女子高生に授業を受ける義務があるのは当たり前のことである。
西住みほは、新しい教室にもすっかり慣れて、右中列の席に座って真面目に授業を受けていた……というのは表向きで、頭の中では教師の話とは全く関係の無いことを考えていた。それも女子高生なら当たり前のことである。
こういう時に、女子が考えていることは大抵決まっている。
目を閉じてみた。
教室の中を見回さなくとも、何処にどういう人種の人間が居るのか、脳裏に浮かぶようだ。
名前、誕生日、性格、成績、人間関係。更には、このお昼直後の眠たい授業をどういう風にやり過ごそうとしているのか、はたまた心底真面目に聞こうという奇特な生徒がいたものか。
半分眠りに落ちた深い呼吸、携帯電話を弄る音、落書きのペンが走る音……注意をしなくとも、自然と全てが把握出来る。バラバラだった情報のピースがきっちりと組み合って、これ以上ない納得を生み出してくれる。
愉快だ。
目を開いて、思わずにやけてしまう口元を、頬杖をついて誤魔化した。全く世間というのは
毎日こうやって時間埋めの観察して良く分かったことは、大洗女子学園は黒森峰女学院とは随分気風が異なるということだ。良く言えば気楽、悪く言えば軽薄。学校全体にそういう風潮があるのは、やはりあの会長の影響も大きいのだろう。
これまでの人生、実家や黒森峰系列学校の教育しか受けてこなかったみほにとって、これは非常に新鮮に思えた。
みほは黒森峰のような社会が普遍的であると無意識に思っていたが、どうも違うらしい。学園艦というのは一種の閉鎖空間だ。狭い世界の中に生きるのならば、否が応にも常識が誘導される。それは、みほも例外ではなかった。
なるほど、見聞を広める目的であるならば、これは良い機会である。
黒森峰では皆、良く言えば真面目、悪く言えば堅物であった。だからみほも、それ相応の
具体的には、一般的な人間関係において『縦』の線が強固だった。古いしきたりや、伝統というものも重視され、学年や役職による上下関係というものが明確であった。
そういう学校に居たから、みほは『上』を目指した。戦車道部次期隊長の座に就き、個人的親衛隊を結成、話術によって忠を集めた。『縦』の繋がりについては、磐石だと思われる組織を編成したことに自信があった。
けれど、自分が抜けた後の組織の様子は惨憺たるものであったらしい。退部志願者が続出し、あわや戦車乗員の定員割れを引き起こしかけた。理由は根本的に単純。
その事態を友人から知らされた時、みほは強固な『縦』関係の脆弱性に気がついた。『縦』の繋がりばかり強化してしまったことで、下を束ねる上の結束の要が無くなった時、ばらばらに崩壊してしまったのだ。
認めよう。これは失策だった。私はそれに気が付けなかった。組織再編に苦心したというエリカに申し訳が立たない。
ではこの問題にどう対処しようか?
