ガルパン×ゲート・シリーズ外伝 黒き小船の物語 CODE1903-1940   作:ボストーク

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皆様、こんばんわ~。
ちょっと間が空いてしまいましたが、ようやく書きあがりました(^^

今回のエピソードは……史実の第二次大戦において”主役”の一人でありながら、シリーズではあえてスポットを当ててなかった勢力、「その時、何をしていたか?」に着目したいと思っています。


第12話 ”トゥーランドットは鎮魂の音色 CODE1940”

 

 

 

「とまあ、これが世間で言う【カラブリア沖海戦】の概要よ」

 

と”パンタローニ・ロッシ(赤パンツ隊)”の隊長、フェルナンディア・マルヴェッツィは話を締めくくった。

 

「へぇ~。ワタシ、燃料切れ起こしかけてすぐ戻っちゃったから知らなかったけど……そんなことになってたんだ?」

 

同じ戦場の空にいたとはいえ、第一陣のそれも滞空時間の関係で真っ先に帰還せねばならなかったエーリカ・ハルトマンは、感心したように呟いた。

 

「アンタねー。報告書や戦闘詳報くらいきちんと読んでおきなさいよ? バルクホルンあたりがまた来たときにどやされるわよ?」

 

「トゥルーデとかミーナとかそう簡単に来ないって。バトル・オブ・ブリテン終わってまだ2ヶ月もたってないし。ヴァルカン半島とかにはいるかもしれないけど」

 

 

 

***

 

 

 

さて、彼女達が何を話してるか理解するには、少々説明が必要だろう。

史実では1940年7月10日から10月31日にかけて、ドーバー海峡を挟んで勃発した、人類史上他に類を見ない大規模航空消耗戦だ。

史実のドイツ空軍(ルフトバッフェ)は、航続距離や性能が不足しがちの航空機と数多くの戦術的ミスや、ヒットラーやゲーリングの横槍で標的の変更するなどの失策が重なり、この期間で喪失した航空機は英空軍の915機に対し独空軍は1733機に達するという説があった。

 

 

 

しかし”この世界”では、そこまで傷が深くなるまでドイツは英国相手に航空消耗戦を続けなかったようだ。

いや、実は途中までは史実以上に上手く行っていたらしい。

前にもチラッと触れたが……ドイツで一番偉い「アーディ小父さん」の怒りを買うほど空戦性能が低く、史実でも”この世界”でも英国上空で役に立たなかったBf110の生産と投入は最小限に抑制され、それを補うように当時主力だったBf109Fより航続距離換算で400km以上長く飛べ、戦闘機としての総合力はむしろ勝っていたHe100Dが大量生産/大量配備が始まったというのもある。

 

またこのHe100Dという戦闘機、常に”外側引き込み式降着脚の()()()()()さ”が弱点の一つとして語られるBf109シリーズに比べ圧倒的勝ってる部分があった。

既に察した方もいると思うが……He100シリーズは、車輪の左右間隔幅(トレッド)を広く取れ、構造的にも頑強にしやすい内側引き込み式を採用しているのだ。

 

その理由というのも開発系譜的には姉に当たる機体達、『He112RM』や『He100RM』がイタリア海軍で艦上戦闘機として採用されているというものであり、文字通り「足腰の強さには自信がある」のがHe100シリーズであった。

この意味は、実は地味に大きい。

史実のバトル・オブ・ブリテンにおけるドイツの敗因の一つが、「接収した英国に近いフランス北部の航空基地を利用する予定だったが、設備が合わないのに加えフランスの滑走路は舗装が荒く、特に降着脚が脆弱なBf109は離発着が困難」というものがあった。

特に落下増槽採用前のBf109は航続距離が短く、英国上空の制空権確保の足かせになることはドイツ空軍も重々承知していた。

そのために北フランスの飛行場を使おうとしたのだが……それが事実上、頓挫したために結局Bf109を英国上空に必要な時間留まらせることができず、航続距離以外は取り得のないBf110を護衛戦闘機として送り込むしかなかったのだ。

 

しかし、He100Dはこの”未舗装の田舎道のような滑走路”でガンガン使えるだけの艦上機譲りの足腰の強さを持っていたのだ。

 

 

 

***

 

 

 

蛇足ながら……人によっては駄作機呼ばわるされるBf110は、”この世界”と史実の「二つのドイツ」の差異、その象徴の一つと呼べる航空機だ。

”この世界”では、「Bf110という双発復座の”駆逐機”と呼ばれた重戦闘機が、実際に駆逐したのは敵戦闘機ではなくメッサーシュミット社という戦闘機メーカー」だったと揶揄されることがあるが、それは割と深い意味がある。

例えば史実におけるBf110の採用と実戦投入に関して、「メッサーシュミット本人と昵懇でメッサーシュミット社の政治力」となったウーデットとゲーリングという二人にもまた、少なからず運命変更(へんか)が出ていたのだ。

 

例えばウーデットは、ただでさえ管理能力の欠落を前々から指摘されていたのに加え、Bf110の採用に関して不当な圧力をかけたことが判明。1940年にはとっくに空軍……いや軍自体から叩き出されていた。

噂では、生来の女好きの彼らしく、痴情の縺れから交際相手の女性に物理的な意味で胸を釘で刺されその傷が原因で死亡したらしい。

 

ゲーリングもまたメッサーシュミットの走狗だったことが明るみなると同時に、いつの間にか総統閣下の手には『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』が握られていたのだ。

