鬼神西住   作:友爪

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姉妹は似ている。


鬼神西住19

 まだ戦車にも乗らない頃、みほと一緒によく悪さをした。仲良く二人揃って、物を壊したり、他所の子供と喧嘩をしたり、怪我をしたりさせたり、小さい命を祖末にしたりした。

 平素ならば悪さの後は、忙しい母親に代わり、家政婦の菊代さんに怒られておしまいになる事がほとんどだったが、その時ばかりは運が悪かった。

 

 その日、二人で一緒に屋敷の倉にこっそり忍び込み、先祖伝来の家宝を持ち出した。

 ぶかぶかの甲冑(文化財)を着込み、初代様の西住戦車(いくさぐるま)(文化財)に乗っかり、格好いい本物の刀や槍(文化財)を振り回して、夢中になって遊んでいると、珍しく帰宅していた母親にうっかりそれを目撃された。

 

 その時の母といったら、般若ですら裸足で逃げ出すような形相だった。

 肝を潰した私たちは咄嗟に逃げようと試みたが、甲冑の重みで上手く走れず、(あえ)なく御用となった。

 

 装備を身ぐるみ剥がれた後、母の執務室(説教部屋と呼んでいた)に正座をさせられて、小一時間、普段見せないような凄まじい剣幕で叱られた。

 話の内容はさっぱり覚えていないが、とても足が痛かったのは覚えている。早い話、まともに説教を聞いてはいなかったということだ。

 

 その不真面目な態度で母は余計に腹を立てたらしい。拳骨をくらう事はなかったが、代わりに別のお仕置きをもらった。母は目を釣り上げて「そんなに倉に入りたいのなら、入らせてあげましょう」と言うと、両手でそれぞれの首根っこを掴んで、宝物倉とはまた別の倉に引きずっていかれた。

 

 日の当たらない場所にひっそりと佇むその倉は『誉れ倉』と呼ばれていた。内部には先祖が討ち取ったと伝わる髑髏(しゃれこうべ)が棚一面にずらりと並べなれており、呪詛の囁きが聞こえることがあるという噂も相まって、普段は不気味られて誰も近付かない場所だった。

 私もみほも、入らされるのは初めてだった。

 

 妹などは、その倉に近付いただけで号泣して許しを乞うたが、泣きを入れるには少し遅い。二人揃って中に叩き込まれ、外から鍵を掛けられてしまった。

 

 実際に閉じ込められてみると、光源は小さい窓から入る弱々しい陽光のみで薄暗く、そこにぼんやりと浮かび上がる無数の頭蓋骨は、(かたき)の子孫である私たちを、恨めしげに睨んでいる様に感じた。

 この場所は、明らかに外界とは空気が違っていた。日照の問題だけでは説明できないほどの薄ら寒さと、取り憑いてくるような重く湿った気が、倉の中には充満していた。

 

「お、お、お、おねえちゃん……こ、こわいよ……こわいよ……っ」

 

 ぶるぶる震えて、小便を漏らしながらしがみついてきた妹に、その時、私は全く注意が向いていなかった。

 

 しんと静まり返っているはずの倉に、声が聞こえていた。

 

 それは、無念の亡霊の仕業であったのだろうか。

 ぼそりぼそりと、無数の髑髏の一つ一つが、小さく低い声で私たち姉妹に向けて何かを言っていた。詳しい内容は聞き取れない。しかし、それが怨念の類である事は直ぐに察せられた。

 何故だか、私にはそれが分かったのだ。

 

 怯える妹に、脅かしてくる怨霊。

 けれど、私が注意を払っていたのはそんなものではなかった。

 

「すごい……すごいぞっ!」

 

 私は、興奮の極地に居た。

 余りの恐怖で涙すら出ない妹の腕を振り払って、私は棚の一角に近寄った。ざっと見回してみた中で、一番大きいと思った髑髏──私はそれを手に取ってまじまじと眺め、普段の様に色々いじってみた。

