大洗女子学園生徒会室には重い空気が漂っていた。
突然の最後通牒を叩きつけられたあの日から、何度となく経験した暗いムードだった。
原因は、昼休みに会う手筈であった西住みほに接触できなかったことにある。
このことに、生徒会長である角谷杏は「また会いにいきゃいいんだから」と軽口を叩いて仲間を労った。しかし、広報担当の河嶋桃が「幸先が悪い」「このままでは廃校だ」と大袈裟に騒ぎ立てたせいで、思い出したくもないことを思わずにはいられなくなったのである。
副会長の小山柚子になだめられて今は落ち着きを取り戻したが、如何ともし難い重い空気だけは場に残った。
皆が不安がるのも無理はない。
西住みほは計画の要であり、彼女の力を借りることが出来なければ一巻の終わりなのだ。接触について過敏になるのは当然である。
だからこそ、会長の杏がどっしりと構えることで、少しでも皆を安心させようとしていた。
しかし、うんざりするほど味わったこの雰囲気には、内心の焦りを掻き立てられるようで慣れなかった。
「まー、焦ってもしょうがないっしょ。それより集会の準備、急いでねん」
自分に言い聞かせるように軽く言うと、二人は「はい」と頼りなく返事をして作業にかかった。仕事をしていれば少しは気も紛れるだろう。
杏自身も手元の報告書に目を通した。
それは、この期間で徹底的に調べ上げた西住みほの来歴についてだった。
◆
下校間際のホームルームに「全校生徒は体育館に集合するように」という放送が順当になされた。
続々と全生徒が集まってくる様を壇上から眺めるのは壮観であった。
生徒会に入った時から滅茶苦茶をしていたつもりだったが、うちの生徒はそれにも慣れて(呆れて?)素直に従ってくれるのは有難いことである。この光景が妙に愛おしかった。
生徒会の後輩や風紀委員が声を張り上げて学年別、クラス別になるように誘導している。
何とはなしに集団が分かれると、杏は2年A組の集団辺りから、西住みほを探した。
彼女はすぐに見つかった。
友人とお喋りをしながら穏やかに笑っていた。
杏は意外に思った。報告書によれば、過去に戦車道で鬼のような成績を残し、大洗に転校してきてからは品行方正で学業優秀、まさに文武両道の鑑といった人物像であった。
半ば非人間的な印象を持たせる彼女が、こうして実際に見てみると温厚で親切そうな可愛らしい女子であることに、少しほっとした。
段取りは進み、体育館の照明が落とされスクリーンに『戦車道入門』の動画が流される。動画の準備は桃、ナレーションは柚子が当てていた。
最初から最後まで戦車道を絶賛する内容である。
我々の仕業ながら酷い偏向であった。そもそも戦車道の経験もないのに、偉そうに
しかし、同じく戦車道の経験の無い生徒達は真に受けて目を輝かせていた。
胸が痛まないでもなかったが、なりふり構っていられない現状であった。
さらに駄目押しとばかりに「戦車道履修者には生徒会権限によって数々の特権を与える」ということを伝えると、生徒達はさらに浮き立った。
これならば、良いだろう。人数確保の目処は立った。あとは人材の確保である。
「というわけでー、戦車道、ぜひ選択してねー。それじゃあ、解散」
依然として浮き立つ生徒達にそう告げ、そして付け足した。
「それと、普通Ⅰ科2年A組の西住ちゃん。ちょっと話があるから、残ってね」
そう言うと「西住?」「西住って、あの『良心』の西住さん?」という声が、騒然とする生徒の中にぽつぽつと混じった。
◆
集会の後、生徒たちはぞろぞろと退館していった。
西住みほは、しばらく二人の友人と話していた(心配されている風だった)が、やがてその二人とも別れて、いよいよ一人になった。
広い体育館のど真ん中で、ぽつねんと体育座りしているみほの様子は、何だか小動物じみていて哀れだった。
