」
頷いて、とことこと羊の元に小走りに近づいていくタマモ。無表情ながら、瞳の奥に期待を隠しているような視線だ。
なんだかんだで。
こういうところは本当に子供っぽいなあと忠夫は苦笑交じりに思っていた。
しかし。
足音に気づいた羊が顔を上げる。
近づいてくるタマモの姿を見た。
――逃げ出した。
「て、はええよ!」
もうちょっと付き合ってくれてもいいだろう!?
羊は普段のおっとりとした様子からは信じられないくらいの俊敏な動きで逃げていく。ライオンが目の前にいてもあそこまでは慌てないんじゃないかというくらいの逃げっぷりだ。
タマモはその場でピタリと足を止めていた。
微動だにしない。背中から哀愁が漂っている。それから、タマモは。
「…………め、めぇ――っ」
鳴いた。
普段のタマモからは想像できない光景だった。忠夫の教えたとおりに羊の鳴きまねをした。プライドとか放り出して。
鳴いた。逃げていく羊の背中に向かって。小さくなっていく羊の背中に向かって……。
しかし羊は止まることなく――――厩舎の向こうへと消えてしまった。
タマモはその光景を見つめたまま、その場から動いていない。迷子の子供のように呆然とたたずんでいる。その背中が泣いていた。
……見ているこっちも泣きそうになる情景だった。
忠夫はタマモに近づいていく。ぽんと頭に手を置いた。
「優しくしないで」
つっけんどんに返された。
しかし今はそんな言葉に反応してられない。
「ほら、来てみな」
「え、ちょっと……っ」
タマモを脇に抱えて歩く。
「な、なによこの持ち方! まるで荷物みたいに!?」
文句を言っているがこの際無視だ。近くにいた他の羊の前まで歩いていく。
「ちょ、いやっ! もういいってば!」
二度も羊に逃げられたため、羊にはもう相対したくないらしい。
忠夫は後ろから抱きすくめるようにして、タマモの手を握る。二人羽織のような形で、タマモが手に持っていた草を羊の前に差し出した。
「ほれ、こーいこい」
羊は草をじっと見つめていた。
逃げ出す気配のない羊に、タマモは息を呑んだ。そしてじっと羊の挙動に注視する。
羊は少しの間、草を見つめていて。
――パク。
タマモが持っていた草にかぶりついた。
「あ」
「おお、うまそうに食いやがるなこいつ。な、タマモ」
「……ん」
短く返事するタマモ。その表情は忠夫の位置からうかがうことはできない。それでも多少は機嫌が良くなっているようだったのでこの場はそれで良しとしよう。
――意識が戻ってきた。
河原で横たわったままの忠夫は今日あった出来事を思い出していた。
そうだ。タマモと一緒に高原の牧場に行って……たしか、そのあとホテルに戻ってきてから、どうしたんだったけか。
気絶していたのが多少なりとも体力の回復になったのか、だいぶ意識がはっきりしてきた。まだ体が動かせるほどの余裕はないが、それでも十分だ。
体の状態を確認する。
体中、擦り傷と打撲だらけだ。しかし不幸中の幸いというか骨折などの重症はない。意識がまだ幾分かボーとしているのは、川を流されている間、頭を打ち付けたのかもしれない。頭をさすってみるが目立った外傷はない。内出血の危険があるが、今のこの状況では調べようがない。
空を見上げると木漏れ日の向こうに、よりいっそう強く輝く太陽の光が見えた。日の傾き具合と木の影の長さから考えて、おそらく午後三時前後といったところだろうか。
今は出来るだけ迅速に状況を確認しなければならない。
まずは思い出すことだ。
今日一日なにがあって、自分の身に何が降りかかったのかを。
「お、おいあんた大丈夫だだか」
不意に声がかけられた。
誰だ?
振り向いてみると、巫女装束の女の子がいた。
――おキヌちゃん?
いや、違う。人間だ。
それも、その顔には覚えがある。たしか、この子は――。
昨日は散々だった。
氷室早苗はそんなことを鬱々と考えながら自身の実家のである御呂地村の氷室神社から続く山道を巫女装束で歩いている。氷室神社が代々守る、とある祠の掃除をするためだ。
「なんでわたすがあんな目にあわなきゃいけないだ」
ぶつぶつ言いながら思い出すのは昨日のこと。
来年高校受験を控えた彼女は街にある学校での夏期講習に出かけ、その帰り道であの事件に遭遇した。
何が起こったのかその瞬間は分からなかった。
突然横合いから少年が飛び掛ってきた。
まさか痴漢か!?
