聖グロリアーナ女学院との試合も差し迫ったその日、集合場所の倉庫前に顔を出すと、戦車が戦車でなくなっていた。
カラフル、キテレツ、トンチンカン──それを何と表現して良いのか、誰にも分からない。
「あんなに可愛くて格好良かった戦車たちが何か別のものにっ!?」
わなわなと身体を震わし頭を抱える優花里の隣で、みほは唖然として大口を開けたままだ。大袈裟にしないだけで、より大きなショックを受けたのはみほの方かもしれない。
「すみません西住隊長、私はやめようって言ったんですけれど……」
副隊長に就任したばかりの梓がおずおず言った。彼女率いるM3中戦車リーはショッキングピンクにカラーリングされて見るも無残な有様である。
他にも38(t)は趣味も目にも悪いゴールド、八九式は私情の塊な文字の羅列、III突は時代背景の混沌としたカラーに旗指物──純粋な戦車好きにとっては吐き気を催すような冒涜的な光景であった。
「おおおぅ……あんまりです、あんまりでありますっ! 西住殿もそう思いますよね!?」
「……あは、はははっ。あははははっ!」
話を振られた途端、突然みほは笑い出した。開いた大口をもっと大きくして、腹の底から笑った。ひいひいと腹を抱え、膝を叩き、涙を流している。
今度は周りの人間が唖然とした。
何しろみほが公衆の面前で笑い転げるだなんて始めてだったし、想像もできなかったからだ。
「ひどい、これはひどいっ! 最悪だ、あんまりだよ。こんな馬鹿やらかすとは流石に思わなかった。何だこれは? 戦車の良さもへったくれも無いじゃない。あなたたち頭がおかしい、
「に、にしずみどの……」
もしや怒りの余り感情が裏返ってしまったのでは──と思った優花里が肩に手をやろうとすると、みほはそれを振り払った。
振り払ったその手で、ピンクのM3リーをばんばん叩く。
「面白い、面白過ぎる! この馬鹿共、程度を考えろ。卑怯だ、これじゃあ面白過ぎて怒るに怒れないじゃない!」
そう言ってげらげら笑う隊長に連られて、この
唯一、優花里だけは真剣な形相でみほに問う。
「塗り直しますよね? まさかこのまま試合に臨むのは」
「いいや、このまま出ましょう」
「ええっ!?」
「きっとたまげるよ聖グロは。あの気取った連中、目玉を飛び出して驚くに違いない。ティーカップが落ちて割れるぞ! ああ楽しみ」
相変わらず大笑いしたまま、みほは優花里の背中を強く叩く。普段みほの言う事には絶対賛成の優花里が「そんなぁ……」と言って、この時ばかりは肩を落とした。
それは余りに滑稽で、色々な先入観がぶち壊される様な光景だった。
控え目に笑っていた者たちが、大きく笑い出す。またそれに連られて近くの人間が笑い出す。気が付けば、全員を巻き込む爆笑の渦となった。
彼女たちの隊長はなかなか狂ったユーモアセンスを持っていた。
◆
大洗女子学園から練習試合の打電を受けたダージリンは、その場で返答をした。
「結構ですわ。受けた勝負からは逃げない主義ですの」
堂々と優雅に応え電話を切ると、後輩のオレンジペコが怪訝な顔をしながらティーポットに湯を入れる。それでも何も述べない奥ゆかしい後輩に、ダージリンは微笑を浮かべた。
意見を促されていると察したペコは、手を止めて先輩に向き合った。
「ダージリン様、その、よろしかったのですか」
「あら、何の事かしら?」
話を促しておいて
「提案された日にちには、大手の学校からも練習試合の申し出が幾つかあったではありませんか。それを蹴ってしまうのは」
「大洗女子学園では格が下だと?」
「そうは言っていません。ただダージリン様が迷いなくお決めになった理由が分からないんです」
「ふふっ……」
ダージリンは勿体ぶって笑い、一つ紅茶に口を付けた。困った顔の後輩が可愛いので、ついこういう意地悪をしたくなってしまうのだった。
散々焦らした後で、ダージリンは疑問に答えた。
「ペコ、どうやら
「あの噂って……まさかっ」
「そう。追放された黒森峰の副隊長は、大洗女子学園に居る。今、確認を取ったわ」
「そんな。本当に会えるのですか、西住みほ
ペコはうっとりした表情で、顔に手を当てた。頬を紅く染め、上の空で虚空を見つめる様子は、乙女そのものだ。
ダージリンにも、気持ちは痛いほど分かる。かつて、自分もそうだったからだ。
