『エエェエエェエェェエエエェェエエェエエェエエェエエェエエエエエェエェエエエヴァァアァアアァアアァアアアァアアアァァアアアアァァアァアアアアァァァアァアアアアァァアアアアァァアアァアアッッッ!!!!!』
しんしんと降り積もる白雪は、果たして幸福に包まれた恋人達への祝福か、はたまた極寒を生きる者達の心の具現か。平時とは異なる賑わいを見せた久遠ヶ原学園にも、すっかり静寂の宵闇が舞い降りた頃。何時か何処かで聞いたような怨嗟の絶叫が、人工島の片隅を駆け巡った。事情を知る者はそれだけで全てを察し、或いは心の底から同情し、或いは腹を抱えて笑い転げただろう。
赤坂白秋という気の毒な青年に、今年も受難が訪れたのだ。
◆ ◆
どれだけ深い夜にも必ず朝日が昇るように、ああ何と残酷な事だろう、その日はやって来てしまうのだ。
橙色に染め上げられた教室で、赤坂は一人、崩れ落ちていた。
他に人影がないのは、下校時刻をとうに過ぎているからだ。しかし、仮に何者か通りがかったとしても、彼に投げかける言葉は到底持ち得なかっただろう……。
そう思わせるほど、赤坂は全身どんよりとした負のオーラまみれで、床の上に崩れ落ちていた。
薄汚れたリノリウムを充血した眼で凝視しながら、身を切る思いでこの一日――2月14日を振り返る。
惨敗だった。
貰える筈がない、期待なんかするな、そう己に言い聞かせつつも、ほんの小さな、米粒のような期待をどうしても捨てきる事が出来なかった。
それは、仕方のない事だ。こと2月14日の男というのは、えてしてそういうものである。
べ、べ、別に、貰えないなんて、分かってるし?
分かってる、分かってるけど、本当に分かってるけど……でも……もしかしたらもしかするかも……ジャン?
しかし、現実は無慈悲にも赤坂を裏切るのだ。「無」という厳然たる事実を突き付けて。
その事実をこれ以上直視する事に無明荒野を見た赤坂は、せめて気分を紛らわせようと煙草を吸う為に窓に近づいた。
箱から抜き出した煙草をくわえ、オイルライターを点火しながら、窓を開く。
「好きですっ!」
窓の下で女子生徒が告白していた。
ずっこける赤坂である。
「なっ、なななっ……!?」
慌てて起き上がった赤坂はその光景――1階下、昇降口前で繰り広げられている――に目を疑った。新たなカップルが誕生しつつある、それはいい。ああ、それよりも何よりも、今まさに精一杯の勇気を振り絞り、可愛くラッピングされた小箱を震える両手で男子生徒に差し出しているのは、誰であろう。
(沙都美ちゃん……!?)
赤坂の通算95回目の初恋の相手であった。
――初恋と言っても95回目であり、恋と言っても「美術室に掲載されていた写真がめちゃくちゃ可愛くてマジぺろぺろ」という程度の話で、恋と言うよりは女性アイドルにうつつをぬかすようなそれだったのだが。
ともあれ密かにぺろぺろしていたまいえんじぇう☆が自分でない男子生徒に愛の告白をするという光景は、今の彼にとって余りに残酷なものだった。
亜光速で窓を閉め、物凄い形相で両耳を塞ぎ、全力疾走を開始する。
うわあああああ。うわあああああああああああああああ。うおあああああああああああああああ。
涙の尾を引きながら瞬時に学園から自宅までの距離を走破した彼は、見事な踏み切りから跳躍し空中で美しく三回転、滑らかなフォームでベッドにインしてコンマ5秒で布団にくるまった。
世界が如何に絶望で溢れているかをまざまざと理解させられた赤坂は、残る今日一日をベッドの上で芋虫と化して過ごす事を決意した。
ああ、惨めだ、と赤坂は思う。自分は男として、それほど悪くないと思っている。具体的には、こう、顔とか。
それが何故こうもさっぱりモテないのだろう?
せめてたった一つでいい――女の子の手作りチョコレートが貰えたら!
