「ダージリン。一番恐ろしい敵が分かるかい」
「怒っている相手ですか」
「平静を欠いた相手は逆に手玉に取れるさ」
「性根の悪い人とか」
「こちらも根性を悪くして考えれば良い」
「まさか、己自身などと言うのですか」
「そんな殊勝な話を私がすると思う?」
「……分かりません、アールグレイ様。意地悪です、教えて下さい」
「ダージリン、実に簡単な事なんだ。けれど皆、成長する過程で忘れてしまう。一番恐ろしい相手、それはね──」
◆
「指揮者としての姿勢の問題かな」
聖グロリアーナの戦車隊を遠く置き去りにして、大洗市街地へ向かう道すがら、西住みほは請われるままに、自身の哲学を述べた。
「敵を見て、味方を見て、これを知らなければならない。敗北の価値とは何か、勝利の益とは何か、考え続けなければならない。でも、それに囚われてしまっては全く本末転倒。私は勝利に固執した幾人の指揮者に会ってきた。彼女らは、目先の勝利を得たいがために目を血走らせていたよ。けれど私の感想は何時も同じ──
面白くも何とも無いと、無敗の指揮者は淡々と続ける。
「指揮者というのは、頭の片隅で理性を分離しておかなければならない。でなければ、真の目標を見失ってしまうからね。そうなってしまうと結局最後に残るのは、勝ちでも負けでもない。
電波に乗せて言葉を飛ばした先で、各車の車長たちは無言で何度も頷いた。
「結果、
背後を振り返っても、既に形すら見えない敵勢の惨憺たる有様を想像して皆はにやりとした。
「けれど西住隊長」
沙織が
「私は、私たちは、西住隊長に付いていくのが楽しくあります。隊長は、よく笑いますから」
副隊長の心を聞いたみほは、顎を撫でながら沈黙した。余計な事を言ってしまったか、と梓が後悔し始めた時、みほは神妙に言った。
「それを言われると、痛い」
通信上で、誰かが吹き出した。連られて、皆も笑った。
我らの隊長は実に素直だ。良きも悪きも、事実をありのまま受け止められるという美徳を持っている。そんな人に付いてゆける事は、幸運だ。
苦笑するばかりのみほは、梓の素直な言葉が存外鋭い指摘であると感じていた。
確かに、今述べたのは黒森峰時代の哲学だ。昔はそうそう口を開けて笑う機会など無かった。統率者として、軽くなってしまうと考えていたからだ。
だがきっと、大洗に向いているのは、違う手法なのだ。
全く、その関係性には馴染みが無かった。
自身を上に置くのではなく、並列に溶け込ませる手段を、良く習得していなかった。そして、その効果についても未だ計り知れていない。
「そうだ西住、作戦名を決めろ」
みほが思索していると、桃からの通信が入った。瞬間的に、みほは意識を切り替える。
「作戦名?」
「そうだ、何かあった方が格好がつくだろう。引き締まる」
「確かに、名前は大切ですよね」
珍しく桃の提案が的を射ていた。
みほは暫し真剣に考えて、自信まんまんで伝えた。
「こそこそ作戦ですっ! 地の利がある町にこそこそ潜みながら、敵の隙を狙う作戦なので」
「こそこそ……作戦……?」
皆が皆、顔を合わせた。桃はそれきり絶句している。
次の瞬間には、通信上に爆笑が飛び交った。
耳がきーんとなって、思わず顔をしかめたみほは咽喉マイクのイヤホンを外した。
何時もこうだ。昔から頭を捻って一生懸命に考えた作戦名を伝えると(あの西住みほ親衛隊でさえ)皆して笑うので、こればかりは姉に任せきりだった。
簡潔で分かりやすい良い名前だと思うのだけれど──
いくら考えてもさっぱり理由が分からないので、みほは首を傾げる他ないのだった。
◆
「やめて下さいダージリン様、おやめ下さいっ!」
ダージリンが何度目かも分からぬ拳を戦車に叩きつけようとした時、悲鳴にも似た声を上げてオレンジペコが腰にすがり付いた。
「お願いです、もう傷付けるのは、やめて下さい」
ペコの今にも泣き出しそうな顔を見て、このぐらいで戦車が傷付くわけないだろうと思ったが、腹心の視線の先──己の手を見ると、血塗れになっている事に気が付いた。
滴る紅に気が付いた途端、遅れた痛みがやって来る。振り上げた拳は下ろされず、ダージリンは苦痛の表情を浮かべて拳を胸に抱え込んだ。
言葉にならない唸りをたてる。
何たる無様!
