蓮子が木製のドアをくぐると、彼女が気を失っていた紅一色の箱と打って変わって、真っ白な通路が左右に伸びていた。右側は数メートルほどしかないが、反対側を見ると少し行ったところで右に折れ曲がっている。電気は問題なく通っているようで、いくつもの電灯が室内を照らしてくれていた。
まるで質量を持ったかのように重苦しい空気が秘封倶楽部会長の肌に刺さる。蓮子は図らずも足音を立てないように静かに右手のドアに向かうと、押し開くように取っ手を捻った。
「……あ、あれ?」
ラッチ自体に異常は無いようですんなりと回せたが、彼女がいくら体重を乗せてもドアはびくりともしなかった。
試しに肩からぶつかってみても、足底で蹴破ろうとしても、引き戸の可能性を考慮して引いてみても、結果はすべて同じだった。
次に、これがドアなどではなく、ドアを模したオブジェの一種なのではという仮説を閃くと下の隙間に指をあてるが、凍てつく空気の流れが表面を伝っていくので、単なる壁という線は完全に立ち消えてしまった。
「まあ、ここは後回しでいいか」
手がかりの一つというだけで、唯一の脱出経路というわけでも無し。蓮子は諦めて、もう片方の道に向かった。
曲がり角に差し掛かる辺りで、地獄の底で懺悔し続ける女性のような唸り声がそのドアを突き抜けて蓮子の鼓膜を震わせた。
蓮子は一時、肩を大きく震わせ素早く身構えるも、隙間風の通り道を先ほど確認したばかりなので、あれは決して人間の尊厳を踏みにじる未知なる怪物の呼び声などではなく、純然たる自然現象なのだと自分に言い聞かせると、ドアを一瞥するだけにとどめ、ドアノブが微動だにしないことを見届け、ようやく息を吐くことができた。
「脅かしやがって……なーんて」
気を取り直すために小粋なジョークを一つ。この場においては最悪の台詞だと言った本人も思ったが、予想外に効果は出たようで、竦んだ足の操作権は簡単に取り戻せた。
視界の端に映るハング窓の表面を絶え間なく水滴が滑り落ち、滝のような様相を見せていて、困ったことに時折激しい光が明滅して視界を奪ってくる。遅れて破壊的な轟音が心臓を揺らし、蓮子の探求心に水を差す。
「こんな雨じゃ何時かもわからないわ」
蓮子は十数歩もしないうちに、再びドアと対面することとなった。
「ここもダメだったなら……窓を突き破っていくしかないわね。こっぴどく濡れちゃいそうだけど」
見通しの悪い窓の外を眺めながらぼやき、自身の大学生活の楽しみの半分以上を占める相棒と言って差し支えない親友の顔を思い浮かべた。
蓮子の記憶を頼りにするのであれば、マエリベリー・ハーンもこの館の中にいるはずである。そして、彼女もまた宇佐見蓮子を探して館を歩き回っているはずだ。
「一緒に出ようね、メリー」
なるべくなら、窓を強行突破するのは避けたい。メリーと並んで、玄関から堂々と出て行ってやろう。自分たちをこんなところに閉じ込めた無謀な奴らに、秘封倶楽部の底力を見せつけてやろう。そして、お詫びにいつもの喫茶店で、メリーに飲み物だけではなく、スイーツもご馳走してやろう。そしたらまた結界暴きの計画を練って……。
腹を括った蓮子がグリップを握りしめる。
「私が必ず見つけてあげるから」
メリーへの想いを後押しするかのように、ドアは音も立てずすんなりとその先にある空間を見せた。
白く長い廊下が、窓以外の異物を混入させず続いていた。次なる端緒となりそうなのは正面二十メートルほど先にあるドアのみで、これほど長い通路なのにもかかわらず一切の個室への入り口が無いのは、人の匂いがしないのも相まって不自然を通り越して不気味さを醸し出していた。
「いや、もしかしたら右手には大広間みたいなのがあるのかもしれない。私には専門外だからよくわからないけど……」
ここに建築学を少しでも齧っているものがいれば、この屋敷の構造の異常点を炙り出すか、はたまた歴史的な例を挙げて矛盾点の有無を証明してくれるであろうが、いくら願ったところで叶わない物もある。
肩を竦めながら数歩、
「そうだ、携帯!」
