階段を何回も踏み外しそうになりながらもメリーが舞台の上にたどり着くも、人影は既に裏に回り込んでしまったのか、靴音が遠ざかっていくばかりであった。
振動を頼りに下手から入っていったことを察すると、何重にも襞になったカーテンを強引に掻き分けていく。布をいくら手繰り寄せても終わりは見えず、違和感を覚え引き返そうとも考えたのだが、真紅の視界は唐突に途切れ、前後不覚に陥る直前に抜け出すことができた。
舞台袖は大広間と一転して整理もされておらず、工作道具が床に散らばっているのみならず、ささくれたった木材の欠片や角材があらぬことか床を突き破っていたりと、『荒廃』と言っても差し支えない惨状をメリーの前に曝け出していた。
フィラメントが切れかけた弱弱しい電球が、破滅の跡とメリーの足元を照らす唯一の光源だった。
しかし、メリーが気圧されたのは一瞬のことで、暗闇に紛れて淡く光沢を放つドアノブを目ざとく発見すると、朽ちかけた床を軋ませながら迷わず進んだ。
蝶番が嫌な音を立てながら開く。扉の表面は朽ちて繊維が見て取れるほどにボロボロになっている。
四五段程度の下りがあることは視認できるものの、そこから先は投光するものも無く、完全なる暗闇が待ち構えていた。
メリーは思わず息を呑んだ。
ここにきて理性の制止が効いてきたのか、中々一歩を踏み出す勇気が湧いてこなかった。
今なら引き返しても問題はない。無理に後を追っても、蓮子と合流できる確率は低くなるだけだ。
そもそも、蓮子がメリーを目撃して逃げ出すだろうか。ましてや、舞台上でのん気に踊るだろうか。
思い返してみれば、不審な点はいくつもあった。
言い知れぬ不快感が腹を巡り、メリーは嫌悪の眼差しを大口開けた陰影に向けながら再度カーテンの群れの中に潜り込んだ。真っ赤な潮の流れが視界を覆う。生地が体にまとわりついてくる感触が、虫の足を想起させた。
突き飛ばしたくなる衝動をぐっと我慢して掻き分けていく。歩数を重ねれば重ねるほど、メリーの眉根が寄せられていく。
「ちょっと待って」
疑念は確信に変わり、メリーは思わずカーテンをたぐる手を休めた。
出入りにかかる時間は、誤差を考慮しても同じでなければならないはずだ。それなのに、
「こんなに長かったっけ……?」
かれこれ二分はカーテンを揺らし続けていただろうか。それなのに終わりは一向に見えてこない。
嫌な予感がしてメリーが引き返してみると、今度は数歩足らずで残骸の溜まる空間に戻ってこれた。
悍ましい逃走劇を顧みて薄々勘付いていた不審の念が一気に爆発した。
「明らかに空間が歪んでるわ」
ここに物理学者がいれば、量子的現象が一介の古屋敷の中で簡単に起こってたまるものかと反発が返ってきそうなものだが、幸いにもここには時代遅れの科学原理主義者もいないし、メリー自身も相対性心理学というオカルトじみた文系の専攻である。
少女はカーテンの奥に存在するであろう大広間を一頻り睨むと、呆れの混じった大きな嘆息を一つ。
「なるほど……私に行けって言ってるのね」
変な笑いがメリーの喉から漏れた。何を今更おかしくなる必要があるのだろう、この館で目を覚ましてからというもの、不可解な事象ばかり発生しているではないか、まるでここが夢であるかのように、うつつに浮かび上がる直前に観る出来の悪い悪夢のように……。
メリーの顔持ちに笑顔が浮かび上がる。諦めの混じった、自分を奮い立たせるための強がりだ。
足元に転がっていた手ごろな斧を手に取り、両手でしっかりと握りしめて抱えながら前進を始める。斧はかなり赤錆びていたが、長時間持ち続けるにはしっかりとし過ぎた重量もあり、武器としては十分な機能を果たしてくれそうだった。
闇の中からあらぬ脅威が飛び出してこまいか最大限の注意を払いながら慎重に進んでいくが、存外早く終わりは訪れた。
彩度の調節を終えた目に、古ぼけた扉がうっすらと飛び込んでくる、メリーはつばを飲み込み、恐る恐る取っ手に手をかける。
が、メリーのタイミングを無視して扉は勝手に開いた。
思わず刃を振り上げたメリーだったが、命を脅かすものは姿を見せず、むしろ彼女を心底ほっとさせるような無垢な壁と、木目の整った戸の揃った廊下が何事もなかったかのように鎮座していた。
しばらく耳を澄ませ、異常がその先に無いことを祈ると躊躇いなく後ろ手で扉を閉める。
追っていた足音はとうの昔にどこかへ去ってしまっていて、結局行き当たりばったりの捜索を再開するほかに手立てはなくなってしまっていた。
最初が災難だった分、ここからが本番だと言いたげに帽子を被り直し、メリーは奇妙な廊下の捜索を改めて開始した。
