ガルパン×ゲート・シリーズ外伝 黒き小船の物語 CODE1903-1940 作:ボストーク
さて今回のエピソードは……ちょっと視点を変えて、今回は主人公やヒロインズが不在の回です(えっ?
軽く海軍の話が出てきたりしますが、史実とはまたちょっと違う戦争の理由がメインだったりします。
何をするにもお金っていりますからね~。
今回は少し変わったエピソードを語ろう。
英雄が空でも陸でも海でも活躍しない、そもそも英雄が主役として立たない在り来たりの歴史の一幕だ。
時はアンチョビたちがリビアの地を踏む3ヶ月ほど前まで遡る……
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さて我々日本人には馴染みが薄いが、地中海でも数多くの戦いがあった。
例えば、1940年11月11日から12日にかけて敢行された英国海軍空母部隊のイタリアの軍港”タラント”への空襲は、真珠湾攻撃のモデルケースにされたといわれている。
さて史実における第二次大戦の地中海の最初の戦いは、1940年6月14日に行われた”ヴァード作戦”、フランス海軍によるイタリアの港町ジェノバへの砲撃作戦だ。
しかし”この世界”では、イタリアがイギリスに宣戦布告したのは7月に入ってから……フランス降伏後の事であり、少なくとも第二次大戦においてイタリアはフランスと戦うことはなかった。
そうなると6月28日に起きた”エスペロ船団の戦い”も無い。
この頃、イタリアはイギリスへの宣戦布告のタイミングをうかがっており、強力な英艦隊に拿捕されないように必死にイタリアに戻るかや間に合わない場合は中立国やドイツやソ連などの友好国の港に逃げ込むように指示が出ていた時期だ。
”この世界の”の6月28日、マルタ島から定時哨戒に飛び立ったショート・サンダーランド飛行艇がザンテ島沖を進むイタリアの大規模な輸送船団を発見したが、友好国というだけでドイツと軍事同盟を締結してるわけでもなければ、この時点で自国に宣戦布告をしているわけでもないイタリアの船団を襲うわけには行かなかった。
英国艦隊は、ただ目の前を通り過ぎるイタリア船団を見ているしかなかった。
7月1日、イタリアの軍港として最も有名なタラントではなく、軍港ラ・スペツィアを母港とする3隻の空母がゆっくりと出港した。
アクィラ級の3隻、1番艦”アクィラ”、2番艦”ファルコ”、3番艦”スパルヴィエロ”だ。
引き連れていたのは最新の軽巡洋艦……といっても条約型重巡洋艦に匹敵する排水量を持つ、史実では「コスタンツォ・チャーノ級軽巡洋艦」と呼ばれ計画されたが、結局は建造中止になったものの”この世界”では名を変えて日の目を見て、先ごろ実戦配備されたばかりの「ヴェネツィア」級2隻、1番艦ヴェネツィアと2番間ジェノヴァだった。
これにソルダルティ級駆逐艦の
いずれも新しい艦ばかりで、慣熟のための洋上訓練と聞いても不自然さはなかった。
この
ナポリ水雷戦隊の陣容は、ボルツァーノ級重巡洋艦のボルツァーノとボローニャ、軽巡洋艦のドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級のドゥーカ・デッリ・アブルッツィとジュゼッペ・ガリバルディ 、それより小ぶりでむしろ駆逐艦に近い排水量(といよりフランス海軍の大型駆逐艦を仮想敵として建造計画が立てられた)のカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦(防空巡洋艦)のアッティリオ・レゴロとスキピオーネ・アフリカーノの2隻、これにアルフレード・オリアーニ級駆逐艦4隻とソルダルティ級駆逐艦
総数を計算すれば、
正規空母×3
重巡洋艦×2
軽巡洋艦×6
駆逐艦×14
大型艦を含む総勢25隻の史実のイタリア海軍から見れば洋上演習で組むとは思えない大艦隊であり、燃料担当官が卒倒しそうな情況だった。
しかし、安心してほしい。
これは”この世界”のイタリア王立海軍ではありふれた光景なのだ。
