ガルパン×ゲート・シリーズ外伝 黒き小船の物語 CODE1903-1940 作:ボストーク
ケッタとイタリア軍が書いてて楽しいことに気が付いた作者です(笑)
なんとなくですが、この短編集はイタリアとイギリスの因縁とか、北アフリカに対するしがらみとかも出てきそうですよ?
1940年10月、リビア/エジプト国境線
「ふむ。こうして見ると英国の布陣も中々に分厚いようだな」
最前線視察に来たバルケッタ・ムッソリーニの私兵集団という扱いの【
「姐さん、いつカチコミかけますか?」
そんな気楽な調子で声をかけてくるのは、ローマの下町娘っぽい雰囲気を隠そうともしないペパロニに、
「馬鹿を言うな。我々の役目はあくまで英国軍を引きつけておくことだ。自分から仕掛けてどうする」
「でも思うんですよね~。
「それはイタリア人なら誰だってそう思うさ。いけ好かない”嘘つき似非紳士”とやらをタコ殴りにしてやりたいってな。きっと一番思ってるのが”殿下”だろうさ」
「ケッタの旦那、前に大見得きってますからね~♪ いや~、あれはスカッとしたなぁ~♪」
「私だってそうさ。だが、”殿下”が今は動くなとおっしゃってるんだ。意味はわかるな?」
「”あしか作戦”失敗しちゃいましたからね」
1940年10月という時期、軍部の反対を押し切ったムッソリーニの命令によりイタリア軍はスエズ運河制圧という無茶な目標を達成すべく進軍し、在エジプト英軍の猛烈な反撃を食らって敗走を重ねるのであるが……
”この世界”においては在リビアイタリア軍は、未だ英軍との本格的な戦闘に至っていない。
本来、アンチョビたちが来る前にドイツによる英本土上陸作戦、いわゆる”あしか作戦”の発動と呼応してイタリア軍はエジプトの英国軍に総攻撃をかける予定だったのだ。
しかし、その前哨戦である
ドイツは戦略方針の変更を余儀なくされ、今はヴァルカン半島攻略に全力を傾注していた。
史実と違ってソ連ともめてないため、これはきっと上手く行くだろう。
だが、それに際して最も邪魔になるのが北アフリカに配備された英軍だ。
部隊の入れ替えも兼ねて、最新装備を持つアンチョビたちが地中海を越えてリビアにやってきたのは、特に邪魔な英軍を牽制するためであった。
もともと史実とは大幅にリビアへの大軍派兵の背景が異なるのだ。
そもそも史実のイタリアは1940年6月10日に「英仏に」宣戦布告しているが、”この世界”ではフランス降伏後、ヴィシー政権が立ち上がってから「
付け加えるなら、史実ではイタリア孤立の原因であり、三国同盟の遠因でもある1935年の「第二次エチオピア戦争」が現時点では勃発してないのだ。
確かに開戦直前まで行ったが、結局はエチオピア問題に関する英仏・ポーランド・トルコ・スペインによって構成される第三国委員会(五国委員会)の調停案を「最大限の好意的譲歩」として受け入れたのだ。
資料を読む限り、エチオピア侵攻に積極的だったのはムッソリーニでイタリア国王は最初から英仏との戦争へ発展することを恐れエチオピア侵攻には反対だったし、議会も調停案を飲むべきという意見が多かった。
しかし、史実のムッソリーニは「20万の軍隊を東アフリカに遠足に出したとでもいえというのか!!」と激怒。
その調停案を蹴って、結局9月21日に正式に拒否の決定をする。
しかし、”この世界”では……
***
『親父、そろそろ潮時だ』
そもそもエチオピア問題の発端は、フランスのエチオピアへの武器支援で頓挫した”第一次エチオピア戦争”まで遡れるのだが……
これは長くなりすぎるので割愛させてもらう。
しかし、1935年時点での問題点はアフリカにあるイタリア領ソマリランド(今のソマリアの一部)とエチオピアの国境問題にあった。
イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境は、ベナディール海岸から”21リーグ”内陸を平行した線とされていた。
しかしイタリアは1932年、リーグは標準リーグ(1リーグ=3マイル=約4.83km)ではなく海上リーグ(1リーグ=3海里=約5.56km)に変更すると主張した。
