鬼神西住   作:友爪

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聖グロリアーナ女学院戦、決着。

ダージリン様、お誕生日おめでとうございます。


鬼神西住28

 澤梓の率いるM3リーが足を止めたのは、大洗の入り組んだ路地を何度も折れ曲がった末の事だった。

 キューポラから恐る恐る顔を出し、閑散とした住宅街を回し見て、あの悪鬼の如き敵戦車(梓にはそう見えた)の影が無いのを確認すると、ほっと息を吐く。

 梓は顔を引っ込めて、通信手の宇津木優季に隊長車へ通信を繋ぐよう求めた。

 

「こちらDチーム。西住隊長、聞こえますか」

『──はい。こちらAチーム、感度良好』

 

 間も無く、敬愛なる西住隊長の柔らかい声色が返ってくると、恐怖に縮こまった心が解されてゆく気がした。

 

「隊長、本当に申し訳ありません。一時は追い詰められてしまいましたが……何とか逃げ切りました。でも磯辺さんたちは──」

 

 梓はルクリリのマチルダIIを撃破してから、八九式がダージリンに撃破されるまでの流れを簡潔に話した。何と怒られるであろうか。終始おっかなびっくりの報告であったが、みほは平素の口調で『そうですか』と言ったのみだった。

 彼女には他に着眼すべき所があったからだ。

 

『それで、今、何処かな? あなたは敵から逃げ切ったと言ったけれど、私の認識からも逃れてどうするの。私が認識外の作戦行動について保証できるとでも?』

「あっ……す、すみません。直ぐに確認します」

 

 何だか謝ってばかりだと恐縮しつつ、懐から地図を取り出した。首を捻りながら、何度も東西南北を手の内で回転させて、何とか現在地を割り出す。

 

「ええと、E-4地点、辺りだと思います」

『随分と走りましたね』

「申し訳、ありません……」

 

 ああ、失望された──梓は大袈裟に肩を落とした。

 梓にとって、西住みほとは暗闇の中に見出した、たった一つの光明である。

 

 梓は自身を何の取り柄もないばかりか、退屈な人間だと卑下していた。生きていても何も成しうる事の叶わぬ、停滞した人格だと軽蔑していた。

 自分が大嫌いだったのだ。

 しかし、西住隊長は自分でも気が付けなかった美徳を見出してくれた。信頼を置かれ、副隊長に拾い上げてくれた。

 

 地味な事だったかもしれない。

 けれど「あなたはあなたのままで良い」と西住隊長に言われた時、どれだけ救われた事か!

 生まれて初めて自分を許し、好きになる事が出来たのだ。

 梓にとって、西住みほとは間違いなく、人生を丸ごと変えてしまうような救世主だった。

 

 生きる指標とも言えるだろう。

 そんな西住隊長に見限られるのは、身も心も引き裂かれるのと同義だった。今や自分は、彼女に生かされており、彼女のために生きているのだとすら思っていた。

 それ自体、少女にありがちな感傷であり、陶酔的なロマンチシズムである事実に梓は無自覚であったが──ただ見捨てられたくない。

 梓はその一心で弁明、らしきものを試みた。

 

「けれど西住隊長、敵は完全に撒きました! 煙幕を焚いて、見失わせたんです。ですからお願いします、どうか挽回の機会を──」

『今何と言いました?』

 

 必死の弁明は、唐突に遮られた。

 みほの柔らかかった口調は、鋭いものに変わっていた。

 

「どうか挽回の機会を……」

『それじゃなくて、その前。煙幕(・・)と言いましたか?』

「言いました」

『もしかして今も焚いているの』

「えっと、ちょっと待って下さい」

 

 再び顔を出して、戦車後部を確認する。

 煙幕は、未だもうもうと立ち上っていた。

 閑散とした住宅街の真ん中で、M3リーは煙を立てていた。

 もったいない(・・・・・・)──梓はそう思い、直ぐに止めるように言った。

 

「煙幕、出しっぱなしでした。でも今止めました。すみません、もったいなかったですね」

『説明が必要ですか?』

「えっ……」

『説明が必要かと聞いたんだよ、副隊長。E-4地点でしたね、そこは何処ですか』

「此処は静かな住宅街で……」

『まだ分からないか』

 

 梓は困惑した。質問の意味が全然分からなかったのだ。分かるのは西住隊長の声色がどんどん、どんどん恐ろしく──そして楽しそう(・・・・)になってゆく事だけだった。

 

『だったら耳を澄ましてごらん。答えの方からやって来る(・・・・・・・・・・・)ぞ』

 

 梓は地震を疑った。

 ごごご──と地を唸らせる重低音が耳に届いたからだ。隊長に言われるままに耳を澄ませ、音を聞く。やはり大地そのものが鳴っている様に聞こえたが、おかしい、揺れを感じない。

