鬼神西住   作:友爪

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 権勢とは、ある一人の持ち物ではなく、須らくそれを承認する他者が本質である。


鬼神西住31

 西住みほは、自分の容姿というものについて概ね気に入っている。

 ただし、その認識が終始一貫していたかと問われれば否と答えよう。

 

 西住家の女性には、みほの他に、祖母(いえもと)(しほ)(まほ)と三人居る。この三者は凛々しい顔立ちという点で共通していて、横に並べてみると「なるほど親族だな」と頷かれるくらい似ている。

 

 特に母親というのは、娘視点からでも飛び抜けて美しい女性であると思う。まだまだ発展途上であるが、きっと姉も、勝るとも劣らない美女になるのだろう。

 祖母は、もちろん既に花盛りは過ぎているものの、すっと筋の通った顔立ちは健在で、和服の様になった老婦人である。

 

 その辺り、みほは違う。

 何となく顔全体がふにゃり(・・・・)としていて、凛々しいなどとはお世辞にも言えない。これを人に言わせると、柔和とか、朗らかとか、優しげとか、大体そんな風で統一される。

 

 全くもって気に食わない。

 

 西住女衆四人で撮った写真などでは、自分だけ全然似ていないので、よく仲間外れの気分になったものだ。

「みほは坪井川で流れてるのを拾われたからだ」とは姉のからかいで、真に受けて大泣きした事がある(姉の質の悪い事には、この手の冗談を真顔で言ってのける)。

 姉は速やかに拳骨を喰らい、謝罪してくれたが、そのせいで家族写真を好まない性分は未だに引きずっている。

 

 この()の抜けた顔は曾お祖母様譲り、というのは年代物の肖像写真を見て十分知っていた。

 心底嬉しい反面、しかし自分の顔を故人と見比べるというのは、とんでもなく虚しい行為の様な気がしてならなかった。

 この時のみほは、只今の姿形に対する執着を捨て去れるほど、精神的に成熟してはいなかったのである。

 

 想いは燻り続け、やがて中学に上がるか上がらないかといった頃、思春期の目覚めと共に「自分は醜い」という自意識に取り憑かれた。

 恐ろしくつまらない事だが、当時のみほは『完璧』を目指していた。そのためには容姿すらも完璧でなくてはならないと、またつまらない努力を色々試したものだ(お陰で化粧技術は向上したが)。

 

 みほは馬鹿でなかったので、そんな努力は虚しいばかりで意義は皆無だと早々気が付いた。

 思えば、ありのままを受け入れられず、偽る方が余程恥ずかしくはないか。十人に一人振り向けば幸運、何処にでも居る素朴な器量良し──程度の顔だが、ともかく悪くは無いのだから、それで良し。

 そんな風に楽観するようになってから、顔面の善し悪しなど、すっかり眼中に無くなってしまったのである。

 

 再び思い出してきたのは、つい最近の事だ。全く不本意な転校をして、全く新しい環境に身を置いてからだ。

 みほは気が付いた『誰も私を相手にしない』と。

 このまま黙っていれば、友達が一人もできない様な、かといって無下にもされない様な、自分はそんな顔をしているのだと。

 これが姉であれば、同じ風になっていただろうか。いや、黙っていたって打算しか頭にない様な女共に囲われていたに違いない。

 

 凛々しさで姉に劣り、可愛らしさで武部沙織に劣り、華麗さで五十鈴華に劣る──そんな容姿だからこそ、自然と人間集団に溶け込む(・・・・・・・・・・・・)事が可能なのだ。

 

 だから今では、自分の容姿を大体気に入っている。

 

 ◆

 

 手で掬い取れそうな巻雲が、蒼天の内でゆったり風任せに流れている。薄い雲の膜を通った強過ぎない日光が頬に暖かい。しっとりとした一条の海風は、爽やかな潮の香りを運び、少女の胡桃色の髪をさらさらと靡かせた。

 素敵な日だ、気分が良い。

 彼女は、演説台に立ってまず初めに思った。

 太陽を浴び、風を嗅げばこそ、生きた心地がする。願わくば、この感性を忘れたくはないものだ。

 

 良い気分で、突き抜ける天を仰いでいた顔を引くと、世界が打って変わる。

 人間だ。

 人間、人間人間人間──突き抜ける蒼天の下、そして彼女の足下では、数千からなる黒山が所狭しとひしめいて、好き勝手に蠢き騒いでいた。

 少女は無意識に目を細める。これを眺めるに、果たして気持ちの良い奴が居たものか。居るとすれば、余程の変態か、狂人に違いない。

 

 全員が全員、同じ顔だった。

 

 少なくとも彼女にはそう見えた。一々区別する努力をしなかったからで、そうする意義も認められなかったからだ。

 彼らは中身(・・)がどうであれ、生まれながらにして平等で、同等の権利を持ち、それが決して侵されないのだろう?