「……ん?」
その時、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
取り出して画面をタップしてみると、登録しているSNSサイトを経由して、友人からメッセージが届いたようだった。
差出人は――。
「エヴァ……」
表示された名前を見て、赤坂の表情が曇った。
エヴァ・グライナー。久遠ヶ原学園の在校生であり、赤坂の知人だった。
かの黒魔術部で活動している、腕利きのダアトであり、高い知性と魔術・軍事両方面の知識を豊富に蓄えた彼女は、対天魔に於ける大規模な作戦で度々大きな戦果を上げている――“初等部の”生徒である。
そう……天才的とも言える頭脳を有し、大人達と一歩も引かずに言葉を交わす彼女だが、未だ初等部に所属する幼女であり、数少ない「赤坂が苦手とする女性」なのだった。
「あいつ、今は海外に旅行に行ってるんじゃなかったか……?」
不可解そうに疑問を呟く赤坂。
エヴァは兎角博識、とりわけ世界史には特に詳しく、その知識をより深める為なのか、頻繁に海外へ旅行へ出かけており、今も北欧の片田舎を旅していると聞いていたのだが……。
やがて画面に表示された文章は、次のようなものだった。
『ハッピーバレンタイン! チョコレートを送ったわ。召し上がれ♪』
「うわあ」
変な声が出た。
無論、歓喜の声ではない。
普通ならば、たとえ相手が幼女であっても、バレンタインにチョコレートをくれるとなれば、それはもうデレデレとしてしまうのが赤坂という男なのだが……何事にも例外はあるのだ。
それは、去年のバレンタインデーの出来事だった。
実は赤坂は、この年にもエヴァからチョコレートを貰っていたのだが、それによってかなり酷い目に遭っていた。出来事の具体的な内容は割愛するが、撃退士として危険な戦場に赴く事の多い赤坂を以てして、本気で死を覚悟しなければならない出来事だった事は、せめて記しておこうと思う。
「今度はどんなチョコだ……? いい加減に魔術的だったり呪術的だったり冒涜的だったりするようなチョコは簡便願いたいとこだがな……。つーか、届くのはいつなんだ? もう来てんのか?」
海外に旅行中なのだから、恐らく来るならば宅配であろうと、入口まで確認しに行くためベッドから立ち上がったところで、再びスマートフォンが振動した。
『追伸。念のため頭部を守った方がいいかも知れないわ』
頭部? と頭上にクエスチョンマークを浮かべる赤坂。
彼の耳がふと、何かの音を拾った。
撃退士の、それもインフィルトレイターとして経験を積んで久しい彼は、視力や聴力に関して、人並み以上の能力を発揮するに至っていた。
何だろうと、注意してその音に耳を傾けてみる……。これは……物が空気を切り裂く音……。だんだんと接近する……、そうだ、これは……。
「風切り音――」
それが背後から聞こえるものだと気付き、振り返った赤坂の目に映ったのは、大海原を一望できる大きな掃き出しの窓を、ちょうど何かが突き破り、弾丸のように飛来する瞬間だった。
咄嗟の事で反応が遅れた赤坂の額に、「それ」は物凄い音を立てて衝突し、赤坂を身体ごと後方へ吹き飛ばした。
宙を舞いながら、意識が遠のいてゆく刹那に、赤坂はいっそ爽やかな笑みを浮かべてこう思った。
ああ、今年もか――と。
◆ ◆
目が覚めた。
目の前にはコンクリート剥き出しのひび割れた天井があった。もうすっかり見慣れた赤坂の自室の天井だ。
「……っ!?」
がばっ、と身体を起こすと、覆いかぶさっていた布団がはだけて、赤坂の寝間着が露わになった。
寝間着? おかしい、自分は寝間着に着替えた覚えは……。確かそう、何かが頭にぶつかって……。
はっ、として窓を振り返る。
爽やかな白の陽光を受けて、キラキラと輝くさざ波が果て無く広がっている。