彼女たちの世代は皆、西住みほに恋をしていると断言しても過言ではなかった。
数年前、中学生時代。彼女たちが目撃した西住みほは、それ程までに鮮烈だった。
日本で最も由緒ある流派、西住流。その娘というブランドは、伝統や名誉といった肩書きを重んじる聖グロにとっては非常に大きな意味を持つ。
その家に産まれただけで
普通の少女ならば押し潰されかねない重責。
しかし、西住みほは
こうなると、偏見も重責も彼女の名声を高めるための材料に過ぎなくなった。
決定的になったのは、ジュニア戦車道国際交流試合。中学生にとっては世界最高の舞台での出来事だった。
優勝はおろか、勝ち進む事すら難しいと言われていた国際戦──西住流は全てを覆した。
日本代表チームは西住姉妹の指揮の元、無敵の絶対王者と謳われたドイツ代表チームを撃破し、史上初優勝の偉業を打ち立てのだ。
煌びやかな優勝旗と、国旗を合わせて掲げる姉妹の姿は、目撃する全ての者に誇りを抱かせた。
『これが日本の戦車道!!』
多感な少女たちは、憧れ、そして恋焦がれた。
彼女と肩を並べて歩む事が出来たら、同じ夢を見る事が出来たらどんなに良いだろう。
ダージリン自身、テレビ中継に齧り付いて、この様に思ったのを覚えている。
ダージリンが高等部に上がった時、迷わず戦車の道へ進んだのは、間違いなく彼女の影響があった。仲間にはなれなくとも、せめて好敵手として相対してみたい──そんな想いがあったからだった。
その想いが今、成就したのだ。
けれどしかし、ダージリンは浮かれる気分にはなれなかった。
西住みほに対する複雑な感情が、安易に喜ぶのを妨げていた。
「……ダージリン様、どうさかれましたか」
「どうもしていないわよ、ペコ」
「でも、全然嬉しそうではなさそうです。
「そうねぇ、嬉しくないと言えば嘘になるわ。けれど、嬉しいばかりと言えばそれも嘘になるわね。正直、複雑な気持ちよ」
「それは……私が聞いても宜しいのでしょうか」
「そう望むのなら。あなたになら、私も話す事が出来る。けれどその前に」
ダージリンは空になったティーカップを差し出して悪戯っぽく笑った。
「お代わりを頂けるかしら?」
◆
二人がそれぞれ紅茶を一服し、一つずつスコーンを割った時、ダージリンは語り出した。
「ペコ、前任の隊長は知っている?」
「アールグレイ様、ですね。噂だけは聞いています。けれどその名前は……」
「
ダージリンは懐かしむような、悲しむような遠い目をした。
「その人の話を、するわ」
ペコはごくりと喉を鳴らす。常に余裕を見せている先輩が、何時になく深刻な面持ちをした事に緊張をしたからだった。
「私が高等部に上がってからも戦車道を続けようと思ったのは、みほさんの影響があったから。これは、前に話した事があったわね」
「はい。当時最も憧れていたとも、聞きました」
「そうね、その時点ではその通りよ。けれどその後、尊敬の対象は直ぐに変わったわ。アールグレイ様……マイペースで、お転婆で、感情的な、全然聖グロらしからないあの人に、私は憧れた。今では、そんなこと口に出す事も出来なくなってしまったけれどね」
「一体どうして……そんな事になってしまったのですか? どうしてこんな酷い事に」
「慌てないの」
ダージリンは一口紅茶に口を付けた。
「最初こそ、私はアールグレイ様を敬遠していたわ。嫌っていたと言ってもいい。だって、聖グロの隊長らしい優雅さなんて、欠片もなかったんだもの。良家のお嬢様だなんて全然信じられなかった……それに、よくからかわれたりもしたしね」
「……ダージリン様が私にするよりもですか?」
「そんなものじゃなかったわよ。苛められてるんじゃないかと思ったくらいちょっかいを出されたの。あの人なりの愛情表現だったのでしょうけれど」
ダージリン様の意地悪も愛情表現ですか──ペコはよっぽど聞こうと思ったが止めておいた。
「けれどそんな人でも、一度戦車に乗れば優雅そのものだった。如何なる時も慌てず冷静に対処し、美しい隊列を組んで行進しながら、一滴たりとも紅茶を零さない。敵の挙動を見ただけで作戦を看破し、味方の細かい感情をも瞬時に把握する神がかり的な直感──これは今の私でも真似する事ができないわ。あの人は、正真正銘の天才だった」
