【あなたは私と一緒に歩いてくれていますか?】
頭蓋を突き破りそうな頭痛。彼女の意識を闇の底から引き揚げたのは、まさしくそれだった。
彼女が仰向けになっているのに気づいたのは、背中に当たる固い感触と、長い間固い床の上で寝転がっていると発症する首の痛みのおかげだった。程よい強さで辺りを照らす電球に吸い込まれるように立ち上がると、ようやく自分の置かれている状況の異常さを感じ取ることができた。
「……ここはどこ?」
温かみのある白い廊下。壁に貼り付けられた電灯は等間隔。板張りの廊下、後ろには木造のドア。廊下はL字型になっているようで、妙に新しい壁紙は右奥が途切れている。目立った埃や汚れは見当たらなく、定期的に手入れはされているようだ。
風景に異常はない。
ここが、寝食を過ごす彼女のアパートとは似ても似つかない場所だという大きすぎる一点を除いて。
壁に寄りかかりながらおぼつかない足取りで廊下を進み、上げ下げ窓越しに外を覗いてみるも、隙間の無い豪雨のせいでガラスは濁り、屋内の明かりがおぼろげに照らしている範囲より外の様子は全く分からない状態にあった。雨に濡れるのを覚悟して窓を上げようとするも、鍵はかかっていないはずなのにびくともしなかった。
二手に分かれる廊下を展望すると、全くと言っていいほど同じ内装が広がっていた。しばらくすれば、どちらから来たかもわからないぐらいに。
雨粒が窓を叩く音がやけにうるさい。それは、自分の呼吸や、足音以外に何も音を立てる要因が存在していなかったからだとすぐに分かった。
人の匂いが全くしないのも不気味さを増長させていた。これだけ小奇麗なら生活感が鼻からも感じ取れるはずなのに、まるで新居のような……いや、完全な無臭である。
支え無しで歩けるまでに回復をしたので、情報を集めるのが先と今来た道を戻り、ドアノブを回すも鍵がかかっているようで、金属のこすれる耳に悪い音しか立たなかった。鍵穴を探そうにもノブには穴の一つも見当たらない。ちょっとばかり力を込めて蹴ってみても、木製にしてはやけに固い感触が返ってきて、彼女は思わずその場にうずくまってしまった。
彼女はうっすらと涙を浮かべながら、現状の把握を第一に考えた。
拉致をされたのか、夢の中なのか、はたまた自分の足でここに来たのか。どうにかして記憶を探ってみると、見知ったある少女の顔が思い浮かんだ。自身の中核を占める、大事なパートナーのことを。
橙色の光を帯びた空がだんだんと消え行く様を誰も見ようとはしない。
前々時代的な音楽がさりげなく流れる喫茶店。確か、ロックというジャンルだったか。閑古鳥鳴くその場所に訪れた二人の少女の片割れは思う。
マスターらしき人影はない。それもそのはずだ。喫茶店で出されるような飲み物の作り方を知っている人間はもはや現存していないのだから、店に人間を置く必要などない。喫茶店らしさといえば、内装ぐらいのものだろう。期待した程度であったが、落ち着いて話ができるだけよしとしてそれ以上の評価をすることは取りやめた。
入り口付近に置かれた古風な雰囲気にそぐわない仰々しい機械にお金を入れて、コーヒーらしき黒色の液体の入ったカップを手に取ると二人は角付近の席に腰を落ち着けた。
「メリー、なかなか面白そうな話を持ってきたんだけど」
焦げ茶色の髪を弄る少女が、自慢話をする子供のような笑みを浮かべる。相対する少女の反応が芳しくないのを見届けるとカップに口をつけて、「やっぱり合成食品はどこも変わんないわね」とこぼした。
「聞きたくない、と言っても喋るんでしょ?」
話を振られたメリーことマエリベリー・ハーンは呆れたようにため息を一つ吐くと、机の端に置かれた籠から透明な液体の入った袋を取り出し、中身をコーヒーの中に流しいれた。
「蓮子、別に興味がないとかいうのではないわ……ただ、私たちにはあれが……テストが待ってるでしょうに」