 音は益々大きくなる。

 その低音に、金属の掠れる音が混じった。

 やがて気付く、その音は大地から鳴っているのではない。左右(・・)から同時に聞こえる故の錯覚であると。

 

 斯くして威容は現れた。

 Y字路をM3リーを挟み撃つ形で、新手のマチルダIIに、あの(・・)恐怖の女王、チャーチルMK.VII──大地を踏みしめ、堂々と。

 その砲を向けられた時、梓の脳裏に八九式がいとも容易く蹂躙された情景が蘇った。その情景と、今まさに自分の置かれた状況を照らし合わせ──胸の奥底を凍て付かせた。その冷気が徐々に登ってきて、喉を、舌を、唇を順に凍らせた。

 

「まさか、まさか、そんな訳がないよ。逃げて来たんだもん、それもこんなに遠くまで。完璧に、撒いた筈で──」

 

 受け入れ難い現実、抗い難い恐怖!

 それらを払拭すべく呟いたつもりだったが、実際には唇が微かに震え、歯がカタカタと音を鳴らしただけだった。

 今や手や足まで固く凍り付き、身動き一つ取れない。ただ聴覚だけが研ぎ澄まされている。

 

『さながら狼煙(・・)だ』

 

 隊長の低く囁く様な声が、梓の背筋を更に震わせた。

 

『今も昔も、それは戦の合図に違いない。彼女たちは真っ直ぐそれを目指してやって来た。なんて誠実な事だろう。さあ梓さん、もう分かったかな。あなたの成すべきは、何一つ変わっていない。何一つ!』

 

 梓はようやく気が付いた。

 全ては、自ら招き寄せた事だった。

 

「……たい、ったい、てったい、撤退ッ!!」

 

 上下が張り付いた唇を無理矢理動かして叫び、M3リーは走り出す。

 梓には愚行を戒める時間も無かった。出来る事と言えば、より惨めに遁走する事だけだ。

 とにかく敵から逃れようと、路地を滅茶苦茶に曲がる。

 

「どうすれば。西住隊長、どうすればっ」

 

 最早、副隊長としての恥も外聞もない。最後の頼りとばかりに、みほに縋り付く。

 そして、敵も追い縋ってくる。今度ははっきり視認できる距離。

 その時、二発の砲弾がM3リーの左右を掠めていった。ほぼ同時に、直ぐ正面の民家が爆発倒壊した。元民家の欠片が、かんこん(・・・・)と車体を叩く。

 梓は涙目になった。

 

『落ち着いて下さい、梓さん。先ずはC-2地点で合流しましょう。そこまでいけば、後退を支援出来ます』

 

 事ここに至っても、みほの口調に問責の作意は混じっていなかった。不出来な部下に愛想を尽かさぬばかりか、むしろ助けに向かうとまで言った。

 だが、その慈悲を無下に梓は叫んだ。

 

「西住隊長、C-2地点って、つまりどっちの事ですか(・・・・・・・・)!?」

 

 この言い草に、みほは言葉を失った。というより、掛ける言葉が見付からなかった。

 みほは千里眼を持たない。命令をしようにも、当人たちが現在地すら把握していないのでは、どうしようもない。

 あなたは地図すらまともに読めないのか──という叱責は浮かんだが、必死で滅茶苦茶に逃げ回っているだろう状況が伺われて、言う気が萎えてしまった。

 みほにしてみれば閉口するしかなかったのだ。

 

 頼れる西住隊長がどうしてか黙ってしまった間も、梓は何かと喚き立てていたが、遂にM3リーは行き止まった。無計画に走り回った挙句、逃げ場の無い袋小路に押し込まれたのだ。

 実は敵二輌によって巧みに誘導されていたのだが、梓たちに察知出来るはずもない。

 

 正に命運の行き止まり。

 二本の砲塔が殺意を持って、ゆっくりとこちらに狙いを定めている。

 一年生たちは、狩られる直前の子うさぎの様に、唯々震えて怯えるばかりであった。

 

「ひっ、ひぃ……助けて下さい……西住隊長……たすけ……」

 

 今や梓を初め、一年生は闘う意志を完全に放棄していた。

 何もかもが甘かったと思い知った。戦車道を舐めていた。抜き身の殺意に晒されるのが、こんなに怖かったなんて、知る由も無かった。

 思えば戦車とは本来、殺人兵器として産声をあげたのではなかったのか。

 

 なんという事だ。

 戦車道とは、嬉々として殺人兵器で駆けずり回るいかれ共(・・・・)の世界だ!