「だから、付いていこうと思ったのですか?」
「それもあった。でも本当の理由は、あの人が心の底から学校を愛していたから。誰よりも聖グロを愛し、発展させ、守護しようとしていたからよ。アールグレイ様の愛校心には敵わない──そう思ったから、私はあの人に付いていこうと決めた。それで、私は副隊長に任命してもらった」
勿論の事だったがダージリンにも後輩の時代があった事を、ペコは想像できなかった。ペコの中のダージリンは、絶対的な隊長であり、不動の先輩だ。
アールグレイという人の性格が、少なからず今のダージリンに影響しているのかと想像すると、少なからず尊敬の念が湧いてくる。
「アールグレイ様は戦車道界における聖グロの立場向上のために、色々な方法を取っていたわ。勝利するための戦術の構築は勿論、戦車道連盟とのコネクション作り……特に他校との外交の腕は見事だった。張り巡らされた情報網を伝って、戦車道のある学園艦全ての情報が入ってくる体制を作り上げた。今の聖グロが情報に通じているのは、アールグレイ様のお陰なのよ」
「知りませんでした、そんな事……てっきりダージリン様が作り上げた体制だとばかり」
「私だなんて、アールグレイ様の遺産を辛うじて維持させているに過ぎないわ」
ダージリンは苦笑して後輩の誤解を解いた。
「そうして情報網を作り上げたアールグレイ様は最終段階に移った。深淵な戦略の集大成……それが黒森峰女学園との相互協定だった」
「西住流……!」
ペコはハッとした様に目を見開いた。
「西住流。そう、昨年の全国大会準決勝、聖グロはアールグレイ様の指揮をもってしても黒森峰に敵わなかった。西住姉妹! 私がかつて焦がれた西住流に、私の最も尊敬する隊長は敗れたのよ」
「まさか、それが原因で!?」
「いいえ。確かに勝負に敗れたのは悔しい事だったけれど、相手は名高き西住流。敗北もやむなしという意見の方が大きかった。問題はその後……最後の全国大会に敗れたアールグレイ様は結果を受け入れていたけれど、納得はしていなかったのよ」
「そのための、相互協定ですか」
「正解よペコ。アールグレイ様は相互協定に乗じて黒森峰の強さを──西住流の強さの秘訣を見極めようとした。表向きは相互協力、友好関係の強化と言ってね。それを発表した時は、それはもう評判が良かったわ。黒森峰と聖グロ、戦車道の名門校が手を取り合ったのですから。しかも黒森峰の代表は、西住みほ。黒森峰戦車道部の外交は、彼女が取り仕切っていた。協定に合意するために彼女がこちらの学園艦に来訪した時は、もう、お祭り騒ぎだった」
「みほ様が聖グロに訪れたのですかっ!?」
「ふふふ……ちょうど今のペコみたいに皆興奮していたわね」
私もね──ダージリンは付け加えると、紅茶に口を付ける。ペコはまた自分が興奮してしまった事に気が付いて深呼吸をしたが、胸の高鳴りは治まりそうになかった。
「アールグレイ様とみほさんが同じ卓で向かい合っている光景は、今でも瞼に焼き付いて忘れられないわ」
「尊敬する人の上位二人が揃った訳ですからね……!」
「ペコの言う通り、まるで夢みたいだった。みほさんと直接話は出来なかったけれど、私に笑いかけてくれたのよ」
「う、羨ましい」
「私も、会議を終えてみほさんと握手をするアールグレイ様が羨ましくて堪らなかった」
「そんな、握手だなんてっ。きゃーっ!」
「落ち着きなさい、オレンジペコ」
遂に言葉に出して制止されたペコが落ち着くまで、実に紅茶二杯を飲みきる時間を要した。
頃合を見計らってダージリンは再び語り出す。
「みほさんとの握手、これが契機だった」
「喜び過ぎてしまったとか」
「その逆よ。アールグレイ様はみほさんの手に触れた途端、みるみる青ざめていったの。滝のように汗を流して、肩は震えていた。近くで見ていた私が心配になって駆け寄ったら『来るな!』と大声で止められた。あんなに焦った隊長は初めてだった。そして、アールグレイ様はみほさんの手を振り払うと、この協定は
「え、そんな、どうして……」
「分からない、それが分からないのよペコ。みほさんが理由を聞いてもアールグレイ様は頑なに拒み続けた。遂に逃げる様に部屋から出ると、持ちうる全ての力をもって協定を無かった事にしようと試みたわ。副隊長の私が訊ねても、はっきりとは答えてくれなかった。必死の形相で、今にも泣きそうになりながら……」