蓮子と呼ばれた少女はわざとらしく頭を振った。それから演技がかった素振りで指で自分の頭をコツコツと叩き、メリーと同じく籠から細長い棒状の袋を取り出して指先で弄び始めた。ただ苦いのが飲めないだけということをメリーは知っていたが、あえて指摘はしなかった。変にプライドを刺激すると後が怖いのだ。
「大丈夫大丈夫、私はヴェルナー並の頭脳を持つのよ」
「この前はプランクって言ってなかったっけ」
「メリーも私には及ばなくてもコツコツやってるタイプなんだから、そんなに根詰めなくても単位くらい取れるでしょうに」
「スルーされた上にとてつもなく見下されたわね」
メリーの白い目を無視して、蓮子が鞄の中から資料と思しき数枚の紙を取り出した。ネットからそのまま引っ張り出してきた物もあれば、少しばかり編集を加えた物もある。
蓮子の説明を聞く前にざっと目を通したが、蓮子の気を引いた現象についての記述は非常に少なく、それが存在するらしい場所と周りの伝承についてが情報のほとんどを占めていた。
「面白そうじゃない?」
「さっぱりわからないわ」
残念ながら、メリーはそう答えることしかできなかった。蓮子の話を先に訊いていれば別だったかもしれないが、その点に関しては多少の申し訳なさはあった。
蓮子は特に気落ちした様子も見せず、メリーから資料をかすめ取ると一枚の紙を半分に折ってとある文を指差しながら机に置いた。
「ここの記述よ」
ポケットから眼鏡を取り出して視界を安定させ、蓮子の気を引いた部分を注視する。
『歪んだ時空に消える人々……その家は立ち入り禁止区域のすぐ傍にある。しかし、自由に出入りすることは厳禁なようで、たまに警備のものが徘徊して、近づくものを拘束するほどである。現地人曰く、その家は人を食い、立ち入った者は帰ってこない。……』
「私がよく見るサイトの記述だったんだけどね」
メリーが顔を上げると、蓮子が澄ました顔でカップを傾けていた。どうやらいい塩梅に苦さが中和されたようだ。
「この程度……どこのオカルトサイトでも見かけるわよ?」
若干眉を顰めて背もたれに身を預けると、蓮子は対照的に口角を上げて身を乗り出してきた。蓮子が内緒話をしたがるときにする癖だ。こんな閑散とした喫茶店で、二人の他に聞く耳も無いのに、律儀なものである。曰く、この監視社会のどこで拾われてるかわからないかららしいのだが、公共の場所で話してる時点で秘密も何もないので、単に気分の問題だろうとメリーは思っている。
「実はね、この記事が掲載されてから三日後にそのサイトが消えちゃったのよ」
「たまたまじゃない?」
「ところがどっこい、そのサイトが消える前日に実地調査に行ってくるって運営主さんが書き込んでたのよ」
「実際のところは全くのデマで、その人も馬鹿らしくなって辞めちゃったんじゃないのかしら、きっと」
「メリーはたまにオカルトサークルに在籍してるってことを感じさせない発言をするわよね」
口をとがらせる蓮子。しかし、微塵も気に留めていないのだろう。でなければ、時間にルーズな癖が既に治ってるはずだ。屋外であればまず間違いなく時間が正確にわかるという気持ち悪い目を持っておきながら待ち合わせの時間を守らない、よくわからない癖が。
「あら、蓮子に付き合ってる時点で人並み以上だと思ってるわよ? ただ質のいいオカルティズムを追い求めてるだけで」
「行かないの?」
「蓮子が行きたいって言ってるのに止めても無駄でしょ?」
「よくわかってるわね」
行きたくないわけではない。蓮子が話を持ち寄ってくるときなど、彼女の心は既に決まっているに違いないからだ。それに、メリーもとりわけ怪奇に関しては蓮子の嗅覚を信用している。
確かに、オカルトは殆どが外れという詐欺めいたくじの様なものだ。あたると思えば必ず痛い目を見る。しかし、蓮子には真偽を見抜く目を持ってでもいるのか、大当たりを引いてくることが割と頻繁にある。酉京都が誇る日本一の学府にひっそりと存在する、秘封倶楽部というオカルトサークルの長は伊達ではないと言ったところか。