ある日、アーダベルト・フォン・ヒットラー総統に呼び出されたゲーリングは、無言で投げつけられた書類束を見て愕然とし、”国家保安本部(RSHA)”に嵌められたことを確信した。

そして総統自身に、こっちは物理的ではなく普通の意味でこう釘を刺された。

 

「君は有能ではあるが、野心が強すぎるきらいがあるな? 野心を持つことは必ずしも悪いことではないが、身の丈と器に合わない野心は身を滅ぼすぞ」

 

 

 

こうしてゲーリングの国防相の夢は、Bf109同様にBf110の大量採用を願ったメッサーシュミットの野望と共に果てた。

実はヒットラーがゲーリングに疑いの目を持ったのは、ウーデット同様に「Bf110の不自然で不透明な選考から採用に至る経緯」からであり、以来ずっとずっと内定を行わせていたようだ。

 

 

 

***

 

 

 

こんな経緯がありブロンベルク元帥が史実と違って代わらず国防相を務めあげ、そして戦争を間近に控えた1939年早々に周囲に惜しまれながらも勇退を決意した。

 

『齢60を迎えようとしていたときに退官を考えたのだ。このような激務は私のような年寄りには向いていない。これからのドイツにはもっと()()のいい人材が必要だ』

 

と国防相の座を後輩のフリッチュに譲り、予備役編入という形で結婚したばかりの妻と共に田舎へ引きこもった。

だが、ブロンベルクは退役前に大きな仕事を成し遂げていた。

それはつまり、

 

『戦争を前提としたより柔軟な対応と合理的な軍の運営が出来る強固な組織再編』

 

だった。

そもそもこの案は、ヒットラーが軍人だけでなく親衛隊やシャハトのような民間企業の人間まで組織工学と運営のエキスパート達の意見を参照して、草案を書き上げたものだった。

ある時、ヒットラーはブロンベルクをこう労ったそうだ。

 

『国防相への負担が大きすぎるのだ。国防軍の組織の運営と維持、有事に備えての拡大に加え、法的に国防軍最高司令官である国家最高指導者からの委託による戦争指導など、一人の人間に出来るわけない。ブロンベルク君、君が激務に耐えかね健康を害するのは人間として当たり前だ。君がこうなるまで情況を放置してしまい、本当にすまないな』

 

この時、ブロンベルクは「閣下、勿体無いお言葉です」と感謝と共に返したという。

後年において、アーダベルト・フォン・ヒットラーという男はその「中二病的負と暗黒のカリスマ」として語られることが多いが、例えそれが彼の一面であっても全てを表す表現ではない。

彼に反対する者たちには残念な報告ではあるが、ヒットラーが多くの人間に心酔されていただけではなく普通の意味で慕われていたことも、数多くの側近達が証言している。

 

 

 

演説でしか彼を知らない者には、ヒットラーは正しくカリスマ指導者だったが、彼と言葉通わせられる地位にいた多くの軍人、政治家、企業家は……

 

「叱責するべきときは叱責し、労うべきときは労い、礼を述べるときは述べる。信賞必罰を組織運営の重要課題と考えていた。人物評価には容赦ないところがあるし、時には冷静を通り越して冷徹/冷淡な判断もするが、歴史にたびたび登場する独裁者の中では極めて優秀な部類なのは間違いない。そしてある分野においては神がかり的な部分をみせるが、多くの人間的要素においては”普通”や”常識”という言葉を大きく逸脱するものではなく、呆れるほど一般人な部分すらある」

 

とこんな風にヒットラーの人柄をを語るらしい。

実際、彼の人柄を「厳格だが人間味に溢れる」と好意的に見る人間も多い。

それは何も若い世代ばかりではなく昵懇だったゼークト退役将軍やルーデンドルフ退役将軍も同じであり、ヒットラー自身も古き良き時代のプロイセンの気風を感じる二人によく教えを受けていたという記述が残っている。

実際、30年代に往生を遂げた二人の葬儀にヒットラーは参列し、進んで弔辞を読んでいた。

それは普段の演説のような厳格なものではなく、故人との思い出を穏やかに懐かしむ内容だったらしい。

 

そんなヒットラーがブロンベルクに労いの言葉をかけた後にこう切り出すのは、ある意味当然なのかもしれない。

 

『ところでブロンベルク君、後任が君のような苦労をしないためにも我に少々力を貸してもらえぬか? 君が軍人としての最後のキャリアを飾るのに相応しい仕事だと自負している』

 

 

 

***

 

 

 

ブロンベルクはもちろん快諾し、そこで生まれたのが陸海空の三軍を統括し、軍の運営ではなく()()()()()()()()()の全権を担う組織……

 

OberKommando der Wehrmacht(国防軍最高司令部)

 

後に”OKW”の略称で知られる組織が誕生した瞬間だった。

軍の維持運営と戦争の遂行という二大事業を分業化、相互補完しながら成立させるという考えは国民にもわかりやすく、また浸透しやすいものであった。

意外なこと(それとも当然のこと?)に職業軍人の反対は少なかった。おそらくだが、ヒットラーの告げた「ポストが増えるのだが?」という言葉も存外に効果的だったのかもしれない。

 

 

 

国防相が軍という組織の維持と運営を司り、OKWが戦争を指導する……ブロンベルクが退役までに余命を削るように構築した置き土産は、開戦に間に合わせる形でドイツ軍全体の組織改変と人事の一新となった。