慌ててポケットの中をまさぐるが、手のひら大の通信機能付多機能精密端末は影も形も欠片すら無かった。
「調理室においてきちゃったかな」
仮にそうだとしても、蓮子に戻る気はなかった。それは隙間風が耳に残っていて、その発生源に限りなく近いあの部屋に再び近づくのが嫌だという理由からでは断じて無い、と蓮子は誰もいない廊下に発信したい衝動を堪えた。
未練たらしく後ろを振り返ると、閉めたはずもないのにドアはぴっちりと閉まっていて、何故か、頑なに立ち入るものを拒んでいるような雰囲気を溢れ返させていた。
何度も窓の外を眺めながら次の戸に辿りつき、振り返ることなく桟をくぐる。
今度も同じような光景が続いていたらどうしようかと冷や冷やしていた蓮子だが、どうやらその心配は無用だった。
蓮子の正面にドアがあるのは変わらないが、その距離は一般邸宅のものと等しく、中ほどで右に道が分岐していた。
わずかながら現実に帰って来た実感の様なものが蓮子の内に沸いたが、彼女はすぐに思い直した。異常な事態の中にあるのは依然として変わらず、かつて親友に忠告した『夢と現実の境界が曖昧になり、ついには逆転してしまう』ことになりかねないからだ。
両頬をパシリと叩いて意識を集中させ、蓮子は再び歩き出した。
少しして通ったドアを見返してみると、やはり、独りでに閉まっていた。
「古風に見せかけて実は自動ドアだったり?」
もちろん蓮子も本気にしてはいない。完全な自動でないドアのどこに利便性があるというのだろうか。
試しに、先ほどの通路に引き返そうとしてもドアは微動だにしなかった。押したり引いたり、蹴破ろうとしたり、以前にぶち当たった頑固な扉と同様の対処をしても成果は上がらない。
蓮子は一つ、この館に関しての情報を仕入れたとほくそ笑んだ。どうやらこの館は一方通行らしい。そのことがわかっただけでも、安心……とはいかないまでも攻略不可能ではないことを察知し、自信のようなものを取り戻しつつあった。
精神を脅かす唸り声が半ばトラウマ化していたのか、このまま立ち尽くしているとまた急かされるかもしれないという不安に駆られた少女は早足で背後のドアに臨むが、残念なことにその先に進むことはできなかった。
然程落胆した様子も見せず、T字の柱の道に蓮子が差し掛かると、彼女は驚愕と歓喜のあまり場に似つかわしくない大声を響かせてしまった。
「カメラ?!」
今までの扉とは明らかに様相の違う、ところどころに金属の紋様が接着された漆黒の戸板の前に落ちていた物を拾い上げる。黒い樹脂が矩形を象っていて、上部から発光体を、真ん中から巨大な丸いレンズを突き出させている、一般的にアナログカメラと呼ばれているものだ。が、レンズの無い面を見ると透明なディスプレイが貼り付けられていて、
「って、なーんだ、中身はデジタルか……」
利便性を粗方追求し終えた人類が次に必要としたのは、『精神性ある旧きデザイン』だった。例えばカメラにしても、もはや性能の進化は行き場を失い、企業は中身より外見の充実にシフトした。その結果、ヴィンテージな外装に近未来的テクノロジーというちぐはぐなものが出来上がってしまった。
蓮子の琴線に触れるものは昔から最新という謳い文句ではなく、年代物という烙印であったため、長らくアナログカメラに憧れを持っていたのだから、まさかと思った矢先の事実による落胆は計り知れない。
「……って、違うそうじゃない」
カメラの電源を押すと、メーカーのロゴが画面にしばらく表示された後、床の画像が鮮明に映し出された。バッテリー残量はわずか一パーセントほどしか残っていないようだが、持ち主を判明させるのには十分な量だった。
記録を見ようとボタンを探し、逡巡して一つを押してみると、画面がすぐさま切り替わりとある廃屋の全体像を映し出した写真が表示された。
しかしながら現在蓮子のいる館ではなく、立ち入り禁止区域の中にしか存在しない、オカルトマニアからすれば雀躍ものの完全な廃墟を写したもののようだ。