怒りに我を忘れ、ひたすら敵の尻尾を追いかけた結果がこれだ。烏合の衆らしい、間抜けな作戦だと思い込んでいた。我々は、逃げ惑う狐を追う狩人のつもりでいたのだ。その実、誘い込まれていたとも知らずに。
「私たちは、何様のつもりで……っ」
ダージリンは一人悪態をついた。何が余裕だ、淑女だ。この様を見て、誰がそれを語れるものか。
傷がずきずき痛む。血が流れる程に頭は明晰になってゆく様だ。
そして、ようやく思い出したのだ。獲物に過ぎぬと断じていた敵が、誰だったか。憧れ、敬い、畏れていたその人が誰だったか。
彼方なる敵は常勝無敗『軍神』の再来だ!
矜持は畏れを霞ませ、怒りは敵を忘却させる。
つまりは全てか。今日の全ての段取りは、仕組まれた茶番であり、間抜けにも踊らされたのだ。
権謀術数は聖グロリアーナの十八番である。我々は読み合いに負け、そして戦車戦でも負けようとしているのか。
大洗は戦車のみを破壊したのみにあらず、積み上げられた自信をも粉砕していったのだ。
何が完全なる勝利であり、敗北であるのか──西住みほは理解し、それを欠片も敵に覚らせる事なく、実行した。
舌を巻く絶技。
敵に回して、これほど厄介な相手がいるだろうか。
『軍神』の再来──言うなればただの言葉。しかし、言われるからには理由がある。今初めて、その理由の重みが、肩にのしかかった。
ダージリンは何時もの減らず口すら叩けず、顔を伏して歯を食いしばる他なかった。
ふと、指に重みを感じた。真っ赤になった目をやると、ティーカップが指先に引っかかっているのに気が付いた。
とうに
役割無くして、それでも指先にぶら下がり続けるカップ──ダージリンは神経が切れそうになった。
「総員に伝達」
激情に震える声で、随分長い間ぶりの指令を下した。
「カップを手放しなさい。ティータイムは終わり──
試合中でも常に紅茶を嗜む余裕を持った淑女たれ──不変の伝統は聖グロに入学した時から言い聞かされてきたし、言い聞かせてきた。
それを棄てろと、ダージリンは言った。
聖グロ隊長として、これは衝撃発言だった。他校の生徒には理解しがたいであろうが、紅茶を退けるというのは彼女らにとって大問題なのだ。
これは最早、何振り構わずぶつかる他はないという、ダージリン断腸の思いの現れだった。
後々OG会に文句を言われること間違いない。
しかし、しかしだ、ここで勝負を投げ出し、最後の矜持までも失うよりはずっとマシだ!
「ダージリン様、お言葉ですが、それは無理かと」
隊長車専属の通信手が言った。
「無理、無理ですって? なるほど、あなたたちは伝統にしがみついて矜持を棄てるつもり。嗚呼、だとすれば情けない。私は沈まぬ太陽の沈む時を見ているのね!」
天を仰いで嘆く隊長に、通信手は恐縮しながら申し開いた。
「違うんです、ダージリン様。手放したくとも、できないのです」
「……どういうことかしら」
「先の落石騒ぎで、皆カップを落として割ったらしいのです。もう誰しもが
「えっ、皆、割ってしまったの」
「はい一人残らず、全員です。今カップを持っているのはダージリン様だけですよ」
ダージリンは、唖然として手元を見た。聖グロ最後のティーカップ。底に僅か数ミリばかりの紅茶がゆらゆら、惨めにも取り残されていた。
神経がぷつりと切れる音がした。
「……あはっ、あはははははははっ!」
堪えようもない可笑しさが込み上げた。ダージリンは「うふふ」でも「おほほ」でもなく「あはは」と哄笑した。手の痛みも忘れ、今度は違う意味で車体をばんばん叩く。
オレンジペコなどは、行為の意味を解せず顔面蒼白になっている。そうだろうとも、この可笑しみは隊長にしか理解出来まい。
ダージリンは状況を忘れた様に笑い続けた。
やがて、ふっと笑い止めると、ティーカップを振り上げ、思い切り車体に叩き付けた!