……無傷の窓ガラス越しに。
「割れてない……?」
赤坂は怪訝に思った。自分が気を失う直前、「何か」が飛来して窓ガラスを破砕した筈だ。
なのにガラスが無傷なのは、どう考えても不自然だった。
試しにそーっと、その「何か」が直撃した額をさすってみる。
特に何もない。傷、出血、もっと深刻な負傷さえ何もなかった。
そう言えば今は何時だろう。ベッド脇の電子時計に視線を向けると、時刻がちょうど午前7時で、日付が2月14日である事を教えてくれた。
「あのまま寝ちまったか――って、14日?」
赤坂はディスプレイを二度見した。
そこには確かに、今日が忌まわしきかの一日である事を示している。
しかし、それはおかしいのだ。自分の最後の記憶は2月14日の夕方で終わっている。
目が覚めたら同じ日の朝に戻っているというのは、大いにおかしい事だ。
まさか夢オチか、夢オチなのか、などと考えながらベッドから起き上がろうと前を向いた瞬間、赤坂は言葉を失った。
空中に銀色の球体が浮遊していた。
それは丁度ボーリング玉と同じ程度の大きさで、傷一つない美しい表面が、赤坂の唖然とした顔をぐにょおんと映していた。
「……あ、これ、飛んできたやつじゃねえか」
咄嗟に意識を失う直前の記憶を思い起こす。よくよく見るとその姿は、窓を破って飛来した謎の物体と重なる。おぼろげながら、目の端に捉えていたように思う。
一つの事象が判明すると、不思議と頭も冷めるものである。
この金属球の正体は分からないが、窓の外から飛来して来たものだ。
窓の向こうに広がっているのは、ただひたすらに大海原である。
では大海原の先にあるのは何だろう?
外国だ。
「……ああ」
直前に受け取ったメッセージとその内容。
去年の凄惨な記憶と楽しそうな少女の笑顔。
不可解な事だらけの現状だが、「その名前」のもとであれば、何故だかそれら全てを説明出来る気がした。
その時――金属球の表面に変化が現れた。
水の中を漂うものが徐々に輪郭を明らかにするように、どういった原理かは不明だが、黄金の文字が浮かび上がって来たのだ。
『ハロー、グーテンモルゲン。お目覚めはいかがかしら?』
「やっぱお前かあああああああああああ!!」
どこそこのSNSサイトのように、文章をしたためた者の名前が記されているわけでもないが、赤坂は強い確信と共にそう叫び上げた。
エヴァ・グライナー。自らを魔術師と名乗り、これまでも数々の常識を粉砕して来たあの少女ならば、こんなヘンテコな品物を送って来てもおかしくはない。
しかし、そうなると気がかりなのが、この金属球の「能力」である。
あのエヴァの作ったものが、ただ浮遊し、メッセージを届けるするだけで終わるだろうか。
赤坂の不安は……、果たして、的中したのだった。
金属球の文章が滲み、次の言葉が輪郭を帯びてくる。
浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消えを繰り返すメッセージは、繋ぎ合わせると次のような文章になった。
『おっと、気にしないで。このチョコと接した瞬間2014年の2月14日午前7時に戻されるのよ。
だからあなたが今、朝起きたのもチョコレートの仕様よ。
さて、このチョコレートは平行する世界線のバレンタインデーを観測し、ありとあらゆるチョコレートのデータを取り込みながら美味しく成長していく品物よ。
その際の世界線観測者として白秋を設定しておいたわ。
このチョコレートの影響下では人は2月15日を迎えることが出来ず、2月14日の次は2月14日になる。
それに気づけるのはあなただけよ。もっとも、ひとつ前の2月14日から少しずつ変化するんだけどね。
よってあなたは好きなだけバレンタインデーを繰り返し楽しめるのよ、やったわね!
