牧場から戻ってきた忠夫とタマモは二手に別れて悪霊の捜索を開始した。
忠夫は再び御呂地岳へと登った。御呂地岳は地元では霊山と称される通り、地脈の収束地点である霊穴のある場所だった。地脈とは地中を流れるエネルギーであり、これは血液のように惑星の中を循環している。人間はもちろん全ての生き物が生命活動に必要なエネルギーをこの地脈によって得ている。つまり精神体でありエネルギー体そのものである霊にとっても、いやむしろ霊であるからこそ地脈の集まるこの山は、豊富なエネルギーが横溢しており、力を高めるには格好の場であるといえる。
悪霊が潜んでいる可能性が一番大きいとすれば御呂地岳周辺がもっとも怪しい。しかしそれはあくまで可能性の話だ。そこでタマモが街周辺の捜索をすることになる。人々が多くいる場所もそれだけたくさんの思念が入り混じる。多くの場合、人々の負の感情を糧にその力を増す悪霊にとっては格好の餌場であるといえる。
忠夫は今現在、山道を登っている。土を踏み固めただけの簡素な道は、木々が鬱蒼と生い茂っている山中を歩く道しるべとしてはいささか心もとない。
「たしか、このあたりって聞いたんだけれども」
そんなことをぼやきながら、藪をかき分け、木の枝の下を潜り抜ける。
やがて視界が開けた。
薄暗い森を抜けた先に、日の光が包み込む丘が広がっていた。まぶしさに目をしかめる忠夫。
ふと、歌声が聞こえた。
「……――この子の眠る、よるぞらの、星の數より まだ可愛い――………」
これは、子守唄?
風に乗って聞こえてくる旋律はやわらかく優しげなものだった。
忠夫は声に誘われるまま丘の上を歩いていく。
そこは美しい丘だった。高山植物らしい黄色い花が咲き乱れ、緑の絨毯が波打ちながら山向こうへと続いている。折り重なる山と谷の向こうに、青々とした山脈が屹立している。険しい尾根が連なる山々は起伏に富んでおり、圧倒されるような雄大な姿で聳え立っていた。
――すっげえな……。
感嘆のため息しか出てこない。
忠夫が今ここに来るまで歩いてきた山は薄暗く不気味でさえあった。同じ景色が延々と続き、人を迷わす樹海のあるがままの自然の姿に対しての畏怖のようなものを感じたが、今目の前に広がる息を呑むような美しい景色も、等しく侵されていない自然の姿の一つなのだ。
そこには人の手では決して作り出せない美しさがあった、雄大さがあった。
吹き抜ける風は透き通るように忠夫の体を通り抜けていく。すると目に映る景色がよりいっそう大きなものに見えた。
するとなぜだか無性に泣きたくなった。
なぜかは分からない。今、心の奥底から湧き上がってくる感情を言葉にする術は忠夫には無かった。風に巻かれて、自分の意識も散り散りに千切れてこの自然の中にとけて消えてしまいそうに思えた。
人間なんてちっぽけなものだ。
それは言葉の中でなら聞いたことがあったが、今まさにその言葉を心の奥底に叩きつけられ刻み込まれたような想いだった。
「……――」
忠夫を現実に戻したのは、先ほどの歌声だった。
いや、現実に戻した、というのは語弊があるかもしれない。夢見心地というなら今も同じだ。いつくしみ、いとおしむような優しい子守唄は、陽だまりの中で母の背におぶさっていた頃の遠い記憶を呼び起こすような懐かしい気持ちにさせられた。
自然と声のするほうへと歩いていた。
そしてたどり着いた。
――おキヌちゃん。
そこにいたのは幽霊の少女、キヌだった。
巫女装束で長い黒髪の髪先を束ねるように括っている。情感にゆだねるように目を瞑り、子守唄を紡いでいた。
彼女は地面に座っている。その膝の上には小猿が眠っていた。昨夜、親猿が成仏したことによって一人になってしまった小猿だ。忠夫には猿の見分けなどつかなかったが、その小猿にははっきりとした目印が在る。事故によって怪我をしたその小猿の足には、骨折を整復するための添え木とハンカチを破いて作った包帯が巻かれているからだ。
