まほは戦車に乗るのが嫌になった事が何度もある。
それらは全て幼少の頃の事だった。友達は気ままに遊ぶことが出来たのに、自分といえば暇さえあれば厳しい母親に戦車に押し込まれていた。
どうして自分ばかりこんな目に合うのか、世の中不平等だ。
表には出さなかったが何時もそう思っていた。
そのうち成長した妹と戦車に乗るようになった。妹と一緒に抗議すれば、或いは、と最初は淡い期待を抱いていた。
けれども妹は違った。
「楽しいねお姉ちゃん。戦車に乗るのは楽しいね」
妹はにっこりしてそう言った。
そう言えるのも最初だけだと思った。けれどいつまで経っても、そして今でも、みほは「戦車に乗るのは楽しい」と言い続けた。
まほは自分を恥じた。この逞しい戦車と妹に恥じないような立派な戦車乗りにならねばならないと心に誓った。
けれどみほが何故戦車に乗るのを楽しいと言うのか、その理由は知らなかった。
◆
みほが黒森峰女学院に進学した時、祝いを述べに様々な人種が西住屋敷を訪れた。由緒ある戦車道の旧家とはそういうものだった。
訪れるのは地域人だったり、教育者だったり、戦車道連盟だったりと様々だったが、ともかく最後に訪れたのが杖をついた一人の老女だった。
松尾スミといって、戦後日本の戦車道を形作った立役者であり、齢九十を越してなお現役で戦車道連盟重役を務める強者だった。
この人は西住流と縁が深い人で、先々代の西住流師範(みほの曾祖母)の部下で同じ戦車の砲手を務めており、その最期を看取った人でもあった。
スミが訪れた時、これまでの来客とは比較にならない程の緊張感が空間を支配した。
なにしろこの老撫子は戦車による実戦を経験した元兵士であったし、目は加齢を思わせない程に鋭く輝いていた。
それをもてなす西住一家三人が来客部屋でスミと対面した時、この老女が途方もなく大きく感じられた。
少なくとも、しほとまほには。みほは何時もと変わらずにモジモジとしていた。
「この度は妹様の御進学、誠に、おめでとう存じ上げます」
「いいえこちらこそ、未熟な娘の為に御足労頂き感謝の念に堪えませんわ」
「妹の為に、あなた様に出向いて貰えるとは感激であります」
スミが深々と頭を下げたことに恐縮するように、母と姉が礼に倣う。
みほは「ありがとうございます……」と小声で言って、ペコリと頭を下げた。その態度で、母に一瞬睨まれたことに気が付いたかは分からない。
「うん、お姉さんの方は益々お母様に似ていらっしゃった。この前まではほんの童女であったのに」
「はい」
「今年も黒森峰は優勝できますか」
「はい! 絶対に勝ちます、勝って見せます」
「勇猛だ。意気込みというのは最も大事なものです」
爽やかな笑いを受けてまほは照れくさそうに返事をした。
「今日のしほさんのご活躍、その都度感心しております。日本の戦車道が今後発展していくためにはあなたの働きが不可欠でしょう」
「はっ、未だ半端者にてお恥ずかしい限りでございます」
まさに頭が下がりっぱなしといった様子で応じるしほに、母がここまで畏まるのは、この人の前だけなのかもしれないと娘たちは思った。
「みほさんと会うのはこれが初めてですね」
最後にみほに優しく声を掛けた。
他の全ての人間と同じように、みほが内気な性格であると判断したからだった。
「御家族はやたらに持ち上げますが、私はなんてことはない人間ですから、そう畏まらなくてよいのです。西住の家が気になってしょうがない、ただの老いぼれですよ」
ハハハと豪快に笑うスミに続き、多少引きつり気味に母と姉も笑った。
みほは笑わなかった。
別に面白いとは思わないからだった。
「中学校では御活躍されたそうですね、立派だ」
「ありがとうございます」
「この先も戦車道を続けられるのでしょうね」
「もちろん」
「ほう、直ぐ答えられた。お姉さんもそうだった。ではその理由は如何に?」
まほには覚えがあった。一年前、この人はまほに同じ質問をした。
結局その時は「西住流を継ぐ者だから」と答えたが「それは御家の事情でしょう、あなた自身はどう思っているのですか」と聞き返され、答えられず、泣きそうになった所で母に助け舟を出してもらったのだった。
みほがどう答えるのか、そもそも答えられるのか、心臓が高鳴る。
「楽しいからです」
みほは直ぐに答えた。
「楽しい、戦車道が?」
「そうです……お姉ちゃんもそう答えたんじゃありませんか?」
「戦車道が楽しいですか」
「ええ全く、これ以上に楽しいことを私は知りません」
スミの目がぎらりと、急に険しくなった。この温厚な彼女にとって非常に珍しいことである。
しほは汗を一筋流した。
「みほさん、あなたは戦車道を楽しいと仰るけれども、それは勝つ事が楽しいのですか」
「いいえ」
「ほう、では勝とうとは思わない」
「さあ……思わないこともありません」
意気込みが最も大事……という前のスミの発言を受けての返事だった。
それに加え「さあ」とは余りに失礼に思えたので、しほはみほの口をつぐませようとしたが、スミが片手を上げて制したので引き下がるを得なくなった。
「ではあなたは意気込みも無しに戦車に乗っているのですか」
「そういうことになるでしょうか」
「みほさん……では何を以て戦うのですか。相手を倒そうという戦意無しに、どうして砲が撃てるのですか」
怒りと言っていいほど険のある口調でスミは尋ねた。
みほは考え込んだ。返事によっては、西住家はスミの信頼を失うかもしれない。
しほはこの時生きた心地がしなかった。
やがてみほは、やはり何時もと変わらない調子で返答した。
「勝ちとか負けとか、意気込みが有るとか無いとか、それほど重要ですか」
「……と、いうと」
「戦車道とは闘争です。相手は此方をやるつもりで来るでしょうし、否応なしに此方も反撃することになります。その結果、やったりやられたりする訳です」
「その通り」
「それが繰り返されます。やったりやられたり、やったりやられたり、やったりやられたり……どちらかが
みほは笑った。この異様な空気の中で、独り笑った。
楽しくて仕方が無いのだった。
「楽しきかな。これが闘争です。これが戦車道です。だから私は戦車に乗ります。終わるために、終わらせるために、それを永遠に続けるために」
言い終わるやいなや、音を立ててスミは席を立った。その身体は打ち震えている。
そのままみほに歩み寄って、鋭い視線で見下ろした。手には杖を持っている。
殴られる、周りの二人は確信した。
まほは動けない、身体が完全に硬直してしまっている。しほは激昴したスミが杖を振り上げたら、娘を身を呈して庇うつもりで身構えた。
ところが予想は実現しなかった。
スミは膝を折り、杖を置いて、みほの手を取った。
「みほさん、あなたは……」
声が上ずり、震えていた。
「あなたはまさに、西住戦車隊長の生き写しです」
感服し尽くした。
そういう風に涙を溜めて、老女は跪いていた。
かつて命を賭して共に戦い、無念の最期を看取った上官……その姿をこの少女の中に見出したのだった。
「曾お婆様……」
みほは呟く。曾祖母は、みほがこの世で最も尊敬している人だった。
生き写しと称され、歓喜の念がじわりと滲み出した。
「聞かせてください。私の、先祖の話を」
「はい、喜んで」
松尾スミは語った。
彼女の上官が、かの軍神……西住戦車隊長が如何なる人間であったのかを。