ガルパン×ゲート・シリーズ外伝 黒き小船の物語 CODE1903-1940 作:ボストーク
単にアンチョビやアンツィオの面々をオリ主と一緒に書きたくなっただけかもしれませんが(^^
西住みほ中尉が日本で試製一式中戦車のテストを行っていた頃、地球の反対側……物理的にも心情的にも色々と熱い熱砂の大地では、また種類の違う戦いが起ころうとしていた……
1940年10月、北アフリカ、リビア
「ふはははっ! 見よっ! この乾いた大地を埋め尽くすP40重戦車の群れをっ!!」
そうハイテンションな高笑いを披露してくれるのは、黒いリボンが巻かれたスパイラル(あるいはドリル)・ツインテールが映える美少女、配下の者から親しみを込めて”
まあ彼女がハイテンションになるのも無理はない。
史実では到底不可能だったP40の大量生産が名前の通り1940年初頭から開始され、既に100両以上が彼女の前に並んでいるのだから。
しかもまだ地中海の向こう側にある本国から大規模な補給部隊と共にさらに50両が届くというのだから笑いが止まらなくもなるだろう。
もっとも、それらの車両は彼女の直属になるわけではないのだが。
正確に表記するなら、今ある車両の約半分も他の部隊向けで、実は乗員が乗ってなかったりするのだが。
簡単に言ってしまえば他の輸送部隊と一緒にトリポリ港へやってきただけなのだが。
最も他の部隊が受け取りに来るまでは彼女が管理責任者であるので、「100両以上の重戦車を率いる装甲指揮官(ただし可動車両は……)」と言っても間違いではないだろう。
P40は確かにリーフ・スプリングのサスペンションとかリベット止め装甲とか多少古臭い部分はあるが、ソ連から直輸入したV-2ディーゼルエンジンをイタリアの誇る各自動車メーカーが改修し、イタリア人好みに仕上げた”トーロ・エンジン”と優れたトランスミッションを搭載、余剰馬力の多さゆえに原型に比べての重量上昇分を装甲の厚さに転化できた中々の優れものだ。
ついでに言えば、主砲の75mm砲弾もドイツの新型と共用化、機銃弾はドイツの制式弾である7.92mmマウザー弾という仕様。
以上のようなことを鑑みる限り、実は
(これなら、
などと物思いに耽ってはみたものの、
「さっすが”ケッタ”の旦那ですね~! 愛人のためなら金に糸目をつけない! これぞラテン男の心意気! そこに痺れる憧れるとくらぁ♪」
そう陽気に聞きようによってはきわどいことを言い出すのは、師団の中で装甲偵察隊を取り仕切る”ペパロニ”だった。
短い黒髪がトレードマークの典型的な下町のイタリア娘という雰囲気全開だ。
日本で言えばちゃきちゃきの江戸っ娘というところだろうか?
