* 五月二十六日日曜日 *
二つに分かれたいたものがひっついたような…………ぶれていたものが重なったような。
どこかふわふわとした不思議な感覚を覚えつつ、目を開く。
暗い。目を開いて最初の感想はソレだった。
「そういや、あっちの世界に行く前は夜だったな」
それがあっちの世界にたどり着いた時には朝になっていた。まあ時間の流れなど今さら気にすることではないだろう、アラカナ回廊は、時間と空間を超越するらしいので、きっとそう言うこともあるのだろう。
ここはどこか? そう考え、すぐに吉原市であることに気づく。見覚えのある景色、学校の近くだ。
「わけが分からんな、どういう基準で入り口と出口が設定されてるのか」
そもそも何の変哲も無いただの包丁で空間切り裂いて、世界間を跳ぶ、などとそれ自体が最早俺の理解を超えているのだが。
まあ取り合えず…………。
「帰るか」
ここにいる意味も無し、やることも無い。
特に何事も無く自宅に戻ってくる。
「はあ…………なんか時間にするとそんなに経ってないはずなのに、まるでまる一日以上家を開けてきたような感覚がするな」
前世の自身の家に戻っていたと言うのに、けれどこちらに戻ってきてほっとしている自分がいることに気づく。
なるほど、もう俺は完全にこちらの世界の住人なのだろう。兄はああ言った性格だったせいか、別に前の世界に未練を残しているわけでも無いが、それでもなんとなく寂しく感じる。
だが今はもうこの家こそが俺の居場所なのだ。十五年、ここで過ごしてきた。五年前、アリスに出会うまで両親と共に過ごしてきた。
「親…………ねえ」
俺の前世に親はいなかった、いたのは兄が一人だけ。それを俺は当たり前だと思っていた、両親のいる生活、と言うものをそもそも知らなかった、いないことが前提だったのだから、そのことに不満を持ったことは無い。
だからこそ、今生において自身を子だと言って愛してくれた両親に違和感は無かった。そして、だからこそ、両親との思い出の残るこの家を自身の居場所だと受け入れるのも、また容易だった。
「…………親…………親、かあ」
あの時、俺は確かにこの家を出た。両親の仇を取るために、
襲来を予想していた魔人。きっと両親の仇であるヤツであろう、そんな予感があった。
だから、待っていた。万全を期して、あの瞬間を。
そうして、その結果を出すよりも前に、俺は異世界へと落ちた。
「…………結局俺は、倒したのか? 倒せなかったのか?」
分からない、分からない。
確かめる必要がある。あの日、そしてあの時、やつと出合った場所。
「後で行ってみるか」
そう考え、ふと目をやった先、玄関のポスト。そこに入れられたものに気づく。
ポストに入りきらず、蓋を押し上げて飛び出しているソレ。
首を傾げ、ポストから出す。長い、二十センチほどの四角形の細長い棒のようなソレ。暗くてよく分からないが、なんだかカラフルな色合いをしているように見える。
「…………なんだこれ?」
見たことも無い不思議な物体。何故こんなものが自宅のポストに入っているのか。悪戯の可能性を一瞬考えたが、すぐに違う、と思った。
理由を言うならば直感だ。ただの勘である。だがデビルバスターの勘だ、案外バカにできないものがある。
その勘が告げている。これは何か重要なものである、と。
ただ怪しくもある、誰がどんな意図を持ってこれを自身の家のポストに入れたのか。
どうするかな、そう考え。
瞬間、ぶん、と携帯が震えた。
思考を遮るそのタイミングに目をぱちくり、とさせながら携帯を開く。
メール着信1件、と出ていたのですぐに開いて…………。
「…………なんだこれ?」
そこに書かれていたのは一文。
“絶対に失くすな!!”