忠夫はそっと耳をすませる。
この子の可愛さ 限りない
山では木の數 萱の數
雄花かるかや 萩ききょう
七草千草の数よりも
大事なこの子がねんねする
星の数より まだ可愛い
歌い終えたキヌは目を開け、小猿に視線を落とす。
小猿は眠っていた。本来警戒心が強いはずの野生の猿が、幽霊とはいえ人間の膝の上で眠ることなど非常に珍しいことだった。
「……ふふ」
キヌは微笑みながら、袴をつかんで眠る小猿をそっと撫でた。起こさないように、そっと、母が子供をいつくしむように、優しく。
――…………綺麗だ。
忠夫の胸に去来する想いが、キヌに声をかけるのを憚れた。
声をかけて壊してしまうには、その光景はあまりに優しく清らかなものだった。
「え、あ、横島さん?」
キヌのほうが横島に気づいた。
見られていたことに気づいたらしく、あわあわと慌てた様子で、頬を染め、困ったように眉をハの字に寄せていた。
忠夫は人差し指を口の前に立てた。静かに、と身振りで伝える。眠ったままの小猿に視線を促した。
キヌもそれに気づいて、泡を食って口を噤み、忠夫と同じく人差し指を口の前に立てる仕草をする。キヌまでそれをする必要はないのに。それが忠夫には可笑しくて、つい喉の奥で笑ってしまった。そっぽを向いて口の端を吊り上げている忠夫の姿に、キヌも自分の行動の可笑しさに気づいたらしく、人差し指を所在無さげにゆらゆらと揺らし、そっと背中に隠した。
「も、もう、笑わなくてもいいじゃないですか」
「ごめんごめん、なんか可笑しくってさ」
忠夫はキヌの横に座った。キヌは口を尖らせ忠夫に抗議した。二人とも眠っている小猿に配慮して声量はずいぶん控えめだった。
忠夫は小猿に視線を落とす。すやすやと寝息をたてて眠っている。そこには警戒心など微塵も感じられない。
「ずいぶん懐いているんだな」
「はい。今までずっと一緒に遊んでいたんですよ。この子ったらずいぶんやんちゃで木から木にぴょんぴょんと飛び跳ねてどんどん先に行っちゃうものだから、追いかけるのにずいぶん苦労してしまいました」
そう言ったキヌの表情は笑っていた。
手がかかることすら楽しいくて愛おしいのだろう。
「そっか……おキヌちゃんは優しいな」
何の気なしに、自然と出てきた言葉だった。
しかし。
「そんなことないです」
――え?
忠夫は思わずキヌの顔を見つめた。
そんなことない。そう言ったキヌの声色は決して照れ隠しとかそういう感情ではなかった。そこに込められていたのは明らかな拒絶だった。
「おキヌちゃん?」
「え、あの、その……なんでもないです」
なんでもないことはないと思うのだが。
キヌは自分の失言をごまかすように矢継ぎ早に小猿と遊んだことを語っていく。今の言葉はこれ以上踏み込んでほしくない。明確な拒絶を感じた忠夫は、問いかけようとした言葉を飲み込んだ。
――成仏したい。
キヌはそう言った。
成仏。すなわちこの世からいなくなるという事だ。成仏して輪廻転生の輪に入った魂の行方がどこに向かうかは忠夫には分からない。ただハッキリしているのは、生まれてから死ぬまでの記憶のリセット、すなわちそこにいたるまでの自分自身が消えてしまうということだ。
キヌの言った成仏したいという言葉にはどれほどの想いが込められていたのだろうか。全てからの開放を望んでいる今のキヌに自分がかけられる言葉とは一体何なのだろうか。
「なあ、おキヌちゃん」
「はい?」
「あのさ――」
自分でもどんな言葉を紡ごうとしていたのかは分からない。湧き上がってくる心の形がそのまま口をついて出てこようとした。その瞬間。
じゃらり。
鎖の擦れる音が聞こえた。
「……なっ!?