「ばっ、馬鹿者! 滅多なことをいうものではないっ!」
顔を真っ赤にして打てば響くようないい反応を見せてくれるドゥーチェである。
「それに私は”殿下の愛人”と公言できるほど、
***
「おお~っ! よっく動くぅ♪ イタリア戦闘機もけっこうやるじゃ~ん!」
と砂漠の乾いた青空をカッ飛んでいくイタリア・マッキ社の戦闘機MC.202”
”稲妻”を意味するペットネームを与えられたこの機体、その名に恥じぬ快速を存分に見せ付けるように天空を駆けてゆく。
もっともこの空は彼女が独り占めできるものであるはずも無く、
『ハルトマン、待ちなさい! サロンの順列では貴女の後塵を浴びたけど、空の上ではそうはいかないわよっ!』
「うわ~っ……トゥルーデやマルセイユとは、別の意味で面倒臭いのが飛んできた」
せっかく誰もいない自由の空を堪能していたというのに、まったく無粋だなぁと思いながら”彼女”、短い金髪と薄い胸がトレードマークの”エーリカ・ハルトマン”中尉は、
「いいや。逃げちゃえ」
とスロットルを開いて一気に遁走を図ろうとするが、
『待ちなさい!』
負けじと追いかける、ハルトマンを片思いのライバル視な”フェルナンディア・マルヴェッツィ”少尉。
チャームポイントは栗毛色の緩いウェービーヘアーだ。
ただし、この娘も腕は一流。ちょっと前まで
”コンドル師団”に参加し、スペイン内乱で従軍、そしてエースとして開眼した兄ほどとはいわないが、この間のバトル・オブ・ブリテンに本国から呼び出されて『イタリア空軍士官』として参戦していきなりエースになった”あのハルトマン”にだ。
『大体なんで貴女がファルゴーレに乗ってるのよ!? 御自慢の”
「な~んで最後は疑問形なのか気になるけど、エンジン強化して増槽付けられるようにして、
『ああっ、そういやドイツの開発チームもゲスト扱いで来てたっけ。砂漠用装備の試験でもやりたいのかな?』
「さあね~。詳しいことは”ウルスラ(ハルトマンの双子の妹)”にでも聞いてよ」
実はこの二人の会話、奇妙なバランスで成り立っている”この世界”における独伊関係を物語っていた。
結論から先に言えば”この世界”においては、イタリアはドイツと表立って軍事同盟を結んでいない。無論、ソ連ともだ。
無論、多くの条約やらなにやらはあるし、原則非公開「秘密の決め事」は多くある。
お陰でモノ/ヒト/カネの交流は活発で、P40戦車のエンジンはT-34のそれを輸入して改造して使ってるし、史実よりずっと早い段階でイタリアはドイツ製のDB601エンジンのライセンス生産にこぎつけている。
いや、むしろ予備エンジンが足りなくなったバトル・オブ・ブリテン当時などは逆にイタリアからドイツにエンジンを融通したくらいだ。(ちなみにその見返りに開発中のDB603/605エンジンのサンプルとライセンス生産権をしっかりゲットしてる)
しかし、戦争において陣営という概念で束縛されるのを独伊ソのいずれも望んでいない。
故にこのような形となったのだ。
では何故、史実と同様にイタリアは英国に宣戦布告し、リビアに大軍を送り込んできたのか?
それもドイツ軍のヴァルカン半島侵攻で必ず邪魔になる『エジプト英国軍を牽制する』という目的を公言してだ。
表向きは、ドイツが現在攻略を進めてるヴァルカン半島(ソ連了承済み)の制圧を完了した場合、イタリア王国の主張によるラッパロ条約で戻ってこなかった「未回収のイタリア」であるフィウーメやダルマティアの割譲を条件に宣戦布告とリビアへの大軍の派兵を飲んだとされていた。
もっとも、イタリアの国王と統帥に継ぐとされるイタリアNo3がラジオ演説で問いかけるように語った『率直過ぎる』言葉こそが、本音なのかもしれないが。
『諸君、我々はドイツに借りを作りすぎた。私は今の非同盟、親独/親ソ中立というイタリアの立ち位置を変えるつもりはない。しかし、私は愛すべきイタリアの民を「不誠実で不義理な民族」という評価で歴史に残したくは無い。それに我々とて英国になんら思うことは無いとは言えないのだから』