まるで俺の思考を読み取ったかのような、余りのタイミングの良さにさすがに怪しむ。
そうして発信者の欄に目をやり…………見開く。
「どういうことだ…………」
発信者の欄に書かれているその名は…………紛れも無く、自分自身のものだった。当たり前だが俺はこんなメール出した覚えが無い。発信時間は…………五月十三日月曜日。
俺が魔人と戦ったのが五月十一日土曜日。つまりこれは二日後の未来から届いた、と言うことになる。
「いやいや、ねえよ…………バグったか?」
そんな馬鹿なことあるはず無いと一蹴し、携帯を仕舞う。
もしも、この時、携帯で現在の時刻と共に日付を見ていれば…………直後の悲劇は回避でき…………は無理でも、予想くらいはできていたかもしれない。
だが最早そんなことは後から言っても仕方ないことであり。
俺は日付を見なかった、それだけは事実である。
「………………取り合えず持っておくか」
余りにも怪しいが、それでも何となく必要になる気がする。
ポケット…………に入れるには少し大きい。後で鞄か何かに入れておこう、心の中でそう呟き、玄関の鍵を開く。
カチン、と何事も無く鍵が開き、ドアノブに手をかけ…………止まる。
どくん
心臓が跳ねる。
背筋が凍る。
何か、何か嫌な気配がする。
コノトビラヲアケテハナラナイ
それは予感だ。直感でも良い。
この扉を開ければ…………恐ろしいものが待っている。
手を震える。ドアノブを握る手にも力が篭る。
ゆっくり、ゆっくりとドアノブを回し…………。
カチャ…………開く。
真正面に見えたのは暗い廊下。
そして…………奇妙な違和感。
それは、臭いだ。
人を不快にさせるような臭い。
顔を顰め、玄関を潜る。靴を脱ぎ、歩を進める。
そして。
「あ…………ああ…………う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
深夜の家に、絶叫が響き渡った。
鼻の奥をツンと刺す臭いに、眩暈がする。
俺は勘違いしていた。そう、何故今まで気づかなかったのだろうレベルの勘違い。
時間と空間を超越するアカラナ回廊。
そんなものを通って、どうして元の時間帯に戻ったと思ったのだろう?
携帯の時刻を見る。そこにはこう書かれていた。
五月二十六日日曜日 午後十時二十六分
自身が魔人との戦いに赴いた日が五月十一日土曜日。
つまり、俺が異世界に行っている間に、こっちの世界では十五日の時間が過ぎていたらしい。
俺は当初、仇である魔人を討ち滅ぼしたらさっさと帰るつもりだった。つまり、一日以内に戻ってくるつもりで家を出たのだ。
つまり遠出のための準備を何もせずにそのまま家を出た。
そして不測の事態により十五日、そのままの時間が流れた。
現在は五月中旬。初夏の季節である。
結果。言わずもがなである。
分からない? 俺も言いたくない。
初夏の気温。十五日放置された家。開かれた扉から漏れる異臭。後は察して欲しい。
「い、いっそ…………ランタンに全部燃やさせてしまいたい」
吐き出しそうな気分の悪さ。頭痛すら覚える強烈な臭い。思わずそんな思考が出てしまうのも無理は無いだろう、と思う。
「こ、これ以上は…………明日でいいだろ」
一通りの後始末、それから掃除をして家中の窓を開けて換気する。
本来なら、まだ除菌やゴミ出しなどすべきなのだろうが、正直もう限界だった、主に精神的に。
中から腐海の溢れ出すフライパンの処理などもう二度とゴメンである。
唯一救いだったのは、虫の類が湧いていないことだろう。普段からアリスが無駄に魔力を発しているせいで、虫や動物などが本能的に警戒し近づかない我が家である。殺虫剤などここ最近使った覚えも無い。
便利と言えば便利なのだが、定期的に魔力を還元しなければ、俺の部屋などアリスが長時間いる場所は異界化しかねないのが問題と言えば問題だ。と言っても、まあそんな短期間で異界化するほど俺はアリスに十分なMAGを与えてはいないのだが。
「…………今日はもう寝るか」
魔人と出合った場所まで行こうかと思っていたが、正直今から出かけるのは面倒だった。
「和泉がいたら楽だったのになあ」
だが和泉は先の騒乱絵札の王との戦いの数日後、この家を出て行ってしまっている。
こんなことなら引き止めておけば良かった、と多少後悔しつつ暗い廊下を夜目を頼りに自室へと戻ろうとして…………直後。
「有栖!!!」
アリスがCOMPから飛び出してくる。
勝手に出てくるな、いつもならそう言うところだったが。
「一体何が起こってる?!」
背筋が凍るような感覚。そして感じるのは、何か大きな力のうねり。
巨大な…………魔力の奔流。
「まじんのけはい!!!」
アリスの言葉に目を見開き、即座に外を確認する。
月は…………ある。否、新月だった十一日からちょうど十五日。寧ろ月は満ちている。
「どうなってやがる…………満月の日に魔人だと?」
魔人は新月の日に現れるものである。魔人とはそう言う悪魔なのだ。かつての海辺の街で出会った魔人はサマナーの仲魔だったからこそ、新月の日以外にも現れていたのだ。
だとするなら、今この瞬間に現れた魔人は、誰かの仲魔?
