常人ならばむせ返りそうな血臭の中を、けれど和泉は平然として顔をして歩いていく。
白一色だったそのゴシックドレスは、けれど未だにその色を保ち続けている。
この場所に来て、幾人と戦い、けれど返り血一つつけることなく少女は歩いていた。
「好きよね、貴方たちも、こう言うの」
地下へと、地下へと続くその緩やかな傾斜のかかった通路を歩きながら、和泉が呟く。
その歩いてきた道筋にはおびただしいほどの数の死者の群れがある。
ふと、和泉の進路上、通路の先のT字路から幾人かの人間がやってくる。迷彩模様の防弾服を着て、機関銃など構えたその姿は、一体どこの軍隊の兵士だと言いたくなること請け合いの格好である。
パパパパパパパパパパパパパパ、間断無く続く機関銃の音が通路中に響く。
兵士のような彼らと和泉との間を遮るものは無く、そして隠れられうようなところも無い。
絶体絶命…………まあ普通の人間ならば、だが。
「ペルソナ」
呟きと共に、和泉の背後に蛇が現われる。
赤くて、黒い模様の長細い胴。そしてその背にあるのは五対十枚の翼。
「“サマエル”」
和泉の精神に宿る悪魔。それをペルソナと言う形で顕現させる。
本来の意味でのペルソナとは違ってはいる、だが関係は無い。そんなことはどうだって良い。
「メギドラオン」
呟いた瞬間、蛇の口から吐き出された黒紫色の光が和泉の進路上の全てを
そうして、兵士のような格好の彼らの元まで飛んでいった瞬間。
ゴォォォォォ、と派手な音を立てながらその暴威を撒き散らす。
後には何も残らない、たった一撃、ほんの一瞬で、彼らと言う存在は消し飛ばされる。
そのことに、和泉は何も思わない。
その程度のことに、和泉は何も思わない。
別に和泉は博愛主義者ではない、平和主義でも無ければ、平等主義でもない。
好きな人は好きだし、嫌いなやつは嫌いだ。どうでもいいやつはどうでもいい。助けたいと思えば助けるし、どちらでも良いと思えばどちらでも良い。
ここに来るまでに相手した彼らだって、別に殺すつもりは無かった。かと言って生かすつもりも無かった。
生きていたならそれでも良い。邪魔しないなら無理に殺すつもりも無い。
かと言って、死んでしまったならば別にそれでも良い。
ある意味ガイアらしい、自分に正直と言うべきか、自由に振舞っていると言える。
そしてこんな有様であろうと、和泉の行いは、ガイアの中ではかなりマシなほうと言える。
弱者をいたぶるわけでも無く、拷問するために何時までも殺さないわけでも無く、徹頭徹尾殺し尽くすわけでも無く。
あくまで和泉は自身に邪魔となる相手を排除しているだけである、相手が逃げるのならば追わない、それが目標以外ならば、だが。
ガイアの中ではかなりまともな部類であり、異端でもあるかもしれない。そんなまっとうとも言える精神の持ち主がガイアにいること自体が珍しい。否、これをまっとうと言えるガイアがもう大分おかしいのは明らかな事実ではあるが。
そんな和泉だが、たった一つ、例外とも言えることがある。
「………………………………あら、こんにちわ」
「「………………………………………………」」
通路を歩いていった先、T字路にたどり着き、さてどうするかと考える。
取り合えず右から行って見るかと考え、その先を進む。
そうして突き当たりにあったロックのかかった扉を
中にいたのは二人の少年と少女だった。
太陽のごとき輝いて見える金糸の髪と淡いエメラルドグリーンの瞳の少年と。
月のような淡い銀髪とサファイアブルーの瞳の少女
背丈からして歳の頃十二程度と言ったところか。
服装はまるで病人か何かのような薄い布の服。
「こんにちわ…………さて、“助けは必要かしら?”」
返って来たのは警戒の視線だった。
* * *
とある組織を襲撃し、そこにいる実験体を連れてくる、もしくは殺すこと。
それが和泉が教主から与えられた命だ。
だから和泉はそれを無視した。
至極あっさりと、当たり前のように、それを無視した。
基本的に和泉は先も言ったとおり、見知らぬ人間などどうなっても関係無いと思っている。
ただ一つだけ、そう、たった一つだけ例外がある。
和泉の中において、時に有栖よりも優先するべき例外。
河野和泉は理不尽を許さない、不条理を唾棄する。
それはかつて自身がそうであったように。
例えば、とある組織に捕まって強制的に非人道的実験の数々を経験してきた双子をさらにガイアで捕らえよう…………なんて理不尽は、不条理は許せない、否、許さない。
