崩壊した屍人の巣の一角で、四方田春海は物陰に身を隠し、膝を抱えて震えていた。屍人に追われ、隠れているのだ。屍人は近くにいる。春海がよく知る――春海が心から慕った人の、変わり果てた姿。
「お願い春海ちゃん……先生、もう怒ったりしないから、出てきて……」
春海の小学校の担任教師・高遠玲子は、血の涙を流し、右手にバールを持ち、春海の姿を探している。春海を心配しているような声だったが、やがて。
「……先生がこんなに謝ってるのに、どうして許してくれないの!」
急に、感情が高ぶった。バールを振り上げ、そばにある物を、手当たり次第に叩く。
「……どうして先生のいうことが聞けないの? どうしてそんなに悪い子なの!! 先生はめ……春海ちゃんのために言ってるの。お母さんは……先生は……春海ちゃんを助けようとしてるの! どうしてそれが判らないの!!」
ヒステリックに叫びながら暴れる。
春海は目を閉じ、耳を押さえ、恐怖に耐える。
しばらくすると玲子は。
「……ごめん……ごめんなさい! お母さん……先生……また……怒っちゃった……」
急に感情が変わり、泣いているかのような声を出す。
「……本当にダメなお母さんだよね……許して……春海ちゃん……お願い……出てきて……春海ちゃんを護りたいの……春海ちゃんに謝りたいの……」
だが、その感情も消え、また玲子は怒り暴れ出す。暴れたと思ったら、泣いて謝る。そしてまた、暴れる。
春海は泣く。春海は震える。怖い。たまらなく怖い。どうして玲子先生まで、あたしを襲うのだろう? どうしてみんな、あたしを追って来るのだろう?
怖い。
逃げられない。
こんなに怖い思いをするのなら、先生の言う通りにした方がいいのではないだろうか?
そう思う。
先生は言う。あたしを助けようとしていると。あたしを護ろうとしていると。
そうかもしれない。
屍人が怖いのは、あたしが人間だからだ。
なら、あたしも屍人になれば、もう怖くない。
あたしも屍人になれば、もう誰も襲ってこない。もう誰も追いかけて来ない。
屍人になれば、全て、うまく行くんだ。
知子ちゃんは幸せそうだった。屍人になったお父さん、お母さんと、一緒に暮らせて。
そうだよ。
屍人になれば、もう怖い思いをしなくていい。
屍人になれば、もう逃げなくていい。
先生が護ってくれる。
ずっと、先生と一緒にいられるんだ。
先生が、お母さんになってくれる。
あたしの、お母さんに……。
春海は。
――お母さん、助けて。
昨日見た夢を思い出した。
闇の中、一人で泣いていた少女。お母さんに助けを求めながら、闇の底に沈んで行った。
顔を上げる春海。
――そうか……あの子は……。
春海は立ち上がると。
大きく深呼吸をし、パンパンと、頬を叩く。
――逃げちゃダメ。あきらめちゃダメ。
そして、玲子の前に出て行った。
玲子が、春海の姿を見つけた。
「ああ! 春海ちゃん! そこにいたのね。さあ、先生の所に来て。一緒に、行きましょう」
手を伸ばす。
春海は、大きく首を振った。
「どうして? 先生、春海ちゃんを、いいところに連れて行ってあげるのよ? 怖くないんだよ? こんな所に一人でいる方が怖いでしょ? だから、ね?」
優しい言葉だが、少しずつ苛立ちが含まれていることに、春海は気付いていた。言う通りにしないと、また、玲子先生は怒りだすだろう。怖い。そんな玲子先生の姿、見たくない。
それでも、春海は首を振る。
「どうして……どうして先生のいうことが聞けないの!!」
玲子の感情が、また高ぶる。
「あたしは! 春海ちゃんを護りたいの!! 春海ちゃんのお母さんになって! 春海ちゃんのそばにずっといるの!! 春海ちゃんはあたしの娘なの!! 誰にも邪魔させない!! 春海ちゃんは、あたしの!!」
また、手当たり次第に周りの物を殴る。
怯え、震える春海。
そんな春海の様子気に気付いた玲子は、また、泣きながら言った。「……ごめんなさい……お母さん……本当は怒ってないの……ただ……春海ちゃんのためを思って……。ね? だから、行こう? お母さんと一緒に。先生は、春海ちゃんのお母さんなのよ?」