抱きすくめられた早苗が即座に出した結論がそれだった。とりあえず頬を張ろうと思い、手を広げる。迷いなく行動に移す辺り早とちりが過ぎるが、しかし次の恐るべき場面を目にしてしまった。
空から降ってきた大きな物体が、今まで自分が立っていた場所に落ちてきた。轟音と共に地面に叩きつけられ弾ける物体。それがビルの看板だったと気づいたのは、会社の電話番号が書かれた看板の破片が足元に転がってきた時だった。
呆然としていた。
突然降りかかった非現実的な光景が彼女から思考能力を奪っていた。
「おい、あんた!」
「あ、な、なんだ?」
突然かけられた声にハッと我を取り戻した。
「怪我はっ?」
けが?
ああ、そうか怪我か。
現実感のないふわふわとした感覚のまま、自分の体を触ってみる。特にどこにも痛みはない。怪我はないようだ。
看板が落ちてきた地面のアスファルトは粉々に砕けていた。もしそれが自分の頭の上に振って来たらと想像してしまった。
粉々に砕ける頭蓋に飛び散る脳髄。それはもはや自分の頭と顔を判別できないほど無残に、ぐちゃぐちゃに砕いていただろう
それをきっと自分は気づかない。気づかないまま、死んでいた。
そうだ、怪我はない。
自分は、生きている。
生きている、生きている、生きている、生きている……――!
頭の中で何度も反復するうちに。
やっと、実感がわいてきた。
気づいたら体を強く抱きしめていた。
そうだ、自分は生きている。ここにいる。この腕の中で確かに自分は生きている。
「あ、あ、あ、あああ……っ」
ヘビが徐々ににじり寄ってくるように、押しつぶされそうな死の恐怖が胸の奥から吐き気となってせりあがってくる。
がくがくと足が震えた。知らぬうちに目に涙が溜まっていた。
「あ、あの、あの…………あ、ありが、ありが……っ」
助けられた。
そのことに気づいた。
なんとかお礼を言おうとするが、うまく歯がかみ合わない。
そのことに気づいたらしく、自分を助けてくれた少年は無理しなくていいと言うように肩を叩いた。そして笑った。それは心の底から安心させてくれるような柔らかな笑いだった。
「礼なんかいいさ。怪我は無いみたいだし良かったな」
――うん、うん……っ。
それも言葉にはならなかった。ただ頷くことしか出来なかった。その少年の腕の中に抱きすくめられたまま、何度も頷いた。伝わってくる少年のぬくもりに、死の恐怖が徐々に和らいでいくのを感じた。
やがて少年は傍らにいた小さな女の子に何事かを話すと、いずこかへと走り去っていった。
「あなた、大丈夫?」
小さな女の子はこちら顔を心配そうに覗きこんできた。
驚くほど可愛らしい顔立ちをした女の子だった。それからいくらかのやり取りをした後、気づけば自分は病院にいた。精密検査を受けるためだったらしいが、事件の前後の記憶が今一つ曖昧になっていた。精神的なショックでよるものらしく、そのときは思い出せなかったが、一日経った今そのときあったほぼ全てを思い出していた。
「お礼……言いたかっただな」
思い出すのは昨日の少年と少女だ。
命の恩人。
早苗の両親も娘の命を救ってくれた恩人に何とかお礼を出来ないものかと考えていたが、この街の住人ではなくどうも観光客のようで所在が分からなかった。両親は地元に深く根付いた神社の者なので御呂地村はもちろん周辺の街にもある程度顔が利く。そのツテを使って何とか探し出そうとしている。
もちろん早苗自身も会いたかった。
会って一言お礼が言いたかった。
「……ん、なんだ、あれ?」
木々の合間に何かが見えた。山の中を流れる川の河原。その中の一際大きな岩にもたれかかっているのは……人!?