この国境線の変更において、国境付近のワルワルという場所にてイタリア軍とエチオピア軍の戦闘が発生。
これが”ワルワル事件”であり、もともと第一次エチオピア戦争で鬱積していたイタリアの対エチオピア感情が一気に悪化した。
イタリアでエチオピア討伐論が出るのは必然であり、ムッソリーニも大いに乗り気だった。
しかし、当初は消極的賛成だと思っていた英仏が手の平を返し、エチオピア侵攻に反対してきたのだ。
英仏は国境線の変更やイタリアによる事実上の委任統治を認めるなどの宥和的な提案を行ったが、ムッソリーニはそれを飲むはずも無かった。
英仏は今度はポーランド・トルコ・スペインを抱き込み、イタリアに圧力をかけ始めた。
それが前出の第三国委員会(五国委員会)だ。
彼らが示した調停案は、「エチオピアの独立を連盟が保障するかわりに指導下に置き、イタリアが望む国境線変更を行う代償として、英仏がイギリス領ソマリランドおよびフランス領ソマリランドから若干の領土をエチオピアに割譲する」という内容だった。
先に述べたとおり国王は英国との戦争への拡大を懸念しエチオピア侵攻に反対であり、議会は調停案を受け入れるべきという方向に流れていた。
反対していたのはムッソリーニであり、その説得を任されたのが実子であり、押しも押されもせぬムッソリーニの右腕となって内政に辣腕を振るっていたバルケッタ・ムッソリーニというわけである。
『20万の軍隊を東アフリカに遠足に出したとでもいえというのか!!』
『いいじゃないか。海外への大規模派兵や行軍訓練にはなったんだ。今回の一件で我が軍の欠点も色々見えてきた。十分な成果さ』
『しかし、息子よ……』
『それにどうしてもエチオピアが欲しいっていうなら理解もするが、「今でなきゃならない」明確な理由があるのか?』
『ぐっ……』
『慌てる必要は無い。今回のことで外交的にも色々見えてきた。フランスの外交力は決定力不足で、英国も左派の似非平和主義的な意見に左右されるようじゃ政権基盤は脆弱と言える。この先、いくらでも付入る隙はあるさ』
『しかしなぁ』
『戦乱の世はもう目の前まで来ている。イタリアが何もしなくともドイツとロシアが勝手に戦争を起こしてくれるさ。それに……』
『それに? それになんだ?』
『英仏は明確な敵。それを国民が認識しただけでもよしとしておこう』
というやり取りがムッソリーニ親子の間であったという。
判り易い政治的カリスマの持ち主であるムッソリーニも弱いものはある。
自分の右腕として党と国家を支えてきた息子にはどうにも弱かった。
要するに彼も人の父、親馬鹿なのである。
どうにも美しい黒髪と神秘的な黒真珠の瞳が、今は亡き妻を思い出させてしまうらしい。
最初の妻、イルマが死んだのは1918年……第一次世界大戦からムッソリーニが帰国/復員した直後のことだった。
死因は第一次世界大戦の戦死者より遥かに多くの人を殺したスペイン風邪……あっさりと急逝したらしい。
ムッソリーニは生涯100人以上の女性と”関係”を持ったと言われているが、彼の奔放でどこか刹那的なな女性遍歴が始まったのは、イルマの死後のことだった。
また彼が急速にファシズム運動に傾倒してゆくのも、イルマの死を境にしてと伝えられている。
一説によれば、彼は死の瞬間まで妻の面影を追いかけ、決して癒えぬ渇望を抱えたていたとも言われている。
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さて、ムッソリーニの内面は本人以外は知る由もないが、親子の会話の終わりに息子……バルケッタ・ムッソリーニは、
「ただこのままじゃあ親父も腹の虫が納まらないだろ? なら、少しだけ溜飲を下げさせてやるよ」
***
そうして彼が特別外交代表の座を得て乗り込んだのは、なんと国際連盟本会議場。
名目は「エチオピア問題の最終的報告」を行うため。