「きゃあっ!」
完全に不意をつかれた。
突如として蛇のように襲い掛かってきた鎖が、あっという間に忠夫とキヌの縛り上げてしまった。
「この鎖……」
――霊力で強化されていやがる。
おそらくこの鎖自体が霊具の類なのだろう。術者が意のままに操ることができ、対象を縛り上げる効果でもあるのだろう。だが、霊具を扱うにはその霊具の格にあうだけの相応の霊力が必要になる。そしてこの鎖に込められている力は相当のものだ。
つまり、この鎖を使ったのは……。
「なんのつもりだ……じいさん!」
忠夫とキヌの目の前に和装の老人が現れた。
美木原。
忠夫とどちらが先に悪霊をしとめることが出来るかを争っているプロのゴーズトスイーパーだ。美木原は押し黙ったまま、忠夫の言葉など聞こえていないかのようなそぶりで口を噤んでいる。
様子が変だ。眉間に皺を寄せ、険しい表情でたたずんでいる。サングラスの奥に隠れてよく分からないが、その視線はキヌを見ているように思える。
忠夫に、まさか、という思いがよぎる。
「おい、この子は俺たちが探している悪霊じゃねえぞ! あんたなら見れば分かんだろうが!」
まさか美木原はキヌを退治しようとしているのではないか。
その時、周囲の騒がしさに小猿が目を覚ました。そして鎖に縛り上げられ、身動きが出来ないでいるキヌの姿を見つけた。
「ききっ」
「だ、ダメ! 来ちゃダメ!」
キヌの静止の声。
しかし小猿はキヌを縛り上げている鎖に向かって踊りかかった。鎖にかじりつき、ひっかき、なんとか鎖をキヌから引き剥がそうとしている。
美木原が指をふった。
すると鎖の端が伸び、小猿を縛り上げて、地面に転がした。
「お猿さん!?」
キヌの悲鳴が響く。
「大丈夫じゃ。ちょっと黙ってもらっただけじゃ、怪我なぞさせておらんよ」
ここにきて初めて、美木原がしゃべった。
ひどく硬い声色だ。感情を押し殺しているように思えた。
「ジジイ! これは一体どういうつもりだ!?」
忠夫の詰問に、美木原は悔しそうに顔をゆがめた。
「……すまん」
その時だ。美木原の影からずるりと何かが這い出してきた。
まるで墨を塗りたくったような黒い人型。輪郭は陽炎のように揺らめいている。それは間違いなく。
「んなっ!?」
忠夫たちが探している悪霊だった。
「……おい、あんたそれはどういうことだ?」
自らの影から這い出してきた悪霊を見ても美木原に驚いた様子はない。つまり悪霊が自分の影に潜んでいたことを知っていたということだ。
霊や妖怪といった超常の脅威から人々を守る役割を担うプロのゴーストスイーパーが悪霊と手を組んでいたということなのか。
もしそうなら、それは許せざることだった。
『くくく』
まるで地の底から聞こえてくるようなくぐもった笑い声。悪霊はその窪んだ瞳を忠夫に向けた。
『それは、こういうことだ』
そう言うと悪霊は両手を左右に広げた。悪霊の体の中心、人間ならちょうど腹にあたる部分。その中に、一匹の猫がいた。黒い水の中に浮かぶように、手足を弛緩させていた。
――オセロ。
美木原が家族と呼んだ猫である。
オセロを見た美木原の顔が痛ましげに歪んだ。悔しさと悲しさと憤りがない交ぜになった表情だった。
『これがこの体の中にいる限り、こいつは、俺の、言う事を聞くしかない』
――そういうことかよ。
「何があったかは知らねえが。下手こいたな、じいさん」
「……返す言葉もない」
愛猫を捕らえられ、その命を盾にとられた、ということか。
「ハッ、まあそれならそれで分かりやすくっていいんだけれどもよ」
不敵に笑う忠夫。悪霊に向かって言い放つ。
「なんでこんなことをしたのか、なんてことは聞くつもりはねえよ」
瞬間。
忠夫を捕らえていた鎖が砕けて弾け飛んだ。
「なに!?」
これに驚いたのは悪霊よりむしろ美木原だった。