まず後任の国防相は前述の通りブロンベルクの退役に伴い上級大将から元帥に昇進したフリッチュであり、これは下馬評どおりであった。

本人は現場に未練があったようだが、どうやらブロンベルクに諭されたようだ。

 

バトル・オブ・ブリテンの主役だった空軍を例に挙げれば、空軍参謀総長が()()()しなかったヴェーファーを筆頭に調達の最高責任者の航空機総監はミルヒ、実戦部隊も第1航空艦隊司令官が史実と比べると繰り上がる形でケッセルリンクとなり第2航空艦隊はシュペルレ、第3のシュトゥムプフ&第4のグライムと頼りになる名が並び、第5の司令官には降格処分は受けたが軍から追放はされなかったゲーリングが座っていた。

 

ベストと言わないまでも割とマシな布陣であり、ウーデット以上の急降下馬鹿で史実では「(戦略爆撃機を含む)あらゆる爆撃機に急降下爆撃機能を付けよ」と無茶すぎるというか馬鹿すぎる命令を出したイェションネクは、ウーデット同様に無能者の烙印を押され、「戦争の邪魔をするな」とばかりに軍から放逐されているのがまたポイントが高かった。

イェションネクもゲーリングの関係者なのだが……

 

ゲーリングの素行を調査していた、最近はサロンを中心にパリで浮名を流している(また、その関係でバルケッタ・ムッソリーニと友人関係でもあると噂される)、某”RSHA第Ⅳ局(ゲシュタポ)”の情報将校によれば、

 

『ゲーリング氏自体は部分的には有能なんだが、その周辺に集まるのはそうでないのが多いからね。集塵器として考えるなら軍の無能者排除(ゴミそうじ)には役に立つ』

 

とのことだ。

親衛隊にしてみれば、国家にとっては害悪にしかならない無能者を排除できる上に軍への発言が強くなるのだから旨味のある仕事だったのだろう。

他にも裏方としてソ連とは絶対に戦争をしないことをヒットラーが名と名誉にかけて約束したために、シャハト経済相はノリノリのようだ。もっとも予算編成に付き合わされる軍需相に就任したばかりのシュペーア君は大変だろうが。

ちなみにシュペーアの前任であるトート博士は事故死したわけではなく、「プロイエクト・アウトバーン」の後に経済のご意見番として娘さん達共々一族まとめてイタリアに招かれているので、そのうち登場するかもしれない。

おそらくバルケッタ・ムッソリーニの有能なブレーンであるのだろう。

あの男は才能を見抜く目も尋常ではないが、才能の無駄遣いも嫌う。

 

 

 

悪くない、確かに史実に比べればずっと風通しの良い悪くない布陣なのだが……

しかし、それでもドイツはバトル・オブ・ブリテンで英国に競り負けた。

 

その理由をドイツ人なら口を揃えて言うだろう。

 

「空気を読まずに援軍を差し向けた日本人と、航路をショートカットさせるためにだんまりで水門開いたアメリカ人のせいだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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英国本土直上防空戦(バトル・オブ・ブリテン)を語るには、まずその前提となる情況を……史実と同じく1940年5月26日から6月4日まで行われた【ダンケルク大撤退戦(ダイナモ作戦)】における事態、英国の挙国一致内閣首相ウェリントン・チャーチル曰く……

 

『50%の成功』

 

『半分の奇跡』

 

まで立ち返るべきだろう。

史実のダイナモ作戦は、「ダンケルクの奇跡」「90%の成功」と謳われた作戦だ。

この奇跡の種明かし(しんじつ)は、諸説あるが究極的には英仏連合軍の精強さや英国救出船団の奮闘でもなく、ただ攻め手のドイツの不手際だ。

 

そう、包囲しダンケルクの海岸まで追い詰めたイギリス兵192226名、フランス兵139000名の計331226名をまんまと英国に脱出させてしまったのだ。

戦死者や捕虜になったのは、撤退の成功者の1割程度の3万人程度だったとされている。

 

結果として英国は重装備のほとんどフランスに置き去る羽目に陥り、本当に命からがら逃げ出したという感じだった。

だが、人によってはこの奇跡の撤退戦こそが欧州の戦いを長期化させる要因(兵器は再生産が利くが、戦死した兵はそうも行かない。また後の自由フランス軍の中核戦力も存続してしまった)であり、最初期のドイツ敗北フラグだったとしている。

つまり、ダンケルク撤退戦を成功させてしまったことこそが最初の躓きであり、バトル・オブ・ブリテンで方向性が決まり、独ソ戦開幕で敗北が決定されたと。

 

 

 

ドイツが……いやヒットラーがなぜこの時、カレーやダンケルクの街まで占領しながら海岸に殲滅戦を仕掛けずに36万人の敵兵をみすみす見逃したのか?

