誰も私を見ない。誰も私に気付かない。誰も私を知らない。
別に見つけて欲しかったわけじゃない。気付いて欲しかったわけじゃない。知って欲しかったわけじゃない。
ただ……私にも居場所が欲しかった。
『ならば私が与えましょう。貴方の意味を。貴方の存在を。貴方を、私が生みましょう』
そう私に囁くのは男の声にも、女の声にも聞こえないような……無機質な声だった。そして同時に何か固いものを打ちつけるような……削るような音が響き渡っている。それはさざ波のように近付いてくる。かーん、かーん、かーん……
何の音か、私にはわからない。けれどそれは、まるで心臓の音のように安らかで……お腹の中の赤ちゃんはこんな音を聞きながら眠っているのかもしれないなって、思った。
もしかしたら……私が居るべきなのはここなのかもしれない。
……ちょっと寝過ぎたみたいだ。私は袖で目蓋を擦ってから真新しいふかふかのベッドの上から窓の外を眺める。巨大な入道雲が夕日に染まろうとしていた。地底では絶対に見られない景色だけれど、あの四角い建物は地上でも見たことがなかった。
「幻想郷の外の世界……」
私は身体を起こして思わずひとりごちる。メリーさんとして散々この異様な街を歩き回ったはずなのに、何故だかその時は全然興味を持てなかった光景。私、いったい何をしてたんだっけ? とにかく電話して、追いかけっこして、追いかけて、追い詰めて、殺して、そして……そして?
「わたし、なんでそんなことしてたんだろう?」
零れ出た疑問は窓硝子に当たって部屋に転がり落ちる。どうしてか、しないといけなかったんだけど、どうしてそうなったんだっけか……うーん、思い出せない。ま、どうでもいっか、そんなこと。思い出せないってことは忘れてもいい程度のことだよ。
私はベッドから飛び起きて姿見の前で一回転してみる。服は皺くちゃになっちゃってるけど破れてはいない。帽子は……衣装掛けに掛かっていた。それをしっかり被ってから、私は木製の扉を音をたてないように開ける。
部屋の外は吹き抜けになっていて、手すりの間から下の居間が見える。そこには今朝見た金髪と黒髪のおねーさん二人がソファに座って話をしていた。目の前の机の上にたくさんの服を並べて、それを選んでいるようだった。あの二人、なんて名前だったっけな? えっと……
「蓮子、それとかいいんじゃない? その藍色のフレアスカート」
「うーん、そうかな? ちょっと可愛すぎじゃない? 私の趣味じゃないわ」
「蓮子は保守的過ぎなのよ。あの子……こいしを見習ったらどうかしら?」
突然私の名前が出て、ちょっとびっくりする。私の服、なんとなくで選んだんだけど外の世界でも受けがいいのかな? だったら嬉しいな。
今度はわざと音を立てるように階段を降りていく。けれど二人は全くそれを気にした様子がない。服選びに熱中して気が付かないんじゃない。二人には私が見えないだけ。私のことをまったく意識できていない状態なだけだ。本当なら私の事を話題に出すことすら出来なくなるはずなんだけど……まだ本調子じゃないのかも。ま、バレなければ何でもいいけど。
私はそのまま居間から出て玄関へ向かう。行く当てもないし、目的もない。けれど私はこの家から出ようと決めていた。お粥を作ってくれたおにーさんはしばらく体を休めてから、今後のことを話すって言っていたけれど……何となくあの人とは話したくなかった。
おにーさんの顔を見てると変な気持ちになるから。何だか胸が締め付けられるような感覚。明るく振る舞っていたけど、あの表情は……私が瞳を閉じたと知った時のお姉ちゃんの顔に似ていた。どうしてもその時の事を想い出しちゃうから……今はおにーさんに会いたくなかった。
「待った、こいし」
けれど、そんな時に限ってその本人と出会ってしまうのはなんでだろう?誰も見えないはずの私を、台所で料理していたおにーさんが呼び止める。どうして私が見えるの? 人間の子供に見つかることは今までに何度かあったけど、大人の人が私に気付くなんて……しかも、よりによっておにーさんに、だ。
無視してこの家から出ればいいのに、逃げてしまえばいいのに、向き合わなければいいのに……私は、おにーさんの次の言葉を待っていた。床の木目を数えながら待つこと数秒、やや遠慮がちな声が耳に届く。
「……せめて晩御飯くらい食べて行きなよ。一人分余っちゃっても仕方ないからさ」