 当然ながら、私の頭よりも大きい。けれど、中身の詰まっていない()は意外と軽いのだなと思って、鞠の様にぽんぽん投げてみたりした。

 平手で(はた)いてみると、変な音がした。面白くなって、もう一度叩いてみると、やっぱり変な音がした。私は、棚一面にずらりと並んでいる髑髏を改めて見た。

 面白い悪戯を思いついた。

 一旦、手に持っていたそれを棚に戻すと、手前側の棚の端まで寄っていって、一番目の髑髏の額を平手で叩いて音を出した。それを皮切りに、奥に向かって並べられた髑髏を順番に叩いて、ぽこんぽこん(・・・・・・)と次々に音を出した。

 

 棚一列叩き終わると、私は拍手をして、大いに笑った。こんな滑稽な事はあんまり無いと思った。

 

 笑いながらみほを見ると「何をしているのか分からない」と言いたそうに、目を見開いていた。

 私は妹に近寄って、腰が抜けているらしい彼女に手を貸して立ち上がらせた。

 

「お姉ちゃん、怖くないの?」

 

 小便漏らしをどうからかってやろうと考えていると、みほが恐る恐る尋ねてきた。

 

「全然怖くない」

「どうして。私は凄く怖いよ。こんなに沢山のガイコツ……見たことないよ」

「そうなんだ!」

 

 私は目を輝かせて、興奮気味にまくし立てた。

 

「こんなに沢山のガイコツ、首だよ、みほ! 私たちのご先祖様はこんなにも沢山の敵をやっつけてきたんだ。凄い事じゃないか。私たちはその人たちの子供の子供の子供の……いつくかは分からないけど、その人たちの子孫なんだ。強いぞ、カッコいい!」

「カッコいい?」

「そうだ、強くてカッコいい」

「私も、カッコいい?」

「私もみほも、お母様もだ。皆カッコいい」

「私たち強くてカッコいい!」

 

 みほは喜んで、格好いいポーズ(自称)をした。妹は「強い」とか「格好いい」とか言われるのが好きなのだった。

 小便漏らしの癖に、と私はおかしくなって、また笑った。

 

「ほら、みほもやろう。こうだ」

 

 手近な髑髏を叩いてみせると、みほも真似をして叩いた。やはり変な音がするので、二人してはしゃいだ。

 その途中で、少し心配そうにみほが言った。

 

「こんな事して、お化けとか出ないかな。私、それが怖いよ」

「大丈夫だ」

 

 私は胸を叩いて請け合った。

 

「お母様が言っていた。ご先祖様たちの霊が、何時も私たちを守ってくれているって。だから安心だ。それにな、こいつらは既にご先祖様にやられて、この有様だ。もしも幽霊が出てきたって、私たちが負けっこない。そうだろう?」

「そっか……だったら平気だね!」

 

 それからは、いつも通りの馬鹿騒ぎだった。

 目に映る髑髏全てを叩きまくる大演奏会。いくつか地面に落としてしまったが、割れなかったから問題無い。

 

 いつの間にか、髑髏からの恨めしげな囁きは聞こえなくなっていた(理由は何となく分かった)。薄ら寒さや、重く湿った空気も、消え失せてしまっていた。

 代わりに何処からか聞こえてきたのは、また別の人たちの声──笑い声だった。

 

『ぁは──ははは──あはは──ふふふ──』

 

 誰とも分からなかったけれど、他人の笑顔というのは訳も無く自分を楽しくするものだ。

 私は笑った。妹も、一緒に笑った。あちら(・・・)もそれにつられて笑った。倉の中には、笑顔が溢れていた。

 全く、本当に楽しいお仕置き(・・・・)だった。

 

 一体どれくらい遊んでいただろうか。重い倉の扉が開かれたのは、日が傾き始めた頃だった。

 入ってきた母の顔には「やりすぎてしまったかしら」というちょっとした罪悪感が映っていたが、私たちの姿を見て一変した。

 

 その時、私たちは髑髏を叩いた時の微妙な音の違いを聞き分けて並べ直し、ドレミファソラシドの音階を作ろうと夢中になっていた。

 試行錯誤の結果、地面やそこら中に髑髏が散乱しており、一見して地獄のような光景だったろう。

 

「あっ、お母さんだ。凄いんだよ、これね」

 