2月14日を終わらせたいなら、この金属球を壊すことね。
もっともこいつは瞬間移動とか使いながら逃げ回るし、危なくなればモンスター化して戦うわ。
戦うときは注意して。こいつに触れられると朝の7時に戻されるわよ。
もしあなたが力尽きても2月14日の午前7時に戻されるから安心してね。
精神の均衡を崩さないように記憶もおぼろげにだけ残しておくわ。
ちなみにあんまり繰り返しちゃうと宇宙が壊れちゃうかも。
ポストが青くなるとかってレベルで日常に変化が起きたら要注意よ。
まあ、その時はその時ね!』
「いやっ、軽く言ってんじゃね――よっ!?」
驚愕の言葉を最後に、金属球はまるでもう説明は十分だろうとでも言うように、それ以上何も映さなくなった。
聞きたい事も言いたい事も山のようにあったが、赤坂は兎に角説明を要約してみた。
この金属球(エヴァはチョコレートだと言っているが、認めるわけにはいかなかった)がある限り、金属球に触れるか、自分が力尽きるか、一日が終わるかすると、2月14日の朝に戻される。
それを止めるには金属球を破壊しなければならない。しかし、金属球は抵抗をする。
一日を繰り返すたびに世界が少しずつ変わってゆき、あまり繰り返し過ぎると宇宙がヤバい。(重要)
作ったのはエヴァである。(最重要)
「よし、とりあえず徹底的に破壊してそれからエヴァを血祭りにあげよう」
ちゃき、と真顔で拳銃を構えると同時、金属球が高速で逃走を始めた。
◆ ◆
結論から言って、金属球は手強かった。
赤坂はそれなりに戦いの経験を積んだ撃退士だったが、圧倒的な移動速度と瞬間移動能力、そしていざという時の怪物化能力によって、いやこれ天魔より強くね? なあチート入ってね? どっかのブラックリリーさん連れて来るしかないんじゃね? というような強さに仕上がっていた。
時間遡行に伴う記憶の引継ぎも、思った以上に効果が薄く、幾度と戦いを重ねて対策を講じても、目が覚めるとサッパリ忘れてしまっていた。
そしてこれは、説明にはなかった事なので、制作者にも予想外の事だったかも知れないが、2月14日を繰り返すたび、金属球は少しずつ強くなっていた。
全力で破壊を目指す赤坂だったが、機動力と攻撃力の双方に秀でて、更に「一瞬でも触れたらゲームオーバー」という鬼畜じみた縛りルールのお陰で、2月14日を幾度となく繰り返す事になり、そしてそのたびに、金属球は強くなり、世界は少しずつ変化していった。
そして、もう数える事すら億劫になるほどの、果てしない回数を積み重ねた上で、また新たに迎える事となった、2月14日の朝――。
◆ ◆
目が覚めると同時にズシンと重い音がした。
がばっと起き上がってベッド脇を見ると、体長2メートルほどの、銀色の肌をしたのっぺらぼうのムキムキマッチョマンが腕を組んで自分を見下ろしていた。
「……は?」
唖然とする赤坂の前で、マッチョマンが徐に、ぬうううううううんッ、とマッスルポーズを取る。
すると彼を中心に爆発が起こり、赤坂はベッドごと吹き飛ばされた。
「え、な、何だ!? 何これどういう事ですか!?」
咄嗟に武器を構えながら、赤坂が悲鳴のように叫ぶ。
“精神の均衡を崩さないように記憶もおぼろげにだけ残しておくわ”、との説明の通り、赤坂は記憶を引き継いで時間を遡っていた。だから、自分が何をすべきかはしっかり理解していた。
しかし、それ以外の事は、霞がかったように思い出せない。「おぼろげに」という表現は、まったくもって的確だった。
そうこうする間に、マッチョマンは次々とマッスルポーズを決め、赤坂の部屋を爆発で滅茶苦茶にしていく。
わけがわからぬまま退避する赤坂は、マッチョマンの額に、『ハロー、グーテンモルゲン。お目覚めはいかがかしら?』という文字が浮かび上がっている事に気が付いた。
それは、金属球の表面に浮かんでいた文字と同じだ。つまり……。
「ま、まさか……あの金属球、最終的にこんなんなっちゃったのか!?」
バレンタインデーを繰り返すたびに、より美味しく、より強く。
チョコレートの究極系へと近づきつつある金属球が得た答えは、爆発するマッチョマンだったらしい。
「どうしてこうなったああああああ!!」
命からがら自宅から逃げ出した赤坂。マッチョマンは超高速で追って来ていたが、身を隠す為のスキルを駆使して何とかまく事に成功した。
路地裏の物陰で目の前をマッチョマンが走り過ぎるのを確認し、ほっと一息ついた赤坂は、自分が焼けただれた寝間着姿である事に気付いた。
シルバーアクセサリ型のヒヒイロカネを解放し、魔装と呼ばれる服――ちょうど久遠ヶ原学園の制服になっている――で体を覆う。ただの制服に見えるが、れっきとした「防具」である。
金属球を追う気にもなれなかった赤坂は、疲れたように溜息を吐き出した。
「……とりあえず、学校行くか」
◆ ◆
校門をくぐる赤坂の気分はそれは憂鬱だった。
どうにかしてあの金属球を破壊しなければならない。学校に来たところで、それはどうなるものでもない。
過去に同級生に協力を要請した事もあったが、失敗に終わった。
金属球が見えているのは、どうやら自分だけであるようなのだ。
「そうでなくても、今日はバレンタインデー。学校なんざ来たって、俺みたいなのはどおおおおおおおおおおおおおおおおっせ絶望するだけなのによ……」
とぼとぼと昇降口に辿り着いた赤坂。上履きに履き替えるため下駄箱を開いた。
そこには、一通の手紙と茶色い小箱が入っていた。
「……………………………………、……えっ?」
数秒の間があって、目を瞬かせた。何だろうこれは。手紙と箱のように見えるけれど。何だろうこれは。ええと、ううんと、何だろう……。
「まっまままままままままさか!?」
ひったくるようにそれを取ると、手紙の表面に書かれていた文字を読み、両手を震えさせた。
『赤坂先輩へ』
如何にも女の子らしい、丸っこい文字でそう書かれていた。
これは、これは、これはこれはこれは……!!