***
さて、再び視点は地上に。
「あの動きって”ハルトマン指導官”ですよね?」
「ああ。
少し眩しそうに上空を見上げるアンチョビだったが、
「しかし、更なるツワモノが我らのすぐ横にいるがな」
と視線を向けたすぐその先にいたのは、ニコニコと微笑を浮かべる優しそうな、それでいてどことなく貴族的な雰囲気の金髪少女。
「我々と同い年だというのに既に二児の母だぞ? しかも上の子は二桁近いんだぞ?」
「うふふ。”
どちらかと言えば下のほうに広そうだが……
「ケッタの旦那の女好きは父親譲りって感じっすね~」
などと呆れたような感心したような声を出すペパロニだったが、
「そんなもんじゃないな。それにお前も人のことは言えんぞ? ペパロニ」
「へっ?」
「どうやら我ら【黒リボン少女軍団】は全員、国民からは殿下の愛人……ハーレム要員と思われてるらしいからな」
「ちょっ!? 一体、黒リボンだけで何万人いると思ってるんすかっ!?」
「あらあらまあまあ。さすがは”殿下”。驚きの種馬っぷりですね♪ 今度、”イタリアの種馬”って呼んでさしあげようかしら?」
コロコロと微笑むカルパッチョである。
もっともカルパッチョもアンチョビに実際に件の人物と『関係』を持った娘が実は三桁には届いてないことを知っている。
関係を持った女性が百人を超えるといわれる父親には、まだ及んではいないようだ。
さて、そろそろ本題に入ろう。
”ケッタの旦那”、”殿下”、”イタリアの種馬”……少女達の口から挙がる呼び名は、言うまでも無く全て同じ人物を指している。
他にも”黒のケッタ”や”
***************************************
1903年12月17日、奇しくもアメリカでライト兄弟が人類で初めて動力飛行機によって空を舞った日……イタリア北部の港町、ジェノヴァで一人の男が生を受けた。
父の名は欧州放浪の旅から祖国に戻ってきたヴィスコンティ・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ、母はイルマ・ルイージ・フアナという名だった。
父はスイスのイタリア語圏でゼネストに参加して国外退去処分を喰らったという経歴を持つ札付きの若き社会主義活動家という怪しい肩書きだったが、イルマは没落貴族の令嬢……ただし、奔放な問題児という扱いだったらしい。
どうも良家のお嬢が札付きのワルと火遊びした結果の懐妊……という情況のようだ。
娘が反社会的な人物と子を設けたなど認められないフアナ家は断じて結婚を認めなかったが、逆にそれがムッソリーニの自尊心に火をつけ生まれた子を認知することになる。
そして、生まれた男の子には”バルケッタ”、イタリア語で”小船”を意味する名が与えられた。
「大きな船は自分一人の意思では動かせない。だが小さな船は自分で漕ぐ限り、自分の意思でどこまでも自由に進める」……そんな意味が込められていたらしい。
こうして、”バルケッタ・ピエトロ・チェレステ・ムッソリーニ”は生まれたのだった。
***
バルケッタが幼き頃の父は、
「教師をやりながら社会党の地方機関誌を書いてる、左翼ということ以外は割と普通の男」
に見えたようだ。
もっともムッソリーニの活動家としての動きは目覚しいものであり、機関誌を書くだけでは飽き足らず、
「だから幼い頃は親父が家にいることは滅多になかった。だからだろうな……俺は親父の思想的影響をさほど受けずに育ったってわけさ」
ムッソリーニが社会主義活動家として円熟し、やがて教職員を辞めて社会党の政治活動に専念し始めた頃、バルケッタは普通に寄宿学校に入学している。
さて、その頃を知る教師によればケッタは……
「寡黙で、物静かに本を読むことを好むような子供だった。成績は常に優秀で、奨学金制度にも難なくパスしたよ」
とのこと。
どうやらカリスマ性を振りまくような生徒ではなく、どちらかと言えば印象に残らない類の生徒だったようだ。