 みほが嬉しそうに頭骨を抱えて駆け寄ると、母は「きゃ」と短い悲鳴を上げてみほの脳天に拳骨を食らわせた。

 余りに突然で理不尽な暴力に、みほは暫し呆然とした後に声を上げて泣き出し、頭骨を放り出して私に抱きついた。

 

「え……あなたたち……何が……?」

 

 何事が起っているのかと当惑している母に、私は説明した。

 

「お仕置を受けて、倉に閉じ込められていました」

「いえ、でも、これは……」

「大丈夫です。片付けます」

 

 私は泣き喚く妹を宥めると、母の見ている前で散らかした(・・・・・)者共を片付け始めた。私たちは普段から、遊んだ後は自分で片付けなさいと厳しく教えられていたのだった。

 

 髑髏を全て棚に戻し終わると、自分の足で堂々と外に出た。母は始終を見守っていたが、怒っていいのか許すべきなのか、何とも微妙な顔をしていた。

 やがて、疲れた様にため息をついて言った。

 

「本当に、あなた達を頼もしく思うわ」

 

 皮肉混じりの言葉だったが、その時の私たちにとっては完全な褒め言葉だった。私は大きく胸を張り、妹も真似っこをして胸を張った。

 

 何と言っても私たちは『西住』なのだ。

 この程度の事ではへこたれない、鋼の意志を持ち合わせている。

 

 屋敷に帰る途中で、みほが私の手を握って(母は娘の手を握る事を必死の形相で拒んだので) 話しかけた。

 

「お姉ちゃん。私ね、お姉ちゃんがお姉ちゃんで良かったよ」

「なに、突然」

「さっきの事、私だけだったら怖くて我慢できなかったもん。でもね、お姉ちゃんが凄いから、私も凄くなれたの。一緒に居てくれて良かった。だから、私のお姉ちゃんがお姉ちゃんで嬉しいっ」

「良く分からないな」

 

 私は苦笑した。

 

「でも、そうだな。二人一緒なら、私たちは強くなれる。その通りだ。私はお前の姉で、お前は私の妹……私もそれが嬉しいよ、みほ」

「本当に?」

「本当さ」

「じゃあ、約束っ」

「ほう、何を約束すれば良い」

「何時までも一緒に居ること! 私は、もしもお姉ちゃんが困った時には助けてあげる。だから、私が怖がったり迷っている時には、今日みたいに引っ張って欲しいの」

 

 みほは、約束げんまんの小指を立てた。私は迷わずそれに自分の小指を絡ませて、約束した。

 

「約束する。私はみほの前に立つ。困った時にはお前を頼り、お前が迷った時には案内しよう。私たちは、何時でも一緒だ」

 

 指を離すと、みほは「わーい!」と叫びながら私や母の周りをぐるぐる走った。母はそれを叱ったが、みほは決して止まる事はなかった。

 傾いた日に照らされて、長い影が妹に付いて回っていた。

 

 ──何処からか、笑い声が聞こえる。

 

 まただ。私はきょろきょろ辺りを見回した。母でも、妹でも、私でもない。空から聞こえてくる様で、地面から聞こえてくる様でもある。

 何かがあると必ず聞こえてくるこの笑声は、誰のものかも分からない。確かな事は、ずっと昔から私たちを見守っていてくれる人たちのもの……それだけだ。

 そして、どんな時も側に居てくれるその人たちを、私は家族のように思っていた。

 

「ほら、みほ。笑われているよ。しゃんとしないと」

 

 母の言う事を聞かないみほを、私からも嗜めた。確かにみほは立ち止まったが、不思議そうに首を傾げた。

 

「何言ってるのお姉ちゃん、そんなの聞こえないよ」

 

 陽光が、大地に佇む全ての者に長い影を落としていた。

 気が付けば、私にも。

 

 ◆

 

 幼少期、西住しほがお仕置き(・・・・)をされた時は、失禁だけでは済まなかった。

 

 ◆

 

 西住みほが去った後の黒森峰女学園戦車部は、危うく空中分解しかけたが、それは逸見エリカの働きによって防がれた。

 戦車道部部長にして隊長、西住まほはこれに感激し、エリカを副隊長に叙任した。

 

