ガイア教という組織について、少しだけ語るならば。
無法者。その一言が最も彼らの根本を表しているだろう。
何も国の定めた法律を守らないという意味で言っているのではない、その程度のことならば表の人間だってやるし、メシアだってそういう意味では無法者だ。
無法者、つまり法を持たない者たち。
つまるところ、決まりというものが無いのだ、ガイア教には。
おかしな話だがルールを持たないが故にこそ自由が無くなるのだ。
勿論支配に抗い無視することは可能だ、ただしそれをすれば待つのは死だが。
基本的にガイア教において弱者というのは悪だ。ルールを持たないが故に善も悪も無い集団の中で唯一力だけが絶対の拘束力を持つ。故に弱さは悪であり、強さは善である。
弱いというだけでガイア教においては全ての尊厳が奪われる。もっともそれを侵すかどうかは上に立つ者次第だが。
故に常に下の者たちは伸し上がるための機会を虎視眈々と狙っている。
それは幹部と称される強者たちすらも例外でない。
* * *
「ぐ……が……」
片手で顔を抑えながら、白い少女が吐き出すように嗚咽を漏らす。
白かった、どこまでも白かった。
服装、靴、肌、髪、その全てが白くだからこそ、苦痛に歪んだその表情と、口元から流れ出す鮮烈な赤だけが際立っていた。
ポタリ、ポタリと流れ出た赤がコンクリートの床を、壁を、そして白かったはずの服を深紅に染めていく。
否、口だけではない、よく見れば手にも足にも、全身のあちらこちらに小さな傷はあった。
ただ傷ついても傷ついても異常なほどの回復力で治癒しているだけで、治癒された傷をさらに開くように床に、壁に建物が軋むほどの勢いで全身を叩きつけ、痛めつけた。
「ぐう……う……」
食いしばった口から、また血が流れ出す。それを拭うことすらできず、唾液と混じった血が流れ落ちる。
一瞬、口が開き、空気を求めて呼吸が為され。
―――がちん、と歯を叩きつけるような勢いで閉じられる。
「う……く……」
両手で頭皮が破けるのではないかと思うほどに頭を掻きむしり、最早立っていることすらできずに崩れ落ち、体を丸める。
込み上げるものを必死になって抑える。そうしなければ最早少女……和泉は正気を保っていられなかった。
けれど、消えない、消えることは無い。
頭の中でずっと声は消えることなく、囁き続ける。
―――おいデ。
―――おいデ。
―――おいデ。
「ぐ……う……が……」
嗚咽を漏らす、それは絶叫しそうになる口を無理矢理に抑え込んだからこその物で。
口を開けばそれを吐き出しそうになってしまう。だがそれをすれば全て終わりだ。
故に留める、
その一心だけで必死になってそれを抑え込む。同時に正気を失うことの無いように体を叩きつけ、痛めつけ痛みで誤魔化し続ける。
一体いつから、そしていつまでこんなことをするのか、それすら分からず。
否、そもそも終わりなんて無いことも理解していながら。
それでも、それでも、それでも。
―――意識が引き込まれそうになる。
―――内側から
外から内へ、内から外へ、どちらにも気を払わなければならない和泉の意識が徐々に削れていく。
それが削れ切った時……どうなるのか、それを理解してしまっているからこそ。
「や……だ……」
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
子供のような心中の叫びに
げらげらと笑いながら、
いつまでも、いつまでも、いつまでも。
終わる時は即ち、和泉が擦り切れた時だった。
* * *
「……むう」
机の上に置かれたパソコンのディスプレイに映る文字を眺めながら、今代葛葉キョウジ……葛葉名取は呻くような声をあげる。
葛葉キョウジの正式な襲名はすでにクズノハからも認められている。
元より里では異端の名だ、葛葉の血が入っていないか否かなどさした問題でも無いし、そもそも先代キョウジ自身が指名したのだから能力的には問題無いのだろうと見られている。
どちらかと言うと問題はヤタガラスのほうだ。