彼はその場で五国委員会に名乗りを上げた代表を目の前にして、【アビシニア危機(第二次エチオピア戦争がこの時点で行われなかったため、エチオピアに関する一連の軍事的緊張はこう呼ばれる)】の発端となった”ワルワル事件”で、エチオピア軍が用いた銃器と銃弾を証拠として提示し、
「諸君、これは我が国の領土たるイタリア領ソマリランドとエチオピアの暫定国境線、ワルワルで起きた武力衝突においてエチオピア軍より鹵獲した小銃と銃弾だ。諸君にはこの銃弾はどう見える?」
ケッタは周囲を見回し、
「答えられないなら私が答えよう。この銃弾は”
エチオピアの代表が顔色を変えるのが気配でわかった。
これはデマではない。史実の第二次エチオピア戦争ではイタリアはエチオピアに対し毒ガスを使ったが、その理由が「エチオピア軍のダムダム弾使用に対する報復」だった。
「必要なら当時確保した捕虜にも証言させるが……これは立派な戦争犯罪だ。私はここにイタリアの臨時代表としてエチオピアをハーグ陸戦規定違反の罪を告発する。そして、同時にイタリアの”戦争犯罪国に対する懲罰的行動”を妨げたイギリス・フランス・ポーランド・トルコ・スペインの五国を糾弾する。諸君らは奴隷制や封建制度が残る前近代的思想の国家、あまつさえハーグ陸戦規定違反を犯した国家を擁護し、イタリアの示そうとした”国際的に正当性を宣言できる行動”をしようとしたイタリアの正義を踏みにじったのだ」
ここに少し解説がいるかもしれない。
国際連盟というのは、その設立理念からして「文明社会の戦争」を止める為の組織であって、文明社会による「蛮族への侵略」を阻止する組織ではなかったのだ。
実際、ムッソリーニがエチオピア侵攻の大義名分にしていた「野蛮な非文明国を文明化する」は英仏がが植民地支配で多用した理屈だった。
ケッタが言ったように奴隷制や封建制度が残るだけでなく、非文明的で集権化も行われてないエチオピアへの侵略は、少し前の国際社会であれば論理的とすら受け取られうる行動だ。
現に英国自身も国際連盟にエチオピアが加盟申請を出した際に人道的側面から反対し、民間に至っては反奴隷制運動家がエチオピアへの十字軍を主張さえしている。
「英仏は当初、イタリアのエチオピア侵攻に消極的ながら賛成をしていた。しかし、それを裏切った。諸君はその理由に興味はないか?」
「そのような事実は無い!」
そう立ち上がったのは英国代表だった。
「黙れ。卑劣漢」
「なんだとっ!?」
「気に入らなければ”嘘つき似非紳士”とでも言ってやろう。野党である労働党の左派的な平和運動からの不興を買う事を恐れ、我が国を裏切ったことをイタリア人が知らないとでも思っているのか? 野党に怯え手綱一つまともに握れないチェンバレンなど惰弱もいいところだ。チェンバレン内閣はさっさと退陣準備でもしておけ。耄碌爺が率いる政権などうせ長続きはせん」
「貴様っ! 若造の分際で我が国を愚弄するかっ!!」
「はん。笑わせるな。散々我が国を愚弄してきた国が今更何を抜かす。シュナイダートロフィーで、貴様らがどんな汚い手を使って”トロフィーの永久保持”したかここで説明してやろうか? 英国紳士なぞ所詮、英国お得意の
シュナイダートロフィーとは、1913年から1931年まで開催されていた水上機スピードレースで、事実上の当時最速の航空機決定戦だった。
ケッタはある理由から深くこのレースと関わっている。
「確か7月24日だったか? 散々、侵略戦争を繰り返し植民地を手に入れてきた英国は我が国に自分の行為は棚に上げ、エチオピア侵攻に対して警告なんてしてきたようだが、その時の『もはや同盟国ではない』と言い放ったようだな? 気が合うな? 俺も品性の欠片も無い日和見詐欺師しかいない戦争犯罪幇助国と同盟関係など御免被ると思っていたところだ」
「き、き、き、貴様っ!!?」
ケッタはこの調子でフランスもこき下ろし、場は怒号飛び交うとても国際連盟本会議とは思えない様相を呈した。
この時、ある記録官が書き残した「さながら戦場の如し」という表現がまさにぴたりと来る情況だったらしい。
***
本会議の最後でケッタはこう付け加えた。