それは多くの人が様々な解釈で検証している。

例えば……

 

・包囲していた陸軍の中でも前線装甲指揮官のグデーリアンやラインハルトは海岸への強襲を主張していたが、軍の疲労と敵が死兵化した場合の自軍の損耗を考えたルントシュテットやクライストなど侵攻軍(A軍集団)司令部が反対していた。

 

・ゲーリングが空軍だけで殲滅戦を完了できると主張し、これが侵攻軍司令部の主張と一致していた。

 

・英国が撤退戦支援の為に最新鋭のスピットファイアをはじめとする最新鋭機を投入し、ドイツ空軍がダンケルク上空の制空権を奪えなかった。またドイツ空軍自慢の急降下爆撃が柔らかい砂地相手では触発信管が作動せず、不発弾が多発した。

 

・加えて濃霧や悪天候が続き、英独共に航空機の効率的運用が難しかった。

 

・ドイツの海軍力ではドーバー海峡の制海権は奪えず、また極短時間で投入される大小1000隻に及ぶ船舶を迎撃する手段がなかった。

 

・どんな理由があれ、ヒットラーがダンケルク海岸への攻撃を許可しなかった。”アラスの戦い”での英軍の位置的な反撃を、「延びきった補給線を叩き反撃/各個撃破を行う前兆」と捉え、誰よりもヒットラー自身が慎重になりすぎていた。

 

と諸説色々だ。

しかし、”この世界”では様子が違っていたようだ。

 

 

 

***

 

 

 

『徹底的に殲滅せよ。陸海空、どこでもかまわん。投じられる全ての戦力を投じ、協力し連携し合撃し殲滅せよ。これが西欧州での最後の戦闘となる。フランスが陥落すれば残るはイギリスしかないのだ。消耗や損耗など後先考える必要はない。弾のある限り撃ち続けよ……ダンケルクの海岸をあやつらの終焉の地にしてやれ』

 

これがナチス第三帝国の最高責任者(ヒットラー)が”ドイツ軍の長老”ことルントシュテットOKW最高司令官と前出のヴェーファー空軍参謀総長、海軍参謀総長のレーダー、そして若くして大抜擢された”ドイツ軍最高の頭脳”と謳われる新任のマンシュタイン陸軍参謀総長に告げた言葉だった。

 

こうして、ヒットラー自身の命名による英仏残存勢力殲滅作戦……『Unternehmen Turandot(トゥーランドット作戦)』が発動された。

 

 

 

海岸部への英国脱出用船舶の接近を妨害するため、潜水艦/水上艦に航空機と手段を選ばず1発でも多くの機雷がばら撒かれ、現れた水上砲戦部隊は最初は楽しく輸送船を射的の的にしていたが、英国政府が温存していた水上艦隊を護衛に大量投入、ドイツ艦隊とイギリス艦隊によるユトランド沖海戦(ジュットランド沖海戦もしくはスカゲラックの戦い)以来の激しい水上砲戦となった。

黒雲が厚く垂れ込めた昏い海に万雷の轟音(ほうせい)……どこか黙示録的な情景の隙を突いて輸送船団に張り付いた「輸送船を沈める(通商破壊作戦)」を本業とするUボートの群狼が取り付き、あらん限りの魚雷を放つ!

この時のことをギュンターという名のUボート乗りはこう語っているという。

 

「細かい照準なんて必要なかった。音の聞こえる方向に魚雷を放てば、そのうち何らかの船には命中する。それは十中八九敵なんだから誰もが笑いが止まらなかったさ」

 

ダンケルクに取り残された40万近い英仏将兵の救援のために狭い英仏海峡に集まった英国船舶は、軍民問わずに1000隻あまり。

ここにヒットラーはレーダーに、「水上水中を問わず、戦闘可能な船は全て集結させ総攻撃をかけよ」と命じていた。

なれば現代水上戦における軽装騎兵のようなSボート(魚雷艇)や水雷艇が黙っているはずもなかった。

勇敢な小船乗りたちは()()()()砲弾の応酬の合間を縫い、あるいはUボート(潜水艦)狩りに忙しい巡洋艦や駆逐艦の間を駆け抜け、大胆にも()()()()()()に入り込んで大物には主兵装の魚雷を放ち、小物には排水量に見合った艦砲と呼ぶにはささやかな砲や機銃を可能な限り喫水線付近やその下に撃ち込み、船としての機能を奪っていった。

そして撃ち込むべき弾が尽きると、フレンドリーファイア(味方撃ち)を恐れるあまりまばらになってしまう敵の発砲をすり抜け、煙幕を焚きながら戦場より離脱するのだった。

 

 

 

通常爆弾を砂浜で落下させると不発が多く効果は薄いと考えたドイツ空軍は、戦闘機隊による制空権の維持はもちろんだが、投入できる爆撃戦力の半分を船舶攻撃と機雷散布に切り替え、残る半分で通常爆弾よりはマシという理由でソ連から大量購入していた”モロトフのパン籠(集束焼夷弾)”攻撃に切り替えた。

砂浜では確かに天然自然に可燃物はないが、兵や兵器/物資(人工の可燃物)が無秩序に密集した場所に焼夷弾の雨が降り注げばどうなるかは想像に難くない。

 

そして最後に陸軍であるが……

 

「第一命令、突撃せよ! 第二命令、突撃せよ! 第三命令、突撃せよ!!」

 

「こいつぁ最高だ! どこに弾を撃っても敵に当たる!!」

 

「各員、蹂躙戦よぉーい! ライミーとフロッギーの死体で海岸を舗装せよ!」

 

戦車隊は自らを有機的に動ける移動トーチカと定義し、”機動包囲網”を形成し、火力と機動力で英仏兵を圧縮してゆく。

時折、対戦車砲で歯向かおうとする勇者もいるが、事前に頑強に整備された要塞的な意味の防衛線ならいざ知らず、不安定な砂地で隠蔽も出来ずに砲撃してくる野砲など物の数ではなかった。