実績も多いサークル長のことを無碍にできるはずもなく、メリーが呆れの混じったため息を漏らすと、蓮子は実年齢にそぐわない無邪気な笑みを浮かべた。
「幸い酉京都駅から田舎のクッソ面倒くさい道を通っても二時間ちょっとで着くし、今からメリーの荷物を回収したらさっさと行くわよ」
「ちょ、ちょっと、もう夕方なのよ! 行って帰ろうにも終電も無いのよ!?」
思わず椅子から立ち上がって抗議をするメリー。周りに人がいないのが幸いしたか。
まあそうなんだけどね、と言う蓮子は飄々とした態度を崩さない。
「心配はいらないわよメリー、宿はもうとってる」
メリーは力なく腰を下ろした。何を言ってるのという言葉は喉から自然に出た。
「つまり私には最初から選択肢はなかったってことね」
蓮子は、メリーの是非関係なくその現場に連れていくつもりだったのだろう。もしくは、メリーが間違いなく釣れるという確信があったか、或いは……。
いずれにせよ、もう決まってしまったものは仕方ない。蓮子の強引さにほとほと呆れながらも、メリーは目を覆うと天を仰ぎ、家に帰り用意するものを頭のメモに書き込んでいく。
確かに、人が巡回しているのであれば目の利きにくい夜に行くのは得策だし、更に言ってしまえば、昔から怪異というのは逢魔が時を前後に起こるものなのだ。メリーはそう言い聞かせ、自分を強引に納得させた、
全てをリストアップし終ると顔を下ろし、
「そうと決まればすぐ行きましょう。帰宅ラッシュと被るのはまっぴらごめんだわ」
「そうこなくっちゃね」
鞄を手に取って飲みかけのコーヒーカップを空にした。
「そうだ、私は蓮子に連れられてここへ……」
思い出せるのはそこまでだった。もっと大事な……蓮子の話していた館への道筋や、どうやって館の中に入ったかなどの具体的なことはすっぽりと抜け落ちていた。完全に欠落したわけではなさそうなのが救いだったが、いつどんな拍子でよみがえるのかが彼女にとっては気がかりであった。
何時しか引いていた頭痛の名残を振り払うように頭を左右に揺らし、周りを警戒しながら立ち上がる。
今までの探索とは毛色が違う。メリーはそう直感した。
メリーが夢に観る日本の原風景を散策するときよりも現実離れし、彼女が蓮子と共に結界を暴いて回る時よりも現実的な、魂に直接刃物を突き付けられているかの如く緊張感。明らかな身の危険が自分を包んでいることを、彼女は悟る。
「……蓮子を探さなきゃね」
自分を奮い立たせるように、彼女は呟いた。
蓮子に導かれて来たのであれば、蓮子もこの中にいるはずである。たとえはぐれてしまったのであっても、歩き回っていればいつかは鉢合わせるかもしれない。何もしないよりかは、動いていた方が気は紛れる。
蓮子と合流し、脱出の手立てを考えるのが、現状唯一の希望であった。
メリーは開く気配のない扉から離れ、L字を曲がり変哲のない扉の前に立つ。
「お邪魔しまーす……」
もう既にお邪魔してるけどね、というセルフツッコミを心の中で入れながら慎重にドアを押した。鍵はかかっていなかった。
メリーは自分が今しがた通ってきた通路によく似た構造の、しかしその中ほどで左側に新たなドアが設置されている廊下を目にし、恐る恐る足を踏み入れた。
よく見ると左手にあるドアは半開きになっていて、壁紙も真っ白なものとは違う紅色のものに変わっていた。
「蓮子ー?」
何かしらの有用な情報が手に入ることを期待して歩幅を大きくした瞬間、メリーは背後から扉が乱暴に締められる音を聞いた。
恐る恐る振り返ると、L字廊下の奥、メリーからしてみれば死角になっている床に、女性のものと思しき影が映り込んでいた。
「蓮子!」
彼女は急に灯った希望の光めがけて走り出した。後ろのドアが独りでに締まったことに微塵も気付いた様子はない。
さあ、曲がり角を左折し、あからさまにワクワクした様子の相方に早くも再会できた喜びを伝えよう!