「調停案を受け入れた以上、イタリアは今回はエチオピアに武力侵攻はせんよ。だが、五国委員会とかいう五人組の烏合の衆が、どんな間抜け面でハーグ陸戦規定違反国を料理するかを高みの見物してやる。イタリア人は今回の裏切りは忘れないし、エチオピアから目を逸らすことはない。貴様らが無力を晒せば、いつでも制裁措置を加える準備がある」
会議は騒然となった。
五国委員会、とりわけ英仏は完全に面目を潰されたが、バルケッタ・ムッソリーニの告発が正統なものである以上、会議はエチオピアに対する批難決議へと流れた。
もっとも具体的な制裁措置は改めて後日、五国委員会によって話し合われることになった。
それでもエチオピアに対して甘い判断を出すのは難しいと思われた。
ケッタの台詞の意味を正しく理解していたからだ。
彼の言い回しから挑発の成分を抜くと、
『五国委員会が約束した指導を行えないのであれば、イタリアはいつでも第二次エチオピア戦争を仕掛ける準備がある』
そう言っていたのだ。
これはあからさまな警告であった。
もっともケッタの英仏に対する外交攻勢はここに終わったわけではなく、この会議の内容を締めとして『エチオピア問題の真実 汚された正義』と大衆好みのフレーズをつけて全世界にプレス・リリースしたのだ。
御丁寧に各国の言語に翻訳して。
結局、五国委員会は「エチオピアのハーグ陸戦規定違反は知らなかったこと」として押し通すしかなく、「今後、エチオピアは懲罰対象国とみなされ、五国委員会監視下におかれる」と結論付けた。
最終的にエチオピアはイタリア主張の国境線の移動を飲まされただけでなく、英仏が約束していたソマリランドの割譲が無効とされた上に、全軍の小銃と小銃弾を回収し各国監視下の元で破棄という厳しい沙汰が下った。
当時のエチオピア王は「ではイタリア軍が攻めて来たら、我々は何を持って戦えばいい」と反発したが、「五国委員会がエチオピアの独立を保障する」の一点張りで取り合わなかった。
もっともイタリア外務省は、これでも「手ぬるい」とコメントしていたようだが。
***
1935年に第二次エチオピア戦争が起きず、また領土拡張がならなかった以上は本質的な意味ではイタリアの外交上の勝利とはいえなかったかもしれない。
しかし、同時にイタリアは史実と立場を入れ替え「正義の告発者として、陸戦規定国エチオピアとそれを擁護した五国を糾弾する」という立場を手に入れ、国際的に「正義はイタリアにあり」という論調を作り出すことに成功した。
イタリアは国際的な孤立をするどころか「地中海一、政治的には身奇麗な国」という評価を得て、その後にドイツとソ連と接近することに関しても、「英仏が信用できないから他の選択肢を選んだだけ」と解釈されるようになった。
つまり、イタリアは無理に日本を抜きソ連を入れた三国同盟を擁立させる必要は無く、ただ友好国でいればよかったのだ。
また、39年のイタリアのアルバニア侵攻に関しても特に何も言われなかったことも、今回の事例とは無関係ではないだろう。(もっともこの年のドイツとソ連の各種大侵攻が凄すぎて目立たなかったという側面もあるが)
これが史実と大幅に異なる第二次大戦の一要因となるのだが……
それはともかくとして、英仏を国際政治の場において散々こきおろすという誰にも出来ないことを平然とやってのけたバルケッタ・ムッソリーニを誰しもが注目するのは必然だったろう。
元々、彼はムッソリーニの息子としてだけでなく、イタリア屈指の水上機乗りとして国際的に名が売れていたのだ。
しかし、英仏にとって雪辱する……彼に外交的報復を行う機会は中々訪れなかった。
ケッタの本業は内政屋で、国内最大規模組織であるイタリア重工業連合会会長であり、イタリア三軍最高顧問が公式な役職だった。
バルケッタ・ムッソリーニという名が国際舞台で聞くようになるのは、1940年……イタリアの戦争指導者の一人として登場するまで待たなければならなかったのだ。
皆様、御愛読ありがとうございました。
実は”この世界”のムッソリーニが意外と親馬鹿だと判明したエピソードはいかがだったでしょうか?