ただ、母親譲りの夜を思わせる黒髪と黒真珠のような神秘的な色合いの瞳をもつ美少年で、先輩後輩同級生を問わず少なからず彼女に想いよせる女生徒がいたようだ。
しかし、彼が決まって動く瞬間があった。
それは同級生が喧嘩や揉め事を起こす時だ。彼は決まってその仲裁に入り、不思議と禍根を残さず短時間で収めてしまうのだ。
父親譲りで腕っ節は強かったが、彼はそれだけを頼るような真似はしなかった。
例えば、とある二人が殴り合ってたとしよう。
彼はレフリーストップのようにその間に割って入り、時には襟首を捻り上げそのまま床に叩き付け、
「まずは双方とも拳を引かぬか! 馬鹿者!」
と一括。そして静かだが低くよく通る声で、
「何故殴りあうに至った? 話せ」
そして二人の言い分を聞き、二人が和解できるだけの条件を成立させてしまう。
その手腕は教師すらも舌を巻くほど鮮やかで、「バルケッタ君に任せておけば、大抵の揉め事は収まる」と信頼されていた。
寄宿学校入学当時は、社会主義者の息子ということで色眼鏡で見られたり、警戒されたり、謂れのない誹謗中傷を受けることもあったが、本人はさほど気にしたそぶりも見せず淡々と学生生活を送りながら、同時に多くの揉め事の仲裁を行いその信頼や名声を一歩ずつ勝ち得た。
もっとも本人に言わせれば、
「単に騒がしいのが嫌いなだけだ。本を読むのに邪魔になる。学生同士の大抵の揉め事は、その根本まで立ち返れば実にくだらない理由が多い。それを解決することで静寂な時間が戻ってくるなら、俺は喜んで仲裁する。時間は有限だからな」
とのことだ。
***
さて、ムッソリーニが第一次大戦参戦を支持し、社会党から除名処分になった頃、バルケッタは11歳の若さで寄宿学校の生徒会長になっていた。
それほどの確固たる地位を学内で築いていたのだ。
「ふむ。お受けしましょう。学校は閉鎖された小さな社会と言える。その切り盛りをすれば学ぶこともまた多いでしょうから」
以後、彼は飛び級で卒業するまで4年間を生徒会長として過ごし、仲裁と調整に徹した。
後にある教師はこう語ったという。
「バルケッタ君が生徒会長だった時代がもっとも学校が平和だった。彼がその優秀さゆえに早く卒業してしまったのは実に残念だ」
さて、第一次大戦が終結し、父親であるムッソリーニが帰還する。
この時のバルケッタの言葉は、
「世界大戦とやらの勝利者は、人間ではなくスペイン風邪だな。どんな最新兵器を凌ぎ、最も多く人を殺した」
だった。
さて、帰還したムッソリーニがファシズム運動を始めた頃、バルケッタも卒業を迎えた。
そして誰もが意外と思ったのが、バルケッタが父親の政治運動を積極的に手伝うと言い出したことだ。
彼の思想は保守であり、元とはいえ社会主義者である父親とは不仲だと誰もが思っていた。
「別に不仲じゃないさ。不仲を語れるほど近い存在じゃないってだけで」
では、何故彼がそんな距離感のある父親の仕事を手伝う気になったのだろうか?
彼の友人が聞いたら、彼は苦笑しながらこう答えたという。
「階級闘争を訴えてあちこちでリンチや略奪や金持ちの襲撃を煽動してる共産主義者や社会主義者達に比べれば、ファシストは階級協調を標榜してるからな。仲裁し甲斐があるとは思わないか?」
そして、こう繋げた。
「社会主義者に幻滅した成れの果ての親父が考えたにしては、悪くない代物だ」
そう彼は笑った。
それは普段の彼からは考えられないほど楽しげな表情だったという。
こうして、政治家”バルケッタ・ムッソリーニ”は生まれた。
ある意味、彼にとっては二度目の生誕と言えるのかもしれない。
そして1920年代~1930年代の二十年間を通し、時にはその冷血といえるほど冷徹さにより”黒のケッタ”と恐れられながらも、冷徹であるが故の果断さでイタリアを欧州屈指の大工業国家に引き上げた男の誕生の瞬間でもあった……
もっとも政治家という枠組みに収まりきらないのが彼なのであるが。
皆様、御愛読ありがとうございました。
ボストーク的には珍しいオリ主のエピソードはいかがだったでしょうか?