その言葉に私は何も返せない。おにーさんもそれ以上何も言わず、黙々と包丁を振るっている。お腹は減っているけれど……今を逃したら多分私はここを出ることができなくなるような予感がしていた。どうしたらいいか分からない。ただ身体は随分欲求に忠実の様で、いつの間にか私は食卓に着いていた。
私は帽子を取りながら盗み見る様におにーさんの様子を伺う。今朝の作り笑いとは違った自然な、ほのかな笑みを浮かべていて……私はむず痒いような、恥ずかしいような気持ちになった。
おにーさんの料理ができる頃には日がすっかり落ちてしまっていた。テーブルに並べられたのは、つまみ類がてんこ盛りに乗せられた大皿……いわゆるオードブル料理と大量のお酒だ。どうやら夕飯というより酒盛りって感じみたいだ。
食卓に着いているのは金髪と黒髪のおねーさんの二人と妖怪の賢者だった。みんな私には気付いていない。一瞬、妖怪の賢者とは目が合ったような気がするけれど……おにーさんのように話しかけてくることはなかった。
「ちょ、開かない……」
「絶対にこぼさないでよ……絶対よ!」
私はワインの栓を開けようと四苦八苦しているおねーさんたちを差し置いて適当なお酒を勝手に開けて自分のコップに注ぐ。どうせ誰も気にしないし先に食べてしまおうかと考えていると、ワインを開けグラスに注いでいた黒髪のおねーさんが立ち上がってカウンターに肘を置く。未だにキッチンでフライパンを振るっているおにーさんを見かねたようだ。
「北斗ー、ちょっと作り過ぎじゃないかしら? 私達を太らせる気? そういう趣味?」
「別に餌付けしてるわけじゃないって。多分足りなくなるだろうからさ……先食べてていいよ。俺もちょくちょくこっちでつまみ食いしてるからさ」
「ふーん……ま、せめて乾杯くらいは付き合いなさいよ。あと、ワイン開けて」
「はいはいわかってるって……よし出来た」
おにーさんは野菜炒めを手早くお皿に盛り付けると、私達の目の前のテーブルに置いて代わりに血のように赤黒いワインの注がれたグラスを手に取った。席には座ろうとしないのはきっと私がいるからだろう。そんな気遣いが逆に居心地を悪くする。放っておいてくれた方が、いいのに……
さて乾杯しようかとしたところで、金髪のおねーさんが思い出したかのように声を上げた。
「あっ……そういえば、こいしは呼ばなくていいのかしら? 酒のつまみばかりであまり消化が良さそうではないけれど」
「胃弱な妖怪って微妙ね」
「上げ足取らないの。今から様子を見に行きましょうか?」
本当に変な感覚だ。気味の悪さすら感じてしまう。目の前に私がいるのに、心配されて、気を遣われて……どうすればいいのか、分からなくなってくる。そんな私をまた気遣ってか……おにーさんが助け舟を出してくれる。
「……こいしなら、後で何か作って持っていくから大丈夫だよ。さ、それより冷めないうちにどうぞ」
「そうね、それじゃあかんぱーい!」
黒髪のおねーさんの掛け声と共にみんながグラスをぶつけ合う。そしておにーさんに促されるまま、みんなが箸をとって料理を取り始めた。私は感情の整理がつかないまま、おにーさんの料理を取る。じっくりと煮込まれた肉の角煮を口に入れてみると、とろけるような舌触りとともに甘辛のソースの味が口一杯に広がた。朝ごはんのお粥を食べた時にも思ったけど、おにーさんの料理は美味しくて……優しい。誰かの幸せの為の料理だって伝わってくる。美味しい、美味しい……おい、しい……
「うぅ……」
お姉ちゃんの手作り料理を思い出してしまう。瞳を閉じてから地霊殿にあまり戻らなくなったせいで、お姉ちゃんの料理を久しく食べてないけれど……今でもその味は記憶に刻み込まれている。
人の心なんて見ても落ち込むだけ何一ついい事がない。みんな自分の心の内を見られたくなくて、私に近付いて来ない。もし近付いても酷い事ばかり見えて吐きそうになってしまう。
そうだ……私は、誰にも嫌われたくないから瞳を閉じたんだ。なのにみんな私を見ない。私に気付いてくれなくなった。私は……独りになった。
「こいし」
「えっ……?」
目の前の取り皿をじっと見つめ俯いていた私に声が掛かる。顔を上げると、おにーさんがグラスをこっちに差し出していた。それが乾杯をしようって意味だと気付くに結構な時間が掛かってしまう。恐る恐るながらグラスを持っておにーさんのそれに軽く当てると、おにーさんはニッと笑みを浮かべた。