 全く、ここまでは順調であった。

 まほは、みほが抜けた事をきっかけに組織改革を目論んでいた。

 妹が作り上げた鉄の結束は、過去には隊全体を静かに侵食しつつあったが、結束の要が消失したことにより崩壊した。逆にこれを利用し、副隊長(みほ)に依存しない、新たな組織構造を形成しようとしたのだ。

 

 しかし、この事件により組織構造上の欠陥──すなわち『西住みほ親衛隊』の台頭は、崩壊を以てして、更に顕著となってしまった。

 

 事実上、隊長(まほ)に服属しない独立勢力を率いているのは、他ならぬ黒森峰戦車道部復興の立役者──そして親衛隊長の逸見エリカだった。

 彼女は戦車道部を一枚岩にしたいというまほの意見とは全く反対に、新たに獲得した副隊長の権限を存分に利用して、かなり露骨に親衛隊の独立気運を高める為の方策を打った(戦車実動訓練の優先権、独自に組まれた他校間試合、など)。

 

 エリカは自らを称し、親衛隊長兼副隊長代行(・・)とした。

 

 水面下で着実に勢力を伸ばしていったみほのやり口と比較して、エリカにはかなり強引な面があり、そのため、みほが副隊長として居た頃には有り得なかった、親衛隊員と()親衛隊員の軋轢が大きくなりつつあった。

 

 まほにとって、エリカの暴走は完全に予想外だった。

 みほの元に就いていた頃の彼女は、まるで精密機械の様に正確で、命令に対し絶対的に忠実であった。独断専行など、万に一つにも有り得なかったのだ。

 今更になって、この我の塊(・・・)のような女を完璧に御していた妹の手腕に舌を巻くこととなった。

 

 ともかく、このままではいけない。

 まほは強い危機感を覚えていた。このままでは空中分解どころか、味方同士相討つ事態になりかねないからだ。

 隊員同士の軋轢は、既に口論などの形で現れ始めている。早く何とかしなければならない。

 取り急ぎ、まほはエリカを隊長室に呼び出すと、自分勝手な言動について詰問をした。

 

「エリカ、最近のお前の言動は目に余る。副隊長としての自覚はあるのか」

代行(・・)です、隊長」

 

 努めて厳しい口調の詰問にも、エリカは豪然として応えた。まほは鼻白む。

 

「……では、代行(・・)。隊長として命ずる、親衛隊を即刻解散せよ。今の黒森峰には、毒にしかならない」

「拒否します」

「命令だ」

「拒否します。親衛隊に関する命令権を、あなたは持っていません」

「エリカ!」まほは声を荒らげた。「みほはもう居ないんだぞ! 何時まであいつに縛られ続けるつもりだ」

 

 エリカは真っ直ぐ己の隊長を見つめていた。その視線の中に、畏れといった情動は僅かにも含まれてはいない。

 彼女が畏れるのは、この世に一人だけだった。

 

「『血盟こそ我が名誉』!!」

 

 副隊長代行は固い意思でもって断じた。その迫力に隊長は怯む。

 エリカの何処までも真っ直ぐで、狂気と言えるほど固い自我の込められた瞳を向けられるのが、まほには苦しかった。それは、長く迷いを取り除けない自分と比較してしまうからだ。

 

「それが親衛隊の絶対訓義であり、至上方針です。我々に号令をかけられるのは唯一人。そして、あなたはその人では断じてありません」

 

 話は終了したという風に「失礼致します」とエリカは一方的に敬礼をした。その手首に銀の腕輪(ブレスレット)が閃く。

 腕輪には『血盟こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Klan)』と刻まれており、それこそが名誉ある親衛隊員の証であった。親衛隊員が皆身につけているもので、まほはそれを見かける度に嫌な気分になった。

 

 そんな事情を気にもせずに、親衛隊長は身を翻し、速やかに退出しようとドアノブに手を掛けた。その背中に、絶句していたまほが、苦しげに問うた。

 

「一体、何がお前にそこまでさせるんだ。その固い忠誠は誰に尽くしている。お前は賢い、あいつの正体にはとっくに気が付いていただろう。それなのに、何故……」

 