春海は、また、大きく首を振る。
そして。
「――先生は、あたしのお母さんじゃ、ない」
小さいけれど、はっきりとした声で、そう言った。
その言葉を聞いた玲子の表情が変わる。悲しみと、怒りの混じった顔。
「なんで……なんでそんな……酷いことを言うの……」
玲子の声が、低く、恐ろしくなる。「こんなに春海ちゃんのことを思っているのに、こんなに春海ちゃんを護りたいと思っているのに! こんなに謝っているのに!! あなたは! どうしてあたしの気持ちが判らないの!!」
バールを叩きつける。暴れる。
怖い。涙があふれてくる。
でも、泣かない。
言わなくちゃいけない。
先生は、あたしのお母さんじゃない。
あたしは、先生の娘にはなれない。
だって……。
「これだけ言っても判らない子は!!」
玲子が、春海に向かってバールを振り上げた。
「だって……だって!」
春海は逃げない。涙をいっぱいに溜めた目で、まっすぐに、玲子を見つめた。
「先生が本当に護らなければいけないのは、あたしじゃなくて、めぐみちゃんだから!」
叫んだ。
こんなに大きな声を出すのは、生まれて初めてかもしれない。もう二度と無いかもしれない。
だから、心の底から。
「先生が本当に謝らなきゃいけないのは、あたしじゃなくて、めぐみちゃんだから!!」
春海は、叫ぶ。
玲子の振り上げたバールが、止まる。
「め……ぐ……み……」
バールが震えている。玲子が震えている。
めぐみちゃん――玲子先生の娘。二年前、海水浴中の事故で亡くなった。玲子先生が他の子供たちを助けている間に、海の底に消えた。
春海は、叫ぶ。
「先生。あたしはめぐみちゃんじゃないの。だから、あたしを護っても、先生は救われない。あたしに謝っても、先生は許されないの。あたしをめぐみちゃんの代わりにしないで!!」
春海の声が、玲子を震わせている。
「めぐみちゃんは今も泣いてる。先生が助けに来てくれるのを待ってる。一人でずっと先生を待ってるんだよ。どうして迎えに行ってあげないの? 先生がめぐみちゃんから目を逸らせば逸らすほど、めぐみちゃんは、どんどん孤独になっていくの!」
「めぐみ……あたし……は……」戸惑うような表情の玲子。
春海は、ふっと、笑顔になった。「判ってる。先生、怖いんだよね。めぐみちゃんが怒っているかもしれない、めぐみちゃんに嫌われているかもしれない、そう思うから、めぐみちゃんと向き合うのが怖いんだよね」
玲子の、振り上げたバールが震えている。
玲子の気持ちは、春海にもよく判る。怖い、逃げ出したい――春海だからこそ、その気持ちが判るのだ。
だから、言わなくちゃいけない。
先生の気持ちが、痛いほど判るから。
「でもね、先生――」
春海は、玲子を真っ直ぐに見据え。
「――どんなに怖くても、逃げちゃダメだよ! あきらめちゃダメだよ!!」
春海自身が、ずっと心の支えにしてきた言葉を、ぶつけた。
「先生がめぐみちゃんにしたことは、許されることではないかもしれない。でも、だからって、めぐみちゃんから逃げちゃダメ。そんなの、先生じゃない!! あたしを護って、あたしに謝っても、何も解決しない。それじゃ、めぐみちゃんは、ずっと一人ぼっちのままなの!!」
想いが、玲子に届くように。
春海は、さらに言葉を継ぐ。
「――大丈夫。めぐみちゃんは、先生のことを嫌ったりはしない。どんなに怒られても、酷い目に遭わされても、子供は、それでもお母さんのことが大好きなんだから」
「めぐみが……あたしを……」
「そうだよ! だって、先生は、本当は優しい人だって、判ってるから」
玲子は、小さく首を振った。「……あたしには……めぐみに会う資格なんて……ない……だってあたしは……あの時……あの子を見捨て……」
「そんなことない!!」春海は叫んだ。「それは、絶対違う! 先生は、めぐみちゃんを見捨てたんじゃない! 先生は、命を懸けて二人の子供を救ったんだよ!」