「またあのヒトキリとか言う悪魔じゃないだろうな…………」
だが、そんな俺の呟きを、アリスが否定する。
「ちがう、このかんじ、あのときの!」
あの時、その言葉に眉を潜めて…………。
「ジョーカーのけはい!」
その言葉に、目を見開き…………。
そして、直後――――――――――――
* * *
「さあ、始めよう!!! 戦争だ!」
月の見下ろす、街の外の平野で。
男とも女とも分からないソレが自身の身に着ける赤い衣装と黒いマントをはためかせ、叫ぶ。
「夜が来た! 月の満ちたる我らが夜が! さあ、者共叫べ、鬨の声を上げよ!」
その叫びに呼応するように、地獄の底から聞こえるような叫び声がソレを囲むように次々と上がる。
「「「「「ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!」」」」」
その声に、その叫びに、口元を吊り上げながら、ソレが続ける。
「我らが敵よ、我らがやってきたぞ、汝らの“敵対者”が貴様らを滅ぼすためにやってきたぞ!!!」
増える、増える、増える、増え続ける。
ソレを囲む気配が増えて、増えて、増え続け、やがてそれは百を越し、二百を越し、三百を越す。
「いざ武器を取れ、竜の騎士たち! 竜の子たる我が命ずる!」
四百を越し、五百すら超え、六百を超える。それでもまだその数は増え続ける。
「我らが敵を討ち滅ぼせ!!!」
七百を越え、八百を超え、九百を超える人の群れが一斉に声を上げる。
「全軍…………突撃!!!」
最終的に、千人の群れとなったソレらが一斉に叫びを上げ、走り出す。
「さあ…………出て来い、月の血」
ソレが呟き、空を見上げれば、そこには紅い月が地上を見下ろしていた。
* * *
月が…………紅い。
まるで血を塗りたくったような紅い月。
一瞬で暗く染まりきった街。
「なんだこれ…………なんだよ、これ」
呟きは、けれど答えも無く虚空へ消える。
いや、分かってはいる。ただ信じがたいだけで。
異界だ。
恐らくあの魔人…………ジョーカーの生み出した異界。
だがまさか、と言いたい。
まさか、ほんの一瞬でこの街を飲み込むほどの異界が形成されるなど誰が予想できる?
「何か仕掛けてやがったな…………くそっ、十五日間の弊害がここで出たか」
俺のいなかった空白の十五日。その間に起こった異変を俺は知らない。今さら知っても遅すぎる。
十五日前のあの日、やつは確かに俺の目の前に現れた。つまり、あの日以降この街で動いていたのだ。
悪魔単独でここまで大規模な異界が形成できるものだろうか? 否、無理だ。少なくとも、即席でこんな大規模な異界は作れない。そもそもサマナーの仲魔となった悪魔はMAGをサマナーから供給される故に、異界を作るほどの力は…………いや、待て?
本当にこの異界を作った魔人は仲魔なのか?
だが魔人が新月以外に現れる理由など他にあるのか?