しばらく新たな部屋もない簡素なつくりを通り過ぎた後、T字路に差し掛かると彼女にとっては喜ばしくも恐ろしげな変化が現れた。
分岐した先から、若い女性のすすり泣きが妙にはっきりと聞こえてくるのだ。
鮮明な冷気が肺を満たし、メリーの身体を隅々まで冷やしていった。
まっすぐ行けばまた代わり映えしないドアが堂々とそびえたち、どこかしらの見知った通路へ飛ばされるのだろう。入ってきた方に戻ろうにも既に施錠され、戻ることはできない。
斧のグリップを掴む手に力が入る。
なるべく足音を立てないように、抜き足で曲がり角まで進むと、壁を背にじわじわと視線を奥に向けていく。
「うぅ……ぅぅぅぅうううう……」
灰色のワンピースを着た女性らしき人が、肩口で切りそろえられた茶髪を前に垂らしながら嗚咽を漏らしていた。定期的に体を揺らし、顔の前で何やら四角い物体を握りしめている。
関わってはいけない、早く逃げろ、本能がメリーに告げる。あれは俗世に言う悪霊だ、正真正銘、生者を奈落に引きずり込む汚れた悪霊だ、現代人が忘れた隣人だ……。目を逸らそうにも首の筋肉は完全に硬直してしまっていた。
「カメラ……私のカメラが……」
震える声音で女性は繰り返し、手に持っていたカメラらしき物を撫でまわしている。
「壊れてしまったんです……どうにか……直してくれませんか……?」
呆然と立ち尽くしていたメリーに女性が気付き、やや顔を上げたかのように見えた。
依然として髪に隠れて顔は見えなかったが、大量の涙が頬を濡らしているようで、往々にして顎の先から水滴が垂れ落ちていた。
よくよく観察すると女性の指には擦り傷や切り傷のみならず、火傷の跡までくっきりと残されていて、靴下すら履かれていない足先はめくれた皮の中身が生なましく充血していた。
機を見てすぐ横にあるドアをくぐろうと画策するメリーを見て、女性はこう続けた。
「これがないと……私は……帰れない……」
斧を持つ力がふと緩んだ。メリーは目を丸くして女性に向き直り「あなたは……同じなの?」と小声で囁いた。
「帰りたい……寂しい……」
メリーの呟きが聞こえたのかはいざ知らず、女性の懇願は他人事のようには取れなかった。まるでメリーの将来を……館から出ること叶わなかった未来を具現化したような近しさを感じさせた。
もしかしてと言う可能性がメリーの足を動かした。もし彼女が自分と同じ境遇で、自分よりはるかにこの場所に閉じ込められたのだとしたら助けてあげたい、一緒にいられるだけで孤独感は薄れ、希望を捨てにくくなる。
女性はメリーが躊躇いながらも少しずつ近づいてくるのを、髪の奥に潜む瞳で一挙一動見逃さないように括目した。そして眼前の少女の警戒心が薄れているのに勘付くと、カメラを持つ手を下ろし、少女の視線から逃れるように顔の影を濃くした。
「その……カメラ、貸してくださいませんか? もしかしたらお手伝いすることができるかもしれませんし」
襲い掛かられてもぎりぎり対処できそうな距離でメリーが話しかけると、女性はまたわずかに顔を上げ、メリーの様子を窺うかのように首を傾げた。
口を開いて何かを言いかける女性だったが、顎を震わせるばかりで言葉は紡がず、やがてメリーの持つ斧を怯えた様に注視して腰を引いた。
その様子に人間らしさを感じたメリーはハッと気が付くと斧を見下ろし、慌てて構えを解いた。武器を突きつけられてしまってはとても話をする気になれないというのは当然のことだろう。
一時でも護身道具を手放すのが惜しかったが、ようやく見つけた人間との信頼関係の構築と比べてみれば、常時武装する重要度は限りなく低かった。
音を立てないように慎重に斧を立て掛け、何も持ってないことを証明するために腕を広げるメリーを見て、女性はやっとメリーを信用してカメラを再度前に突き出した。
「つかなくなってしまったんです……電源を入れても、何も映らなくて……撮ったものが見れなくて……」
「……どうして、また見ようと思ったんです?」
「思い出したかったんです……」
どうあっても用心深さを捨てきることができないメリーは、会話を引き出しながらカメラを受け取るために女性に近づいていった。女性は相変わらず泣くことをやめず、感情の読み取れない眼差しをそのままにしていた。
メリーの指がカメラに触れるか触れないか、その時だった。
「私が生きていたころの記憶を取り戻したかったんです」
女性の手がカメラがを落とし、反射的に引っ込みかけたメリーの腕を容赦なく掴んだ。
音にならない悲鳴がメリーの喉から飛び出た。振りほどこうにも女性の握力はまるで人間の女性のものを軽々と超え、万力に迫る威力を持った指がメリーの手を砕こうとしていた。
肩が抜けそうになるほど引っ張っても女性は微動だにせず、また、その面持ちは仮面のように不自然で、空虚なものだった。