この大洗は黒森峰のような厳格性がない代わりに、人と人との親和性が高い。黒森峰であれば我の強い者同士がぶつかり合いながら切磋琢磨をする環境であった。しかし大洗の場合、困難に立ち向かうとすれば、手と手を取り合って協力するのが適しているだろう。
今までのやり方だけではいけない。『横』だ。
今度は『横』の関係性も強化しよう。元々は適性の無かった『縦』については既に布石を打った。
西住流は二度と同じ轍は踏まぬ。『縦と横』。縦横に組み合わせ、より靭やかに、より硬くしよう。その為の方法は──
授業を聞き流しながら、今後の戦略を練っていると、ふと、胸に無力感が押し寄せた。唐突に、この思考が空虚に思えてきたのだ。
失態。完璧だと思った戦略の瓦解……何度経験したことだろう。その度に知恵を絞り対応・改良を試みても、それらは未だに無くならない。持てる全能力をつぎ込んでも0にすることができない。
今度も、どこから問題が噴出してくるのか、想像もつかない。
なんと、ままならなぬ事だ。結局、私のしていることは、つまらない小細工の積み重ねではなかろうか。
嗚呼、私に
雑多な感情に身を任せていると、今度は唐突におかしくなった。思わず噴き出しそうになる。
私は何様のつもりだ。『軍神』にでもなったつもりか? その人でさえ、最後には死んでしまったというのに。
私はどこまで行っても人間だ。失態に終わりなんてない。ましてや、私は。
「16歳の小娘」
ボソリと呟く。そうだ、私はこのクラスメイトと変わらぬ女子高生だ。発展途上段階。失態など、当然の事だろう。いちいち落ち込むのも馬鹿らしい、無い物ねだりも下らない。
まだまだ私は
止まらない。私の闘争は、まだ止まらない。
継続。考え続けること、改良し続けること……それを継続する限り、私の闘争は無限に止むことはない。
それに、完璧だなんて、何より
不測の失態を、あらゆる手段で粉砕するのが
愉快、愉快だ。
想像せずにはいられない。
曾お祖母様もこんな気分だったのだろうか。若くして死ぬ事に、無念を覚えたのだろうか。それを引き継ごうとしている私を見たら、なんと仰られるだろう。
越えたい。あの人の先を
西住一族が先祖代々、命を紡いできた闘争を、あの
それが私の顔向けであり、唯一の鎮魂だ。
新たにまた始まる、愛すべき私の
どちらでも良い。勝利も、敗北も、糧となれ。
何度でも
立ち塞がるが良い、私の行く先を邪魔するが良い。
私は笑ってみせよう。その後で粉砕してやる。
嗚呼、愉快だと──
「西住さん」
不意に、意識の外から呼びかけられた。思案の奥底に潜っていた意識が、急に現実に引き戻される。
みほは頬杖を止めて顔を上げた。
「はい、先生」
「前に出て、ここの問題を解いてちょうだい」
「分かりました」
にっこり笑って、席を立つ。
みほの抱える
◆
終業のチャイムが鳴ると同時に、秋山優花里は荷物片手に教室を飛び出した。クラスメイトより奇異の目で見られていたが、そんな事には気が付かなかった(何時もの事だとクラスメイトもすぐに興味を失った)。
向かうは巨大な赤レンガ倉庫前。戦車が保管されているというその倉庫前が、戦車道受講者の集合場所として伝えられていた。
全力の駆け足で辿り着いた優花里であったが、当然の事ながら、まだ誰も来ていなかった。
一番乗りであります。
何となく得意になり、優花里は大きくガッツポーズをした。誰も居ない事が幸いした有様だった。
うきうきしながら、暫し待っていると、戦車道選択者たちが次々に集まってきた。その数およそ20名、顔だけは知っている女子たちは沢山集まったが、しかし、その中には尊敬する西住みほの姿は無い。
その事に他の連中も気が付いているようで、友人の輪で好き好きに憶測が飛び交っていた。
「んじゃ、そろそろ始めよっか」
刻限が迫ったので、生徒会の二人に脇を挟まれた生徒会長が、何時もの様に飄々として皆に言った。皆はそれに耳を傾けて、ざわついていた集団が、にわかに静まった。
「待って下さい、西住殿がまだいらしておりません!」
と……抗議したかったが、そこまで気心が知れていないので、言葉は飲み込まれてしまった。
一体、西住殿はどうされたのでしょうか……残念でならない優花里が項垂れた、その時。