それにしてもケッタの性格が悪いというかクセが異常に強いというか(^^
どっちにしても普段は寡黙キャラの癖に、いざ敵対者に口を開けば容赦なく毒舌はくタイプらしいですよ?
次回はハルトマン視点や飛行艇乗り時代のケッタとか書いてみようかな?
今までの話と作風や毛色の変わった話ですが、架空の歴史の地中海小話集みたいな感じで読んでいただければ嬉しいです。
それでは皆様、また次回にてお会いしましょう!
***
設定資料
MC.202 ”
製造元:イタリア・マッキ社
エンジン:アルファロメオRA1000 RC.41-1b”
最高速:603km/h(高度6000m、戦闘重量)
航続距離:975km(機内燃料のみ)
実用上昇限度: 11500 m
固定武装:MG131機関銃×2(13mmx64弾、毎分900発、機首。ライセンス生産品)、MG17機関銃×4(7.92mmx57弾、毎分1100発、主翼。ライセンス生産品)
プロペラ:ピアッジョP.1001可変ピッチ・定速式3翅
特殊装備:防振処理空中無線機、防弾装備一式(30口径級弾対応。パイロット背面防弾板、セルフシーリング・タンク、防弾ガラスなど)、電波誘導式航法装置
オプション:100リットルもしくは200リットル落下式増槽×2(主翼付け根付近。専用パイロン) or 350ポンド(160kg)爆弾×2、RS-82/132ロケット弾(主翼下)
備考
史実のMC.202と大きな変更は無いように見えるが、実際は地味にあちこち強化されてる機体。
まず最大の欠点とされた武装の貧弱さは、史実では色々問題があったイタリア製の機銃をドイツ製のライセンス生産品を使うことにより改善し、7.92mm機銃を2丁→4丁とすることで更にささやかながら火力増強。
また、水平尾翼の一部が布張りだったものが全金属製に改められ、機体構造自体も鋼管の骨組みに外皮を張り合わせる旧来の方式から金属モノコック構造が全面採用されている。
同時に若干機体が大型化しており、印象としては初期のBf109より一回り大きい印象があるが、新型機体構造/工法のためか全体重量はオリジナルとほぼ同じである。
風防はBf109シリーズの物に近い桁の少ないものとなり、防弾ガラスも最初からデフォルト装備となっている。
また風防面積もオリジナルに比べて後方に伸びるように少々拡大され、またキャノピー後部の処理はオリジナルのような瘤状ではなく同じマリオ・カストルディ設計のMC.72のように尾翼まで直線的に繋がるデザインとなっており、上記の風防構造の改善と相まって視界の改善と空気抵抗の減少化を実現している。
エンジンは史実と同じDB601のライセンス生産品だが、C3(96オクタン)燃料対応のDB601N型を原型としているため、オリジナルより高出力のようだ。
簡単に言えば、DB601Nをベースに英米と同じ水準である100オクタンのイタリア標準航空機燃料に対応した物と考えていい。
特筆すべきは最初から北アフリカは配属機には
その為、ラジエターとオイルクーラー、過給機用のインテーク周りの処理がオリジナルと若干異なっている。
例えばラジエターのインテークは胴体表面の境界層の悪影響を受けないよう6cmほど胴体より離されて開口しており、このへんの処理などはレーサーからのフィードバックといえよう。