その他には、都市伝説の温床となっている酉京都の裏路地、かつて幽霊トンネルとして栄えていたらしい山道の残骸、繁華を捨てきれない東京の巨大交差点など、撮影者が神秘主義者であることが瞭然なデータの山がそこにはあった。
「これ、私見たことある……」
そして、そのほとんどが蓮子の見覚えのあるものだった。
「これ、あのサイトの管理人さんの撮った写真だ……」
少女は、震え始めた手をカメラを抱きかかえることで抑えようとした。が、その目をディスプレイから離すことはできなかった。何度もカメラが手の中から滑り落ちそうになる。
常連であったサイトの、蓮子がメリーに紹介したサイトの管理人のカメラがここに在るということは、その人はここに来たということで。持ち主のいないカメラがここに落ちているということは、それ相応の何かがあったということで。
何もなかったなんてことはあり得ない、ということだ。
蓮子の背後で、何か重たく固いものがフローリングに落ちた音がした。
ぎょっと蓮子が振り向くと、T字の中央を照らしていた電球が不規則に点滅していた。見え隠れする暗闇から、あからさまな悪意が押し寄せているのが蓮子の肌に感じて取れた。
背中を冷汗が伝う。鳥肌が一斉に立ち、蓮子は思わずカメラを落としてしまった。レンズが粉々になり、衝撃で回路に異常が発生したのかパネルも沈黙した。
誰かが何かを引き摺ってきている。蓮子は、木材と金属めいた何かの擦れる音に混じる、柔らかい足音を聞いてそう判断した。
胸を圧迫されているかのような苦悶の息が、曲がり角の向こうからだんだんと大きくなってきている。蓮子が最初の廊下で聞いた隙間風と、音響は違えど全く同じものだった。
ライトはとうとう、光を発する時間の方が短くなっている。脅威の正体を見極めようにも、微妙な位置で灯りが途切れているせいで影も見えない。
足音が止まり、その方向めがけて目を凝らしていると、不意に彼女の頭上の電球が事切れた。
入れ替わるように三叉路の明かりが息を吹き返し、
蓮子は走った。
施錠の有無を確認することなく豪勢なドアを力任せに押し開けると、背後を視認することなく後ろ手で閉め、全体重をかけて侵入を防ごうと試みた。
「なんなのよ……なんなのよあれ!」
蓮子はたまらずそう叫ぶと、今しがた入った部屋に何か堰き止められるものがないかを回視する。
すぐ横に胸位ほどの高さの箪笥があることに気が付くと、ありったけの力を込めてドアの前まで運び込んだ。相当な重量があるかと思いきや、中はそれほど詰まっていないのか簡単に動かすことができたので食い止められるかどうか憂惧は絶えなかったが、蓮子がドアの向こうに意識を張り巡らせるようになるころには怪音は消散して、奇々怪々な静けさを残すだけとなっていた。
気配も何もない、平和な時間が久々に訪れる。蓮子は意図せずへたり込むと、脱帽して深呼吸を繰り返した。
扉越しの廊下の安全をわざわざ確かめる気も起きず、改めて内装をぐるりと見物してみると、無彩の壁紙とはこれまた違った丹色に包まれた、やや広めの個室に逃げ込んできたらしかった。
中央には正四角形の洋装の洒落た机が絶妙な位置に配置され、二つの落ち着いた色合いの腰掛が向かいあうようにして用意されている。鮮やかな湖が描かれた風景画の下に白いレンガ造りの暖炉があったが、薪は入ってはいなかった。蓮子の入ってきたドアの対角線上にもう一つドアがあり、こちらは対照的に純白の工合だ。金属の装飾が施されている点では、同じデザインと言っていいだろう。
少女は力の入らない足腰に苦笑いしながら、ぼんやりと飾られた絵画を眺める。眺めるというよりかは、視線の先にたまたまあっただけだろうが。
「あはは……みっともない。まあ、ありゃ誰だって逃げ出すわよ」
髪の毛に埃がつくこともいとわず、上質な絨毯の上に大の字で仰向けになる蓮子。天然ものだろうか。などと、場違いなことも思った。
目を閉じると鮮明に思い出すことのできるあの異常さ、そして異形さ。