ふと浮かぶ思考の矛盾。そして感じるのは違和感。
ボタンを掛け違えたかのような、小さな違和感を感じる。
だが考えてもすぐに答えは出ない。頭を振り、すぐに思考を切り替える。
今はそこはどうでもいい、現実に差し迫った問題をどう対処するか、だ。
「まずはキョウジに連絡でもするか」
真っ先に思いついたのはそれだった。敵がどこにいるのか、どのくらいの規模なのか、いくらかでも情報を聞かなければどうにもならない。
そうして携帯を手に取り、画面に表示された圏外の文字に顔を顰める。
「分かってはいたがやっぱり圏外か」
異界と言うのは一種の隔離空間だ。ズレた世界、と言い表しても良い。やはりと言うべきか、電波が届かないらしい。COMPとしての機能に不備は無いので、問題無いと言えば問題ない。
固定電話なら、とも思ったが、街中の電気が落ちている。恐らく電力供給が途切れているからだろう。
だからこそ、目立つ。空に浮かぶ紅い月が。
「くそ…………とにかく動くしかねえか」
一つだけ、幸いと言えるのは、周囲に人の気配が無いことだ。
住宅街のこの周辺に人の気配が無いなど普通あり得ない。だとするなら、異界化を起こした際にある程度選別されていると考えるべきだろう。少なくとも、一般人が紛れ込んでいる、と言うことは無さそうだ。
だがそれは目に見える範囲での話だ。もしかすればここ以外の場所で巻き込まれた一般人がいるかもしれない。
携帯が使えない、電気が通っていない。言葉にすればそれだけのことだが、今の日本の生活を考えればそれは致命的だった。
情報伝達が滞る。移動手段も非常に限定されるし、何よりも光源が空の月しかないと言うのが最大の問題だ。
どうする? 思考する。この状況で判断を間違えるわけにはいかない。
まず問題点を上げよう。
一つ、敵の存在。
恐らく敵はジョーカーを名乗る魔人。
レベルは不明だが、あの時の戦闘を見る限りでは相当に高レベルだ。
けれどあの時振るわれた力など、ほんの一変に過ぎないのだろう。奥の手など、いくつでも隠し持っているものだ。あの時見た戦力が全てだとは思えない。俺よりも強い、と言う前提で考えたほうがいいだろう。
けれど、最終的にはどうにかしてこいつを倒すか、追い返す必要がある。
一つ、異界。
街一つ丸々異界にすると言う離れ業。
恐らく何か仕掛けがあるのは間違いない。
核となっている悪魔は恐らくジョーカーなので、ジョーカーを倒せば解除できるかもしれないが、そのジョーカーの詳しい戦力が不明な以上、安易に勝てると断定してはならないだろう。
だからそれ以外にもこの異界を解除する方法を見つける必要がある。本当にジョーカーを倒しただけで異界化が解けるとは限らないし。
と言っても、異界化が解除されてジョーカーたちが街に襲来するのも避けたい。異界化を解除するなら敵を無力化するか、街の外に誘いだすなどして、安全を確保してからだろう。
一つ、一般人。
この辺りにはいないのかもしれないが、だからと言って異界全域に一般人はいない、と考えるのは早計過ぎるだろう。もしいるのならば最優先で救助する必要がある。
フリーサマナーと言っても大まかな所属はヤタガラスなのだ、一般人を助けるのは、ある種の義務のようなものである。
一つ、味方。
吉原市にはフリーのデビルバスターが大勢いる。恐らく、日本でも五指に入る程度には多い街だ。だとするなら、自分以外のデビルバスターはどうなったのだろうか? もしこれが自分一人を取り込んだなどと言われたらかなり絶望的なのだが…………わざわざ人を選別して取り込んだ程だ、その程度できるかもしれない、だが自身一人をわざわざ取り込むためにこんな大規模な異界を生み出す理由もあるわけも無し、恐らく他のデビルバスターもいるだろうと予想している。
さて、大まかにわけるとこの四つが現状の問題点。
この中で優先すべきは…………。
「味方を探すべきだな」
この際、メシアでもガイアでも良い。あれが騒乱絵札なら共通の敵だ。そう言った意味では
まずは味方を探し、情報を手に入れる。それから異界に巻き込まれた一般人がいるのならそれを捜し、安全を確保。それが終わったら敵を探し、戦う。それで異界化が解除されるなら良し、解除されないなら改めて解除方法を探せば良い。
方針は決まった。
さて、ならばまずは…………。
「アリス、来い」
SUMMON OK?
「てきー?」
「ああ、敵だ」
目の前の敵を排除しよう。
血走った眼球でこちらを見つめ、その痩躯をかたかたと振るわせる異形の人型が三体。
「邪魔だ…………そこをどけ」
吐き捨て、そうして、構えた銃の引き金を引く。
夜闇の空に、銃声が一発、響き渡った。