それに火力を投射するのは戦車ばかりではなく、仏戦では中々使いどころがなかった数々の対人榴弾をこれが最後の祭りとばかりに気前よく放り込む砲兵隊も、砂浜の花形となり迫撃砲と機関銃部隊が方法は異なるが相手を薙ぎ倒す中、そこに大量配備された短機関銃(MP-38/40)片手に突入してゆく歩兵部隊、とりわけ勇名を馳せた装甲擲弾兵(パンツァーグラネディア)の姿があった………

 

 

 

無論、英軍や仏軍だって黙って狩られるわけはない。

砂浜でドーバー海峡でその上空で、死に物狂いで必死に抵抗を続けた。

戦場は秒針が刻まれるごとに兵力が密集し、その都度に投入される火力が加速度的に増え、混沌の度合いを強めていった。

 

航空機はその密度と悪天候、気まぐれに立ち上る濃霧などにも邪魔をされ敵味方あるいは味方同士でも空中衝突を起こす機体すら現れ、両国の水上砲戦部隊は時には船ではなく戦車の撃ち合う距離で巨砲を向け合い、陸上では小銃や短機関銃どころか鶴嘴やスコップまで武器として用いられる戦いとなった。

 

気が付けばダンケルクの砂浜は本来の色を失い、流される血と油で赤黒く染まっていた……

 

 

 

”トゥーランドット”とは本来、「千一日物語」の中の一説「カラフ王子と中国の王女の物語」を原典に、イタリアの劇作家カルロ・ゴッツィが創作した戯曲である。

今はジャコモ・プッチーニが書き起こした同名のイタリアン・オペラの方が有名であろう。

ヒットラーがインスピレーションを得たのは、おそらくはその中のとある歌曲であろう。

戦場音楽を背景に高らかに歌い上げられるその音色は……

 

『誰も寝てはならぬ、誰も寝てはならぬ』

 

『誰も彼の名前がわからない、嗚呼、我々は死なねばならない』

 

と響いていた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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結果から先に言おう。

1940年5月26日から6月4日までに行われた撤退戦で、英国は16万人の英仏将兵を脱出させることに成功させた。

この絶望的な情況の中で、これだけ人数を脱出させたのだから流石は英国というべきだろう。

だが代償はもちろん大きい。ダンケルクに追い詰められた40万人弱の将兵+英国救出船団とその護衛艦隊の戦死者/行方不明者の数は、船団にいた民間人を含め13万人を越えていたのだから。

そして、仏に残され脱出の望みが絶たれた戦死者とほぼ同数の約13万人がドイツ人への降伏を選んだのだった。

 

 

 

これが「50%の成功」、「半分の奇跡」の実情である。

英国は欧州における反攻拠点を全て喪失し、前線を本国ないし地中海/北アフリカ方面まで下げるしかなかった。

また史実の半分以下である6万人程度しか脱出できなかった仏軍は、将来的に編成される自由フランス軍の編成に大きく暗い影を落すことになる。

 

無論これだけの激戦、ドイツ軍とて無事で済むわけはない。

最終的に3万人近い戦死者/行方不明者を出しているのだ。

英国が無理に無理を重ねて前倒し投入したスピットファイアやハリケーンなどの最新鋭機の奮戦に、やはり精強だったロイヤル・ネイビー、何より最後の最後で脱出を諦めた一部の”しんがり部隊”が死兵と化したことが大きかったようだ。

 

当然、人命がその最右翼だが物的損害も大きかった。

英国は史実どおり欧州に陸揚げしていた装備のほとんどを失い、また英国王立空海軍も無視できない損失が出た。

だが、もしかしたら海軍へのダメージはドイツの方が深刻かもしれない。

大型艦の沈没こそなかったものの主力艦は大なり小なりダメージを受け、修理ドックはどこも満員御礼。

ヒットラーと海軍の関係が史実と正反対と言ってよい良好な関係だとしても、”あしか作戦”を控えた今、その前に大規模な艦隊行動や潜水艦を除く通商破壊作戦は不可能になっていた。

いや、潜水艦とてダメージを受けているので当分、自粛気味の活動になるだろう。

 

 

 

 

 

この両者の犠牲の多さ/大きさが、この先……バトル・オブ・ブリテンはもちろんのこと、それ以降の戦いにも大きな影響を残すことになった。

例えばそれは戦闘だけでなく占領地政策などの政策方面にも及び、ドイツのフランス占領下統治における方針と方策が史実よりずっと温和かつ融和的になった理由の一因は、この時に生じた一時的被害により、ヒットラーが占領とそれ以後における統治において戦力の消耗を避けたかったための妥協の産物とも言われている。

 

こうして英国は「16万人もの脱出の成功」を根拠に脱出作戦の成功を、ドイツは「13万人の殲滅と13万人の捕虜」を論拠に戦闘の勝利をそれぞれ主張するこの戦いは幕を閉じたのだった。

 

ダンケルクの波打ち際には夥しい死体が波に揺られ、沖合いには船としての役割を終えた巨大な鉄くずが、巨大な墓標のようにいくつもそびえていた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そして、【ダイナモ作戦】の()()()()()()において、イギリスとドイツにまつわる国々も大きく動いた。

まず”日英同盟”の相手国である大日本帝国だ。

 

日英同盟は本質的には片務的軍事同盟であり、「片方の国が1ヶ国にのみ宣戦布告を受けた場合は残る片方は中立以上の義務を負わない」という条件があり、同時に「片方が()()()()()から宣戦布告を受けた場合、参戦が決定される」という条項が存在していた。