 エリカの手は、ドアノブに掛かったまま止まった。

 

「私には分からない……随分前から、分からないんだ。あれ(・・)が恐ろしくないのか。全てを知っていて、なお頑なに忠を尽くし続ける理由は何だ。教えてくれ、エリカ……」

 

 今にも消え入りそうな声だった。妹が宿す底のない闇──それを知っていて肯定するエリカの精神がどうしても理解できなかったのだ。

 

「そうやって逃げてきたんですか」

 

 エリカは、背を向けたまま、己の隊長の顔を見なかった。

 

「そうやって目をそらして、あの娘から逃げ続けてきたのですか。一度だって正面から向き合おうとせずに、最後には追い出した。私にとっては、その卑怯な心の方が理解できません。あなたたち(・・・・・)は、本当に、どうして……」

 

 まほは、エリカの強い声に徐々に震えが混じってゆくことに気が付いた。

 

「家族でしょう、血の繋がったかけがえの無い人でしょう? なのに、どうして憎むだなんて事ができるのです。家族が寄り添ってあげないで、誰が支えてあげるんです。誰があの娘を認めてあげられるのですか。あの娘は……みほは、あんなにも真っ直ぐだったのに」

 

 声の震えを無理やり抑えて、続ける。

 

「私はあの娘を守れなかった。手を差し伸べる事すら叶わなかった。あの時は、そのための力が無かったからです。滑稽でしょう? 主を守れない親衛隊(・・・)だなんて。情けなくて、恥ずかしくて、死んでしまいそうですよ」

 

 最も副隊長を慕い、事件(・・)に対し最もショックを受けていたのは間違いなくエリカだった。数日間、学校にも来れず、戦車道部にも現れなかった。誰もが、まほさえも、折れてしまったのだと確信していた。

 けれど這い上がった。

 そんな彼女の言葉だったから、部を離れようとしていた隊員たちは耳を傾け、そして留まったのだ。

 

 立ち直れない程の衝撃を受けて心が砕かれても、苦しみに胸を切り裂かれると知っていても、なお立ち上がる不屈の精神──エリカは間違いなく、みほに相応しい親友であったのだ。

 

「だったら私は強くなる! 大切なものを守れるだけの力を手にし、次こそは何も取りこぼさないように。それがせめてもあの娘に報いる事であり、誰の為でもない私の信念だからです。私は逃げない──あなたのように」

 

 そう言ったのを最後に、ドアは二人の間を隔絶した。遂にエリカは、まほの事を見ようとはしなかった。

 この会話が、親衛隊の問題について、何が決定的になってしまった予感があった。それだけが、何もかも異なる二人に共通の想いであった。

 

 遠ざかるエリカの長靴(ブーツ)の音が聞こえなくなるまで、まほは放心していた。やがて静寂が訪れると、頭を抱え呻き、それすら過ぎると、手足を投げ出し薄ら笑いを浮かべた。

 

 完全に打ち負かされた。反論するだけの意志も材料も、まほには備わっていなかった。

 

 エリカはこれを契機に、更なる暴走を続けるだろう。

 隊を統率する事さえも叶わない隊長は、きっと遠からず誰からも失望され、やがては捨てられる。少なくとも、明確な強い信念(・・)を持っている者に付いてゆく方が、遥かに頼もしいからだ。

 右も左も敵だらけ。味方は誰もいない。もはや笑うしかない。

 

「嗚呼、羨ましい」

 

 そんな中、最初に浮かんだのは、妹への羨望だった。

 逸見エリカという無二の理解者を得た事への羨み──そして、自分には居ないという絶望。

 もしやエリカであれば……と淡い希望は消え去った。

 しかし、考えてみれば当たり前か。

 自分自身を嫌う人間が、好意を寄せられる訳が無いのだ。

 

 手足を投げ出したまま、机に突っ伏した。何も考えたく無い、未来を思うのが辛い。

 それでも考えなければならない。

 配下の暴走、隊の不仲、(くすぶ)る元副隊長への未練、家名の重圧──がんじ絡めで身動き一つ取れない思いだ。

 どうしよう。

 我ながら余りにも情けない事態だった。

 頭は真っ白で、もう泣きそうだ。

 まほは、涙がこぼれないように目を閉じて、思案の全てを心の動きに丸投げした。

 