静まっていた集団は、再び、そして前より騒がしくなった。
とある一人が
項垂れていた優花里が、皆が向いている方を振り向いた先には。
西住みほ。
その人が、何時ものように礼を返しつつ、微笑んで向かってくるのが見えた。
ぱっと、世界が丸ごと明るくなったような感覚。その光源は言うまでもなく、目の前の彼女だ。直ぐさま敬礼をすると、みほは「こんにちは」と真っ直ぐに優花里を見て言った。
意図せず身体が震え出す。
『西住殿が此方を見た!!』
それだけで、天にも舞い上がる気持になった優花里は、一瞬実際に意識が飛んでいた。
周りの女子たちも程度の差はあれ、幸福感を覚えていた。
「遅いよ、西住ちゃん。もう始めちゃうところだった」
杏が窺うように言うと、みほは校舎の時計を一瞥した。
「なんの、まだ刻限には早いでしょう」
胸を張って言い張るみほ。堂々としたその姿に、ほうっとため息をつく周囲を目の当たりにして、杏はそれ以上の追求ができず、先の話を続行した。
「皆に集まってもらったのは他でも無い。戦車がここにある」
杏がパチンと指を鳴らすと、倉庫の両扉が音を立てて開いた。
期待の眼差しでそれを見つめる集団。しかし、それは直ぐに困惑の視線に変わった。
倉庫内に安置されているのは、明らかにみすぼらしく汚い戦車。「なんだかイメージと違う……」と、皆の代表をする様に沙織が言った。
すると、みほは躊躇いもなくその戦車(らしき鉄塊)に近付いて行って、掌でそれを撫でた。愛しげな眼差しで、上から下までを確認する。そして「うん」と頷いた。
「大丈夫。私が居る、私が乗ってあげる」
おお……皆がどよめいた。西住みほには、この戦車の是非が分かるらしい。それに、眼差しと言葉の何と優しいことか。まるで、長年の友人か、仲間に話しかけるようだ。
羨望せずにはいられない。
私たちも彼女のように成れるだろうかと──
「他の
みほは皆を振り返って聞いた。
「いや、それなんだが……」
申し訳なさそうに桃が言う。
「何処にあるのか分からないんだ。記録にも残っていない。だから、今日は戦車を探すために集まってもらった」
「河嶋さんにも分からないんですか?」
「すまない、西住……」
「手がかりは」
「何も無い、不甲斐ない限りだ……」
「
いきなり呼ばれた生徒会長が、僅かに肩を震わせたことに、みほだけが気が付いた。
会長のすぐ近くまで歩み寄り、尋ねた。
「私は聞いていませんよ」
周りには、全く当たり前の光景に思えたが、尋ねられた当人にとっては違った。
杏はごくりと生唾を飲み込んだ、とても苦い。
「この場で、皆に言おうと思ってたんだ。隠そうとしてた訳じゃない……本当だよ」
「分かりました」
みほは(杏にとって)意外にもあっさりと引き下がった。大きく息を吐き出す会長から興味を失ったように、懐から何か折り畳まれたものを取り出した。
「見て下さい」
それを広げてみせると、大洗女子学園の地図であった。皆が見やすいように、みほは戦車の上に登り、そこに地図を置いた。
意図を理解した集団は、我先にと群がった。
「巨大な戦車が長年人に気が付かれない
みほは同じように懐から取り出したペンで、地図に幾つかの丸を付けた。
「これらの場所を探します。既にグループが出来ているようなので……よろしい、そのグループで分担しましょう。分かりましたか?」
「りょ、了解であります!!」
皆が半ば呆然とする中、一番に応えてみせたのは、やはり秋山優花里であった。
その応答に、目が覚めた女子たちは次々に承諾の意思を口々にした。みほは満足げに頷く。
「では散開! いい報告を期待しています……ね?」
にっこりと、杏を見て笑った。
「あ……うん。報告は、
言葉を失っていた生徒会長は、ようやくそう言うのが精一杯であった。
◆
「戦車道って、思ってたのと何か違う」
未だにぼやくのは、もちろん沙織である。
目的地までの道すがら、みほを真ん中にして、沙織と華の三人で歩いている途中の事である。今は、先ほどみほが丸をつけたクラブハウス群へと向かっていた。
「そうですね、まさか戦車が無いとは思いませんでした」
一部同意をする華は、それでも妙に楽しそうだった。こういう経験をしたことが少ないからである。