こおおおおおおれえええええはああああああ。
んばっ! と天高く手紙と小箱を掲げ、赤坂は滂沱と涙した。
「春到来かああああああああああああ!?」
意気揚々と手紙を開封しかけたが、いやこんな場所で開くものではないなと思い直し、手紙と小箱を持って教室を目指して歩き出す。
「あ、あの……」
そんな赤坂の背に、呼び止める声がかかった。振り返ると、見慣れない女子生徒が立っていた。制服からして、高等部の生徒だろう。
「お、おう……なんだ?」
その様子に、赤坂はどきりとする。頬を赤らめて、目を泳がせて、手に持った袋をきゅっと握り締めている――ひょっとして。
「……チョコレート、頑張ってつくりました。ううう、受け取って、くだひゃいっ!」
半ば押し付けるようにして、桃色のリボンで結ばれた袋を手渡してきた。
赤坂は茫然と女子生徒の行動を見守っていた。
今まで一度だって、こんな風にチョコレートを受け取った事はなかった。
それが、どうして急に――。
「あああ――――――っ!! カナコ、ずるーいっ! 抜け駆け禁止って言ったでしょーっ!!」
不意にそんな声が響き、廊下の向こうから別の女子生徒が走って来た。
カナコと呼ばれた女子生徒が、びくっ、と後ろを向いて、泣きそうな顔をする。
「だってぇ……。赤坂先輩人気だから、はやく渡さないと……」
「もう、だったら何で、あたしを呼んでくれないのっ」
ぷりぷりと怒るショートカットの生徒は、赤坂達のいるところまで駆けて来るや、はっと赤坂の顔を見て後ろを向き、手鏡を取り出して髪や服を整えた。
「……うー、おほん。初めまして、赤坂先輩。……と、突然ですが、ファンです! これからも頑張って下さいっ!」
ぺこりっ、とお辞儀をしながら、ポケットから出した細長い箱を差し出してきた。
赤坂は眩暈すら覚えながら、ああ……とか、おお……とか曖昧な事を言いながらそれを受け取った。
「あ、あれ、どうしたんですか先輩……。ひょっとして、嬉しくありませんでした……?」
「えっ!? あああ、いやそんな事なくてな!? いや、おかしいな、俺、そろそろ死期が近いのかな……」
「ええー? もう、先輩ったらおっかしー」
ははは、はははと笑う赤坂。そのまま暫く三人と談笑した。
と言っても、赤坂は緊張と混乱でろくな事を言えなかったのだが、二人はそんな事を気に留めた様子はなかった。なんというか、赤坂と話せるというだけで、もう胸が一杯のようだった。
暫くの後、きゃいきゃいと騒ぎながら立ち去る二人の女子生徒の背を見送り、ぽーっとした顔で教室に歩き出した。
歩きながら、赤坂は今の出来事を脳内で租借し、そして理解していた。
――“もっとも、ひとつ前の2月14日から少しずつ変化するんだけどね”
「つまり……これは……長い長い時を旅して……俺がモテモテの世界線に辿り着いたって事だな!?」
どごおおおおおおおおおん、と頭の中で何かが爆発した。
体中に歓喜が満ち溢れるのを感じた。
モテモテの学園生活。それは赤坂の夢の中の夢、ドリームオブドリームだった。
――“ちなみにあんまり繰り返しちゃうと宇宙が壊れちゃうかも”
――“ポストが青くなるとかってレベル日常に変化が起きたら要注意よ”
不意にそんな言葉が思い出されたが、いやいやポストが青くなる事と、俺がモテモテになる事が同程度の変化であるはずがないと振り払った。
「金属球はとりあえず置いといて、俺はこの世界線を、いやこの世界線だけは満喫させて貰うぜっ!!」
