――ドーナッツ。
小麦粉に水・砂糖・バター・卵などを混ぜた生地を、油で揚げた食品。
日本では、一般的にリング状の形をしており、実際に『ドーナッツ』と言われて思い浮かべるのは、あの狐色をした輪になるだろう。
その歴史は400年ほど遡り、オランダで小麦粉・砂糖・卵で作った生地を酵母で発酵させ、ラードで揚げたボール状のお菓子を原型としているという。
一般的な『リングドーナツ』の形になった経緯は諸説あるが、19世紀中ごろからでてきたらしい。
ちなみに、『ドーナッツ』の語源は、当時オランダで、ドーナッツの原型になったお菓子にクルミを乗せていたことから、
『生地』を表す『ドウ』に、『木の実』を表す『ナッツ』がくっついて『ドウナッツ』になったそう。
さて、そのドーナッツだが、こんなことを考える奴が、世の中にはいたりする。
――『ドーナッツの、穴だけを残して食べることは可能か、否か。』
『ドーナツホール』の名でよく知られる話題だが、
もし、私が自分なりに答えを出すのであれば、断じて否。
『穴』とは、周囲を囲う『輪』があるからこそ存在するのであって、決して『穴』の無い『輪』も、『輪』のない『穴』も存在しない。
穴は『くぼみ』のことも差すが、そのくぼみについても、周りの
『空白』という言葉についても、おそらく同じ事が言える。
空間を区切る
何もない、区切る物もないその空間は、『
最近はこの手の話を見ることもなくなったが、『バナナはおやつに入りますか』に並ぶほど下らない話の定番だと思う。
さて、ここまで実に下らない話をしてきたわけだが、下らないついでに1つ、脈略の無い話をしてみよう。
――こんな噂を聞いたことがあるだろうか、と。――
所謂『都市伝説』の類の話だ。
———『都市伝説』。
———例えばそれは、『人類は月に行っていない』という都市伝説。
———例えばそれは、ドル紙幣に隠されたフリーメイソンの陰謀。
———例えばそれは、フィラデルフィア計画による時間移動実験。
千代田線核シェルター説、エリア51、ロズウェル事件、などなど——–—
結論だけを言うのなら、『都市伝説』とは『願望』であり、『そうだったら面白いのに』と、
この世界は混沌ではなく秩序で構成され、偶然ではなく必然で満ちていると、
後ろで糸を引く誰かさんを想像することによって、
不条理で、理不尽で、あまりにも苦々しいこの世界に、せめてひとかけらの意味を見出そうと。
そんな切実な、ささやかなる『願い』。
それが、『都市伝説』であり、『噂』。
しかし、そんな掃いて捨てても、吸って捨ててもまだあるような、ありふれた
今回話すのは、その都市伝説の中に、『真実』が紛れ込んでいるということ。
――誤解なきよう、先ほどあげたいくつかの中に真実があるという話ではない。
非現実的すぎる『
その
彼もしくは彼女がそこまで有名になったわけは、その
曰く、無敵。
曰く、最強。
曰く、280以上のゲームで全戦全勝にして無敗
曰く、幾多のゲームにて不動の記録を打ち立て、世界ランクの頂点を総ナメにしている。
曰く、
曰く、先読みは通じず、ツールやチートを使っても敗北した。
実に上げ始めたらキリがないほど。
もちろん、鵜呑みにせずに疑って調べる者もいるが。
――そのすべてが、見事に玉砕されている。
調べてみればたしかに、
そうして、自由に閲覧できる実績に並ぶは、数え切れないほどの
こうして、謎は深まるばかり。
やれ『ハイレベルプレイヤー限定のゲーマーグループ』だの、やれ『敗北実績を消しているハッカー』だの、噂の尾ひれは肥大するばかりで、衰える気配は無い。
だが、火の無いところに煙は立たない、ともいう。
火は、火種はともかくとして、『燃える物』がなければそもそも燃えない。
あとからあとから、噂の肥大に伴って投入される
彼はアカウントを有し、発言の場も機会も与えられているが、それらを利用したことはただの一度もない。
故に、誰も彼と交流を持たずに、持てずに、日本人であるというかすかな情報以外、一切の情報が出回らない。
それが、無意識にその火の燃料となり、
――なので
――紹介しよう。
これが、280を超えるゲーム、そのすべての頂点に立ち。
今もなお破られぬ記録を立て、そしてそれを打ち立て続ける。
全勝・無敗・無敵・最強の4拍子揃った伝説のゲーマー。
◆◆◆
「うぁー、ちょっとまって、死ぬ死ぬ、死ぬって……あぁ、クソ。また
「ん、むぐむぐ……両足、で……マウス2つ、は、無理あった。」
「いーから早く、リザリザ――って、おいズルいぞ妹よっ! こちとら三日なんも食ってねえのに、なに一人で勝手に
「……にぃも、食べる……? ドうまい・スティック(いちごメレンゲ味)、とか……」
「姉のゲテモノ趣味で買ってきた、セレブ用の嗜好品なんざ、誰が食うか。それより、早くリザ、リザぁ!」
「……む、ぐ……ん、はい」
シュヴァァ……キュリンッ!