 それだけ理解していれば十分だった。

 

 辟易する気持ちで目玉を動かせば、それなりの秩序があった。

 後列に一般市民、中列に高等部、前列に中等部。

 そして最前列には、熱狂的に詰め寄せる前中後の人々を、死に物狂いで押し返す風紀委員のスクラム──聖グロリアーナ女学院戦車道部隊長、ダージリンと、広報主任、川嶋桃の前座によって、場は加熱しきっていた。

 

 少女の唇が歪む──寒気のする位、蠱惑的に。

 これは茶番だ、しかも笑えない類の。きっとそれさえ分かっていれば、正気を保てるだろう。

 けれどこの場で、自分以外に正気の人間がいるだろうか。全然そうとも思えない。

 だったら、正気に戻さなければ(・・・・・・・・・)

 

「西住です」

 

 始まりは一言の、それは名前だった。

 私の名前は『西住』という。

 それだけだった。

 

 たった一言で、空間そのものが震えた。

 幾千の喉で発生し、幾千の口から放たれる歓声が、一点に向かって宙を飛び、やがて炸裂した。

 空間を震わし、肢体が引き裂かれてしまいそうな音の波動。少女は、ただ静かな笑みで全てを受け止めた。

 

 西住みほ。

 このたった一人の少女のために、この場の誰もが集合し、熱狂している。

 

 黒い少女だった。

 光の反射を一切拒んだ漆黒の戦車戦闘服(パンツァージャケット)。上衣にシャツにタイにズボンに軍靴に、容赦無い黒布をあつらえている。

 そして唯一、襟に置かれた鉄十字を型どった白銀のバッジが陽光に閃く──およそ女子高生らしからぬ装いは、しかし、みほと奇妙に調和していた。

 可憐な少女は、巨大な存在感を友として、ひょいと挙げられた手をゆらゆら振っていた。

 

 やがて空気を震わす歓声が頂点にも達しようかという時である。

 黒衣の腕が、不意に、すうっと水平に倒れた。

 

 水面を打った様に沈黙が波及した。

 

 それは演説台に発し、前列、中列、後列へと順に及んだ。ものの十秒もすると、声の限りを尽くしていた数千の人々は、余すところなく口を噤んでいた。つい今まで熱狂し、前へ前へと詰めかけていた者共は、彫像の様に立ち尽くすだけのものとなった。

 風の音までも聞こえてきそうな、完全なる静寂だった。

 

 全く不可思議な現象であった。

 彼女のそれは派手な仕草ではない、声とて出していない、事前の決まりがあった訳でもない。にも関わらず、たった一人の少女が、たった一挙で、この場全ての言動を支配してしまったのだ。

 

 そして何より不思議な事には、この現象に対面した誰一人として、違和感を感じていなかった(・・・・・・・・・・・・)のである──彼女の手の先には、人々に声を張り上げさせ、そして沈黙させる魔力が宿っていた。

 

 口を結んで、人々は次に有るべき言葉をシンと待っている。声援が失せた分、期待や観察といった、無音の圧力が増した。

 張り裂けそうな音の波動は、鋭利な静寂の刃と代わり、壇上の少女を容赦無く突き刺した。

 沈黙とは恐ろしい。一瞬ごとに次の言葉に要求される水準が高くなってゆくからである。大概の話者は沈黙を恐れ、必死に埋め合わせようとするだろう。

 

 しかし、みほは極自然に、この状態を『気持ち良いもの』として分類していた。むしろ気味の良さそうな顔で、彼らを見渡している。

 煩いの(・・・)が静まると気分が良い──と、それだけの理由だった。

 この異常な現象は、みほの歓心を揺らすものではない。部屋の小煩い羽虫を拍手一撃で潰した時に伴うささやかな快感と、別段変わらない感覚だ。

 肝が太いとか、経験の蓄積とか、そういうのではない。元来のんき(・・・・)な娘であるだけだ。

 