前書きにも書きましたがCODE1940がそろそろ終わりそうで、北アフリカが舞台となるCODE1942の準備で資料を作ってたんですが、その時に書いたケッタの設定が妙に膨らんできて、しかもプロット切ってる段階で敵味方もカオスになる北アフリカでアンツィオの面々がどこまで描けるかがかなり疑問符が付いたんですよ。
それで個人的にケッタやアンツィオの面々、それに間違いなく出番が少ないであろうストパン出身の航空少女たちも書いてみたくなったんです。
他にも理由はありますが、それはまた後日活動報告にでも。
とにかく、そんな経緯で出来上がったのがこの短編です。
基本、数話の予定ですし不定期更新になりそうですが、気に入っていただければ幸いです。
***
設定資料
P40重戦車
主砲:アンサルド75mmL/34砲(75mm、34口径長)
機銃:ブレダMG38×2(7.92mmx57弾。主砲同軸、車体前面)
エンジン:V2トーロエンジン(液冷V型12気筒ディーゼル、415馬力)
車体重量:29.5t
装甲厚:砲塔前面70mm(傾斜装甲),防盾95mm(鋳造、曲面),砲塔側面/後方50mm,車体前面70mm(傾斜装甲)
サスペンション:リーフ・スプリング/ボギー方式
変速機:フル・シンクロメッシュ前進5段/後進1段
操向装置:油圧アシスト付
履帯:555mm幅、ダブルピン/シングルブロック
最高速:48km/h
装備:車載無線機、電気油圧式砲塔旋回装置、大容量予備バッテリー、自動消火装置、機関室/戦闘室間の防火隔壁、
乗員:定員5名
備考
史実より強化されてる上に登場が三年は早まっているイタリア自慢の重戦車。
史実では1940年に設計が始まったからP40という名になったが、”この世界”では1940年に制式化され配備が始まったからP40となっている。
1940年の時点でこの戦車を大量生産できてる時点で、”この世界”のイタリア王国がどのような国かを物語っているのかもしれない。
リベット止めの装甲とか、伝統的過ぎる板バネ式サスペンションとか、
また史実と大幅に異なる部分がある。
それはターレットリングが大型化し、より大きな砲塔……車長/砲手/装填手が乗り込む三人乗り砲塔が採用されてることだ。しかも史実では欠点とされていた車長用キューポラや車載無線機もしっかり搭載されてる形でだ。
というのもこのP40、実は友好国であるドイツの初期型のⅣ号戦車を輸入し、それを参考にして作られた戦車なのだ。
更に変な所で先進的なイタ車らしく、大型化した砲塔を素早く正確に、なおかつ安全にまわすためにこの時代では珍しくエンジンからの油圧ではなく独立した電磁式油圧ポンプで砲塔を旋回させる電気油圧式の砲塔旋回装置を採用している。
またエンジン停止状態でも砲塔が旋回できるように大容量の予備バッテリーを搭載しているのもいる。
では傾斜装甲は……友好国のソ連から供与されたT-34中戦車のえいきょうとする説もあるが、開発時期から考えて、おそらくだが陸続きの隣国で長年色々な意味で因縁のあるライバルだったフランス戦車がいち早く傾斜装甲を取り入れていたためだと推察できる。
更に付け加えて言えばそもそもⅣ号戦車(同時にⅢ号戦車も)を輸入し、それを参考にしたモデルを開発しようとしたのも当時イタリアが最も恐れたフランスのルノーB1(シャールB1)を撃破する戦車を求めた結果である。
要するに”この世界”のP40戦車は、「シャールB1を筆頭とする強力なフランス戦車に打ち勝つために作られた戦車」であり、同じ75mm砲でありながらB1の17口径長に対して倍の砲身長にしたのは明らかにアウトレンジでの撃破を狙ったものであり、固定砲でなく旋回砲塔にしたのはそちらの方が戦車戦において有利だからに他ならない。