国家鎮護機関にして、日本の霊的防衛機構の全てを担う組織だ。
そして葛葉キョウジはクズノハよりむしろヤタガラスでのほうが名が知れ渡っており、その意味も大きい。
先代葛葉キョウジは帝都の中で最も混沌とした街一つを取り仕切り役割を任される程度には重用されており、それなりに立場もあった。
それを先代が指名したとは言え、まだ二十にもならない子供に、しかも日本人でも無い
それに対処するための術は先代から教え込まれている。
先代葛葉キョウジの最高傑作と称して相違ないのが葛葉名取である。
後継となるために必要となることは全て学び終わっている。
後は一つずつ反対意見を黙らせていれば良いだけであり、全員に及ぶまで最早秒読みの段階となっていた。
先代キョウジの死から一気に動きを見せた組織もいくつかあったが、その全てが今や帝都の土の下で眠っている。
その全てをナトリがやった。数多くの組織がたった一晩の間に
単純な殺傷能力を比べるながら葛葉名取は先代葛葉キョウジと比較にならないほど極まっている。
対悪魔とて持前の戦闘センスで高レベル悪魔とすら渡り合える名取だが、人間を相手にした時、その殺傷力は恐らく先代葛葉キョウジすら容易く殺すことを可能としただろう。
純粋な戦闘力では先代には劣るかもしれないが、葛葉名取はここからまだまだ伸びる。純粋な年齢が違い過ぎるだけに、ここから先、さらに強くなることは明白であり、最終的にどこまで強くなるのか、先代キョウジすらも見通せぬほどであった。
つまり単なる面倒ごとなら自ら出向きあっさり潰せば良いだけであり、それ以外の大抵の出来事ならばヤタガラスの一員として人を使えば良い話。
そんなナトリをして唸らせるような出来事が今、ディスプレイに映し出されていた。
表示されている内容を分かりやすく述べるならば。
―――帝都にてガイア教の活発な動きが確認された。
「……告げる……厄介な」
目を細めながら思考にふける。
並大抵の組織なら良かったのだ、ヤタガラスの人員で囲み、ナトリが直接赴き、徹底的に叩き潰して全て抹消してしまえばそれで解決する。
残念ながら法治国家とは言え、裏世界において表の法は通用しない。
裏の世界で最も分かりやすいルールは力であり、その力を最も分かりやすく示すことができるのは見せしめである。
そのためにナトリはこの数週間、いくつもの組織を潰してきたのだ。
下手な動きを見せれば次にこうなるのはお前たちだ、と。
葛葉キョウジの名は健在であると裏の世界に示したのだ。
故にここ数日は帝都に潜む多くの組織も怪しい動きを見せず、大人しい物だったのだが。
ここに来てまさかのガイアである。
メシア教とガイア教、この二つの勢力だけはナトリをして軽視できない。
この日本へと侵出してきた勢力の中でも最大の二勢力であり、大本を辿れば世界二強の勢力でもある。
揃えられた人員の質や数を考えればヤタガラスの総力をもってしても抗うことは難しいだろうが、本質的にこの二勢力は対立している。
元を正せばメシア教は一神教であり、唯一の神から地上にメシアがもたらされ人は救われるという言葉を信仰しており、唯一の神以外の全ての神は悪魔であり異端であり否定すべき、そして唾棄すべき悪であるという思想に染まっている。
そしてメシア教の勢力圏内では次々と旧来の宗教が駆逐されており、それに対抗すべく既存の宗教が手を取り合い生まれたのがガイア教だ。
つまりこの二勢力は不倶戴天の敵同士であり、ヤタガラスなど二の次なのだ。
だからこそ、ヤタガラスという余計な敵と争って力をすり減らすことをしようとしない。その隙を突かれて均衡が崩されては堪らないからだ。
そして互いに相手を出し抜く手を考え、時に実行に移し争い合っている。
つまりこの帝都でメシアとガイアが互いの隙を伺っている間は全面抗争とはならない。
メシアとて世界中の宗教が手を結んだガイアは一筋縄ではいかないことを知っているし、ガイアだって世界最大の一神教であるメシアの力が絶大なものであることを知っているからだ。