 それに比ぶれば、今までの人生の何とのうのう(・・・・)としていた事か。

 

 怖い、怖い、怖い──

 

 西住隊長に見捨てられては生きていけない、などという戯言(たわごと)も遥か彼方へ吹っ飛んだ。そんな感傷より、この瞬間、自分の身が可愛かった。

 それでも西住隊長ならば、という幻想めいた信頼に、梓はぎゅっと目を瞑り、救世主の到来をひたすら祈った。

 こんな可哀想な私たち(・・・・・・・)を、どうか助けてください……!!

 

『いやだよ』

 

 幻想は無感動に切り捨てられた。

 誰が最初の一人であったろうか。一年生たちは、奇怪な声を上げて、恐怖の鉄箱から弾かれたように飛び出した。

 直後始まった砲撃の嵐に、M3リーは呆気なく白旗を上げた。

 

 ◆

 

 通信機器を懸命に弄り回し、それでも応答がないのを確認すると、沙織は首を横に振った。

 Ⅳ号内部がシンとなる。序盤の奇策による優越は完全に失われ、戦況は悪化の一路だ。

 追求するまでもなく、原因は明白だった。余りにもあからさまな、練度不足──これでは団結して隊長の足を引っ張っている様なものだ。

 

「やるなあ」

 

 シンとした車内で、みほはぽつりと言った。

 敵前逃亡した味方への軽蔑か、快進する強敵への賛辞か、誰にも分からなかった。

 ただ静かな声、というだけだった。

 

 優花里は、隊長の心理を勝手に考察する。

 察するに、他人の合力だけを乞い求め、自力で打開しようともしない、浅ましい者共に自ら(・・)成り下がる──そんな一年生の成し様は、いかにも西住みほの嫌う卑怯な根性に思えた。最後の最後に、救いの手を引っ込めたのが証拠だ。

 

 西住殿は冷静に見えて、きっと内心で憤り、呆れ果てているだろう──優花里は、また勝手に慚愧し、そして恐れた。

 みほの怒りを恐れたのではない。何より、彼女の輝かしい戦歴へ泥を塗ってしまう──自分の夢と希望を自分で潰す──その事を恐れたのだ。

 

『軍神の初黒星は、仲間に背中を刺されたから』等と言われた日には、もう日向を歩けない。

 

 にわかに皮膚が粟立った。

 もうそんなの、平身低頭で一生戦車道を避けて生きてゆくしかないじゃないか!

 想像しただけで、身を裂かれる苦痛だ。耐え難い苦悩に、優花里は隊長の横顔を伺おうとしたが、それすらも憚られて、代わりにもっさり頭を掻き毟る。

 優花里の烈烈たる忠義は完全に裏目に出ていた。

 

「捉えた」

 

 部下の心を知ってか知らずか、みほは前方を指差して言った。

 

「一時方向へ150メートル。あそこ、煙が出てる。撃破された煙炎か、それとも煙幕かな?」

 

 果たして笑って良いものだろうか、周囲が悩んでいるうちに続ける。

 

「敵がその場にいるうちに、背後へ回り込みます。麻子さん、少し迂回して接近して下さい。逆に袋小路へ追い込みます」

 

 麻子は低く「おう」と不機嫌そうに応えて進路を変えた。

 今までⅣ号はM3を助けに向かうはずだった直行ルートを猛スピードで走っていた。それを転じて、背面攻撃へ切り替えたのだ。

 後手に回ったとは言え、この敏速かつ柔軟な切り替えは流石の手腕と言えよう。

 

 優花里を初め、沙織や華も懸念を無理矢理押し込めた。ただでさえ練度が足りていないのだ。余計な不安で攻撃の手がぶれてしまっては、それこそ擁護出来ない。

 

 間もなく目的地へ差し掛かり、対戦闘の緊張が走った。数十メートル先の袋小路に煙が充満している。酷く見えにくい。どうやら、撃破されてもなお空っぽのM3リーは煙幕と煙炎の両方を噴いているらしい。何という無様だろうか。

 しかし、これは好都合だ。

 敵があの煙に呑まれているとすれば、こちらの動きを察知出来ない。完全な奇襲が可能だ。

 

 更にⅣ号は敵へ迫る。

 みほは目を細め、煙の奥を深く観察した。奇襲をするにも、タイミングの見極めが肝心だ。何時でも砲撃命令を下せるよう、手を振り上げる。

 薄らと煙の先が見えてきた。いよいよ手に力を込めた時、みほは細めていた目を見開いた。

 煙の中の影は煙を噴くM3一つ(・・)のみ──敵の影は、そこに無い──罠か!?