実はイタリア、史実では絶対にありえないチートを一つだけ持っているのだ。
それは……
【リビアの油田開発の成功】
だ。
そう、第一次大戦後、「下手をすれば敗戦国より貧乏で悲惨な情況」から脱却するためにイタリアは自国領となったりビアの油田開発を必死に行ったのだ。
周辺に産油国があるのでリビアにも必ず油脈はあると信じて……いや、名かな執念じみた行動だった。
ちなみに史実でのリビアでの石油調査は1955年からだから、下手をすれば30年早い計算になる。
とにかくこの時のイタリアはなりふり構っていなかった。
史実では1911年に伊土戦争でリビアをオスマントルコ帝国から奪取したが、サヌーシー教団やベルベル人などの現地勢力の抵抗運動に合い、1920年にサヌーシー教団の指導者ムハンマド・イドリースをキレナイカの支配者と認めたことで一時停戦が成立したが、1922年にムッソリーニがイタリアの政権を握るとともに再び戦闘が勃発している。
特に1926年からイタリアのロドルフォ・グラツィアーニ将軍による厳しい弾圧が行われ内乱が激化、結局本当の意味での平定は1931年までかかった。
しかし、”この世界”では大分様相が違うようで、内戦による国力消耗を嫌ったファシスト党政権が史実とは逆に現地勢力に対し、宥和政策というなの懐柔策を打診し実行したために油田調査が進んだようだ。
イタリア……あるいはバルケッタ・ムッソリーニにとって原住民を支配権などどうでもよく、最初から目当てだったのは地下資源……油田だけだったのかもしれない。
新規油田開発は相応のノウハウが必要でリスクが高く、また莫大な資金も必要だ。
イタリアにはノウハウも金もなかったのだが、ところがこれを当時、イタリア王立石油開発機構”の長官に就任していたバルケッタ・ムッソリーニがアメリカの
おかげで1930年代初頭にはリビアの油田が操業をはじめ、大規模なパイプラインが引かれると同時に
そして油田から積み出しまで管理するのは、米国石油資本とイタリア王国の共同出資の半民半公の合弁公社である”リビア総合石油公社”であり、またその管理公的機関として”イタリア石油管理公団”が生まれた。
イタリア石油管理公団は、前出のイタリア王立石油開発機構を母体として生まれたものであり、元々は王に勅命によりケッタが立ち上げたものだった。
基本的には王党派懐柔のためのポストであったが、ケッタはそこで終わらせるつもりはなく、仕事に関して「真面目とはいえない人間」をあえて重要ポストに置き、事実上の決裁権を自分に集中させると同時に上記の計画を遂行、機構の発展的解消を名目に無能者共を新設した「給与の悪くない実権のない名誉職」にそれとなく追いやり、機構時代に実力ありと判断された人間にそれなりのポストを与えイタリア石油管理公団を実働機関として再編したのだ。
その後に名誉職にそれとなく座りこの世の春を謳歌しすぎたために羽目を外し、汚職などのスキャンダルで無用の長物を失脚させるまでが様式美だった。
無論、この頃……20年代後半を境には彼が単なるファシスト党の重鎮というだけではなく、イタリア重工業連盟の会長だったり、王直々の命令で王室経済顧問を兼任していたり、軍装備諮問機関の長官だったり、はたまた右よりかと思えばイタリア重工業界の重鎮を説得して労働者の権利拡大や待遇改善を確約する「労働基準法」を制定したり、労働組合の団体交渉権を成立させたりと左右問わずあっちこっちで抜群の働きをしていたことも大きい。
よく過労死しなかったものである。
こうしてイタリアは産油国の仲間入りを果たし、ケッタはその元締めとなった。
彼の信念の一つは、「切り捨てるべきは切り捨て、残すべきは残す」らしい。
蛇足では在るが、カルパッチョ……元貴族令嬢で現イタリア有数の大投資家のお嬢様である”カルメン・パチョリーナ”がパチョリーナ家の大いなる野望のために行儀見習いという名目でケッタの傍つきになったのは、彼がいよいよ忙しくなり始めた時期であった。