ダージリンは、先程見せた遠い目をして続けた。
「けど、あんなに騒がれて、賛同されていた相互協定を無かった事にするなんて不可能だった。既に合意のサインは済ませていたのだから、道理にも通らなかった。それでもアールグレイ様は主張し続けた『黒森峰とは手を切るべきだ』ってね。アールグレイ様への賞賛の声は、そのまま非難の声に変わったわ」
「それじゃあ、まるで」
「当時、皆が言ったわ『隊長は狂ってしまった』と。自分で持ち出した協定を自分で破棄しようとしたのだから、当然ね。正式な引退まではまだ時間があったけのだけれど、アールグレイ様は強引に隊長から引きずり下ろされた。そして、私が隊長になったのよ」
ダージリンは大きく嘆息して、覚悟を決めた。これから、一番辛い話をしなければならない。
「隊長を下ろされたアールグレイ様はOG会への入会も許されず、完全に立場を失った。そうね、簡単に言うと
「……その後、黒森峰との相互協定はどうなったのですか。今、その様な話は何も聞きませんが」
「私が隊長に就任した直後、みほさんも黒森峰を追放されたのよ。決勝戦の
「そんな……」
ペコは項垂れた。まさか、そんな不幸な出来事が影で起こっていたとは、想像だにしなかった。
何時も余裕を湛えているダージリンに、そんな過去があったとは。
「一体アールグレイ様はどうして、急に意見を変えたのでしょう。それだけが分かりません」
「私もよ、ペコ。それだけが分からない。アールグレイ様は天才肌で、直感に基づいて発言することはあったけれど、決して道理に反した事は言わない人だった。何より、誰よりも学校を愛していた。そんな人が突然、愛する学校の評判を落とす言動をするものかしら? きっと何かしらの理由があったはずなのよ」
「でも、誰にもそれを打ち明けなかった」
「そう、誰にも……私にも。あの人は目に見えない
今まで淡々と無機質だったダージリンの声に、震えが混じった。目には僅かな潤みが見て取れる。
ダージリンが他人に弱みを見せる事など、滅多にない。それ程までに、アールグレイの事を慕っていた証拠だった。
「打ち明けて欲しかった。あの時、私にお心を話していてくれたのなら、こんな風にはならなかったかもしれない。それなのに、どうしてあの人は。私が信用出来なかったから、なのかしら。私が力不足だったから……」
「ダージリン様」
ペコは静かに席を立つと、背後からダージリンの肩を優しく抱いた。
当時副隊長であったダージリンの立場を自分に置き換えてみれば、心の痛みは十分過ぎるほど伝わった。
「私には、アールグレイ様のお気持ちは分かりません。けれど、少なくとも私はダージリン様を心から頼っています。ですからダージリン様も私を頼って下さい。未熟者ですが、心の支えくらいにはなってみせます」
「……ありがとう、オレンジペコ」
ダージリンは涙を拭う。
最早、聖グロの隊長は自分なのだ。後輩に慰められているようでは、本当にまだまだだった。
今度はしゃんと背筋を伸ばして、ダージリンは優雅に言う。
「見極めるわ。この練習試合は正に絶好の機会。西住みほという人間がどういう人物なのか、この目で確かめる」
「未熟ながら、お供致します」
意思を固くしたダージリンは、まるで騎士の様に畏まるペコを頼もしく思った。
ダージリンはアールグレイを無念に思うと同時、何処かで恐れていたのだ。もしかして自分も同じ末路を辿るのではないか──と。しかし、その恐れは今、霧散した。
そうだ、私は一人ではない。本心を打ち明ける事の出来る仲間が、ここに居るではないか。
安心すると、急に悪戯心が出てきた。
畏まるペコに向かい、訊ねてみる。
「ところでペコ。あなたの一番尊敬する人はみほさんかしら、それとも私?」
「愚問です」ペコは即答した。「ダージリン様に決まっています」
「あら……」
後輩を困らせてやろうと思っていたダージリンは、予想外の答えに戸惑った。逆にペコは「してやったり」という表情を浮かべている。
暫しの沈黙の後、二人は大いに笑った。
「ペコ、あなたのそういう所が好きよ」
彼女は気が付いた。
そして、自分の一番大切なものを守ろうとした。