表記的な全体性能は、オリジナルと大きく変わらないように見えるが全体的に底上げされていて、高い急降下速度に加えて軽快な運動性も兼ね備え、対峙した北アフリカ英軍のパイロットから「油断なら無い相手」と目された。
史実ではプロペラのトルクを打ち消すために左右の翼長が違うという記述もあるが、”この世界”のMC.202は左右等長のようである。
特に目に見えて伸びているのは航続距離で、機体の若干の大型化と機内燃料タンクの配置変更などによる機内搭載燃料の増加や主翼付け根への小型タンクの増設でオリジナルより延伸を果している。
また主翼左右の付け根近くにオプションの
この航続距離の拡大は設計段階より「イタリア南部の基地から石油産出地であり最重要国外領土であるリビアまで無給油で飛行できる」ことを条件に開発されたからであろう。
上記の当時はまだ一般的ではなかった最先端装備であるドロップタンクの採用もこれに準じたものだ。
また従来のイタリア戦闘機と比較して規格外の航続距離を持つに至った本機には、ドイツより技術供与を受けて完成した初歩的ながら電波誘導式の航法装置が搭載され、長距離飛行にもある程度は対応できるようだ。
このシステムは将来的発展余地が多分にあり、やがて航法装置のみならず防空迎撃システムの要である電波誘導装置としても完成度を高め、後年のイタリアにおいて文字通り迎撃の一翼を担うことになる。
また機体構造の強化にあわせて
ちなみにファルゴーレとは”稲妻”の意味で、従来のイタリア機の水準を大きく上回る本機らしいネーミングだろう。
生産は史実よりずっと早く1940年初頭には既に始まっており、また総生産数は史実を大きく上回り、シリーズ合計で史実の数倍にあたる8000機以上生産されたようだ。
また41年には同じ中空構造ながら素材をより強化した鍛造イーチバランス・クランクシャフトに変更、また多用されていた生産性の低下を招く一つの要因であった大量採用されてるニードルローラー・ベアリングのかなりの部分をボールベアリングに変更した構造の簡易化による量産性の向上と、構造強化によって可能となった圧縮比/加給圧の増大などで出力増強させ、大型化した
この新型エンジンへの変更に合わせ、より空理気的に洗練させたラジエターやオイルクーラーのインテークを採用し、問題点としてあげられていた武装を強化したMC.202E、通称”ファルゴーレ・エヴォリツォーネ”という発展型を登場させるなど中々の活躍を見せたようだ。
またイタリア産のDB601もオリジナルとは異なる進化を続けた。
英国RR社のケストレル・エンジンやマーリン・エンジンを参照にアルファ・ロメオ社で上記のRC.41-Cを叩き台に高いピストン往復速度を得るため軽量鍛造ピストンとコンロッドを選択(これに際してDB605ほどではないが僅かながらボアアップによる排気量増大が行われている)。過給機を複雑な流体継手ではなく通常型にする代わりに
増幅したエネルギーに対応するためにクランクシャフトの中空構造を取りやめ、より高強度に作れるコンベンショナルタイプが採用された。
この他にも推力式単排気管や出力増強装置を採用するなど製造の簡易化と同時に高性能化を目指した研究と改良が施されていった。
こうして1942年にはDB601の
生産が少々遅れた100オクタン燃料仕様のDB605シリーズのライセンス生産版であるフィアット社のRA1050 RC.58”ティフォーネ”シリーズ等と並ぶイタリアの主力エンジンとして第二次大戦中期以降の空を駆け抜けた。