 みほが、のんびり沈黙を満喫していた一方、群衆の緊張感は加速度的に張り詰められてゆく。

 演説者が黙っている、何事かあったのか、緊張で声が出なくなったのか、それとも内容を忘れてしまったのか──見るからに落ち着きを失いつつある人々を、みほは内心で冷笑した。当の本人を差し置いて、他人が焦燥するというのが可笑しく思えたのだ。

 

 数千の木偶の坊たちが、風や波の囁きにさえ胸の痛みを覚え始めた頃だった。

 最も効果的に、沈黙は撃ち破られる。

 

「──ここで何を話すよりも先に、まず感謝をしたい。試合を引き受けて下さった聖グロリアーナ女学院戦車道部、私に付いてきてくれたチームメイト、運営に関わる様々な委員会、暖かい応援をしてくれた地域の方々、私の話を聞く全ての人々へ。感謝の気持ちは絶えません。私が此処に居られるのは、全て皆さんのお陰です。本当にありがとうございます」

 

 深い角度でお辞儀をする話者につられ、不自然な程多くの人々が会釈を返した。

 無難とも言える挨拶から始まった演説だが、しかし、礼を返した全ての者は、この時点で黒い少女の話に呑み込まれていた。

 

 独創性を欠いた演説は続けられる。

 本日の日柄の良さだとか、敵の勇戦を称える言葉だとか、戦車道という競技の意義だとか、適当なものだ。

 自然、張り詰めた緊張感は解れてゆく。確かに言葉巧みで眠たくならない演説ではあるが、身構えて聞く程度でもない──と、ある種の警戒めいた心理が薄れ、興味が逸れる、正にその途端だった。

 それ(・・)は、至極なめらかに開始された。

 

「──私の眼前に、とても沢山の人が居ます。今、ふと思いました。この大勢の人たちが、果たして何処から来たのか? 私は聞きたい。あなたは、何処から来たのか?」

 

 不意打ちであった。

 弛緩しかけた群衆は、不意に困惑の最中へ叩き落とされた。油断していた分の心理的落差が大きい。

 質問には、誰も答えを出すことが出来ない。当然、成り行きを待つしか選択肢がない。

 そうである。この時、人々は目を剥いて、本当の意味で彼女を見てしまった(・・・・・・・・・)

 

「大勢の人はこう答えるでしょう。『自分は大洗女子学園の町から来たのだ』と。では『大洗の住民』とは一体誰を指すのですか? 役場に赴けば、それが確かめられるでしょうか。紙片一枚を突き出し、紙片一枚を突き返されれば、あなたは大洗の住民だと、高らかに言えるでしょうか。本当にそうですか?」

 

 人々は目線を交わす。得体の知れない不安感に、心臓を鷲掴みにされていた。

 己が言葉の効果全てを承知した微笑を浮かべ、みほは両手を胸に当てる。

 

「例えば、どうです。この『西住みほ』では? 私は産まれも育ちも熊本です。事実、数ヶ月前まで熊本の住民でした。黒森峰女学園という学園艦に住み、勉学に励み、戦車道を営み、糧を食み、友と交わっていました。私自身も、黒森峰こそ我が母校と確かに思っていました。そんな私は、果たして大洗女子学園の住民と言えるでしょうか?」

 

 演説者は口を噤み、聴衆を見渡した。

 呆とする大多数の間で、幾人かは、何か言いたそうな顔で唇を擦り合わせている。けれども、少女が彼らを見つめると、皆一様にさっと顔を伏せてしまう。

 みほは徐々に悲しそうに眉を曲げゆく。

 

「あなたは大洗女子学園の仲間よっ!」

 

 沈痛な空気を一掃する様に、最前列から声が上がった。みほ一人と、数千の視線が一斉にその場へ集まる。発言者は、数多の注目に大きく怯んだ様子だったが、それでも大声を押し出して見せた。

 風紀委員長、園みどり子である。

 

「……西住さんは、もう私たちの一員よっ。学園の事を想って、戦車道を復活させた。こんなに大きな催しを成功させてみせた。私が認めるわ。あなたはここに居る誰よりも、生徒の鑑よ。そんな西住さんを否定する奴は、私が許さないんだから!」

 