30年代に入ると目論見どおり若くして(幼くして?)一児の母となった彼女は子供の世話を貴族という虚栄から外れて暇になった母や乳母に預け、貴族時代からの実家のコネを使い色々今度はケッタと自分の為に暗躍し、最終的にそれが”黒リボン”に繋がるのだが……その話はいつか機会があれば。
***
とにもかくにも”この世界”のイタリアにとり、リビアの価値は史実とは比べ物にならないほど高く、イタリアに巨万の富を齎す『金の卵を産むガチョウ』はどんな犠牲を払っても死守をせねばならぬ場所であった。
そのためなら「史実と比べ物にならないくらいに装備が充実し士気や錬度が高い在リビア伊軍」を用意し常駐させるのも苦でなければ、タンカーの通商路を守る海軍の整備も必須事項だった。
ケッタは軍に、国民に、こう告げた。
『リビアが失われれば、またイタリアは貧乏に逆戻りだ。今、食卓に並ぶ料理もワインも確実に質が落ち量も減るだろう』
軍も国民も奮起したのは言うまでもない。
今日のイタリアの経済発展が何に起因するか、何が一番の原動力になってるかくらいは子供でも知っていた。
イタリアの世界恐慌からの驚異的な経済の建て直し、イタリア人の言う「黄金の30年代」は”
もっともそれを大衆に強く印象付けたのはマスコミであり、プロパガンダではあるのだが……
だが事実は誇張していても嘘はついていないので、権力側の行うプロパガンダとしては善良だといえた。
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さて、ここで少し視点を変えて英国目線で見てみよう。
バトル・オブ・ブリテンはなんとか防衛したが、”ドイツの友好国”にかこつけてとんでもない利敵行為をしているのがイタリアだった。
そもそも史実のドイツは最初から最後まで燃料不足に悩まされたきらいがあるが、本来なら”この世界”でもそうなってもおかしくなかったのだ。
しかし、そうはならなかった。
ソ連はコーカサスの油田から石油も天然ガスもドイツに普通に輸出してるし、イタリアもまた降伏後にヴィシー政権を立ち上げたフランスまで船で運び、そこから陸路でドイツに石油を輸出しているのだ。
どうりで第三帝国とやらがバトル・オブ・ブリテンに失敗しても元気一杯にヴァルカン半島を攻めてるわけである。
それどころか、バトル・オブ・ブリテン当時はイタリアはドイツで不足気味のDB601エンジンの予備として、イタリアぼアルファロメオ社で生産された完全な互換性のあるライセンスモデルのR.A.1000/RC.41を300基ほど緊急輸出してるし、ヴァルカン半島に攻め込んでるドイツ軍には燃料/食料をダイレクトに送り届けているようだ。
しかもやらしいのは金銭による商取引だけでなく、バーダー交換……例えば技術だとか無償ライセンス権だとか、あるいはドイツ人が鹵獲した兵器などでも取引が行われているのだ。
酷い話もあったもので、その鹵獲した兵器はイタリアの隣国で宿敵とも言えるフランス製のものも多分に含まれていて、大は未完成のリシュリュー級戦艦の2番艦ジャン・バールと3番艦クレマンソー (ダンケルク級戦艦2隻はドイツ海軍が接収)から小は拳銃弾やその製造機まであらゆるものがイタリアに貿易対価として現在進行形で引き渡されてるらしい。
しかも政治的なやらしさを発揮してるのは、「あくまでヴィシーフランス政権は親独中立であり、武装は自衛のためにしか保有せずドイツの戦争計画には積極的な参加を行わない」と他の誰でもないヒットラー自身がそう宣言してしまったことだ。
また同時に亡命政権たる『自由フランス政府』に対しては、「戦争終結の責任を放棄し、大多数の国民を見捨て権力階層と有産階層のみが我先に逃亡した非政府組織」と言い訳できない言葉で公然と罵った。
たしかに事実上、ヴィシー政権はドイツ占領下の傀儡政権かもしれないが、ドイツは露骨な占領地政策は控えめに、絶対国防圏を理由にドイツ軍の駐留を認めさせ軍需品の生産や食料の供給を行うというのが最大の条件という具合だった。