だから和泉は理不尽な、不条理な経験をした彼ら、彼女たちにたった一言、尋ねるのだ。
“助けは必要かしら?”と。
救われぬ者たちに救いの手を。
和泉の魂に刻まれたたった一つのシンプルな
例えどれほど胡散臭くとも、どれほど怪しくとも、どれほど信用なら無くても。
本当にどうしようも無い状況ならば、どうにもならない、どうにも出来ない。
そんな、かつての和泉のような状況ならば。
脆い藁でも縋る、か細い糸でも必死に手繰る。
そんな彼らに、彼女たちに、手を差し伸べたい。
かつて自分がそうしてもらったように。
だから和泉は二人を助けたのだから。
どれだけ警戒されようと、自身と双子、両者の力関係は余りにも明確である。
どこかで逃げ出されるかと思っていたが存外素直に双子は現在の自宅まで着いてきた。
まあ組織を
そして逃げ出す余裕があるのならば、別にそれはそれで構わない。その先で幸せに暮らせるなら別にそれでも良いし、どこかで野たれ死ぬならば別にそれでも良かった、また別の組織に捕まるようならば助けるまでだが。
結局、自身でそれを選択したのならばその選択に対して責任は自身が背負うべきだと思っている。
二人はついて来た。その選択に対する責任は二人が負うべきことだし。
その選択に対する結果もまた二人に与えられるべきだろうと思う。
「食べないの?」
机の上に並べられた茶碗に盛られたご飯を見てけれど二人は手を伸ばさない。
有り合わせだがおかずも数品用意したが、何か嫌いなものでもあっただろうか。
否…………この様子は恐らくだが。
「ここまで来て、まだ警戒してるの? いい加減疲れない?」
箸を伸ばし、皿に盛り付けられた卵焼きを摘む。手早く作れるし、味付け次第で非常に美味しいので自身は気に入っている。好物と言い換えても良いかもしれない。
有栖の家で暮らしていた時に、家事のやり方は一通り有栖に習っている。あの少年、あれで、あの若さで何故あれだけ熟年の主婦のようなスキルを持っているのか謎ではあるが、一人暮らし(悪魔をカウントするのかは謎だが)をしていればそうもなるのかもしれない、と余り深くは考えない。
口の中で広がる出汁の甘みとふんわり柔らかい卵の感触に、思わず口元が綻ぶ。
その様子を見てた二人もまた、おずおずとだが箸を伸ばす。
ゆっくりと、一つ卵焼きを摘み。
そうして口の運び、嚥下する。
そうすれば最早、手は止まらなくなる。
「ゆっくり食べなさい」
そうしてようやく実感するのだ。
「貴方たちはもう、自由なんだから」
自由を。
* * *
お腹がはちきれそうなほどにご飯を掻き込んでいた二人をそのまま風呂場に押し込める。
少しばかり古びてはいるが、まあお湯が出るだけマシだろうと思う。
その間に考える。
「…………どうしましょうかね、これ」
二人が着ていた病人服のような薄い布切れは捨てる、すでに血に汚れているし、何よりずっと着っぱなしだったのか、随分とよれてしまってあちこち穴も空いている。
少女のほうは、自身の古着でも着せれば良いとして、少年のほうは…………さてどうしようか。
「…………あ、そう言えば」
確か一着だけ、有栖の古着があった気がする。
ずっと昔、自身が助けられた頃に彼に与えられた思い出の一着だ。
少しもったいない気もするが、もう乗り越えた過去だ。以前の自分ならばともかく、今の自身ならばそれに執着はしたりしない。
とにかく、これで着る物の問題も解決した。
後は。
「…………あの二人がどうするか、よね」
風呂場へと、おっかなびっくりしながら二人で入っていった少年と少女を思い出しながら。
「まあ、それは後でいいわね」
くすりと笑った。
* * *
少年の名をロン。
少女の名をアルと言うらしい。
双子の姉弟で、年齢は十二。
まあ見たまま、日本人ではなかった。と言っても国籍は本人たちもよく分かっていないようだったが。
そして二人が素直に話したのはそこまでだった。
「そう…………まあ別に構わないわ」
そして和泉には別にその程度で十分であった。
「連れてきたのは私、だからここでの安全は約束してあげる。けど、そこから先、これからどうするかは自分たちで決めなさい」
その言葉に、少年…………ロンが眉根を顰める。
「オレたちを…………捕まえないの?」
こちらを伺うように、ロンが尋ねるその言葉に、首を振って答える。
「言ったでしょ、貴方たちはもう自由よ。私は私なりの事情で貴方たちを助けた、そして助けた義理でここまで連れてきたわ。けどそこまでよ、私が何かするのは」