確かに、人の形に酷似していたのも事実だ。しかし、限りなく近いはニアイコールであってイコールではない。似ているだけで、あれは人とはかけ離れた別物にように蓮子は思う。
折れ曲がった左腕に、ふとした拍子に倒れてしまいそうな程捩じられた内股、無事な右腕には木の棒が握られていたが、明らかにその先には金属製の何かが取り付けられていた。大方斧だろうと推測されるが。そしてなにより、
「……のけぞりすぎて首の骨でも折っちゃったのかしらね、あの人は」
言うことを聞くようになった足腰を立たせ、蓮子は髪に付着した塵埃を素早く落とし、帽子を再び被った。
「しまった、カメラ」
館に到るまでの記憶の手蔓となり得たカメラは閉鎖されたドアの向こうで、落下した時の衝撃で十中八九使い物にならなくなっているだろうことを思いだすと、蓮子の肩はがっくりと落とされた。
「まあいいわ……そんなことより、あんな奴が徘徊してるとなるとメリーも襲われる可能性がある。なんとかして絶対助けないと……」
具体的な方策があるわけではないが、秘封倶楽部の大事なパートナーもたった一人でこの館を探索し、心細いはず。自身が我を失いそうになるほど怯えているのだから、親友はきっと恐怖で錯乱状態に陥っているかもしれないと考えれば考えるほど、少女の拳に入る力は大きくなっていく。せめて懼れを紛らわせてあげたいという一心が、蓮子の決意を奮い立たせ、更に強くした。
「よし、行こう」
この部屋に特筆することは無いと感じた蓮子は、鎖されたドアには目もくれず新たなエリアに足を踏み入れるため、白塗りの豪華な扉の封を切った。
「……あれ?」
そのはずだった。
しかし彼女の視界に飛び込んできたのは、先刻逃げ出したばかりの回廊の、しかも、飛び込んだドアを開けなければ再び立ち入ることも無いはずのT字路であった。
壁に背中を預けて乱れた金糸を整えながら、マエリベリー・ハーンは不規則な呼吸がどうにか収まるのをひたすら待っている。
どうやって、あの世界の醜悪さを集めても尚比肩できないような恐ろしい怪物から逃げ出したのか、彼女にもわからなかったが、ただひたすら走り続け、目の前のドアをなかったかのようなスピードで歩廊を駆け抜けたことだけは覚えていた。
笑う膝と過呼吸が終息し身動きがとれるようになると、宝石の散りばめられた絢爛なシャンデリアを見上げ、自身が走ってきた廊下との不和に首を傾げつつ、辿りついた大広間らしき空間に目を配った。
成人男性が百人ほど入ってもまだ余裕のありそうなこの広間は、壁に使われている大理石や正面の踏み台の設置された舞台、気品あふれるレッドドレープカーテンを見るに、貴族の社交場として使われていたのだろう。異常事態に巻き込まれていなかったのであれば、もう少し楽しめただろうに、のん気に落胆するメリー。
蓋し同じ感想を抱いているだろう親友に思いを巡らせると、自然と溜め息が出た。
「どうにかして蓮子と連絡を取りたいのだけれど……」
携帯も落としちゃったしね、とメリーは自嘲気味に笑う。
「ここは入り口が四つもあるし、いずれ蓮子がここに来る確率も高いわね……いっそ閉じこもっちゃおうかしら」
急激な体力の消耗のせいで、メリーの目蓋は重みを増していた。ここで眠ってしまうのがいかに危険な行為か、彼女もわかってはいるものの、危機から一時的にも脱した安堵と、生理的な欲求に抗うことは困難を極めた。
壁伝いに腰を下ろし、膝を抱えて虚空を見つめるその姿は、まるで魂の脱した殻だった。
「三十分だけなら……いいよね」
二度目の昏睡にメリーが落ちかけたその時、焦げ茶色の髪が舞台で踊ったような錯覚を覚えて、彼女の意識は一気に覚醒した。
「蓮子!」
無意識に彼女の名を呼んだ。間違いない、あれは蓮子だ、メリーの頭の中で声が囁く。
少女の親友らしき姿は舞台袖に隠れてしまい、メリーは慌てて彼女の後を追う。
「蓮子! なぜ逃げるの?!」
メリーの脳内で、もう一人が声を荒げた。あれは違う、蓮子なんかじゃない!
それは理性とも呼ぶべき存在だったのだが、疲弊した彼女には、ただのノイズとしか聞こえなかったようだ。