メリーは愕然とした表情で振り返り、遠い遠い斧を求めて自由な方の手を伸ばすが、ズルズルと女性の方に身体が引きずり込まれていく。
完全にパニック状態だった。
わけもわからず喚き散らし、ここに無き親友の名を繰り返す。美貌を台無しにするほど顔を歪めて号泣するメリーは、最後に残された生存欲求に従うままに足を振り上げた。
奇跡的に彼女の腕を掴む女性の肘につま先が当たり、拘束が緩んだ瞬間に抜け出すことができたものの、苦悶にあえぐ女性は膝を震わせながらすぐさまメリーの首をへし折らんと詰め寄ってきた。
メリーはわき目もふらず斧を取り戻し、その勢いで廊下を突っ切った。T字の交差に張られた窓に突っ込みそうな勢いのまま右に曲がり、一目散にドアの向こうへ逃げ込んだ。
何の変哲もないただの一本道に通じていたが、メリーの勢いは止まらない。
帽子が頭から滑り落ちたのに彼女は気づいたが、彼女を引き返させるには足らなかった。
無機質な灯りの照らす通路を通り抜け、蓋をするようにドアを閉めて、激しく息を切らせながら背中合わせになる。
逃げ込んだ先は懐かしき右に折れた廊下。彼女には感慨深くなる余裕は微塵もなかったが。
「蓮子……!」
メリーは我にもなく親友の名前を口に出す。いつも彼女がメリーの頼りだった。メリーが迷いなく目の力を発揮できるのも、彼女が引き留めてくれるのだと信じていたから。メリーにとっての現の象徴だったから。彼女と出会うことで、この悪夢から覚めて、現実に引き返せる、そう信じて祈ったのだ。
金属の軋む不快な音がしたかと思うと、扉が薄紙を剥がすように冷えていくのがメリーには服越しに分かった。板一枚隔てた先の空気が黒ずんでいくのが簡単に直感できた。
一刻も早くこの場を立ち去り、通路を跨いで奇怪なヒト型を遠ざけねばならぬことはメリーも重々承知していた。幸か不幸か、メリーがやってきたのは先ほど見たばかりの三叉路であるし、どうにか撒くことも不可能ではないようだった。
されど、異形の館に連れ込まれてからというもの、断続的に酷使されたメリーの肉体は限界を迎えようとしていた。加えて、忌むべき瘴気を纏った人型の怪物に与えられた心理的ショックによって、彼女の心は完全に折られてしまった。もはやメリーの足は無用の長物と化し、彼女を、永遠に続く虚無の旅に誘う道具でしかなかった。
少女は血が滲むほど唇をかみ、身を固くして薄ら寒い吐息が徐々に近寄ってくるのを待ちわびた。
「蓮子……蓮子……」
肋を突き破りそうな程大きくなった心音に耐えかねて、メリーはその場にうずくまってしまう。
人間の所業とは思えない衝撃がメリーの背中を直撃した。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
容赦ない吐き気と、大量の涙が湧き上がる。咽び泣きそうになるのを必死に抑えるも、覆う手から親友を呼ぶ声が漏れるのはどうしようもなかった。
このままでは間違いなく最後の防壁は突破される。親友と再会することもできず、彼女と最後に交わした会話が何だったか思い出すことすら叶わないまま、メリーは深淵に引きずり込まれ、その存在を無に帰される。
「いやよ……そんなの嫌……蓮子ぉっ!」
蝶番が限界を迎える直前、奇妙なものを耳にした。そんな気がメリーにはした。
折れた廊下の先から、彼女の名前が呼ばれた、そんな気がした。
親友の声で、宇佐見蓮子という、救世主の声で。
曲がり角の向こうに、ゆっくりとメリーの方に接近する気配をメリーは感じた。
彼女の顔が一気に晴れ渡り、滝のように流れ出ていた涙も潮が引くように止まる。
「蓮子……蓮……子っ!」
やっと来てくれた信じてたあなたが来ればもう怖いものは無い私はあなたの事を一時も疑うことは無かったさあ早く出ましょうこんな危ないところまっぴらごめんだわ安全に結界暴きを楽しみましょう蓮子と一緒なら私どこにだって行けるわだって蓮子はこんな時にも私を見捨てず助けに来てくれたんだものあなたも無事でよかったわもしかしたらって思ったんだけどまたこうやって会えてよかった私たちは……私は……蓮子……!
蓮子!
ありとあらゆる思いを込めてメリーは動き出した。あれだけ迫っていた冷気と殺意が鳴りを潜めているのにも気付かず、何の疑問を抱かず、蓮子の胸に飛び込まんと駆け出した。
満面の笑みをもって、心配でたまらなかっただろう親友を少しでも安心させてあげたくて、メリーは名前を呼んだ。
「れん」
メリーの首が刹那熱を持ったかと思うと、彼女の視界はなぜか反転していて、自分が何をされたのか理解が追い付かないまま、少女は何もわからなくなった。