最後のカップは高い音を立て、正に砕け散った。散った欠片の一つ一つが陽光を反射させ煌めいた。ダージリンは「スッとしたわ」と爽やかな顔で言った。
「少し、ほんの少しだけ私の肝が据わっていたみたい。なら、そうね。私が率いるしかないのでしょうね。それで? あなたたち、まだ闘志は健在かしら」
その声からは怒気が消え去り、むしろ穏やかでさえあった。下で青くなっていた腹心が、はっと隊長を見上げ、息を飲んだ。
その透き通った碧眼にあったのは、確固たる
美しい。
これまで見てきたダージリンの表情で、ペコは今ほど華麗な姿を見た事は無かった。
ダージリン様の覚悟にお応えしたい──既に宣戦布告は済んでいる。ならば責務を果たさねばなるまい。
ペコは唇をぎゅっと噛んだ。
「……被害甚大、されど我ら士気軒昂! 決してこのままでは終われません。あなたの命令を下さい。それで私たちは何処へでも駆けます、どんな敵とも闘います。さあ
皆を代表して、オレンジペコが先んじた。胸に手を添える様は、まるで
消沈していた隊員たちも、口々に応じた。消えかけていた闘志の炎が、ダージリンの覚悟によって再び灯されたのだ。
息を吹き返した仲間の返答に「よろしい」と満足げに伝達し、無線機から口を離すと、足元の
「ペコ、一番恐ろしい敵が分かる?」
何時かの思い出を想起しながら、ダージリンは問うた。ペコは上目遣いに首を傾げる。
「それはね、
「そんなの……」
「狂っているわ。凡そまともな精神じゃない。
「……はい」
「普通、その純粋は、無垢は、時と共に忘れられるわ。成長か、慣れか、或いは限界を感じて。でももし、それを保ち続けているとしたら」
「まさか、それが西住みほ様だと?」
「どうかしら、笑いにも色々ある。本物偽物、喜怒哀楽。人は様々な理由で笑うものよ。みほさんの笑顔の由来が何なのか、はっきりとは分からない。けれど──」
ダージリンは目を閉じ、瞼の裏に思い描いた。
西住みほの、まるで天使の様な笑顔。裏がある様にも、無い様にも思える吸い込まれそうな微笑み。
耐え難いほど、蠱惑的な口元を。
「焦がれるわよね」
恋する乙女の様な甘い吐息と共に、ダージリンは呟いた。口端がすうっと開かれてゆく。
闘うために闘い、ただ楽しむ。
常軌を逸した精神構造。
けれど、もし、そうなれたのなら──
「私はアールグレイ様程に優れた指揮者ではないわ。采配も、頭脳も、勘でさえ劣る。才覚であの人を上回る事は決してできない──けれど、たった一つだけ私が優っているものがある」
人知れぬ恐怖に押し潰された前隊長。その悲惨な最期を思い出す。あの人ならば、もっと賢しい選択をしたに違いない。
しかし、別人に成り代わる事はできぬ。自分は自分の選択でしか、生きれないのだ。
今こそ迷いは消えた。
ダージリンは目を見開く。
「
次の瞬間、ダージリンは「戦車前進」の命令を下した。誰もがその命を待っていた。生き残った三輌は、限界まで引き絞られた矢の様に、大洗市街へ向けて猛然と突き進む。
「こんな格言を知っている?」
そのすがら、ダージリンは全体へ通信を入れた。
「『英国人は、恋と戦争では手段を選ばない』」
前へ前へと進む戦車隊。
その先頭に立ち、背筋の凍るような美しさを湛え笑う隊長の姿に、ペコは妙な既視感を覚えた。
紅茶も持たず、満面の笑み。余裕も優雅さも無く、ひたすら前へ突き進む──こんなダージリン様は未だかつて見た事が無いはずだ。
ペコは暫く考えて、自らも笑った。
そうだ、まるで、乗り移った様ではないか。
「調子、出てきましたね」
今や聖グロの誰もが笑っている。