 みどり子は息を切らして言い終わると、途端に顔を真っ赤にして「失礼しました……」と小さくなった。

 彼女は本来、出る杭という柄ではなかった。しかし、みほの悲しそうな表情を見て、なのに誰も何も言わないのを見て、とても黙ってはいられなかったのだ。

 園みどり子とは、そういう人だった。

 

 風紀委員長の発言の効果は絶大だった。

 賛同の声が各所からぽつぽつと上がり始めたと思えば、瞬く間に総員を巻き込んだ同調のうねりとなった。

 

『西住さんは我々の仲間だ!!』

 

 腕を振り上げて叫ぶ皆々に、みほは「ありがとう」と、はっとする笑顔で喜んだ、様に見えた。

 暖かい声援に暫し甘んじた後、みほは続けた。

 

「よく町を歩きます。新しい住処へ早く馴染みたいと思うからです。散歩の道中、地元の人とお話もします。その際、気が付く事がありました。町の人たちは、決まって私に同じ事を言うのです」

 

 みほは一息置いて、語気を強め、言った。

 

「『昔の大洗は良かった』のだと『昔を誇ることが出来ても、今を誇ることは出来ない』のだと。『あなただけが希望だ』と、転校生(・・・)の私に頼むのです──さて、この人は大洗の住民と言えるでしょうか?」

 

 煩い歓声が静まった。

 再びの問いかけに、此度は、誰も声を挙げない。苦々しい空気だけが広大な傍聴席に蔓延した。

「是」と言えば嘘になる気がする。かといって「否」と答えれば──詰まる所、彼等には『この人』に心底覚えがあったのである。

 

「……あなた方は、西住みほという新参者を大洗の住民と保証出来るのに、この人には出来ないのですか?」

 

 静かに、だが辛辣に、黒い少女は問うた。決して苛烈でない筈の彼女の視線を、誰も見返すことは不可能だった。

 聴衆は、突然の恥を覚えた。言われるまま、誘われるまま、この場に集まって、彼女の話を聞き、熱狂していた自分自身への羞恥である。

 何年も、或いは何十年も大洗に住み着いて「何とかしたい」と漠然と願いながら、どうして誰も彼処へ登ろうと考えなかったのか。

 どうして、たかが(・・・)ぽっと出の新参者が、あの場所へ立っているのか──その不整合を、みほは痛烈に指摘した。

 

 極一部の傍聴人──みほの本性を承知する──は驚愕する。

 西住みほとは、劇的にして狡猾な人心掌握術にものを言わせて、大洗女子学園の『支配者』になるつもりではなかったのか?

 

 これでは、自らの手の内を破却する様なものではないか。

 今回の試合で『軍神』の無敗神話は終わった。その上で、転校生が在来住民を先導するという異常性を殊更に指摘し、批判した。

 

 よもや諦めたか。そう信じられれば良い。だが、この胸のざわつきは何だろう。

 良くないなにか(・・・)が深淵から這い登って来る。それは知らぬ間に肺腑の奥を侵食し、じわりじわりと内側から呑み込まれてしまう──西住みほの言葉を聞いていると、そんな猜疑に陥るのだ。

 問題は、そのなにか(・・・)に形が無く、色が無く、音も無ければ臭いも無い、完全に透き通っている点なのだ。

 

「私の話をしましょう」

 

 壇上に在る黒衣の演説者は、全てを無視して話を続行した。論理的にも、感情的にも、正気でない(・・・・・)彼らの消沈を意に介する必要性を感じなかったのだ。

 

「先程も言った通り、私は黒森峰女学園の出身です。戦車道が盛んで、古くから西住流との繋がりも深い学校でした。そこで戦車道部の副隊長をしていたんです。昨年は全国大会十連覇という実績も挙げました。とても居心地が良かった。学校や友人が好きだった。西住家の女は、代々この学校を卒業するのが習わしです。私の母や、祖母や……曾祖母も黒森峰の卒業生です。けれど、きっと、私は違う(・・・・)

 

 一瞬、漆黒の瞳の奥で、毒々しい色が流動する。その色は、誰に気取られる間も無く、活動を止めた。

 代わりにきつい腕組みをして、みほは述懐を続ける。

 

「私が此処に立つ経緯には様々あります。多くの人の名誉のため、詳しい話はよしましょう。けれども、敢えて原因を挙げるとするならば──私は全く思い上がっていたのです。私独りが強く、皆を率いれば良いと思っていた。自分の理想は、他人の理想だと信じていた。言葉にせずとも、行動で認識が伝わると理解していた──その思い上がりが、私の全部を奪った」