しかも基本的にドイツ以外からの供給のないヴィシー政権下のフランスの市民生活を守る生命線になってしまっていたのが、友好国のイタリアがリビアから運び込む石油だった。
これでは下手に武器を持ってるほうが逆に危険という情勢にヴィシー政権は追い込まれたのだ。
しかもである。
フランスの兵器や機材が独伊に流れたのは、彼らにとって非常に大きな収入源になったのだ。
例えば独伊が2隻づつ持っていった戦艦の砲弾などの消耗品や補修機材などはフランス規格であり、彼らの国でないとまともなものは作れない。
特にイタリアの持っていったリシュリュー級戦艦の2隻は建造途中の代物であり、未完成状態のままドイツの戦利品として鹵獲されたが、売却先であるイタリアから建造継続の要請があり完成までの建造費がイタリア持ちなのだから笑いが止まらないだろう。
それだけではない。
イタリアは早速、ヴィシー政権を正統フランス政府として承認して友好条約ならびに通商条約を結び、イタリア通貨のリラではなく原油とのバーダーで大規模な武器輸入契約を取り付け、降伏から1ヵ月後には兵器産業を中心にフランスの重工業界は降伏前と変わらぬ操業を再開した。
結局、フランスは占領下だの傀儡政権だのと亡命政権である自由フランス政府が騒いでも、ドイツとイタリア相手の交易で十分すぎるほど喰いつなげられたのだ。
しかも国家財政を圧迫していた軍事費が驚くほど削減されたし、北アフリカはともかくとにかく遠いアジア/太平洋地域の植民地の管理からも解放されたので、財政的にはむしろ楽になったようだ。
英国にとって実に残念なことに、ダンケルクから英国軍がいなくなり代わりにドイツ軍が駐留した程度で、多くのフランス人にとり多少の不便はなれど、降伏前とあまり代わらぬ日常が戻ってきてしまったのだ。
史実ではあれほど勇名を馳せたパルチザンもドイツのどちらかといえば緩く感じる占領政策に加えソ連を味方につけてるせいと、ドイツが市内にほとんど駐留しなかったせいで大きな抵抗運動には至ってない。
ついでに言えば、対伊貿易額が兵器に限らず跳ね上がって様々な産業がむしろ活性化したことも大きいだろう。
冒頭でも書いたが、”この世界”においてイタリアはフランスには宣戦布告しておらず、第二次世界大戦以前の因縁を棚に上げれば、史実よりずっとイタリアとの交易には抵抗感がなかったことだろう。
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とまあ宿敵フランスとの関係もヴィシー政権になってから特にいがみ合ったりもせず収まる所に収まり、気が付いたら英国にとり目の上のタンコブどころか戦争遂行の巨大な障害になっていたのがイタリアだった。
もちろん英国はイタリアに色々と恨みを買ってる自覚はあったため、例え宣戦布告がなくとも対立は避けられないと考えただろう。
ドイツへの石油輸出を停止するよう、イタリアに圧力をかけるようにアメリカに依頼したが、にべもなく断られた。
当たり前だがこの頃のアメリカは中立法が強く、また国内のイタリア系移民のロビー活動が激しく思い切った手が打てない状況にあったし、アメリカ自身もイタリアに手を出すのは乗り気じゃなかったのだ。
例えばイタリアは何度も出てくるようにドイツやソ連と友好国というだけであり、貿易協定やら協商やらの経済系の条約はいくつも締結しているが、軍事同盟の類は一切ない。
イタリアがドイツに油を売ってるからと言って圧力をかける積極的な理由はなく、下手をすれば内政干渉で逆告発されそう……というのは表向きの理由。
実際はさっきあげた「ケッタと米国石油メジャーの密約」の中の一つも大きく関係していて、ドイツに売った分をイタリアは原油スワップの要領で米国石油メジャーから独占的に原油を購入しており、彼らの利益になるのだ。
この時代、アメリカはドイツの再軍備に元々反対の立場を取っており、あらゆる物資の禁輸措置をしたのだが、かといって国策とは別のベクトルで利潤を上げたい企業は多くある。