前へ前へと、敵へ向けて、嬉々として進んでいる。まるで、何かが乗り移った様に。
◆
こそこそ作戦の発動された大洗隊は、文字通り街中に各々潜んでいた。敵部隊を大きく引き離したがために、余裕の潜伏である。
中でも歴女チームは突撃砲の本領である待ち伏せを敢行していた。
「細工は上々だ」
車長であるエルヴィンが得意げに言った。他のメンバーも同様だ。
元来車体の低いⅢ突は待ち伏せに適している。しかも今回、もう一捻りしてあった。
Ⅲ突を飾っていた旗指物を抜き取り、道端の柵に括り付けた欺瞞作戦である。これに誘われた敵戦車を死角から撃とうという算段だ。
実は少し前に、みほから「旗で居場所がバレるのでは?」と指摘を受けていた。目から鱗とは正にこの事。さては西住隊長は諸葛孔明の生まれ変わりかと、しきりに感心しつつ(この辺りに練度の低さが窺える)、一計を案じたのであった。
冷静さを欠いた聖グロでは、この計は決して見破れまい──歴女チームはたかを括り、敵が直進してきた場合、現れると思しき正面ばかりを臨んでいた。
しかし、いつまで経っても現れない。
いい加減に焦れてきた、その時である。
衝撃は
想定外の激しい揺れに、乗組員は前に投げ出された。その後、おりょうが慌てて操縦桿をがちゃがちゃするが、既に操作不能。
Ⅲ突は白旗を挙げていた。
砲撃したのは、迂回してきたマチルダIIであった。
◆
「すみません西住隊長、Ⅲ突行動不能です! 面目次第もありません──」
歴女チーム最後の全体通信が入ると、Ⅳ号戦車内は騒然となった。これは他の車内でも同様である。
Ⅲ突は大洗チームの中でも貫通力の高く、大いに活躍が期待されていた。それが、最初の被害となったのだから当然の反応であった。
「作戦が見破られたって事!?」
沙織が通信装置に向かって叫び、更に部隊の動揺を助長した。「どうしましょう西住隊長」とか「これも作戦ですか」とか、安息を求める通信が殺到し、自業自得ながら沙織が苦心する羽目となった。
その中で優花里は平静を保とうと努力していた。いま腹心(自称)である自分まで取り乱せば、親愛なる西住殿の負担になると思ったからだ。
それでも、視線ぐらいは──と、横目でみほを見る。と同時に「うわあああっ!」と叫びたくなった。
みほの顔から全く笑顔が消えていた。
目は泳ぎ、汗が一筋流れている。
口が何度か空いたり閉まったり、出すべき声も失った様だ。
まさか、まさか──ピンチなのですか?
優花里は遂に聞くことが出来なかった。
◆
嫌な汗が頬を伝うのが分かる、激しくお腹が痛い。
みほは、自己との闘いの最中に居た。
皆に悟られる訳にはいかないと、必死に感情を堪える。油断すると、今にも化けの皮が剥がれてしまう。
今にもこの場で抱腹絶倒しそうだ!!
表情筋に渾身の力を入れて、上昇しそうな口端を抑える。今は絶対に笑う訳にはいかない。その皺寄せが腹筋に来ているようで、とても痛む。鍛えていて良かった。
素晴らしい。幾ら何でもここまで大馬鹿だとは思わなかった。
そうでなくては。戦車乙女たるもの、そうでなくてはならない! 今日この日では、ほとんどの戦車乗りから失われてしまった
つまり
みほは、背後から麻子の背中を見た。視線を感じたのか、それまで微動だにしていなかった肩が一瞬跳ねた。
肩越しに振り返り、じろりと烈火の如き瞳をみほに向けると、直ぐに視線を戻した。
みほは、大いに満足して口に手を当てた。唇の歪みを自覚したからだった。それを見て優花里は一層悲愴な顔をしたのが、また面白かった。
良いぞ、そのまま来い。
私を倒してみせろ。
楽しませろ。
私を、もっと楽しませて。
『西住』は伝染する。