 

 みほは、蒼天に遠い目を向けた。視線にどういう意味があるのか、万人の目に明らかであった。

 未練(・・)

 みほは少しも隠そうとはしなかった。考えれば『家』『学校』『生き甲斐』とを同時に全て奪われたのだ。思春期の少女にとって、それは世界の総括と同じではないか。

 未練を懐いて何が悪かろう。

 

まぬけ(・・・)でしょ?」

 

 みほは胡桃色の髪を掻き混ぜて、自嘲混じりに呟いた。

 

「まるで失敗だらけなんですよ。何にもかもが上手くゆかない。新しい試みの度、無力感に叩きのめされる。やっとの思いで這い上がったと思ったら、既に手遅れ。頑張れば頑張る程、失った時の悲しみは絶大だ。もう嫌になる。失敗が怖い、挫折が怖い、後悔するのが怖い──」

 

 尻すぼまりに声が失せた。頭を垂れる少女の姿は痛々しく、見るに耐えない。

 その情けない姿に、聴衆は初めて西住みほという人間に共感を持った。人々とは、他人の強い部分より、弱い部分に共感し、安心したがるものだ。

 どこか自分とは隔絶した人種であると思っていた『西住みほ』。果たして彼女の正体とは、ここで尻込みし、恥じ入る自分たちと変わりないのだ──と信じかけた時、みほは顔を上げた。

 

然れども私は此処に立っている(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 演者は期待を裏切り、断言した。全ての聴者は圧倒され、息を呑む。

 少女が一変した。

 その全身から生命力が噴出し、黒い瞳からは底無しの闘気が迸る──今日これまでは同じⅣ号に乗る者しか知り得なかった、それは、一人の戦車乙女の姿だった。

 

「人が往く道は何時も理不尽で舗装されている。歩めば歩むほど足はもつれ、風雨に打ちのめされ、転んだ所をまた叩かれる。けれども、嗚呼、それがどうした(・・・・・・・)。私は、その道を歩み通した人を知っている。遂には倒れたその人の、続きを歩んだ人を知っている。そして、今、私の足下に倒れた人の顔を知っている──だから私は、未だに此処で立っている。百の挫折を強いられても、往き先だけは忘れない。何故なら苦難に立ち止まったその時、私の足元へ続く、ただ一筋の道程を返り見るからだ。幾人が倒れ伏し、幾度も継がれた血の道(・・・)が、何時も私に語り掛けてくる」

 

 演説者は、黒い両腕を目一杯に開いた。

 浮世全ての理不尽を歓迎した様に、忌むべき身上を祝福する様に──かつて彼女の曾祖母が雲霞の敵に同じくした様に──笑う。

 

闘争せよ(・・・・)

 

 巻雲が流れている、日は暖かく射し、海風は颯爽と髪の間を抜けてゆく。西住みほの言葉は、それら自然物と同じ静けさで、人々の肌から染み入った。

 

「世界は大きな不条理で満ちている。生きる事とは、それそのものが苦しみだ。だからこそ闘争は美しい(・・・・・・・・・・・)。その信念を胸に持って歩いてきた。結果、何もかも失った。道半ば倒れ、痛みで動けなくなるとも思った。だが、この腕はどうか。まだもがける。この足はどうか。まだ立てる。この両眼はどうか。まだ道の先を見据えられる。では、この心臓は。まだ血を廻らしている──私は、まだ生きている」

 

 彼女の声は、語りかける平静から、訴えかける激情に転じた。声調に合わせ、所作も芝居じみて大振りになる。

 

「生きているなら立ち上がる。立ち上がって前進する。然れば此処に銘記せよ! ありとあらゆる障碍は、この認識を阻めない。何人たりとも『西住の流儀』を止める事は出来ない!」

 

 誰もが皆、西住みほを悲劇のヒロインだと思っていた。きっとそう思われたままであれば、同情のままに、生きるに易い生活が待っていたのだろう。

 しかし、そうで在る事を、彼女の尊厳は選ばなかった。

 悲運の少女として囲われながら生きる事と、敢えて悲運を突き返し再び闘いを選ぶ事。どちらが人間として尊い選択であるか──少なくとも、彼女は知っていたのだ。

 