天井へ向けて大きく右拳を突き上げる赤坂。
彼は今、間違いなく人生の絶頂にあった。
◆ ◆
「ぬわあああああ――――――――――――――――っはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはァア!!!!!」
橙色に染め上げられた教室で、赤坂は一人、笑っていた。
他に人影がないのは、下校時刻をとうに過ぎているからだ。しかし、仮に何者か通りがかったとして、彼に投げかける言葉は到底持ち得なかっただろう……。
そう思わせるほどに、赤坂は心の底から、笑っていた。
彼の机の上には色とりどりの箱、袋、箱、袋が山と積み上げられていた。
全てチョコレートであり、ほぼ全てが本命だった。因みに、これらのチョコレートは一部に過ぎない。ロッカーや鞄、複数の紙袋に入りきらない分を、こうして机に積み上げているのだ。
どうやらこの世界線の赤坂は、久遠ヶ原学園の絶対的プリンスであり、女子生徒の憧れの的。なんだったら女性教師からも熱い視線を受けるし、PTAのおばさまからも大人気と、モテにモテまくった薔薇色パラダイスの生活をしているようであった。
「バレンタイン最高! 俺最高っ!! もう、この世界線に永住します!!!」
笑いの止まらぬ赤坂は、例えるならばアニメ漫画で三枚目キャラがちょろっと女性に囲まれた時に見せるような、にへらあああああああっとしただらしない顔をしていたが……。
「あの」
か細い声であったが、聞き逃さなかった。
突然の事だったので、半ばアホ面のままだが、反射的に出入り口の方に顔を向けた。
そこにいた人物を見て、赤坂は茫然とした。
「沙都美……?」
艶のある黒髪のおかっぱ頭。あどけない顔だち。細い首と薄い唇。陶器のように白い肌。ちらりと除く眩しい鎖骨。
95回目の初恋の相手――沙都美がそこに立っていた。
果たして沙都美は、赤坂に名前を呼ばれた事に驚いた顔をして、一歩、教室の中に足を踏み入れた。
「あ、はい……私の名前……ご存知なんですか?」
「……あ、ああ……」
赤坂は先ほどとは一転し、天地が激しく回転しているような心地だった。
届かないと知った淡い気持ち、その相手が目の前にいる。
あの時は絶望を知らされたけれど。あの時は届ける事すら叶わなかったけれど。
今なら。今だったなら――。
この一日の経験が、赤坂にその一歩を踏み出す勇気を与えていた。
トラウマ的な記憶や、薄暗い不安を吹き飛ばすだけの自信を、今の赤坂は備えていたのだ。
「――知っているさ。当然だろ?」
赤坂は努めて平静を装い、可能な限り大人の余裕を漂わせて、何となくこれイケメンっぽい感じじゃねえかな~~~~~というスマイルを浮かべて、沙都美に歩み寄って行った。
これに対して、沙都美はぽおっと頬を赤く染めていた。まるで熱に浮かされたように、赤坂が近付いてくる様を見つめている。
いけるんじゃね? これいけるんじゃね!? と内心の赤坂は半狂乱だが、あくまでもサワヤカ度300%増しでにっこりと微笑んで見せた。
「それで、俺に何か……?」
「……そ、その」
沙都美がぐっと桃色の唇を噛み締めた。後ろに回したままの腕が小さく震えている。
何かを持っている。そんな事は最初から分かっていた。自分に何かを渡す為にこの教室に来た。2月14日の放課後に、彼女は自分に「何か」を渡すつもりなのだ――「何か」を!