「うん。昔から戦車道をやってきたけれど、戦車を
みほも、むしろこの状況を楽しむ様にくすくす笑った。
「男子にモテるって聞いてたけど、あれって本当だったのかな……?」
「嘘じゃないよ」
「えっ、ホントに!?」
「戦車道を始めてから、モテなかったことがないもん。私の経験上は、だけれど」
「そっかぁ! 私もこれからってことだね!」
「みほさんの場合は、また別の次元の話だと思いますけれど……」
その後も和気あいあいとした雰囲気で話し込んでいたが、最近のみほの活躍の話になった時、沙織と華の顔が急に陰った。
「みほ、最近凄いよね。色々大変な事があったのに、全然へこたれなくって。さっきも、あんなに堂々としてたし……」
「ええ、とても立派だと思います。でも何だか、遠くの人になってしまったみたいで……」
転校当初、二人はみほの哀れな境遇を聞いて
しかし、今やどうだろう。みほは立派に自立するどころか、生徒会と協力し、大洗戦車道を打ち立てるまでの働きを成した。必然的に人間関係の輪も広がって、学校の内外共に大きな人気を博している。
守ってあげるどころの話ではない。二人が大きく離されてしまったような気分になるのも仕方の無いことであった。
「なんだ、そんなこと」
しかし、みほは些事であると断じた。
「沙織さん、華さん。私はそんなこと全然思ってないよ。それでも二人が私を遠くに感じてしまうなら、こうすれば良い」
みほは、両脇の二人の手を取って、指を絡めた。
二人は驚いたように、繋がれた手を見つめる。
「私は此処に居ます、何処にも行きません。こんなにも、近くに居るじゃないですか」
みほは慈愛に満ちた表情で、沙織と華を交互に見つめた。二人は自然と握る手に力が入った。
「身寄りもないこの場所で、初めてのお友達。私は何時も、特別に思っているんだよ?」
ちょっと照れくさそうに、はにかむみほの微笑みは、二人の
「み、みほ……!」
「みほさん……!」
思わず両脇から抱きつく二人の背中を撫でながら、みほは目を瞑った。『友情』というものの安直さについて、今一度己に注意を促す為だった。
私はこれから、どれだけ友情というものを持たれていくのだろうか、数える気にもならないが、きっと悪いことではないのだろう。とても曖昧で……
こうも安直にそれを集められてしまうのは、やはり美しいからだろうか。私も確かにそう思う。だけれど、それは感情のみならず、確かな理性が合わさった時だけだ。
私にとって、友情の対象なんて、多くは要らない。
嗚呼、エリカ。君に会いたい。
「二人とも、そろそろ行こう?」
「あっ、ごめん」
「失礼しました、あんまりにも、その……」
離れてからも赤面している二人の様子を、敢えて無視してみほは後ろを振り向いた。「その前に」散開した初めから、後をつけてくる気配には、勿論みほだけが気が付いていた。
「そこの人、出てきて下さい」
木の影に向かって言い放つと、ガサリと音がして、おずおずと人が現れた。
心休まる暇もない沙織と華は、隠れていた不審人物に一部始終を見られていたことにやっと気が付いて、一層赤面した。
「あのっ、そのっ、私、悪気は無くて……ただ、あの……」
しどろもどろに取り繕う追跡者の様子は、本当に悪気が無かったことを皆に察させた。
倉庫前で見た顔だった。みほたちと一緒に探したくて、ついてきたのだろう。
「秋山優花里さん」
「えっ……」
「そうだよね。普通Ⅱ科2年C組、6月6日産まれ」
「ご、ご存知だったのでありますかっ!?」
「ええ、勿論。昔から、よくファンレターを送ってくれていたから」
「そ、そんな、覚えていて下さったなんて!」
「あなたの言葉に、何時も励まされていました。これからは仲間として、仲良くしようね」
「こっ、こうっ、光栄でありますぅ!!」
みほに差し出された手に触れた瞬間、沙織や華よりも真っ赤になった優花里は、鼻血を噴き出して仰向けにぶっ倒れた。見たことがないくらい幸福に包まれた表情だった。
これはみほにとっては非常に
なので、戦車探しは一時中断せざるを得なくなった。
『戦争とは他の手段でもってする政治の継続に他ならない』――カール・フォン・クラウゼヴィッツ