メリーの目に涙の溜まった笑顔は、一瞬にして凍り付いた。
宇佐見蓮子が意識を取り戻した時、彼女の耳に幽かにだが確実に聞き慣れた声が届いていた。
「メリー?」
まず目に飛び込んできたのは、現代においてはまずお目にかかることのできないだろう完全木製の扉。彼女にはなじみのないものだ。
はて、自分はいつの間にか気を失っていたのだろう、と訝しげに視線を彷徨わせていると、自分がやけに背もたれの豪華な椅子に座らされていることを認識して慌てて立ち上がった。その衝撃で椅子は破砕音と共に木っ端微塵になってしまったが、そんなことを気にする余裕を怯えきった少女は持ち合わせていなかった。
彼女は目を皿にして自分が気を失っていた部屋を見回すと、紅色の壁紙に囲われた正方形の部屋に、教科書の中でしか見たことのないような古式な秤や、フライパンや包丁などがあちこちに整理されて置かれていることから、調理室に寝かされていたのだと気色づくことができた。
そこまで来てやっと、自分が座らされていた軟な椅子がどれほど危険な状態だったのかを痛切に感じて、胸を撫で下ろした。
存じ上げない個室にいることを自覚した蓮子が次に行ったのは、事の経緯の把握だ。
メリーと同様、蓮子の脳裏にも相方を喫茶店で誘い、早々に向かったという記憶は残っていた。実際に館を目にした記憶が無いのも同様だ。
一二歩後ずされば、長方形の机に尻が腰が当たった。乱雑に置かれた果物からは生気が感じられない。まるで下手な絵画の中に置かれたもののような印象を受けた。
はてさて、誰が自分にパーティーの準備をさせようとしているのか、蓮子はすぐさま推理に入った。ついさっきまでの震えは嘘のように、彼女の顔には笑みが張り付いている。
なぜなら、彼女にとって身に降りかかる理不尽、ましてや化学では説明のつかないような理不尽は自身を自身たらしめるアイデンティティに他ならないからだ。
夢を現に変えるために、彼女には経験が必要だった。だからこそ、オカルティズム溢れる土地に何度も足を向ける。
この災厄を噛みしめる瞬間こそが、蓮子にとって幸福な時間に他ならない。
が、彼女もなんでもオカルトに結び付けるような、そんな浅ましい考えを持つ人間ではない。
「……この場合、誰かにここまで連れ去られてきたと考えるのが妥当なようね」
秤に掌を押しつけながら呟く。年代物でありそうなのにも関わらず、針はスムーズに回転した。
「何か薬品でも使われたか……それにしては特に体に異常はないわね」
蓮子は誰も見ていないことをいいことに突然ワイシャツをめくったり、腕を観察したりして何か跡が残ってないかどうかを確かめてみたが、白い肌(蓮子評)は健在で、頭も変にぼんやりとすることもなくはっきりとしている。
犯行が人間のものであるとするならば、人体に後遺症の一切残らない方法で眠らされ、この部屋に運び込まれたことになる。そんな芸当、果たしてどれほどの人間ができるのだろうか。
「……面白くなってきたじゃない?」
隣に金髪の少女がいれば、『さっきからずっとにやけたまんまだけどね』と茶々が入ったことだろう。
ここに留まっていてもしょうがない。蓮子は更に非日常を楽しむべく……否、情報を収集し脱出すべく、戸口の向こうに興味を移した。
もしもの備えにとフルーツナイフを一本手に取ると、履いていたブーツに差し込む。これならすぐに抜いて対応もできる。この珍妙な出来事は怪奇現象などではなく人間の犯行の可能性も捨てきれていないからだ。
「……そうでないことを祈るけどね」
部屋を出る前にもう一度手がかりになるものがないかを探し回り、特段目を引く者が無いことを確認すると、蓮子はハット帽をかぶり直し、意気揚々と扉を開け放った。