 

日本はダイナモ作戦が失敗したと判断したその時から、巡洋戦艦×2+正規空母×2を中核とする「派英艦隊」の編成を始めた。

ただ、ドイツからのみ宣戦布告されてるこの情況では、日本は表立って英国支援名目で艦隊は出せなかった。

 

そこで日本政府は一計を案じることになる。

派英艦隊を『日米演習艦隊』という名目で編成、米国政府との協力のもとに「米海軍との交流と親善」というお題目で真珠湾を寄港地にし、ハワイを中継し米西海岸のサンディエゴへと向かい、情勢の変化を待つことにしたのだ。

当時、米政府が管理するパナマ運河は運河最大通過容量(パナマックス)の拡大工事の為に運行が事実上は止まっていたので、英国に近い東海岸への進出は自粛していた。

 

 

 

さて、これを冷静に見てたのはドイツだ。

ドイツは別に日英同盟やその内容を失念していたわけではない。

だがイタリアが今すぐ英国に宣戦布告しても、サンディエゴに駐留していた派英艦隊は南米の先端にあるホーン岬を周回せねばならず、英国に到着するのはどんなに早くても2ヶ月以上はかかると思われていた。

そう……2ヶ月という時間は、「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」で英国の防空網を崩壊させ、英本土上陸(あしか作戦)への足がかりを得るには十分な時間的猶予のはずだった

 

そもそも、トラップカード”日英同盟”が発動するのがわかっていて、ドイツが様々な条件を提示し友好国ではあっても「決して同盟国ではないイタリア王国」に英国への宣戦布告を依頼したのは、エジプトの英軍牽制だけが目的ではない。

イタリア-リビア間で地中海を遮断、ジブラルタルとアレクサンドリアという地中海東西の英国海軍拠点のショートカットルートを封鎖し、インド/オーストラリア/ニュージーランドなどのアジア・オセアニア地区に配備された本土以外の英連邦軍の英国到着を可能な限り遅延させる目論見だったのだ。

イタリアはドイツ人すら予想しなかった獅子奮迅の戦働きを魅せるのだが、それはまた別の話。

 

 

 

***

 

 

 

だが、結果としてダイナモ作戦の失敗が、危機感を抱いた日英米の三国連携を強化させてしまったのだ。

英国の早期陥落は日米にとってもデメリットだらけだ。

であるならば、なんとしても救援はせねばならない。

 

そしてイタリアの対英宣戦布告と同時に日本はサンディエゴに待機させていた派英艦隊と、何よりもいつの間にか集結していた武器弾薬物資人員を満載した輸送船団と共に一路、パナマに向かった。

 

そして米国はドイツ人が予想してなかった行動を取ったのだ。

まだ拡張工事中なはずのパナマ運河を「試験通過」という名目で解放、まんまと日本艦隊を通過させてしまったのだった。

ドイツ人たちがそのことを知ったのは日本人達の艦隊が運河を通過し、大西洋に出た後の話である。

そしてノーフォークで最後の補給を受けた日本派英艦隊は、待機していた英国の対潜警戒艦隊と合流し大規模な護衛艦隊を編成、更に東へと進路を取った。

 

だが、この時のドイツには本来なら日本人の艦隊を迎撃すべく艦隊を出撃させたいところであるが、生憎とそれが可能なはずの水上艦艇はダイナモ作戦(先の戦い)で損傷を受け全て船渠入りであり、潜水艦の数は致命的に足りてなかった。

 

こうして日本艦隊は悠々と英国本土の軍港の一つ”グラスゴー”に入港したのだった。

 

 

 

だが、ドイツ人にとって最悪だったのは、日本艦隊よりむしろ空母に定数を越え分解してまで搭載されていた艦上機群と輸送船の積荷……300機に及ぶ英国仕様に調整された九七式重局地戦闘機と一〇〇式重駆逐戦闘機(フェンファイア)、大日本帝国空軍自慢の『日本製スピットファイア』だった。

 

 

 

しかし、ドイツ人はまだ知らなかった。

運んできた日本製スピットファイア以上に厄介な存在……ゼロの使い魔ならぬ【ゼロの悪魔】が、2隻の空母の中で静かにその出番を待っていたということを……

 

 

 

 

 

 

 

 

 





皆様、御愛読ありがとうございました。
みんな大好きドイツ軍(笑)にシリーズ始めてスポットを当てたエピソードは如何だったでしょうか?

それにしても……なんとシリーズ全話を通じて最長になってしまいました(^^
ついでに言えば使った資料も最大ならば、一度に出てきたキャラの名前も最大です。

あっ、基本的にドイツの皆さんも実在の人物とファーストネームは違いますよ~。
というかまだ全員分考えてないのは内緒です(笑)
目指したのは、「史実より適材適所が為されて、幾分風通しのいいドイツ軍」でしょうか?
日本ほどではないですけど、ドイツもまた人材配置が……ですから(--

そのお陰でダンケルクでは「歴史的大勝利」と言ってもいい勝利をあげましたが、それで勢いに乗ったのはいいものの、何やらドーバー海峡の波は高いような?

それでは皆様、また次回にてお会いしましょう!