赤坂はこの時、机の上や、ロッカーや、鞄の中にある大量のチョコレートの事など、綺麗さっぱり忘れていた。
この瞬間、世界は確かに赤坂と沙都美の二人きりだった。
「あ、あの……っ」
顔を真っ赤に染め上げて、意を決したような沙都美。赤坂の脳裏にあの時の光景が甦る。窓を開けたら別の男子生徒に告白をしていた。あの時の沙都美の表情は確かに恋する乙女のそれで、赤坂の心は強く打ち砕かれた。
今、彼女の微熱を帯びた視線が向く先は自分だ。
「ちょ、チョコレート、です……」
おずおず、といった様子で可愛くラッピングされた小箱を差し出された。赤坂は、多分こういう感じめっちゃイケメンなんじゃねえかな~~~~~~~~~~~~という微笑を浮かべているが、心臓はもうばっくんばっくんにハジケていた。それを受け取ろうと汗ばむ手を伸ばしたところで、その言葉は唐突に、聞き紛う余地もない程にはっきりと告げられた。
「――す、好きですっ! 受け取ってくださいっ!」
心の中で何かが破裂した。
伸ばした手は小箱を通り過ぎた。
白く細い沙都美の手を握り、引き寄せた。
驚いた沙都美が顔を上げる。二人の視線が交差した。
「…………俺も」
それだけ喉の奥から絞り出すので精いっぱいだった。
沙都美の大きな瞳が驚愕に見開かれた。
「お、俺も…………」
その先を言わなければならないと思った。己の人生に勇気という言葉を与えるなら、まさしく今しかなかった。
緊張のあまり喉が震えた。腕も震えて、地面がぐわんぐわんと揺れて、地響きのような音も聞こえて来た。
そして、頭が真っ白になった。
赤坂が勇気を振り絞って言葉を続けるより早く、沙都美がそっと瞼を閉じたのだ。長い睫毛が微かに震えている。小さく顎を上げて、薄桃色の唇を真っ直ぐに自分に向けている。
赤坂は顔を信号のように、赤くしたり青くしたりしながら、何かの破砕音の幻聴を聞きつつ、荒い呼吸を押し殺した。
瞬きほどの逡巡の末に、沙都美の肩に手を置けたのは上出来な度胸だったと言える。その肩が震えている事に気付き、ついでに床と壁と天井も震えている事に気付き、沙都美がたまらなく愛おしいと感じた。
ゆっくり、ゆっくりと彼女に顔を近付ける――。
――いや、待て。
そこでちょっぴり冷静になってしまった事が、もしかすると最大の不幸だったのかも知れない。
興奮や緊張で喉が震えたり、呼吸が荒くなったりするのは分かる。
だが地響きのような音が聞こえたり、何かの破砕音が聞こえたり、床と壁と天井が震え出すのは明らかにおかしい。
上だ。
長年培った撃退士としての勘が、こんな時でも機能した。
顔を上げると同時に天井に派手な亀裂が走り、爆裂した。
悲鳴を上げる沙都美。唖然とする赤坂。
すべては一瞬の出来事だった。
直後、爆炎と土煙を切り裂いて、この赤坂白秋という気の毒な青年を目掛けて、巨大な物体が落下して来た。
――銀色の、ムキムキマッチョマンである。
◆ ◆
目が覚めると自室のベッドの上。ゆっくりと起き上がると、『ハロー、グーテンモルゲン。お目覚めはいかがかしら?』の文字を映した銀色巨人がベッドの脇に仁王立ちしている。
サイドテーブルの電子時計を見ると、2月14日の午前7時。布団をはだけると寝間着に身を包んだ自分の身体が露わになった。
「……ああー、なるほど、なるほどな」
赤坂は軋むベッドから起き、ひんやりとした床の上に降り立つと、大きく伸びをして、左右に身体を捻った。
捻りながら、状況を整理した。
身体、よし。問題なく動く。
武器、よし。ヒヒイロカネは平時より常備している。
記憶――よし。忘れたくても忘れる事の出来ない、橙色の教室で見た、うん、幸せな、うん……うん。
それとマッチョマン。
「なるほど……なるほど。なるほどなるほど。ああ~なるほど。なるほど、なるほどなるほど、なるほどな、あー、なるほど……なるほどなあ、なるほどなあー……」
その時の、振り返った赤坂の表情たるや。
「殺す」
目の前の銀色巨人に向けて、極めて純粋な殺意が告げられた。
足元から漆黒のアウルが巻き上がる。赤坂のアウルの色は銀だが、この時のアウルは確かに黒く、その勢いも普段の比ではない。理屈を超越した何かが、赤坂の身に起きていた。
悲しみと怒りが複雑に絡み合い、今、男は一匹の獣となる。
巨人のマッスルポーズが引き起こす爆発が、決戦の火蓋となった。
「――コオオオオオォォロオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォスッッッッッ!!!!!!」
暗転。
◆ ◆
2月14日――夜。
しんしんと降り積もる白雪は、果たして幸福に包まれた恋人達への祝福か、はたまた極寒を生きる者達の心の具現か……。
何れにせよ、今の赤坂の心境を表すには、まったく不十分な情景だった。
赤坂は――泣いていた。
おーいおい、おーいおいおいおい、と割れたガラス戸が散乱する自室で、崩れ落ちて泣いていた。
一体自分が何をしたと言うのか?