 とにかく、逸見エリカ。彼女が目下の問題だ。説得は失敗した。更に勝手をやる事はほぼ確実だ。今後何をするにも立ちはだかるだろう。

 エリカが有能であるのは全く疑いがない。何かを企んだとして、それを実行し、成功させるための才覚が備わっている。

 もしや、妹の名前を笠に着て勢力を拡大し、反逆を起こす事もあるかもしれない。

 

 つまり『敵』になったという事か。

 

 逸見エリカは敵であることが確定した。以後はそれを念頭に置いて物事を思案すべきだ。逃げるという選択肢は、元から存在しない。

 やり直すチャンスはくれてやった。しかし拒絶された。だったら私がすべきことは。

 

 

「殺してしまおうか」

 

 

 ──言葉は、余りにも自然に(こぼ)れ落ちた。

 だから、自分が何を言ったのか、まほはしばらく気が付かなかった。

 やがて、ぼんやり意味に気が付くと、まほは目を見開いた。

 

「え……?」

 

 今、私は何を言った?

 

「う……あ……ぁああああっ」

 

 まほは、椅子から跳ね上がった。既に発せられてしまった言葉を取り消す想いで、両手で口を塞ぐ。

 しかし、取り消せる訳がない。

 直後襲ってきたのは、猛烈な嘔気。口を塞いだ両手は、そのまま、口内にまで上ってきた吐瀉物を防ぐための役割を果たした。

 何とかそれを飲み込むと、今度は鳥肌と冷たい汗が吹き出た。

 

 何を言った、何を言ってしまった(・・・・・・・)

 

 がたがたと震えが止まらず、歯を噛み合せる事ができない。足に力が入らず、腰が抜けた様に再び椅子に腰掛けた。

 

 耐え難い静寂。

 荒い呼吸と、心臓の音だけが大きく響いている。

 何という事だ。

 私は息をしていて、心臓が血を送り出している!

 そのことが、この世の何よりも恐ろしい。

 

『ぁは──ははは──あはは──ふふふ──』

 

 誰かが笑っている。静寂の中に、私を嘲笑う声が聞こえ出した。

 また(・・)だ。またあいつら(・・・・・)だ。

 強く耳を塞ぐ。

 嘲笑は益々大きくなる。私を指さして笑っている。

 

「黙れ、黙れ……っ」

 

 まほは力無く叫ぶ。

 嘲りは止まず、頭の中になお響く。

 一度覗かれて(・・・・)しまっては、それが返ってゆくまでに、相当の時間を要する事を、まほは経験上知っていた。

 

 まほは心に強く念じる。

 人には優しくしなければならない。他人の意思は尊重しなくてはならない。自らの目的のために犠牲にする事などあってはならない。

 だからそんな事を考えてはいけないし、思ってもいけないのだ。

 

「──本当にそう思うのか、君」

 

 すぐ耳元で囁くような女の声がした。

 びしゃり。濡れた音を立てて、何かが肩に落ちてきた。恐々と目だけをそちらに向けると、血濡れの掌が両肩に置かれており、そこからどす黒い血が滝のように伝っていた。

 

 背後に、誰かが居る(・・・・・)

 

「ひっ」と喉が鳴ったきり、まほの肺は空気を受け入れるのを拒否した。体感温度は一挙に氷点下まで下がる。

 女は、囁き続ける。

 

「君。私の愛しい君。違うだろう。本当はそうじゃないだろう。嘘は、いけないな」

「嘘、なんて、ついていない」

「いいや、嘘だ。君は本心ではそう思っていないんだ。私には分かる」

「黙れ。あなたに私の何が分かる」

「分かるさ。だって君の八分の一は私なんだから……いや、これは案外少ないかな?」

 

 その女は、くすくすと不気味に──そして耐え難いほど魅惑的に笑った。

 