「食べたいものがあったら言ってね。できるだけ要望には応えるからさ」
それだけ言うとおにーさんはグラスの中身を一息で飲み干し、頭を擦りながらまた台所に戻ってしまう。私は呆気に取られたまま何も言葉を返す事ができなかった。
宴会は真夜中近くまで行われた。私がお腹いっぱいになった頃には金髪のおねーさんも黒髪のおねーさんもすっかり出来上がっていて……終いにはソファの方に座ってお互いに寄りかかるようにして眠ってしまった。
私が舐めるようにワインを飲んでいると、私の目の前の席におにーさんが座る。その手には小さな酒瓶と、石のような氷が入ったグラスを一つ持っていた。
「どうだった? 俺の料理?」
「……美味しかった」
「ん、それは良かった。さて二人も眠ったことだし、そろそろ大事な話をしたいんだけど……いいかな?」
……大事な、話。私は隣に座っていた妖怪の賢者の顔を伺う。宴会中、何度か目が合ったから確信している。彼女には確実に私が見えていると。以前博麗の巫女も言っていたっけな……これは厄介な相手だって。いや、むしろこのスキマ妖怪が私が見えている方が納得は出来る。それより……どうしておにーさんは私を見ることが出来るんだろうか?普通の人間じゃないみたいだけど……博麗の巫女みたいなものかな?
私がおにーさんにそのことを聞こうかどうか迷っていると、スキマ妖怪は赤ワインの入ったグラスを軽く回しながら呟く。
「貴女にはこういう事情になった経緯を聞かせてもらいたいの。出来ればここに住んで手伝ってもらいたいのだけれど……貴女が望むなら幻想郷へ戻ることもできるわ」
「………………」
「どうするかは貴女が決めなさい。今回に関しては貴女は……おそらく被害者にあたる。だから強要はしないわ」
私は両手でグラスを持って……その赤い水面に視線を落とす。別に経緯を話したくない訳じゃない。覚えていないから話せることはあまりないのよねぇ。気付いたら外の世界にいて、気付いたら私はメリーさんになっていた。きっとこの二人が欲しがってる情報はきっとない。問題は……
「私は……」
幻想郷に戻りたい? もっと外の世界を見てみたい? 自問自答しても答えが出ない。そもそも私の中に答えがなかった。どちらを選んだとしても大して変わらないから。答えに窮して黙っていると……おにーさんがグラスに飴色のお酒を注ぎながら言う。
「まあ、今すぐこっちって決められるものでもないだろうし……考えておいてくれればいいから。話も、したくなったらで構わないから。それまではここでゆっくりしてるといいよ」
「……おにーさんはそうしてほしいの?」
私は無意識のままそう問いかける。何となくだけれど、おにーさんは私にここにいてほしいような気がしたのだけれど……おにーさんはグラスの中の氷を回して僅かに首を振った。
「……紫さんには悪いですけど、幻想郷に戻った方がいいと思う。またメリーさんになって欲しくないし、きっと……家族も心配してるだろうからね。それに……」
「それに……?」
「いや、何でもない。まあ、あくまで俺はそう考えてるだけだから。手伝ってくれるなら助かるし、またメリーさんになっても……俺が何とかしてみせるから」
そう言うとおにーさんはグラスの中身を呑み干し……カランと氷の音を鳴らせた。私はおにーさんをマジマジと見つめながらつられる様に手の中のワインに口を付ける。
……どうしておにーさんはこんなに私に優しくしてくれるんだろうか?それだけじゃない。曖昧にしか覚えていないけど……私が何回も何回も殺そうとナイフを振るったのに、おにーさんは私を本気で切ろうとしなかった。何人も人間を殺した私だ、人間に殺されてもおかしくないのに……
どうして私が見えるの? どうして私のことを知っていたの?どうしておにーさんは、私に優しいの? 何か私に秘密にしている……心は読めないけれど、直感的にそう感じていた。
はっきり言っておにーさんは苦手だ。近いようで遠い。距離感がつかめない。お姉ちゃんを思い出させるようなところもある。けれど……気になって仕方がない。きっと今幻想郷に戻ったら一生この秘密を知ることができない。どうせ幻想郷に帰らないといけない理由もないし……
「それじゃあ……これからよろしくね、北斗おにーさん」
しばらくおにーさんの傍に居てみよう。いつか、おにーさんの謎が解けるその日まで。