***



設定資料



He100D(性能諸元は量産型のHe100D-1)

製造元:ドイツ・ハインケル社
エンジン:ダイムラーベンツDB601N(流体継手型1段無段階変速軸駆動式過給器(スーパーチャージャー)付き倒立液冷V型12気筒SOHC、公称:1175馬力)
最高速:645km/h(高度6000m、戦闘重量)
航続距離:1110km(機内燃料のみ)
実用上昇限度: 10900m
固定武装:MG151/20モーターカノン×1(20mmx99弾、毎分800発、プロペラ同軸)、MG17機関銃×4(7.92mmx57弾、毎分1100発、機首×2+主翼×2)
プロペラ:可変ピッチ・定速式3翅
特殊装備:防振処理空中無線機、防弾装備一式(30口径級弾対応。パイロット背面防弾板、セルフシーリング・タンク、防弾ガラスなど)、セルフシーリング小型主翼タンク、ハンドレページ式自動前縁スラット、フリーズ式補助翼(エルロン)、トーションボックス型主翼構造
オプション:100リットル落下式増槽×2(左右主翼下)

備考
史実では、当時ライバルと目されていたBf109E型に比べ戦闘機としてあらゆる面で優れていたのに、ドイツ戦闘機界の独占を狙うメッサーシュミット社と、ナチス党旗を会社施設に掲げることを拒否するなどナチス嫌いを隠そうとしないハインケル社の体質を嫌悪していたナチ党幹部の妨害により採用されなかった悲劇の戦闘機。

だが”この世界”ではなんと『Bf110=失敗作の烙印』の結果、ドイツ空軍(ルフトバッフェ)への大量採用に至ったという数奇な運命を辿った戦闘機。
実はエンジンが史実のDB601AではなくDB601Nとなったのは、BF110用に製造予定だったDB601Pが同機の全面キャンセルの為に浮いた分のエンジンを、ギア比を戦闘機用に改めいわゆる”N仕様”にしたエンジンが急遽使われたためであり、一部のギアの変更が間に合わなかった一部の機体にはイタリアから緊急輸入したRA1000 RC.41-1b”モンソーネ”(DB601のイタリア製ライセンス生産版)が使われていて、実はイタリアエンジン方の方が高性能らしい。

そもそも、”この世界”のHe100シリーズは開発開始、いや開発前どころか前進のHe112シリーズの頃からから波乱含みだった。
He112初期型は史実どおりBf109との性能評価で破れ、また性能を向上させた改良型は政治的理由で敗れた。
とはいえ高性能機には違いなかったので、更なる改良と輸出で活路を見出すように指示が出たのだ。
実は史実においては日本もHe112やHe100は少数だが輸入しており、馴染みある機体なのだ。

だが、ここで我々の知る歴史とは違う流れが起きる。
そう、国内の航空機開発ラッシュで海軍の艦上機開発まで手が回らないイタリアが、ハインケル社にHe112をベースにした艦上戦闘機とHe118ベースの艦上爆撃機の開発を依頼したのだ。(艦上爆撃機に関してはJu87ベースの機体開発をユンカース社に依頼したが、多忙を理由に断られていた)
せっかく手にしたノウハウを無駄にしたくないハインケル社は快諾。また当時(30年代中期)に空母を保有していた友好組織がイタリア海軍だけだったので、現地法人”ハインケル・イタリアーノSPA”まで立ち上げる熱の入れようだった。
こうしてハインケル社は、He112B(V9)をベースにその艦上戦闘機版ともいえる”He112RM”、同じくHe118の欠陥を是正した改良型の”He118RM”を開発、イタリア/ドイツの両国で生産を開始した。
ちなみに”RM”とは”Regia Marina”、イタリア語で”王立海軍”を意味する略語だ。

上の2機種の解説は別の機会にまわすとして、特にHe112RMの性能の高さを気に入ったイタリアは再び艦上戦闘機の開発をハインケル社の依頼する。
当時、ハインケル社は「打倒Bf109!」を旗印に、自主開発扱いでHe100原型機の開発を行っていたが、性能でどれだけ勝ってもナチ党への政治力(献金力)に勝るハインケル社の戦闘機が再び不採用になる可能性は極めて高かった。
そんな情況に舞い込んできたイタリアの次期艦上戦闘機の開発依頼はまさに渡りに船(一説にはヒトラーとケッタの密約と暗躍があったといわれる)であり、そこでハインケル首脳陣は”Bf109対抗機”の開発をイタリア艦上戦闘機開発と統合することで資金的余力と予想されるメッサーシュミット社やその献金を受けたナチ党の妨害対処とすることにしたのだ。
いかにメッサーシュミット社やナチ党幹部といえど、石油の大口供給源になってる友好国の意向を無視して開発妨害すれば、ただで済むはずはなかった。

こうしてHe100は当初、”He100RM”として開発が始まったのだ。
後の量産型He100Dの原型となったHe100D-0は、その開発過程で作られたテクニカル・デモンストレーター(技術実証機)に過ぎず、とりあえず陸上戦闘機として仕上げ、そんな「開発過程で出来た試作機でもBf109Eなど簡単に性能的に駆逐できる」と公言してそれを実現して魅せたのだ。
ハインケル社の開発スタッフは大いに溜飲を下げたが、要するに陸上型のHe100は「メッサーシュミット社とナチ党幹部への当てこすり」のために作られたのに過ぎなかったのだ。

