一体、何に生かされる?
冷泉麻子はある種の天才である。
物心ついた時より、何事についても麻子は
これ故に、周囲から『神童』扱いされるのも尤もなことであった。
麻子は自身の有能について驕るような性格では無かったが、己が実行可能な物事の幅が非常に広いということは、その頭脳で理解していた。
自分の才能に、ある意味万能感を抱いていたと言ってもいい。ちょっと注意を割いてやれば、何でもできる──それは確かに、事実に基づいていた。
この万能感が打ち砕かれたのは、ある事件が切っ掛けだった。
両親が事故で死んだ。
麻子はそれを予測できなかった。
全く慮外の、どうにもならない場所から理不尽を叩きつけられたのだ。驕っておらずとも、自分が全く冷静に思い上がっていたことを知らしめられた。
死別する直前、麻子は親と喧嘩をした。
親が合理的でない馬鹿なことを言うから、それに真っ向から反論したのだ。
何時もの事だった。喧嘩の顛末は、何だかんだで麻子の合理的な言い分を親が許容してくれて、仲直り。そうなるはずだった。
そうなるべきはずだった。
けれど、現実は?
両親は、麻子を理解しないまま、許してくれないまま、死んだ。最後に見た親の顔は、怒った顔だった。
馬鹿なのは、麻子の方だったのだ。
天才故に、気が狂うほどそれを理解してしまった。
実際に狂った。
異常に血圧が下がり、寝床から出れなくなった。遂には部屋からも出なくなり、ろくに食事も取らず、人と会うことを拒み続けた。
祖母が慰めなのか激励なのか、よく分からない言葉を掛け続けてくれたが、麻子は理性の檻に閉じこもり、それを聞こうとはしなかった。
このまま何もかも終わってしまえば良いと思った。
こんな馬鹿な自分は要らないのだと、確信していた。
何処を探しても、自分がのうのうと生き永らえる理由が見つからなかったのだ。
それを救ってくれたのは、武部沙織だった。
幼馴染みの沙織は、暗い部屋に入ってきて、ただ抱き締めて泣いてくれた。麻子には抵抗する気力も無く、されるがままにしていた。
それが何日も続いて、麻子は薄らと考え始めた。
『何の為にコイツは私を抱き締めるのか? 誰の為に泣いているのか?』
到底、理性では分からなかった。
きっとコイツは感情だけで動いているのだ。理解しようとするだけ無駄だ。
麻子は思考を放棄した。
理解不能の幼馴染みから伝わってくるのは、強く抱かれる温もりだけになった。
麻子は抱かれたまま眠りに落ちて、そして、夢を見た。
両親の夢だった。
何時ものように些細なことから喧嘩して、言い争って、でも最後には必ず許してくれて……二人で抱き締めてくれた。
麻子は思い出した。
私は抱き締めてくれた二人のことを抱き返すのが、何よりも愛おしかったのだ──
目を覚ますと、まだ沙織は抱き締めてくれていた。
気まぐれに、抱き返してみた。
沙織は一層強く抱いてくれた。
「温かい」
事実のみを言った、なんの意味も無い言葉。
けれど、麻子の胸には様々な思い出が津波のように押し寄せた。
朝起きて、ご飯を食べて、見送って、迎えてくれて、話して、喧嘩して、仲直りして、一緒に寝て……何でもない、普通の思い出だった。
でも、二度と叶わない、温かい日常。
麻子は、他ならぬ己の頭脳でとある結論に至った。
私は両親の事が大好きで、両親も私の事を愛してくれたのだ。
理性の檻から心が漏れ出した。
漏れ出した心は溢れ出て、声となり、涙となった。
沢山泣いた。沙織も一緒に泣いてくれた。
十分だ。この想いさえ残っているならば、それで良い。生きてゆく理由に十分なんだ。
武部沙織は、冷泉麻子にとって特別な人になった。
彼女を何と定義しよう?
親友──彼女への想いは、最早それに収まりきるものではない。
恩人──返しようの無い恩と感謝で一杯だけれど、きっと本人は否定するだろう。
家族──それは有り得ない。麻子にとっての家族とは、先立ってしまった両親と、今一緒に暮らしている祖母だけだ。そこに含めようという気持ちはない。
結局今でも、この幼馴染みをどうして定義すれば良いのか不明だ。
嗚呼、それでも構わない。この胸に、変わらぬ心があるならば、それで良い。
理論も理性も超越した
私は今日もそれに生かされている。
◆
麻子はこの日も寝坊した。
だからといって急ぐ気にもなれず、低血圧による憂鬱な気分で「なぜ朝は来るのだろう」と無為なことを思いながら、ふらふら道を歩んでいた。
このままゆけば、遅刻過多によって留年の可能性があるというのは分かっているのだが……どうしても布団の魔力から逃れられないのだった。
同じクラスの沙織には、今日も叱られるのだろうな。「おばあに怒られるよ!」とか言って。
それを想像して、ますます学校に行きたくなくなったが、最近の沙織の
沙織がクラスの転校生の話ばかりをするようになったのは、つい最近のことだ。
性格がどうとか、最近の働きがどうとか、生い立ちがどうとか……麻子にとっては心底どうでもいい話だったので、そういう話題になった時は寝転がりながら適当に相槌をうっているのが常だった。
しかし、頻繁に話を聞いているうちに、段々
物事をはっきりさせる性分の麻子にとって、これは非常に珍しいことで、自分でも意外に思った。
麻子は天賦の才能によって、これまで様々なことを予測してきた。過程を飛ばして、いきなり結論が頭に浮かんでくるため、人に説明するというのは苦手だ。
しかし、西住みほに対して、何故こんな気持ちになるのか、思考しても原因が全く理解できなかった。
他人について、こんな気分を味わわされるのは初めてだ。
沙織の心を一気に掴んでしまったことへの嫉妬か?