こちらも生徒会のメンバーを先に帰らせ、残るは三人だけになった。彼処から来る気は皆目無さそうなので、此方から足を運んだ。
ある程度近づくと、西住みほはおもむろに立ち上がった。
「私が西住です」
穏やかな微笑と、それに見合う優しげな声だった。そこからは警戒心の欠片も感じられない。
桃と柚子は朗らかな第一印象を受けた。「いい娘そうだ」とほっとした。
杏は、一瞬足を止めた。両脇の二人が不思議そうに杏を見た。
それもつかの間、いつも通りの飄々とした様子で杏は手を振った。
「やっ、西住ちゃん!」
つかつかとみほに歩み寄って、肩を組んだ。
みほは少し驚いたようだった。
「ご存知の通り、戦車道復活させることになったから」
「そうみたいですね」
「それでさぁ、西住ちゃんには是非! 戦車道を選択して欲しいんだよね」
「え……どうして」
「そんなとぼけちゃって。実家が戦車道の家元なんでしょー?」
「でも私、戦車道をやっていない高校だったから転校させられて来たんですけど……」
「話ってのはそれだけ。まっ、そういう訳でよろしく!」
背中をばんと叩いて強引に押し切った。
みほは少しよろけて、目をぱちくりさせた。その後、うーんと悩むような仕草をして言った。
「考えておきます」
実に日本人的に返答を濁して「失礼します」とにっこりしてから、みほはその場を後にした。
体育館には三人だけが残された。
みほの背中が見えなくなってから、杏は低い声で言った。
「……笑ってたね」
「何だか優しそうな娘でした。やっぱり強引だったかしら……」
「強引でも何でも、手段は選んでられん! まぁ、確かに、その優しさにつけ込むようかもしれんが……」
その後も柚子と桃は罪悪感を紛らわすように、やいのやいのと議論を続けたが、杏は黙って、あの西住みほの笑顔を思い出していた。
あの優しそうで、揉め事が嫌いそうな彼女が。
転校生が集会で生徒会に名指しで呼ばれる……その状況で不安や警戒心を一切見せず、なおかつ笑ってみせられるものだろうか?
見かけによらず肝が座っている、と判断すればよいのか、それとも……。
それ以上の追求をするには材料が足らな過ぎた。何より、無理矢理押し付けておいて被害者の裏を疑うような真似は、杏の正義感が邪魔をした。
◆
西住みほは上機嫌だった。
一人帰路につく廊下をスキップでもしたいそんな気分。
大幅に
生徒会が私を必要としていて、それに協力させられる……そういう理由で私は戦車道を始めさせられるらしい。断ったとて、どうせ無理矢理引きずり込まれるのだろうな。
何とも素晴らしい、それでは私は被害者か?
勝手な生徒会に振り回される、右も左も分からない転校生。そうなるのだろうな。
どうやら私は、どうあっても闘争から抜け出すことはできないらしい。
これでは私が戦車道を好いているのか、戦車道が私を好いているのか分かったものじゃない。
いいじゃないか。
生きることこそ闘争であり、闘争こそが最大の生の主張なのだから。
私はまだ生きている。産まれし日より、理由はそれで十分だ。
それにしても、あの角谷杏という人。人一倍臆病で、小心な生徒会長……勘が良い。
小胆だからこそ、人を見る目が敏感なのだろう。さっきも何か気がついたらしかった。
構わない。私は嘘はつかない、隠すことなど何も無い。私ほど堂々と生きている人間も、そうはいないだろう。
だが、悲しきかな角谷杏。
あなたには選択肢が少なすぎる。守るべきものの大きさ故に、自ずから選択肢を狭めている。
しかし、それも深い優しさと、愛の成すことだ。
ならば尊敬するべきか。優しさは、この世で最も尊ぶべきものなのだから。
あとは、愛……
いいな、それは、最高だ。
「楽しいなぁ」
やはり戦車道はこの世で最も楽しいものだ。
必修選択科目の申請期間は今後一週間までとする。