「何処へ行っても、皆が口を揃えて私に言う事がある。『同じ戦車に乗せてくれ』『我々を率いてくれ』と……もう沢山だ。それは断然間違っている。私の主人は私で、あなたの主人はあなただ。その認識を、何人にも侵略させてはならない。誰に強要されるでもなく、誰に譲渡するでもない──あなたは、あなた自身の『自由意志(・・・・)』で闘わなければならない!」

 

 みほは一息に言うと、少し息を切らした様に肩を上下させた。呼吸を整えながら、再び穏やかな少女の言葉で続けた。

 

「私は大洗女子学園を、私好み(・・・)の学校に変えたかった。大好きだった故郷を超える様な、この場所こそが第二の故郷なのだと、胸を張って言える様な、素敵な町にしたいのです。私一人で変えるのではありません。各々が、各々の意志と、方法で変えて欲しい。少しだけで良いんです。学生は学生の、社会人は社会人の、家人は家人の。平生にある、ほんの小さな苦労に立ち向かうだけで良い。自分は確かに大洗の住民だと、胸を張って言えるだけで十分です。それを実行したならば、私たちは信念を分かち合った仲間となる。同じ船に揺られ、同じ思想の下、困難に相対する真の同志に」

 

 壇上のみほは、話しながらも下段の聴衆を眺め渡した。間もなく気が付く。判然とせず、区別もつかなかったはずの人々の顔が、自ずから浮き上がって見えるのだ。

 みほにとって、ただの『大勢』という塊に過ぎなかったものが、明確な意志を持った『個人』の集まりへ変化しつつあった。

 

闘争せよ(・・・・)大洗。人間は自由意志の生き物だ。苦難に負けるな、世界を変えろ。理不尽を倒せ、停滞を破れ、諦めを殺せ。闘争の意志を持つ限り、人間は無限に自由だ。あなたはあなたの大道を闊歩せよ」

 

 集まる理由も無く、しかるべき恥も無く、たかが(・・・)女子高生の言葉に一喜一憂していた聴衆は、ただ無言でそこに在った。だが沈黙にはあらず。己の両眼で、百の口述より雄弁に意志を伝えていた。

 一過性の熱も、上辺のはったりも、ここでは全く消え失せた。それで良い。本物の意志とは、言葉ではなく目に宿るのだ。

 

闘争せよ(・・・・)

 

 明確な意志の光が込められた、無数の両眼に見つめられた時、みほにある現象が起こった。

 背中に汗が伝うのを感じる。胸の鼓動が、まるで銅鑼(どら)の様だ。なんだか膝が震えて言う事を聞かない。空気とはこんなに吸いにくいものだったか。

 不可解な現象に伴う様にして、 腹の底から形容し難いほど、激しい感情の波が押し寄せてきた。少女は僅かに狼狽し、その感情の正体を必死で探った。

 やがて、その感情が『緊張』だと悟った時、黒い少女は愕然とする。それと同時に、にわかに泣き出したくなるような莫大な恐怖と、それに勝る無尽蔵の歓喜が爆発した。

 

 嗚呼、そうだ。これが人間の目だ。

 私は『正気』に見られているのだ──

 

 何もかも初めての経験だった。

 大洗という真白のキャンバスに、西住みほという芸術家が色を乗せた。しかし、その色は予想外の色調に変わり、独りでにキャンバスを駆け巡る。

 もはや、芸術家が何もしなくても(・・・・・・・・・・・)絵は描かれてゆく。果たしてどんな絵が出来上がるのやら、いち女学生如きには見当もつかなかった──だからこそ、面白い。

 西住みほは笑う。誰よりも人間らしく、それ故に誰よりも魅力的に。

 

「私は指導者ではありません。まして、無敗の軍神などでも。そう、私は、あなたの隣人──」

 

 中学生の時、神に成ろうと思った。

 失敗した。

 人は自由意志を放棄し、最も唾棄すべき存在へと自ら成り下がった。

 

 高校生の初期、指導者に成ろうと思った。

 失敗した。

 要を失った人は自分の足で立つことが出来ず、堅牢と信じた集団は崩壊した。

 

 では、次は?

 次は何に成ろうか。

 

「──そして願わくは、あなたの友人(・・)に成りたい」

 

 




 僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかもしれない。僕の前を歩かないでくれ。僕はついていかないかもしれない。ただ僕と一緒に歩いて、友達でいてほしい。

 ──アルベール・カミュ

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