今でもそうだが、どこかの国が禁輸措置をするというのは禁輸措置を受けた国のある物資が欠乏するということであり、となればそこに大きなビジネスチャンスが生まれるのは必然だ。
実はこの方法を取っているのは石油メジャーだけでなく、この時代はとてつもなく強かった米国家電業界も同じで、イタリア企業に国防秘に触れない在り来たりの技術で作れる自社製品をOEM生産させ、イタリアブランドの名前でドイツやソ連に輸出して稼いでるのだ。
ドイツやソ連と友好的な、かといって英国はともかく
それどころか誰でも知ってる米国大手企業がイタリアの現地企業を買収し、自社のイタリアならび対独/対ソ、さらに戦後復興目覚しいフランスをはじめとする被占領国向けの
こうやって儲けた金で、イタリアは国家の財政を発展させると同時に軍備を拡張させ続けたのだから、英国にとってはたまったものじゃないだろう。
それにしても、なんとも奇妙な話ではある。
英独は戦争状態にあり、英伊の関係は険悪であり、米ソは明確な敵対関係に入り、日米/日英は同盟を組み、独ソ伊は同盟こそないものの良好な友好関係にあり、米伊は濃密な経済関係がある……
魑魅魍魎と奇奇怪怪という言葉は国際政治を語る上での常套句となりやすいが、史実よりも更に入り組み複雑化した国際情勢により、後に【第二次大戦】と呼ばれる戦いがどこに流れ着くのかこの時点では誰にもわからなかった。
そして事態はより複雑化する。
1940年7月7日、日本では七夕と呼ばれるこの日、イタリアはイギリスに宣戦布告したのだ。
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とはいえ、実はこのイタリアのイギリスへの宣戦布告は、実は世界各国にとって驚くようなものではなかった。
逆に世界の反応は妙に冷静あるいは冷淡で、「このタイミングで参戦か…」「予想していたけど思ったより遅かったな」「勘弁してくれ。日英同盟における戦力抽出の条件が整っちまったじゃねぇか」というようなものだった。
実際、1935年の”アビシニア危機”から英伊(+仏伊)は明らかな対立構造に入っており、この五年間の間にイタリアが「近い将来に来るであろう対英/対仏戦の準備」を始めていることは、よほど国際情勢に疎くない限り誰もが知っていることだった。
もっともイギリス人はまさかイタリア人が英国本国まで攻めてくるとは思っておらず、イタリアもまた英国本土を狙う気などさらさらなかった。
この
むしろ世界が驚いたのは、イタリアの戦争を統括する”
さて、この当時のバルケッタ・ムッソリーニのイタリア国外での評価は、1935年の国連会議以降は表立って国際舞台の場には現れておらず、「内政の専門家」「イタリアの経済的躍進の
ちょっとミーハーなファンなら、「イタリア有数の水上機レーサー」とか「アドリア海の影の
だがいずれにせよ、「戦争指導者としては未知数。とりあえずは若すぎると思う」というのが共通見解だった。
***
英国の反応は両極端だったらしい。
「英国にとっての疫病神」の戦争指導者就任を本気で嫌がる声と、「ようやく戦争のなんたるかもしらない鼻っ柱が強いだけの小僧の尻に蹴りを入れられる」と息巻く勢力だ。
英国にとって不幸、いや彼らの好む言い方をすれば”喜劇のような悲劇”だったのは、国王がどちらかと言えば前者だったのに対し、挙国一致内閣の首相が後者だったことだろう。
こうして英国は、「英国史上、最もろくでもない戦争の一つ」を戦うことになったのだった……
皆様、御愛読ありがとうございました。
色気がまったくないエピソードでしたが、いかがだったでしょうか?(汗
イタリアがリビアで頑張れる理由を考えると、やっぱ女の子だけじゃなく、「旨い飯と上質なワイン=お金がいる=石油」というのが必要かなぁ~と(^^
イタリア海軍は単純に強化されてるだけでなく、そのあり方も結構違ってたりします。
実はフランスのリシュリュー級戦艦2隻をイタリアが購入するくだりは、史実のエトナ級軽巡洋艦のエピソードが参考になってたりします。
次回はシリーズ初となる海戦ステージかな?