 

「停止ッ!!」

 

 みほは今日一番の大声を出した。

 直後、強烈な砲撃音と共に、Ⅳ号前方を掠めるような砲弾が横切った。あと一秒遅ければ、車体の真ん中を撃ち抜かれていただろう。

 奇襲を掛けるつもりで、逆に釣られていたのだ。

 みほは眼球を高速で運動させ、必殺の一撃を放った主を探し、難なく発見した。

 

 曲がり角の死角に張り付く様にして、そいつは居た。チャーチルMK.VIIから上半身を露出させ、黄金色の髪を品良く束ねた──聖グロリアーナ女学院隊長、ダージリン。

 みほと目が合うと「あら……」と意外そうな顔をして、クスリと笑い、言う。

 

「惜しい」

 

 氷柱を背中に突っ込まれた心地がした。

 ダージリンの笑顔は包み込む様に柔らかく、透き通る瑠璃色の目は、精製された殺意に満たされていた。

 ここまで純粋なそれに満たされた乙女には、中々巡り会えるものでない。

 

「この──」

 

 二つの目線が合わさった。

 瞬間、みほは思わずその視線に射すくめられた様に固まり、ダージリンに見蕩れてしまった。

 

 美しい(・・・)

 

 今一度、みほはダージリンを見つめ直した。とても綺麗だと感じると共に、まるで鏡を見る様な錯覚があった。

 これは自惚れであろうか。それとも、向こうも同じ様に思ってくれているのだろうか。嗚呼、そうだったら良いのにな──堪えられない程、切ない気持ちが溢れ出す。

 

 みほは確かめる様に、貰ったものと同じだけの質と量を込めて、視線を相手へと手向けた。ダージリンは一瞬、射すくめられた様になって、やがて頬を染めて微笑んだ。

 蕩けそうな程、頬が熱くなった。

 最早、二人の世界に言葉は不要だった。思い交わすのは、砲弾だけで十分だった。

 

 私が見つめて、あなたが見つめ返す。

 分かるでしょう。

 この刹那の時、あなたの全部は私のもので、私の全部はあなたのものだ。

 

 恋とか友情とか、些細な感情を超越した、説明不可能な愛おしさが胸に込み上げた。そして、お互いにそれを共有している実感があった。

 もう堪らない。

 みほは天に向けて大笑いした。激しく手を叩き、足を踏んだ。

 そうだ、格好だけつけた以前の彼女よりも、よほど。よほど今の姿は『優雅』としか言いようが無いではないか!

 

「ああ、この、戦車乗りめ」

 

 甘美な睦み合いも束の間、みほは即座に転進命令を下した。聖グロにはもう一輛残っている、だとすれば。

 想像通り、回り込んで来たマチルダIIがⅣ号を挟み撃たんと現れた。猛烈な速度で旋回を完了したⅣ号は、未だ体制の整わぬ敵戦車の横を通り抜けようと突進する。

 すれ違うその直前、マチルダIIが砲撃を強行した。Ⅳ号の側面装甲が抉り飛ばされる。また、それが無線機側であった為、沙織が衝撃で吹き飛んだ。沙織が「やだもー!」と泣き言を叫んだのと同時、Ⅳ号は辛くも敵戦車の横を通り抜けた。

 

 結果のみを見れば、奇襲が失敗したばかりか、追われる目になっただけだった。

 度重なる苦境に、Ⅳ号の士気は更に沈んだ。彼女らに、先の逢瀬のやり取りが理解出来る筈もない。

 少し元気づけてやる事にした。

 

「どんな逆境にあろうと」

 

 俯きがちだった顔が、みほに集まる。

 

「西住流は前進する。それだけなんです」

 

 落ち込むどころか、昂揚として諦めない隊長の様子に、隊員たちは目論見通り顔を上向きにした。こんな単純なお題目でも、言う人間によっては効果が有るものだな、とみほは感じた。

 

 背後を顧みれば、合流した二輛が追撃を仕掛ける構えだった。今度こそ、確実にとどめを刺すつもりだろう。

 何処までも好ましい敵よ。

 好ましいが故に、期待に応えて叩き潰したいと思う。真の西住流たるを、骨の髄まで思い知らせてやりたい。

 

 だからこそ、だからこそ惜しい(・・・)──みほは唇を噛んで、衝動を堪えた。

 

 でも、私は勝たなくてはならないのだ。

 

 ◆

 

 Ⅳ号戦車を先頭に、彼女たちは同じ道を駆けてゆく。

 応酬に応酬を繰り返す砲弾が、大洗の町並みを瞬く間に廃墟に変貌させた。

 矢継ぎ早に交わされる三輛分の行進間射撃は、平穏な田舎町を見るも無惨な瓦礫の山に還元するのに十分だった。

 