しかし、時節は大きく動く。
Bf110の採用を巡る巨大なスキャンダル、低性能の露呈と大規模な贈収賄が明るみになりヒトラーを激怒させたのだ。
これによりBf110シリーズは既に生産された分を除く全ての生産と継続開発をキャンセルされ、とりあえずは名機の評価を受けているBf109シリーズの改良を除く全てのレシプロ戦闘機のプロジェクトからメッサーシュミット社は追放された。
メッサーシュミット社が大型機やジェット機の開発に社運をかけねばならなくなり、その結果としてMe264やMe262の開発が加速度的に早まったのは実に皮肉である。
無論、ナチ党幹部や空軍省は上から下まで関わった者には粛清の嵐が吹き荒れ、大きく人員の入れ替えがあった。

そして戦闘機不足の穴埋めの為、白羽の矢が立てられたのが技術実証機に過ぎなかったHe100Dであり、量産可能かを問われたハインケル社は「小改良をする時間をいただければ可能です」と答えた。
例えば、ラジエターを翼表面冷却器からコンベンショナルな胴体下半埋め込み式の集中冷却器に変更するなど、量産に向いた”実戦仕様”の改良が行われる中、期間内に要求された製造数はハインケル者の生産能力を持ってしても膨大であり、イタリア政府の許可を得て一時的に先行量産型が製造ラインに乗っていたHe100RMの製造ラインを縮小させる処置まで取ったのだ。

だが、ハインケルのとっての追風……いや、逆境か?はまだ続いた。
路面の粗いフランスの滑走路では足回りが繊細なBf109では満足に離発着できず、元々は「制御された墜落」と形容されるほど荒っぽい着艦に耐えられる足回りを持つ艦上機由来のHe100Dのみがフランスの野戦飛行場の使用に耐えられると判断されたのだ。
また空母の飛行甲板という狭い環境で離発着するなら失速特性を改善するしかなく、そこで採用されたのが皮肉にもライバルのBf109にも採用されていたハンドレページ式自動前縁スラットであり、絶対の武器である高速でも舵の利きを失わせないようにするためのフリーズ式補助翼(エルロン)の採用であった。
そして、その生れゆえに装備されたこれらのシステムは見事に戦況にマッチしていた。
つまりところ更なる増産である。
しかし、ここで新たな問題が出た。機体は3交替24時間体制の製造ラインフル稼働でどうにかするにしても、先に述べたとおり元々Bf110用の余剰エンジンを回収/セッティング変更して使っていたエンジンが底を突いたのだ。

だが、ここで動いたのはイタリア政府だ。彼らは「ハインケル社には恩義がある」という名目で、DB601のライセンス・エンジン300基の緊急輸出を許可したのだ。
これだけ見れば戦時下の美談、あるいはハインケルが築いたイタリアン・コネクションの成果ともいえるが……どうにもハインケル社の案件には常にヒトラーとケッタの影が見え隠れするのはなぜだろう?

ともかく、こうして晴れて量産型He100D、いわゆる”He100D-1”は驚くべき短期間で大量生産されバトル・オブ・ブリテンに投入されたのだった。

He100D-1は、フランス北部というイギリスに最も近いポイントから飛び立てる地の利と、イタリア機から発想を引き継いだ落下式増槽を使えば、同時期のBf109に比べ倍近くに達する航続距離、そして何より自慢のスピードでスピットファイアやハリケーンと言った英国の最新鋭機に一歩も引けをとらず戦った。
何よりも航続距離の関係ですぐに帰ってしまうBf109に比べ、最後まで護衛戦闘機としての役割を果すHe100Dは、実に頼りがいのある存在だったに違いない。

He100RMとHe100D-1は姉妹機の関係で大きな違いはエンジン(RMはRC.41-1b、D-1はDB601Nが標準)と主翼の折畳装置の有無だが、ついでに言えばこの折畳装置の有無が主な理由で武装も少々異なっている。

RMはイタリアがMG151/20のライセンス生産をまだ始めてなかったせいもあり、プロペラ同軸機関砲は旧来のMG-FF/20mm機関砲のままで、機首の機関銃は13mm弾のMG131機関銃×2という構成で、折りたたみ機構を内蔵する関係で主翼内に武装は施されていない。
D-1は、プロペラ同軸機関砲は最新のMG151/20がまわされたが、MG131は十分な数が用意できないという理由で機首機銃をMG17機関銃にダウングレードしているが、その火力不足を補うために主翼折畳の撤去と主翼の1ピース化で余剰となったスペースにMG17機関銃を追加している。

さて機銃の話が出たついで、言うならば蛇足になってしまう話なのだが……MG151/20航空機関砲の使用弾が史実の20mm×82ではなく、20mm×99弾に変更されていることにお気づきだろうか?
もしかしたらピンとこられた方もいらっしゃるかもしれないが……実はこの機関砲弾、ソ連のShVAK機関砲やB-20機関砲と共通の砲弾なのだ。
細かい説明は、いつかMG151の設定資料で書くかもしれないが、端的に記せばMG-FFの性能に満足してなかったドイツはモーターカノンにも使える高性能20mm機関砲の開発を急いでおり、そこで蜜月関係が続いていたソ連の機関砲弾を手っ取り早く使用弾とすることで、開発時期を短縮したのだった。

その成果はより強装弾を使えることによる威力の底上げのみならず、配備時期の早さに如実に現れており、既に39年には生産が始まり、40年生産分からののドイツ機には大量採用されている。
例えば、史実のBf109のMG151モーターカノンの採用はF型からだが、”この世界”ではバトル・オブ・ブリテンの主役の1機種だったE型から既に標準搭載しており、ドイツ機の攻撃力強化に繋がっていた。






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