「――――」
「先生に命を救われた子は、今も、絶対、先生に感謝している。先生に護られた人生を、これからも、ずっと生きていくんだよ!! そのことは、絶対間違いないから!!」
そして、春海は目を閉じ。
「あたしも、先生に護られた」
両手を、胸に当てた。
「学校から逃げ出そうとした時も、刈割で屍人に襲われた時も、ずっと、先生が護ってくれた。先生がいたから、あたしは、今、ここにいる。まだ、人間でいられるの」
だから――と、春海は言葉を継ぐ。
「あたしも、生きていく。もう、絶対に泣いたりしない。絶対に、あきらめたりしない。先生が護ってくれた人生を、ずっと、生きていきたいから」
春海は目を開け、まっすぐに、玲子を見る。
「あたしは大丈夫。もう、先生に心配をかけるようなことはしない。だから……先生は、めぐみちゃんの所に、行ってください」
そして、とびっきりの笑顔を浮かべ。
「先生のこと、大好きだよ」
玲子に、最後の言葉を伝えた。
玲子の手から、バールが滑り、音をたてて床に落ちた。
「春海……め……ぐ……み……」
その、音に反応するように。
「……ううん? こっちから、春海ちゃんの臭いがするねぇ?」
壁が崩れる。中から、バットを持った校長の屍人が現れた。
息を飲む春海。
校長は、触手でうねる顔を春海に向けた。「春海ちゃん、みーつけた。今度こそ、逃がさないよぉ?」
春海に近づいて来る。
春海は、泣き出しそうになった。逃げ出しそうになった。
でも、玲子先生と、目があった。
春海は、逃げ出しそうな足を踏ん張って立ち。
鋭い目を、校長に向けた。
「――お前なんか怖くないもん!!」
自分を奮い立たせるように、言う。
「あたしはもう泣かない! あたしはもう逃げない!! 先生が心配するから、もう、絶対絶対、あきらめないんだからぁ!!」
春海は、拳を振り上げて、屍人に向かって行った。
屍人のお腹を叩く。何度も、何度も、叩く。いや、叩く、というほど、強いものではない。柔らかい春海の拳と、非力な腕は、とても、叩くなどと呼べるものではなかった。
屍人は、わずらわしそうに腕を振った。
屍人の手に頬をはたかれた春海は、床に倒れた。
それでも春海は、顔を上げる。目に涙をためながら、それでも泣かず、歯を食いしばり、屍人を睨み返す。
「大人に手をあげるなんて春海ちゃんは悪い子だ。お仕置きしなくちゃね」
屍人が、バットを振り上げた。
春海は目を閉じる。
空気を斬り裂く音がした。
がつん、と、音がして。
でも、痛くない。何かに抱きしめられているような感覚。
春海は、目を開けた。
玲子が、春海を抱きしめていた。
「……春海ちゃん……大丈夫……?」
春海に、笑顔を向ける。
血の涙を流し、人ではない肌の色をしていても。
それは紛れもなく、春海が大好きな、玲子先生の笑顔だった。
屍人が、もう一度バットを振り上げる。
そのバットが振り下ろされるよりも早く、玲子が、屍人の身体に飛びついた。
少しでも春海から遠ざけようと、屍人の身体を押す。屍人も踏ん張るが、玲子の方が強い。屍人は、背後の壁に激しく背中を打ち付けた。
その衝撃で、巣が、大きく揺れる。
洪水により崩壊しかけていた巣だ。わずかな衝撃でも、崩れる可能性がある。
玲子と、屍人の頭上から、瓦礫が降ってきた。
玲子が振り返った。春海を見た。
――春海ちゃん、ありがとう。
玲子の目が、そう言っていた。
「先生!!」
春海の声は、瓦礫の崩れる音に飲み込まれた。
春海は、意識が薄れていくのが判った。ずっと張っていた気持ちが、ぷつりと、切れてしまったのかもしれない。
――先生、ありがとう。
心の中で、そう告げて。
春海は倒れた。
☆
意識を失う前、誰かの気配を感じた。先生でも、屍人でもない。春海より年上の男の子だった。
男の子そばに、美耶ちゃんがいるような気がした。
でも、姿は見えなかったから、気のせいかもしれない。