「あい、サンキュっと……つか、今何時?」
「……えと、夜中の、8時……」
「朝8時を夜中とは、斬新な表現だな妹よ。で、何日の?」
「さぁ……いち、に――差し入れが、4つ……だから……4日、目?」
「いや、徹夜した日数じゃなくてだな。何月の何日よ?」
「……ニートの、にぃに…関係、ある…?」
「あるだろそりゃ! ネトゲのイベント開催日とかランク大会とか!」
――と、ネットゲームに興じる一組の男女。
視線も交わさずに会話する二人。
部屋は、16畳ほど、あるだろうか。 なかなか広い、が。
大小、設置携帯問わず無数のゲーム機と、一人4台、計8台のパソコンに接続された配線は、蛇かなにかのように床を這い、うねり、開封されたゲームパッケージは部屋の隅に山積みになり、彼らが『兵糧』と呼ぶカップ麺やペットボトル、そして彼らに何者かが差し入れた菓子をはじめとした嗜好品類で床は埋め尽くされている。
よく見れば、部屋の奥には比較的作りの頑丈なゲームパッケージを並べ、さらにガムテープなどで補強した物の上に、敷布団、掛け布団、枕を置いたベッドのようなものが見える。
ゲーマーらしく反応速度を優先させたLEDの光と、
とうに上った太陽が遮光カーテンの隙間から落とす光だけがぼんやり照らす部屋で。
二人は言う。
「……にぃ、就職……しないの?」
「――おまえこそ、今日も学校、いかねえの?」
「……」
「……」
以後、二人の間に会話が交わされることはない。
兄――
典型的ひきこもりを思わせる、Tシャツとジーパン。黒いボサボサの短髪の青年。
妹――
兄との血のつながりを疑うほど、対照的に真っ白な、だが手入れのされていない長い髪が顔を隠し、入学したその日以来、一度も日の目を浴びせていない、小学校の制服であるセーラー服の少女。
この二人こそが、
――ぴん、ぽーん
いや、訂正しよう――
二人のいる部屋、を有する家に鳴り響く、軽快なチャイム音。
居留守を繰り返し、もはや悪徳セールスマンすらこの家のチャイムは鳴らさない。
この家のチャイムを鳴らすのは、勝手を知らない新人セールスマンか、
「……にぃ、チャイム……」
「あ? 姉ちゃんが帰ってくるには早すぎるぞ、妹よ。どうせ、悪戯かセールスマンだろ?」
「友達、かも……」
「……誰の?」
「にぃ、の……」
「あははー。なんだろう、愛しい妹に胸をえぐられる皮肉を言われた気がするー」
繰り返すが、兄――
この部屋に引きこもってすでに久しく、外部とのコミュニケーションも取っていないような彼に、
友人などと呼べる存在など、いない。
――ぴん、ぴん、ぽーん――ぴん、ぴん、ぽーん。
――ぴん、ぴん、ぴん、ぴん、ぴん、ぴん、ぽーん。
「あー、うるせぇ! 変な悪戯はいいから早く入ってこい!」
「……ねぇ、帰ってきた……?」
まっとうなセールスマンや、配達員なら……いや、悪徳セールスマンや詐欺師であっても、人様の家のチャイムで、軽快な三三七拍子を奏でるような不躾なまねはしない。
しかしこの兄妹は、こんなふざけた真似をする人物を、一人、知っている。
がちゃん。
家の鍵が開けられる音がし、やがて足音が部屋の外から響いてくる。
その足音が、部屋のドアの前でとまる。
「へーい! 弟よ妹よー! お前たちの愛しのお姉さまがご帰宅なさったぞー!」
部屋の薄暗さとは対照的に、無駄に明るい声とテンションでドアを開け入ってきたのは、女性。
空と白よりも年上と見えるこの女性こそが、
姉――
『これがOLです』とでも、何かの教科書に載りそうなほど、典型的なよれよれのレディーススーツに、空とも白とも違う、茶髪のセミロング。
帰宅するなり、早速部屋の奥に行き、寝床らしきところに飛びこむ。
ベッド代わりになっている空き箱が、悲鳴をあげるのも気にせずに、横になったままできるかぎり羽を伸ばす。
「おいおい
「……ねぇ……もう寝てる」
「あぁくそ、聞いちゃいねえ!――って、あぁーっ! また死んだー!」
「……にぃ……はい」
シュヴァァァ……キュリンッ
――改めて。
これが、
しかし、姉――
たしかに、この弟妹につられて趣味でゲームを嗜んではいるが、それまで。
天才ゲーマーと呼ばれるには程遠い存在。
――ところで、冒頭の『下らない話』を、覚えておいでだろうか。
あの、『バナナはおやつに入りますか』で締めたあの話である。
人間であるが故、生きるには食う、飲む、寝ることが必要だ。
寝ることについては、あの兄妹が3日徹夜しているように、数日に一度でもいいのだろう。
だが、飲食についてはそうはいかない。
最悪、文字通り道草を食っていけばどうにかなるだろうが、そのように、慣用句として道草を食っていてなれるほど、ランキング1位は易しくは無い。
パソコン8台+ゲーム機+α分の電気代も含め、生活するには金銭がどうしても要る。
賞金の出るゲーム大会も、開催されるのは
親の貯金など、この
その、
――と。
かくこのように、知らないままにしておくのも。
夢があっていい『
あぁ、ドーナッツが食べたい。