だからこそ、この帝都において両者が争いは滅多に起きない。起きたとしても小競り合いが多い。
だが水面下で互いを出し抜くための計画は進行する。当然だ、結局のところメシアもガイアも互いに互いが邪魔なのだ。いつまでもこの均衡を保っているつもりも無い。均衡を自らに傾けたいのはどちらも同じで。
その計画をことごとく潰してきたのがヤタガラス……引いてはクズノハである。
芽は早い内に潰せとばかりに荒しまくった先代キョウジと芽吹いた悪意を一刀両断と摘み取った今代ライドウの二人によってメシアとガイアの均衡は崩れることなく、これまで帝都の平和は守られてきた。
だが先代葛葉キョウジはもう居ない。今その立場にあるのはナトリであり、それを為さねばならない、その義務がある。
のだが。
「……私は思う。こういうのは向いていないと」
自分でも自覚はしているのだが、葛葉名取は基本的に情報収集というものに向いていない。
頭の回転は悪くない、むしろ先代キョウジが見込んだだけあり、非凡な物がある。
戦闘力だって決してガイアを相手取って劣るようなものでは無い。
だがどう足掻いても他人と意思疎通することが困難だ。
未だ喋りなれないこの国の言葉の影響もあるし、それ以上に対人経験というものが圧倒的に足りない。
過去のナトリにとって他人とは奪うか殺す、どちらの対象でしか無かった。
初めてまともに会話したのは葛葉キョウジであり、それ以外と言えば兄と呼ぶ在月有栖か、後は門倉悠希くらいしかまともに話せる相手など居ない。
要するに口下手なのだ、というか他人と会話する気が最初から無い。
会話というもの自体に慣れていないため他者の口を割る方法など暴力くらいしか知らない。
さらに言うならば戦闘力は高いが、それ以上に殺傷能力が高すぎる。
ナトリが戦うということは即ち相手を殺すということに他ならない。
故に生け捕りにして情報を吐かせるなどということがどれだけ困難なことか。
だがガイアが何を企んでいるのか、それを知るためには生かして捕らえ口を割らせるのが一番手っ取り早い。
他人を使うことも考えたが、ナトリが使える人員で戦闘能力の高い人員がほぼ居ない。
基本的に暴力はナトリが担当し、調査のほうを任せる予定だったからこそ、戦闘能力は必須としなかったナトリの手落ちである。
さて、どうしたものだろうか。
当座の状況に思案をしていた、その時。
prrrrr
来客を告げる電話が鳴った。
* * *
「ふむ……」
いつもキョウジが座っていたはずの席の主となったナトリがどこかぼんやりとした視線で俺を見やり、それから隣の十字を見やる。
いつものゴシックドレスから白いシャツに黒のパンツを着た今の姿は非常に新鮮で一瞬別人かと思うほどであった。
そんなナトリだったが、俺たちが着た要件を伝えるとデスクの上のディスプレイを一瞬見たかと思うと何か考え込むように唸り声をあげた。
俺と、十字とそしてディスプレイの間を何度となく視線を彷徨わせ。
「告げる、了承した」
頷く。
そうしてデスクに置いたディスプレイをくるりと回し。
「私は頼む、これを見ることを」
相変わらずおかしな日本語の使い方をしながら告げた言葉に言われるがまま視線をディスプレイへと移し。
そこに表示されているのはここ数日の帝都での報告の一部。
簡単に言えばガイア教がまたぞろ動き出している、という内容。
「……ガイア、か」
和泉がいなくなったこと、ガイアが動き出したこと、これは偶然か?
否そんなはずがない。
隣の十字に視線を向ければ、ディスプレイを見つめたまま厳しい表情をしていた。
だがやらなければならないことは分かってきた。
ガイアについて調べる必要がある。しかもヤタガラスよりも詳しく。
そのための方法など……限られているだろう。
「兄……有栖」
ナトリに呼ばれて顔を上げる。
その時、初めて名前を呼び捨てられたことに気づいた。
「私は告げる、貴方に依頼があると」
告げるナトリの表情から、感情を伺うことはできなかった。
そろそろ終盤に向けて話が進んでいく感じ。