 苛烈な乱撃戦の道中、みほは半身を晒し続けた。

 土砂を頭から被り、(つぶて)が身体を弾こうとも、不敵な笑みで迎えて、戦車外部で采配を振るい続けた。並大抵の胆力では叶う仕業ではない、今の乱戦状態では尚更だろう。

 正に、常在戦場。

 その精神を体現したかのような采配ぶりは、味方を大いに鼓舞し、敵の感嘆を誘った。

 

 彼女が世間一般に『軍神』と崇められる理由の一つがこれであった。

 この様な振る舞いをする戦車乗りは、世界広しと言えど、そうは居ない。

 舌が回るだけの煽動者ではなく、身体を晒して先陣を切り、矢面に立ち続ける。これこそ絶大な信頼を勝ち得る秘訣であり、戦車乙女たちが彼女の下に集う理由だった。

 

 敵二輛の攻撃を避け続けられたのは、そうした采配と、また、それに良く応える操縦手の絶技の賜物だ。

 片方でも欠けていれば、Ⅳ号はとっくにやられていただろう。

 

 この追跡劇と無慈悲な破壊活動が、まるで無限に続く様な、そんな錯覚を覚えた頃だった。

 ふと、先頭を行くⅣ号戦車の足が鈍った。

 それまで決して追跡者から目を離さなかったみほは、肩越しにちらりと前方を確認した。

 黄色と黒の虎柄が、数十メートル先に見えた。

 

「おい、工事してるぞ」

 

 指摘するのも嫌そうな低い声で、麻子は言う。虎柄の向こうでは、コンクリート(この世界の道路敷設はアスファルトではなくコンクリートである)が剥がされて、所々に深穴の掘られた悪路が待ち構えていた。

 通行止めの赤い看板が、やけに目立っている。

 

 みほは直ぐには応じずに、敵に視界を戻した。

 今の今まで中に身を隠していたマチルダの車長が、ひょっこり顔を覗かせた。露骨にほくそ笑む顔面に「これでお終いね」と書いてあった。

 

 なので、こっちも笑い返してやった。

 

 敵車長が一瞬で蒼白になる。

 みほの笑顔には、彼女のそれとは比べ物にならないほど邪悪ななにか(・・・)が込められていた。

 甘いぞ、聖グロリアーナ女学院。

 

「行けるでしょう? あのぐらい」

 

 敢えて挑発するような口振りで、みほは操縦手に言った。車内で「ええ〜っ!?」と声が上がる。

 麻子は大きく舌打ちした。

 

「ああ、行けるかもな」

「無理しなくても良いよ」

「ほざけ」

 

 鈍ったスピードが急に上がった。

 転輪と履帯とが異様な機械音を立てる。

 通行止めの看板を思い切り吹き飛ばし、Ⅳ号はそのまま悪路へと突っ込んだ。

 脚に泥を巻き込み、絶妙なテクニックで穴を避け、低頭する男性現場員の看板を踏み潰しながら、何とか対岸のコンクリートへ辿り着く。

 

「反転」

 

 安堵も束の間、隊長の命令に操縦手は無言でハンドルを回転させた。側面へ強い遠心力が襲う。「むぎゅう!」と今度の沙織は逆に通信機に押し付けられた。

 車体が正確に180度回転した位置で、Ⅳ号はピタリと止まる。なので次は逆側面へ慣性が働いて、乗組員はそっちへ跳んだ。

 沙織に限らず、上記二人以外は、文字通り右へ左へ(・・・・)振り回されて叫喚の有様であった。

 

 丁度その時「敵が行けたのなら行けない筈がない」と張り合ったのか、マチルダが工事中の悪路に踏み入った。

 結果は想像するまでもない。

 前のめりの体勢で片脚が大穴にすっぽり嵌り、抜け出そうにも泥濘で無限軌道(キャタピラ)が無限に空転し、身動き一つ取れなくなった。

 焦燥して何か喚いていたマチルダ車長は、車体ごとこっちを向いたみほの黒い笑みを目撃してしまい、更に絶叫して顔を引っ込めた。

 

穿(うが)て」

 

 みほの単純な命令に、華も単純な操作で応えた。発砲音。細く白い指先から放たれた砲弾は、前のめりになったマチルダIIの、丁度キューポラの中心に命中した。(ハッチ)が内側にへしゃげ、その脇から白旗が飛び出した。

 これは特殊カーボンという科学の奇跡が無ければ、皆殺しであっただろう。

 

「ようし、逃げろ逃げろっ」

 

 子供の様に手を叩く車長には「逃げる」という行為に対する悲観が欠片も無かった。Ⅳ号は再反転して、目的地へ急ぐ。

 

「お前わざとあの道を選んだな」

 