どんな罪を犯したからこんな仕打ちを受けなければならないのか?
バレンタインデーに一抹の期待を覚え、しかし裏切られ、かなり理不尽な形で巻き込まれた怪事件の末に、特大の希望をちらつかせられたところを、顔面右ストレートで絶望の底に叩き落とされたのだ。
そして現実に帰って来た。全くモテない、元の現実に。
このやるせない気持ちをぶつける先が分からず、赤坂はとりあえず叫んだ。この騒動を仕組んだ張本人の名を、久遠ヶ原学園郊外の夜空に向けて、高らかに叫び上げた。
「エエェエエェエェェエエエェェエエェエエェエエェエエェエエエエエェエェエエエヴァァアァアアァアアァアアアァアアアァァアアアアァァアァアアアアァァァアァアアアアァァアアアアァァアアァアアッッッ!!!!!」
しかし……叫んでも状況は変わらず、沙都美ちゃんも返ってこない。二度と、永遠に。
今頃この世界の沙都美ちゃんは、あの男子生徒と何処かで二人きり――などと考えたところで思考を停止した。もはや考えても仕方のない事だ。
そのまま自室で腐っている気分にもなれず、赤坂は煙草とライターだけをポケットに突っ込み、玄関に向かった。こうなったらバレンタインデーの夜、あちらこちらでいちゃいちゃしている恋人たちを逆につぶさに観察してやろうか。ガン見の中のガン見を全方位に振りまきながら、夜の街を闊歩してやろうか、などと陰湿なアイデアを検討し始めたところだ。
玄関に届け物があった。
目をぱちくりとさせる赤坂だったが、それらは色とりどりの箱、袋、箱、袋。まさかと思いそのうちの一つをひったくり、真っ赤な包み紙を剥がしてみた。
送り主である女子生徒の名前と、特大の「義理」という文字がでかでかとプリントされていた。
他の贈り物も確認したが、どれもこれもが義理だと確認できた。それらは、チョコレートだったり、クッキーだったり、飴玉だったり、中にはもぞもぞと動いている、果たして食べて大丈夫なものなのか不安になる代物もあったが――20を超える贈り物、全てに共通して言える事は、そのすべてが義理であるという事だった。
「…………ハ、」
しかし何故だか、不思議と笑顔が漏れたのだ。
これだけ貰っておきながら、全て義理だという事実は非常に残念なオチだったが、送り主の名前ひとつひとつ、ひとりひとりの顔を思い浮かべると、自然と満足な心地になったのだ。
それはわざわざ時間を遡り、世界を変えずともそこにあった、本命ではないけれど、確かな彼女たちの「気持ち」だ。
赤坂は贈り物をひとつの箱に纏めると、抱え上げて自室に運んだ。
バレンタインデー特別企画☆カップルガン見爆殺ツアー♪ は延期となった。
贈られたチョコレートを美味しそうに頬張りながら、赤坂はヤレと一息ついて考える。
来年のバレンタインデーこそは、本命チョコを貰えるだろうか。
そして、エヴァ・グライナーをどうやって血祭りに上げてやろうかと――
そんな事を、義理チョコレートのビタースイートと共に。
<了>