それでは皆様、また次回にてお会いしましょう!
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設定資料
ヴェネツィア級軽巡洋艦
全長:189m
基準排水量:9815t
最大出力:115000馬力(ヤーロー式重油専焼水管缶8基+パーソンズ式ギヤードタービン2基2軸推進)
最大速力:33ノット
航続距離:20ノットで4500海里
武装:アンサルドM1934/15.2cm55口径長砲三連装×2+連装×2=合計10門
アンサルドM1938/13.5cm45口径長両用砲連装×4
ブレダM38/37mm54口径長機関砲連装×4
ブレダM35/20mm65口径長機関砲連装×8
533mm4連装魚雷発射管×2
爆雷投射器×2
搭載航空機数:水上機×2
装甲防御:舷側100mm、甲板45mm、バーベット部140mm、司令塔140mm
船体装備:バルバス・バウ、電気溶接工法の導入シフト配置機関、多重水密区画外殻式分散防御構造船体、カタパルト×2
同級艦:、1番艦”ヴェネツィア”、2番艦”ジェノヴァ”、3番艦”エトナ”、4番艦”ヴェスヴィオ”
備考
史実では計画されたが建造中止となった”コスタンツォ・チャーノ級軽巡洋艦”に準じたイタリアの軽巡洋艦である。
もっとも軽巡洋艦というが排水量は条約型重巡洋艦に匹敵する大きさがあり、イタリア海軍は伝統的にこのクラスを充実した通信設備や作戦室を持つ水雷戦隊旗艦機能を持つ”嚮導型軽巡洋艦”として2隻1組のシリーズとして調達してきて、嚮導型軽巡洋艦としてはこのヴェネツィア級は第6シリーズに当たる。
オリジナルとの最大の相違点は防空装備の強化であろう。オリジナルの副砲はアンサルドM1935/9cm50口径長高角砲だったのだが、本級では開発されたばかりのイタリア初となる本格的な半自動装填式両用砲である”アンサルドM1938/13.5cm45口径長両用砲”に変更され、また2基4門1組で高射装置を構成しており過度的ながら防空巡洋艦としての機能も有している。
これは脅威度を増してきた航空機対策を重視した結果であり、同時期に建造計画が立てられた量産型軽巡洋艦である”カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦”もアンサルドM1938/13.5cm45口径長両用砲を主砲としており、この時期のイタリア軍がいち早く航空機を艦船の宿敵と考えたところが読み取れる。
戦時中により本格的で高性能な対水上/対空レーダーシステムや両用砲用の
ちなみにこの両用砲、史実ではエトナ級軽巡洋艦の主砲として計画されたが完成したのは戦後であるのだ。
だが、”この世界”ではかけた予算が違うせいと最初から対空/対水上兼用の両用砲として設計されたせいで既に完成しており、最大仰角85度で半自動装填式を採用しているせいで最良の条件なら最大発射速度25発/分というちょっとしたチート性能を持っている。
ただ部品の耐久性や砲弾の消耗を考慮し、通常は6発/分と18発/分の切り替え式で、25発/分は後先考えなくていいリミッター解除のバーストモードといったところかもしれない。
また本来なら2番艦のジェノヴァで建造が終了する予定だったが、大戦勃発で3,4番艦の建造命令が出たためにイタリア嚮導型軽巡洋艦としては最大の同級数となった(そのためエトナ級は建造されない)。
なおオリジナルのコスタンツォ・チャーノ級の名前の由来は、ムッソリーニの娘婿の名から取られたものであるが、”この世界”においては該当する存在がいないために史実の2番艦の名であるヴェネツィアが