玄関に小町の靴はあるものの、リビングに電気はついていなかった。
小町は部屋で勉強をしているのだろう。がんばっている努力は報われてほしいものだ。
リビングの電気をつけ、ソファに鞄と携帯電話を放り投げて腰を下ろす。あとで小町にコーヒーでも淹れて持って行ってやろうかなと思っていると、奥からその小町がやってきた。
「おかえり、お兄ちゃん。コーヒー飲む?」
「おう、ただいま。飲むわ」
たった今小町に淹れてやろうかと考えていたコーヒーを、小町本人に淹れてもらう。これが働かない精神。見よ我が魂。
小休止ついでにおかえりを言いに来たのかもしくは逆なのか判然としないが、いずれにせよ根を詰め過ぎてもいけない。適度にガス抜きをするのも、親が構えない以上は兄の役目なのだろうなあ、と考える。
と言っても何をすれば良いのだろう。俺が受験生の時はどうだったか。受験前である以上遊びに時間を割き過ぎるのもいけないだろうし。
「はい、コーヒー」
考えている横からカップを手渡された。受け取ると冷えた両手にじんわりとあたたか~い。
小町もソファに座ってコーヒーを啜っている。誰もいなかったリビングは暖房もついておらず寒かったので、カップの暖かさがありがた~い。
小町の方をちらと見た。いつもと違い、少し口を開きにくい。
受験生に対し「勉強はどうだ」などと聞くのもプレッシャーを感じさせかねないし、「学校で何かあったか」も周囲の同じ受験生たちを意識させやはりプレッシャーとなりかねない。自分の学校のことを話すにしても、まさにその高校が小町の志望校なわけだからどう捉えられるかわからない。
もちろん小町のことだからどんな話題であれ俺がプレッシャーを与えようと思っているわけではないと理解してくれるに違いない。しかし俺の口は、なぜかいつもより重いままだった。
ちらりと窓を見やると、夕闇越しに反射した自分の瞳がこちらを見ていた。腐っていると形容されるその瞳を見て、なるほど確かにその通りだと思った。
「どしたの、お兄ちゃん」
などとうだうだ考えていると小町の方から会話が始まった。情けないお兄ちゃんでごめんね。
「え、今日も目が腐ってた?」
「いや、あの時ほどではないけど」
腐ってはいるんですね。なんせ二十四時間三百六十五日無休で腐りつづけていますからね。何その社畜。我が魂どこいった。
「なんか、考えてる風だったから、何考えてるのかなって。お兄ちゃんが小町の前で考え事してるのって珍しいじゃん?」
確かに、よっぽどのことがなければ小町を目の前に放って置いて自分の思考にふけるなんてことはしない。が、その小町をどう構うかを考えていたのだから例外という他はない。
しかしその例外のために小町に気を利かせているのではさすがに問題外である。情けないお兄ちゃんすぎてごめんねと言うしかない。ごめんね以外特に言えない。
「いや、まあ、小町との会話ってどうするんだっけかなあって」
「なにそれ、記憶喪失?」
「小町との会話の仕方だけ忘れる記憶喪失とかねえから。むしろ他の全てを忘れてしまっても小町のことだけは覚えてるまである」
「それ小町的にはポイント高いけど、小町はちょっと悲しいよ……」
あと戸塚な。この世のすべての人間のことを忘れてしまったとしても覚えていたい。そもそもぼっちだから他の人のことを忘れてもあんまり問題がない。
「ほら、勉強のこととか学校のこととか、この時期だとあんまり話したくはないだろ?」
正直に考えていたことについて話す。そもそも小町相手に取り繕う必要はないのだ。悩んでいることも、小町の負担にならないタイプのものであれば何を話しても問題はない。そう考えるとそもそも話題で悩むのもどうなのかという話になるかもしれないが。
小町はくすっと笑って、
「そんなこと気にしてたの。大丈夫だよ、お兄ちゃんなら何話しても、大丈夫」
とコーヒーに口をつけた。
やはり小町は理解してくれる。それについてはわかっていた。
小町に対して、「小町のことで悩んでいる」などと言えてしまうのに、なぜプレッシャーがどうこうと気にして口を開けなかったのだろうか。
「さて、じゃあ小町は勉強に戻ります!」
言って、小町は飲みかけのカップを片手に立ち上がり、そのまま部屋へ戻っていった。がんばれよ、と背中に声をかける。口はさっきよりも数段軽く開くことが出来た。
ふとソファに放ってあった携帯電話に目をやると、通知が一見来ているのが見えた。
メールを見て顔を上げ、目に入った窓の外の夕闇からは、それでも相変わらず鏡写しの瞳が見つめている。酷い顔をしているな、と思った。
∴