 後続のチャーチルをある程度振り切った時、麻子が怒りも隠さずに尋ねた。みほは悪びれずに応じる。

 

「そうだけど」

「私が失敗したらどうするつもりだった」

「麻子さんなら行けるって、信じていたんだよ」

「……コノヤロウ」

 

 美談めいた流れにされて、何も言えなくった所に、散々(物理的に)振り回された沙織が茶々を入れた。

 

「麻子ってさ、みほと仲悪い様に見えて、実は息が合ってるよね」

「何だと糞が」

「こら〜っ! そんな事言っちゃダメ!」

 

 麻子は舌打ちをして黙る。

 咄嗟に否定したものの、内心では困惑していた。幼馴染みに「息が合っている」と言われた時、麻子の理性は一部肯定してしまったのだ。理性ではともかく、感情では到底受け入れ難い。

 理性と感情の摩擦は熱となって、麻子を苛立たせた。

 我がものながら、何とままならない事か──操縦手は歯ぎしりをして、怒りの全てを操縦桿にぶつけた。

 

 やがて、履帯とコンクリートの間で火花を起こしながら、Ⅳ号戦車は急停止した。工事現場に出くわした、からではなく、単に目的地へ辿り着いたからだった。

 海鮮料理屋の正面に、Ⅳ号は陣取る。

 

「此処で終わらせます」

 

 みほは、黒の革手袋をきつくはめ直しながら、皆に伝えた。遂に雌雄を決す時が来たと、更なる緊張が走る。

 

「聞いて下さい。最後の作戦です」

 

 皆はそれを聞いて息を呑んだが、一斉に「了解」と応じた。みほは、満足気に頷くと、静かに瞳を閉じ、その時を待った。

 

 心を掻き乱し、奇策に陥れても、折れるどころか凄まじい殺意で迫って来た、恐るべき敵。奴らは何処から現れるのか。

 隊員たちは、五感を尖らせて待ち受ける。

 道は一筋、前か後ろだ。しかし、背後に続く道は民家で途絶されているため、実質は開けた前方の一択か──

 

 ◆

 

「こちらの進行ルートを限定し、出会い頭を叩く。西住さんはそのつもりでしょうね」

「最後は正々堂々、という訳ですか」

 

 聖グロ隊長、ダージリンは浅く頷き、顎に手を当てて思案した。オレンジペコは唾を飲み込む。今のダージリンは、何処を切り取っても西洋絵画の如く、冷艶で美しい。

 

「アッサム。Ⅳ号の操縦手、何と言ったかしら」

「冷泉麻子さん。西住さんと同じクラスの二年生です。正直、ノーマークでしたね」

 

 素早くノートパソコンを開いたデータ主義の砲手が、間を置かず答えた。

 

「冷泉さん、ね。あの方はおやり(・・・)になるわ。それが、みほさんの指揮能力と合わさった時の凶悪さたるや……まともに追撃するのも馬鹿馬鹿しいわね」

「こちらが行動(アクション)を起こしてから、対応(レスポンス)までの早さが尋常ではありません。まるで人外のコンピューター……どの様なデータに照合しても、彼女たちに匹敵するコンビは存在しませんよ」

「仲がよろしいのでしょうね」

「羨ましい事です」

 

 二人は、微妙に的外れな推測に頷き合い、ほうと嘆息した。

 

「正面から撃ち合った時、外されて、回り込まれないとも限らない……あら、アッサム、あなたの腕を信用していない訳ではなくってよ」

「……事実ですから」

 

 ちょっぴりむくれてしまった砲手に、ぺろりと舌を出してみせる隊長だった──この緊張感の無さは、豪胆によるものか、それとも天然によるものなのか、ペコには判断がつかなかったので、取り敢えず呆れてみた。

 

「だからと言って、こんな策ですか?」

 

 ペコは正面に立ち塞がる民家(・・)を見やって、殊更うんざりした様に言った。

 

「『本気(しょうき)にては大業はならず­』と言うでしょう? 要は狂った者勝ちなのよ」

「葉隠、ですか。嫌だなぁ……私、あれ怖いんですけれど……」

「今更文句を言わないの」

 

 後輩の不平も何処吹く風よ。先輩は流れる様に戦車内を潜って、操縦手(後輩)の両肩を叩いた。紅い唇を耳元へ近付ける。

 やられた方は、可哀想に、背後からでも息が上がっているのが良く分かった。

 

「じゃあ、よろしくね」

 

 語尾に音符でも付きそうなぐらい愉快な、しかし、冷たく有無を言わせない囁きだった。

 チャーチルのガソリンエンジンが性能限界を超えて唸る。

 

前進(マーチ)

 

 操縦手の「My God!!」という悲鳴と共に、チャーチルMk.VIIは正面の民家へ突進(・・・・・)した。

 

 ◆

 

 耳をつんざく雷鳴にも似た轟音が狭路に響き渡った。

 元は民家を構成していた木材や石材が、見る影もない断片となって飛び散ってゆく。それに伴う強烈な空気圧が、容赦なく中空を砂塵で染めた。

 勢い付いたチャーチル歩兵戦車が、民家を潜り抜ける(・・・・・)まで数秒と要さなかった。

 

 ダージリンは、みほが一路待ち伏せをしている事を見抜き、裏を突いたのだ!