「ま、まさか、す、水死体!? ひ、ひゃぁぁぁぁーっ!」
まだ死んだと決まっていない。
勘違いしたまま勘違いした方向に一心不乱に突撃をかましている。
――こ、怖い。
死体なんて見たくない。
なにしろ早苗自身が死体になるかもしれなかった昨日の今日だ。
「そ、それでも……っ」
自分は神社の娘だ。そしてここは本殿からはだいぶ離れているとはいえ、それでも神社の境内といえる場所だ。
「か、かかかかかか確認せねば」
自分を奮い立たせ、恐る恐ると、むしろ泣きそうな表情で水死体(仮)に近づく。土を踏み固めただけの簡素な道を草履で歩いていく。
秘密結社の基地にでも潜入したスパイのような慎重な足取りで、そろりそろりと近づく。
そして気づいた。
その水死体(仮)がわずかだが動いていることに。
「い、生きているだか?」
慌てて走って近づく早苗。生きているとしても、河原で力なく岩にもたれかかっているのだ。どこか怪我をしている可能性がある。
「あ、あれ? 昨日のっ」
近づいてみて気づいた。
それは昨日、身を挺して自分の命を救ってくれた少年だという事に。
また会えたという喜びと、どうしてこんなところで倒れているのかという不安な気持ちが早苗の中で綯い交ぜになっていた。
「お、おいあんた大丈夫だか!?」
近づいてみると体のあちこちに傷がついていた。服もずぶぬれで、まともな状態でないことは一目瞭然だった。
「お、おう……確か昨日の……?」
「い、今はそんなこといいだ! どうしただこの怪我、一体何が?」
「崖から突き落とされた」
事も無げに言い放たれた一言は、とんでもない内容だった。
「つ、突き落と……っ、さ、殺人事件!?」
「いや、死んでねえし」
「それでも殺人未遂でねえか! ちょ、ちょっと待ってるだ、今すぐ警察呼んで、その不届き者さとっ捕まえてもらうからなっ!」
「いや、落ち着いてくれ。怪我している俺がこういうのもなんだが、落ち着いてくれ。いやホントに」
どうどうとなだめられる早苗。
「で、でも……」
「そもそも崖から突き落とされたっつても、相手は人間じゃなくて……」
そう言いかけて、少年はピタリと言葉を止めた。
徐々に目を見開いていく。
「そうだ」
ぽつりと呟かれた一言は焦燥感に満ちていた。
「思い出した……そうだ、ちくしょう、最悪じゃねえか」
それから少年は早苗に向き合った。真剣な瞳には冗談とか悪ふざけとかいった感情は一切見られない。
「おい、あんた」
「な、なんだ?」
「逃げろ、この街からできるだけ遠く」
「は、はあ? い、一体何を言いだすだ?」
意味が分からなかった。
まるでこの街に隕石でも振ってくるかのような性急な物言いだ。
「最悪、この街は……――」
その日、その時間。
御呂地岳にある地震観測所で奇妙な波形をレーダーが捉えた。
それを見た職員は顔を真っ青にする。
震源の浅い火山性地震が何度も発生している。短い時間の間に、普通では考えられないような短い感覚で。
そして今まで計測されなかった電磁波の揺らぎ。
「た、大変だ……っ」
再検証しなければならないほど曖昧な計測結果ではない。それはこれから起こることをありありと告げていた。
職員は慌てて観測室を飛び出す
やることが多すぎて、混乱していた。
まずは自治体に連絡すべきか、それとも国か。
どちらにしても。対応は急がなければならない。
まず初めにしなければならないのは。
「じゅ、住民を少しでも早く避難させないと……っ」
山のずっと奥深く。
仄暗い洞窟の底でソレは笑った。
ソレはかつて悪霊と呼ばれていた存在だった。
しかし今は違う。ソレから発せられるのは禍々しくもまさしく神の力。
高い岩の上で胡坐をかいていた。
足元には、一人の少女の霊が倒れこんでいた。意識はない。
かつて悪霊だったソレが神の力を奪った存在。かつて人柱になった幽霊の少女キヌが横たわっている。
もうじき、もうじきだ。
ソレは待っていた。
「この辺り一体の街は」
忠夫は静かに告げた。
「もうじき火山の噴火による火砕流に飲み込まれる」
自身の望みが叶うその瞬間を。
全てが終わるその瞬間を。
ソレは、洞窟の奥で、静かに待っていた。