この鎖は正式な名前を霊縛鎖という。似たような霊具に霊縛ロープというのがあるが、これはその一段上の性能を誇る。その硬度は並大抵の悪霊どころか人間より遥かに強大な力を持つ魔族(下級に限るが)でさえ拘束できるほどのものだ。それを人間の身でありながらいともたやすく砕くなどとは信じられない。
鎖が砕けた次の瞬間。
忠夫の姿が掻き消え。
――悪霊の頭が弾け飛んだ。
全て刹那の出来事だった。
それはまるで瞬間移動をしたかのような速さだった。ビデオのコマ送りのように一瞬で悪霊との間合いをつめた忠夫が悪霊の顔面目掛けて拳を振りぬいた。
ただそれだけ。
単純な動作だが、圧倒的な速さから繰り出された霊力のこもった一撃はいともたやすく悪霊を粉砕した。元々霊能力者は霊力による身体強化によって常人より強力な身体能力を得ることが出来る。しかし今の動きはそれだけでは説明ができない。なんらかの技術、もしくは特殊な霊能を用いているとしか思えない速さだった。
「テメエみてえなクソ外道には手加減も口上も必要ねえだろう」
忠夫は粒子になって大気にまぎれて消えていく悪霊の体からオセロを引き抜く。
「ほれ」
美木原にオセロを渡す。美木原は呆然とした表情でオセロを受け取った。衰弱はしているが命に別状はなさそうだ。毛並みをなでてやると、小さくだが鳴き声をあげた。
「小僧……おぬしはいったい……?」
その言葉に答えることなく、忠夫はキヌのところに歩いていった。
「大丈夫だったかい?」
「は、はい。横島さんこそ大丈夫でしたか?」
「見ての通りさ」
そう言って忠夫はキヌを捕らえていた鎖を砕いて引き剥がした。それと小猿の鎖も引っぺがしてやる。
――そこで油断していた。
鎖をとられた小猿は。
『保険を、かけて、よかった』
言葉をしゃべった。
悪霊のくぐもった声で。
――しまった!
時すでに遅く。
小猿の口から黒い光が忠夫に向かって矢のように放たれた。
とっさに腕でガードする。しかし骨の芯まで響くような衝撃とともに吹き飛ばされる忠夫。
「が……っ!」
「横島さん! ――きゃあっ!」
悲鳴をあげ、忠夫に駆け寄ろうとするキヌ。しかしそれを悪霊は許さなかった。小猿の尻尾から黒い縄のようなものが伸びる。それはまるで尻尾の延長のように自在に動き、再びキヌを縛り上げてしまう。
忠夫は吹き飛ばされながらも、中空で体制を建て直し、転ぶことなく地面に着地する。
「ぐっ、おキヌちゃん!」
腕に激しい痛みが走る。骨折こそしていないようだが、いくつかヒビが入っているようだ。痛みに耐え、即座に反撃を仕掛けようと足に力を込める。
『動くな!』
悪霊の声に足を止めた。
小猿に憑依した悪霊はその鋭くとがった爪をキヌの首筋に添えていた。幽霊であるキヌに物理的な力は通用しないが、同じ霊体による攻撃はその限りではない。小猿の爪の周りには気流のように黒い光が渦巻いている。それをもってすればキヌの体を引き裂くことも可能であろう。
腕の痛みで一瞬足を止めてしまったのが致命的だった。先ほど悪霊との距離を一瞬でつめた速度でもって反撃を繰り出せば小猿に憑依している悪霊を葬ることはできただろうに。
小猿に憑依した悪霊は足を止めた忠夫を見て、次に美木原に視線を向けた。
『アレを、やってもらおうか』
アレというのが何を示しているのかが忠夫には分からなかったが、苦しげに戸惑う美木原の様子を見るに、少なくともゴーストスイーパーの倫理観から考えて許しがたいことなのだと想像に難くない。
『早く、しろ。その猫にも、俺の、力の欠片が、埋め込んである。このまま、殺すのもたやすい』
――そんなバカな。
それは忠夫と美木原、二人の思いだった。
気配もなく小猿に憑依したこともそうだが、力の遠隔操作などという高等技術を魔族ならともかくただの悪霊がそれほどの力を持つなどとは本来なら考えられないことだ。