 

 さしもの『軍神』と言えど、栄えある聖グロリアーナ女学院がこんな野蛮極まる奇策を用いるとは、夢にも思うまい──ダージリンは戦車が民家を概ね突き抜けた時、したり顔で外へ顔を出した。

 舞い上がる土埃を、手で払い切る。

 

 そして砂塵の先の光景を確認した時、その麗しい顔は一転、驚愕に歪んだ。

 

 西住みほは、こちらを向いていた。

 彼女だけではない。IV号戦車が車体ごとチャーチルへ向いている!

 

「まさか」

 

 思わずダージリンは呻いた。「そんな馬鹿な」と心の中で続ける。

 あの『軍神』は、我々が背後を突いてくるのすら見抜いていたのか。開けた前方の道を完全に無視して、閉ざされた背後の民家へ砲を差し向けていたとでもいうのか!?

 認めたくはなくても、事実はそれを物語っていた。指揮官として、次の指示を出さなければならぬ。

 

 ダージリンが苦しげに口を開きかけた時、みほの腕が、すっと宙を切り分ける様に振り上げられた。静かに微笑む彼女の表情が、これからの結末を示唆していた。

 応戦の指示は間に合わない、ダージリンが半ば確信した時だった。

 

 その黒い腕が振り下ろされる直前、それは突発的に生じた。

 チャーチルによって倒壊させられた民家の破片──その石材が、同戦車のキャタピラと地面に挟まれ、勢い良く弾かれた(・・・・)

 それだけの現象ならば他にも多数生じていたが、その人間の頭部大の岩が弾かれた先が問題だった。

 

 その巨石は、西住みほの顔面目掛けて跳んでいったのだ!

 

 誰かが警告を発する間も、叫び声を上げる間もなかった。その岩は、容易く人骨を粉砕できるまで加速していた。回避は不可能だ。

 血生臭い惨劇、不慮の事故──そんな単語がダージリンの脳裏を横切った。

 

 対してみほの反応は、少し目を見開いただけだった。

 そして、半ば振り下ろしていた手で瞬時に拳を作ると、渾身の力で横合いから岩を殴打した(・・・・・・)。粉砕された岩の破片が、みほの斜め後方へ散らばってゆくのを、ダージリンは呆然と眺めた。

 

 やがてはっとして、みほの安否を問う言葉を出しかけて……それを噛み殺した。みほが今度は余裕を消した決死の表情で、再び腕を振り上げるのを目視したからだった。

 そうだ、今この時発すべきは、断じて心配の文句ではない。今は闘争、その最中。判断を間違えるな!

 

撃て(ファイア)ッ!!」

「穿てッ!!」

 

 二つの叫びは、ほぼ同時に発せられた。しかし、闘争の駆け引きの観点からすれば、後者の叫びは致命的に遅れていた。

 指揮者が命令して、砲手が認識し、指を引く──その一連の流れの中で、差は顕著に現れた。

 二つの砲撃音には、明らかにズレがあった。

 

 果たして、砲煙が晴れた時、白旗を掲げているのはIV号戦車のみであった。

 

 ダージリンは、天を仰ぎ、大きな空気の塊を吐き出した。長らく止まっていた呼吸を再開する。久々の空気は、硝煙の味がした。

 或いはこれが勝利の味か──心臓の高鳴りと共に、ダージリンは粘膜に染みるそれを噛み締めた。

 しばらく余韻を味わった後、今度こそ名誉ある敵の安否を問う言葉を出そうと、視線を前方に戻す。

 

 違和感を感じた。

 その敵の表情に浮かんでいるものは、度し難いものであった。

 彼女は、笑っている(・・・・・)

 悔恨や、無念を誤魔化す為の笑いではない。もっと楽観的な、勝利を確信した様な、そんな笑顔。

 否、覚えがある。あれは信頼(・・)の笑みだ。長年背中を預けてきた仲間に向けるような穏やかな。何か信じる様な、そんな目をしている。

 

 はたと、ダージリンは気が付いた。

 みほの視線が、自分に向けられてはいない事に。肩を通して、更に後ろに投げられている事に。

 

 背後、だと──

 

 瓦礫が崩れる音がした。

 蠱惑的なみほの笑みから、無理矢理に離脱して、ダージリンは勢い良く後ろを顧みた。チャーチルが突破した民家跡地。

 代わってそこに陣取っていたのは──大洗の38(t)戦車!!