正確には、自発的に、と言う言葉が頭に付くのだが、言わない。
「ここから出るのも貴方たちの自由、ここに留まるのも貴方たちの自由、それ以外もね」
自身が語る言葉を、ロンもアルも押し黙り、一言一句聞き逃さないように耳を澄ましている。
「私これから別の用があるの、だから後は好きになさい、欲しいものがあったならこの家から取っていってもいいわ」
どうせ大事なものは全て彼の家にある。ここも所詮は一時的な拠点に過ぎないから、一月もしないうちに別の場所に移ることになるだろう。自分のような存在が同じ箇所に定住すると襲撃の憂き目に会うのがオチだ。だからいつ壊れても構わないものしかここには無い。
契約時に一緒についてきた鍵のスペアのほうを机の上に投げ捨てる。
そうして服を軽く整え、椅子から立ち上がる。
自身のその様子に、ぴくり、と二人がこちらに視線を向ける。
「まあ一つだけ言うなら」
思えば、こんなことがあるたびにこんなことを言っている気がするが。
「降ってわいた自由よ。今度は目いっぱい好きなようにやればいいわ」
それじゃあね、とだけ告げ部屋を後にする。玄関の扉を閉まるその直前まで。
二人はこちらを見つめたまま動かなかった。
* * *
昼下がりの公園。十五歳と言う多感な年齢にありながら、すでに還暦を迎えた老人のような老成した雰囲気を醸し出す十字だが、その雰囲気に違わずその趣味は散歩と人間観察と言うちょっと若者としてどうだろうと思ってしまうようなものだった。
ゲームもしなければ、本も読まない。テレビもほとんど見ないし、パソコンや携帯など必要以上に触ろうとすらしない。
学校の友人からは、爺さん、などと言う愛称で呼ばれている十字だが、別にそれが嫌なわけでもない。
実年齢はともかく、精神的な年齢を考えれば、確かに自身は老人と呼ばれても仕方が無いと知っているから。
だから、日曜と言う高校も無いそんな休日に、昼間に公園で日光に当たってうとうとしていたのは本当に偶然だった。
「……………………あー…………こりゃあ、不味いなあ」
空に月が輝いていた。
端的に、見たままを言えば、そうなる。
言っておくが。
空を見上げる。ほぼ変化は無い。ただ、太陽だったはずのものが、月に変わっていることを除けば。
昼の公園では子供を連れた母親や、ピクニックに来ていた一家、待ち合わせをしているらしい少年少女や、仕事の休憩中らしいサラリーマン、自身と同じ日向ぼっこを楽しむ老人の姿などがある。都内には自然と呼べる場所が少ないので、多少人口的に見えてもこう言う自然と触れ合える場所と言うのは珍しくあるのだ。極小規模とは言え森まで作られた公園などここくらいだろう。作り物とは言え、だからこそ自然の脅威と言うのが少なく、安全に遊べると言う部分も大きい。
だからこそ、今回は最悪だった。
森、そう森だ。
最初の異常は空にあった。
そして次の異常は、森からやってきた。
ドドドドドドドドドドドドドド、と大地を揺らしながら森から何かがやってくる。
それ…………否、
そして近くにいる子供、母親、父親、老人、少年、少女、青年、一切の関係無く襲いかかり、その牙を剥く。
「う、うわあああああああああああああああああ」
誰かが叫んだ。
「た、助けて、助けて!!!」
壊れたように、誰かが叫んだ。
「あ、ああ、ああああ、ああああああああああああ」
狂ったように、誰かが叫んだ。
熊だ。誰もがようやくそれの正体を知る。
巨大な…………凡そ全長三、四メートルはありそうな巨大な熊。
それが群れとなって、何十匹と走りだし、周囲にいる人間に片っ端から襲いかかる。
響野十字はそれを見ていた。ただただ見ていた。
そうして最初に起した行動は。
「さて…………どうすっかねえ」
携帯を取り出すことだった。
公園内が阿鼻叫喚の嵐となっている中で、困った困った、と全く困った様子の見られない表情で携帯を取り出し、コールする。
携帯を耳に当てると、数秒呼び出し音が鳴り響き。
がちゃ、と相手が通話状態に入ったことを示す音が鳴る。
「あー、もしもし?」
全く持って暢気な声で、十字が告げる。
「公園で熊が大量発生してんだが…………どうする?」
告げ、そしてその名を呼んだ。
「
都内の公園でベアパニック発生。
そして唐突な新キャラ3連。
前章はこの三人と和泉を主軸にしていく予定。
そして今だ名前しか出てこない主人公…………ん? 主人公って和泉だろ?