否。そんな下らないことで心を乱されるような性格はしていない。沙織が他者と仲良くなるのも平常のことで、気にすることじゃあない。
ならば周囲からの期待を一身に集めることへの羨望か?
否。他人からの評価など気にしたことは無い。むしろ、新たな学園の星の出現は喜ばしく思う。
余りにも
「それか」
麻子はある事に気が付いた。
通常、転校生が新しい環境に馴染むのはどれだけの時間がかかるだろう。少なくとも、きっと西住みほの様に早くはない。
しかもこの女、人と人との間に入り込むだけではなく、極めて影響の大きい活動を積極的に行っている。
ここまでなら『凄い人』なのだと、無理矢理納得はできた。
しかし、これらについて、
麻子は『誰も違和感を抱いていない』という現状に違和感を抱き、胸をざわつかせているのだ。
人の尊敬を瞬く間に集める。ぽっと出の人間に生徒会が重大な仕事を担わせる。周囲の人間に違和感無く溶け込む──これは果たして、通常成り立つものなのか? なんの画策も無しに、出来ることなのか? あの笑顔の下には、何の意図も無いという保証はあるのか?
分からない、気持ちが悪い、もやもやする──
「……不気味だ」
麻子が独り言のつもりで呟いた、その時。
背後から突然声をかけられた。
「大丈夫ですか」
色の無い声。
振り向くと、そこに居たのは……件の西住みほだった。
呼吸が一瞬止まった。
「ふらふらですよ、冷泉麻子さん」
「どうして、名前」
「私たち、同じクラスじゃないですか」
「……そうだったな」
「肩、貸しますよ」
「いや、いい」
麻子はできるだけしゃっきり歩こうとしたが、身体が言うことを聞かない。低血圧ばかりのせいではないことは、明らかだった。
その様子を見たみほは、強引だが、優しい手つきで麻子の腕を取って自分の肩に掛けた。
「行きましょう」
みほは明るく笑いかけた。
至近距離で見るみほの笑顔には、本当に裏表が無いように感じられて、麻子は何より、そう感じてしまった自分に対して足が竦んだ。
上手く歩くことができない麻子の、ほぼ全部の体重をかけられているにも関わらず、みほは全くふらつかない力強い足取りで通学路を進んだ。
やがてたどり着いた校門前には、何時ものように風紀委員の三人が立っていた。
『おはようございます!』
一糸乱れぬ様子で手を挙げた三人に、みほも丁寧に応じた。
「冷泉さん! これで連続245日の遅刻よ! それに西住さんにまでご迷惑をおかけして!!」
状況を見て事情を察したらしく、みどり子が憤慨して言った。
「よう……そど子」
「そど子じゃない、園みどり子!!」
「うるさい、お前の声は頭に響く……」
「なんですってぇ!?」
みどり子は手持ちのタブレットを振りまわした。
「西住さん! これからは冷泉さんを見かけても助けてあげなくて良いわよ!」
「そういう訳にもいかないでしょう」
「いや、いい」
麻子は肩に掛けていた腕を振り解いた。みどり子と対面して何時ものやり取りをしたことで、普段の冷静さを取り戻したのだ。何時もはうざったいとしか思わないみどり子だが、この時だけはちょっと感謝する気持ちになった。
「これからは西住さんの力を借りることも無い。私は、一人で歩ける」
「本当に」
「本当だ」
みほの問に、麻子は真っ直ぐ目を見て答えた。
その目からは、やはり、何も読み取る事はできなかった。みほの瞳の光は何もかも完全に隠匿していた。隠している
「じゃあこれからは遅刻もしないのね?」
「それは無い」
「はぁ!?」
みどり子のとやかく言う追求をあしらいつつ、麻子は皆を残して、今度はしっかりした足取りで校門をくぐった。心底気味の悪いこの場から直ぐに離れたかったのだ。
「冷泉さん」
直ぐに、背後からみほに呼び止められた。
麻子は唾を飲み込み、深呼吸をしてから「何だ」と振り向く。
「朝は嫌いですか?」
みほは首を軽く傾げていた。麻子は、その無邪気な仕草の裏を探ろうとしたが、徒労だった。
「……そうでもないさ」
自分に言い聞かせるように言って、麻子は今度こそ早足で場を去っていった。
みほは去ってゆくクラスメイトの背中をずっと見つめていたが、やがてその姿が校内に見えなくなると、ぽつりと呟いた。
「
その呟きは、風紀委員にすら聞こえないぐらい微かであった。
ある問題について気がついた時、既に取り返しがつかなくなっているのは、ひとえに無能の有様である。