装甲が初期型Ⅳ号より分厚いのも、B1の装甲厚が60mmなため、撃ち合いになっとき押し負けないためであろう。
それはドイツのテレフケン社の防振防塵処理済みの戦車用無線機をライセンス生産したマレッリ社製の無線機を全車標準搭載したことからもうかがわせる。
イタリアは友好国ドイツの機甲戦(電撃戦)を早くから着目していた。
それはフランス戦車が重装甲ではあるが旧態依然とした乗員編成と仕事の割り振り、更には無線機搭載の立ち遅れなどから新世代の機構戦術に対応できてないことが明白であり、それを圧倒するために機甲戦における有機的な連携に不可欠な無線機を標準搭載した経緯がある。
付け加えれば自動消火装置、機関室/戦闘室間の防火隔壁、セルフシーリング・タンクといった安全装備(実際の効果はともかくとして)はシャールB1を頂点とするフランス戦車の特色であり、このあたりも大きく影響しているのだろう。
また旧来のイタリア戦車における構造的欠陥とされた内蔵型防盾も、オーソドックスな外装型の鋳造品に改められている。
さて史実では開発遅延の最大の障害となったエンジンだが、これは驚いたことにドイツと同じく友好国であるソ連からT-34用に開発されたV-2ディーゼル・エンジンを輸入することで解決した。(購入は3000基。ライセンス生産権も獲得)
ただし、そのままではイタリアの立地条件で使うのは厳しかったためにフィアット社などのイタリア国内エンジン開発メーカーに改造を依頼。
特に問題の大きかったエアフィルターをはじめ、給排気系を大幅にリファインしている。
エンジン出力が原型に比べて控えめなのは耐久性や平均故障間隔の延伸を優先したからで、その分耐用性や信頼性は上がっている。
何より性能的に安定したために実戦における実馬力は大きな差が無かったと言われていた。
また、これに組み合わされる変速/操向装置や懸架装置はイタリア・オリジナルのものでむしろⅣ号戦車の発展型と言っていい物で、T-34に比べると動作が軽く動かし易かったりする。
ダブルピン/シングルブロック構造の555mm幅というイタリア戦車としては前例のない幅広履帯と相まって、少なくとも1942年型以前のT-34よりも機動力は高いという報告が数多くある。
主砲はイタリアのDa75/32野砲をベースに2口径長延長したものをアンサルド社が製作したもので薬莢は強装のイタリア・オリジナルだが、弾頭部分はドイツの75mm砲と共用化されている。
そして組み合わせられる照準機もシュトリヒ・ゲージ型のツァイスのライセンス生産品となっている。
また機関銃は史実と大幅に違い、単にドイツと同じ7.92mmx57弾(”この世界”のイタリアの標準小銃弾)を使用するだけでなく、MG34汎用機関銃のライセンス生産権を得てブレダ社に設計簡易化させて製造したブレダMG38機関銃となっている。
蛇足ながら”この世界”のイタリア機関銃/機関砲はドイツ機関銃のライセンス生産品ばかりだ。
というのも兵器開発の陣頭指揮を取り、産業界を引っ張るバルケッタ・ムッソリーニが強行的に推し進めたかららしい。
どうやら、彼の”師匠”に当たる人物が、「機関銃ならドイツ製が一番だ」と語っていたからだとか。
ともかく武装もパワーユニットもなりふり構わぬ形で友好国からかき集め完成したP40は史実よりも戦車としての完成度がずっと高いものとなり、対峙する英国軍を北アフリカで苦しめることになる。
また1942年には、アンサルド社製の75mm/M34高射砲をベースにドイツの7.5cm/KwK40と砲弾共有化を果たしたアンサルド75mmL/46砲に換装し、溶接構造の砲塔と組み合わせた本格的な改良型が登場するなどその後も発展し、北アフリカを中心に猛威を振るうことになった。