しかしその悪霊の言葉を肯定するように、オセロの胸の辺りで黒い光が明滅する。オセロは苦しげにうめき声を上げた。
「お、オセロっ、お、おのれ……っ」
『早くしろ!』
「ん、くぅっ」
苦しげに息を吐き出すキヌ。彼女を捕まえている尻尾が、より深くキヌの体に食い込んでいく。
「――てめえっ」
『うごくな、と言っただろう』
激したように拳を握る忠夫を牽制する悪霊。
膠着は数秒ほど続き。
「……わ、分かった」
美木原の言葉によって崩された。
美木原は両手で印を結んだ。
「……この者をとらえる地の力よ。その流れを変え、この者を解き放ちたまえ」
その力は悪霊に対してではなく、キヌに向けて使われた力だった。
「あ」
キヌははっきりと感じた。
自分の足に鎖のように絡み付いていた地縛の力が解かれるのを。
かなりの力技で行われた地縛の継承による虚脱感と喪失感によってキヌはそのまま気を失ってしまう。
そして、その力が。
――悪霊へと移った。
光が、風のように逆巻き悪霊を包み込む。
「ふ、ふふふ」
渦を巻く光の中心で声が聞こえた。ガラスが割れるように、光が砕け、その中心に白い着物姿の男が立っていた。その傍らには気を失ったキヌと小猿の姿。
腰に銅剣を携えたその男は眉の太い厳つい顔立ちをしていた。
その男から暴風のように吹き荒れる力は。
「神の、力?」
忠夫の頬に汗が滲む。
まさか、おキヌちゃんを縛っていた地の力と一緒に彼女が本来手に入れるはずだった神の力も一緒に移ったというのか。
しかし神の力など一朝一夕で身につくものではない。扱うには相応の修行が必要なはずだ。しかし目の前の悪霊だった男からほとばしる力はどうだ。完全とは言わないまでも、神力を我が物としているではないか。
「ふふふ、神の力などすぐに扱えるものかと思っていたが、長き間この地の地脈に封じられていたかいあってか、よく馴染むな」
封じられていた。
忠夫はその言葉の意味するところを考えていた。
封印されていた悪霊。ならなぜその封印は解けた?
「ふっ」
短い呼気と共に腕が振るわれた。
吹き荒れる突風が、もうお前に用はないとばかりに美木原の体を吹き飛ばした。
「がはっ」
美木原はオセロをかばうように体を丸めた。岩に叩きつけられる美木原。表情が苦悶にゆがんだ。
「じいさん!」
忠夫は美木原に駆け寄って、抱き起こす。生きてはいる、しかしすでに気を失っていた。
「さて、霊能力者の少年よ。改めて名乗らせてもらおうか。とはいっても先ほどまで名などなかった身だ。そうさな、とりあえず荒脛御呂地神とでも名乗らせてもらおうか」
悠然とした態度でかつて悪霊だった荒脛御呂地神は名乗った。
「偉そうにしやがって、だから何だってんだ」
相手が神の力を得たからといって自分のやることは変わらない。
忠夫の視界には気を失った小猿と美木原。そしてキヌの姿があった。
「テメエは俺がぶっつぶす」
拳を握る。
――箭疾歩。
それが先ほどの忠夫の超スピードの正体だ。
中国武術の歩法の一つだが、霊力を効率的に運用することによって使用されるそれはまるで瞬間移動したかのような錯覚を覚えさせる。
しかし。
突き出した忠夫の拳は荒脛御呂地神が突き出した右手によってなんなく押さえられた。
「ちっ」
舌打ち。
今度はそうそう簡単にはいかないようだ。
「一つ、教えてやる」
荒脛御呂地神は言う。
「俺はこの神の力を使って御呂地岳を噴火させ、周辺にいる邪魔な人間どもを滅ぼす」
「なっ」
それと、と続ける。
「先ほどのカリをかえさせてもらおう」
荒脛御呂地神が腕を振るうと風が吹き荒れた。
「んな……っ」
局地的な台風のような風は忠夫の体を木の葉のように空へと舞い上げた。中空高く飛ばされた忠夫の体は、そのまま崖の上へと飛ばされ。
「さよならだ、少年」
まるでくずかごにゴミを捨てるように。
忠夫の体は崖下へと飲み込まれていった。