 

 聖グロの意識から外れる程に、今の今まで姿を見せなかった大洗最後の戦車による鮮やかな奇襲だった。

 その切り札が、戦車の構造上の弱点、装甲の薄い背中へと既に狙いを定めつつある。

 確実に旋回は間に合わない。聖グロの勝利は、一瞬のうちに覆され、瓦解した。

 

 ダージリンはやや遅れて状況を把握すると、ただ唖然と口を開いた。勝利の余韻が、造作も無く吹き払われた事に、感情が追い付いてこなかったのだ。

 やがて、反射的にみほに顔を戻し、硬直した。

 

 黒い、どこまでも黒い女が居た。信頼の笑みは失せ、代わって嘲笑がそこにあった。

 あなたは結局、私の掌で踊らされていたんだよ──呑み込まれそうな漆黒の瞳が、無言のうちに述べていた。

 

 そこで初めて、ダージリンは西住みほという人間に対して、恐怖を体感した。

 どれだけ強固な覚悟を決めたとしても、あの微笑みと共に、造作も無く握り潰されてしまうのではないか──そんな無力感や絶望といったものを、相手に想起させる闇が、みほの奥底には宿っていた。

 

 嗚呼、アールグレイ様が恐れていたのは、この瞳だったのか──

 

 ようやく、ダージリンは尊敬する先輩の心を理解した。とても、あれ(・・)とは、目を合わせていられない。

 目前に迫った38(t)を眺める気にもなれず、光を奪われた瞳を閉じ、ただ無気力に肩を落とし、顔を伏した。

 今までの聖グロの奮起は、全て、無駄に終わった──

 

「ダージリン様」

 

 足元から柔らかい声がした。

 瞼を開くと、オレンジペコが上目遣いにこちらを覗き込んでいた。後輩の目尻には涙が潤んでいたが、決して光は失われていなかった。

 そこには、頼りない指揮官への失望や諦観ではなく、健気な信頼があった。砲弾を抱えて情けなく震える後輩の姿が、何故だろうか、これ以上無い程に頼もしく思えた。

 

 ダージリンは、はっとした。

 決意を賭した勝負に負けようが、敵の恐怖に震えようが、せめて、この小さい騎士が守るべきに値する隊長で在り続けねばならならぬ。きっと、この信頼だけは裏切ってはいけないのだ──と。

 

「ありがとう。もう、平気よ」

 

 ダージリンは後輩へ微笑み返すと、奥歯を噛み締め、視線を上げた。瞳には、燃え上がる様な覚悟が帰還していた。

 

 38(t)の砲塔が旋回を止めた。狙いが定まったらしい。

 やられる、と直感した。敵の砲弾によって、弱点が穿たれる光景がはっきりと脳裏に浮かんだ。

 それでも目は瞑らない。

 指揮官としての意地と、胸を突っ張って、敗北の光景を見届けようと覚悟していた。

 

 砲撃音と共に、その時は訪れた。

 

 最後を飾る──筈だった砲弾は、しかし──明後日の方向へ飛んでいった。

 

『は?』

 

 この場に居合わせた全員が、ぽかんと、目と口を見開いた。

 どうしようもない沈黙が、戦場に流れた。

 やがて、正気に戻ったチャーチルが、慌てて砲塔を旋回させて、一発放った。

 呆気ない程にそれは38(t)に的中して、速やかに白旗を振らせた。

 

 再び流れる沈黙。

 

 それを切り裂く様に「桃ちゃんここで外す〜っ!?」と副会長の絶叫が響いた。

 斯くして、大洗女子学園は、聖グロリアーナ女学院に敗北を喫した。

 

 ◆

 

 隊長席に深く沈み込む様に、みほは座っていた。

 未だに現状を呑み込めていないIV号の隊員たちは、金魚の様に口をぱくぱくさせて、何とか言っている。

 

 大きなため息を吐いて、より深く椅子に沈み込んだ。

 悔しさは微塵も無い。彼女たちへの信頼は少しも裏切られてはいなかった。ただ何時もより、少しの疲れと、惜しい(・・・)という気持ちがあるのみだった。

 目を瞑り、口元に手を当てて表情を隠した。岩を弾き飛ばした拳が、まだじんじんと熱を持っていた。

 

「勝った」

 

 誰にも聞こえない音量で、そう呟いた。




 無敗の『軍神』西住みほは、公式記録初の黒星を、大洗の地で刻む事となった。

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