「人に優しくか。自ずから正しくあろうとするとは、立派な考えだ」

「そうだ。私は正しくあらねばならない。人間として、主将として、西住の後継者として、間違っていてはならないんだ」

「けれど、私が悪だと言うならば、嘘つきだって悪だろう。正直者であれよ。自分を欺くということは、この世で最も低俗な所業だと思わないかい」

「断じて、自分に嘘などついていない」

「妹が羨ましくはないか」

「……なに?」

 

 女は、まほの声色が変わった事を聞き逃さなかった。

 微笑んだ女は、甘美に囁き続ける。

 

「あの娘が羨ましくはないのか。自由で正直で、生きる事を存分に謳歌している妹を、羨望した事は?」

「そんな、事は」

「無いと言い切れるのか、本当に?」

 

 まほは言葉を継ぐ事ができなくなった。自分を信じるための現実が、絶対的に欠如していた。

 正義とは、悪とは? 今になって、分からなくなってしまった。

 

 肩に置かれていた女の腕が、そっとまほの胸に回った。そうして抱かれる温かさが、心理的なものなのか、物理的なものなのか、判断が不可能になっていた。

 その腕からは、濃厚な血の香りがした。けれど何故だか、ずっと昔から覚えがあって、心の底から安らげる香りだった。

 

「嗚呼……なんて可哀想な君。ずっと我慢してきたんだね。色々なものに縛られて、自分を抑圧してきたんだね。誰にも理解されず、救ってもらえないのは苦しかったでしょう。でも、もう我慢しなくて良いんだよ。こっち(・・・)へおいで……こちらはとても楽しいよ。私たち(・・・)なら、あなたを分かってあげられるから──」

「う……うぅっ……」

 

 まほは、ぽろぽろ涙を流した。堪えていた全ての感情が、決壊したのだった。

 例えどれほど恐ろしい相手でも、こんなに優しい言葉を掛けられたのは生まれて初めてだった。母親にだって、こんなに優しくされた事はない。

 そう、お母さんにだって。

 

『どうして分かってくれないの……どうして助けてくれないの……お母さん……!』

 

 何度思った事だろう。

 私は、何時だってお母さんに助けて欲しかったのに、あの人は分かろうともしてくれなかった。

 それを、この人は分かってくれる。

 私は、独りではなかったのだ。

 

「愛しい君。ほら、こっちを見て頂戴──」

 

 女の手が、まほの顎を優しく掴んだ。

 まほは抵抗もせず、背後を振り向こうとした。

 

 

 扉が勢い良く開いた。

 

 

 三人程の隊員が、銀のブレスレットを閃かせて乱暴に踏み込んでくる。見覚えのある、親衛隊員だった。

 一人が椅子に座っているまほを発見すると、不愉快そうに言った。

 

「いらっしゃるなら、返事をして下さいよ」

 

 まほは、呆然と口を開けた。

 背後を振り返って見ると、そこには無機質な壁があるだけで誰も居なかった。肩にも、血痕など残っていない。

 最初から、そこには誰も居るはずがなかった。

 

 途端に、血の気が引いた。

 

 私は何を見ようとしていたのか。誰に話しかけられていたのか。何処に連れて行かれようとしていたのか。

 私は、何に成ろう(・・・)としていた?

 

 今度こそ本当に腰が抜けた。腰どころか、全身に力が入らなくなった。

 顔面蒼白になった隊長の様子を見て、親衛隊員たちは誤解をした。「親衛隊の迅速な行動に、西住隊長は度肝を抜かした」と思ったのだ。

 先程と同じ隊員が、したり顔で咳払いをすると、改めて言った。

 

「お察しの通りです。代行の命により、あなたを一時拘束します。ご了承下さい……お連れしろ」

 

 それだけ言うと、他の二人が速やかにまほの両腕を拘束した。それは反抗を防ぐ目的での行いだったが、まほは自力での歩行すら困難だったため、両側から肩を貸す形になった。

 そういう形で隊長室から運び出され、長い廊下を引きずられるまほは「ありがとう、お前たち、本当にありがとう」と、うわ言の様に繰り返していた。

 もちろん、三人の親衛隊員にとっては意味不明だった。

 後日、黒森峰女学園戦車道部にて逸見エリカは『親衛隊長兼副隊長代行兼部隊長代行』に就任した。




それは、血の中に潜んでいる。

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