好奇心は猫を殺す、ということわざの本当の意味を教えてくれたのはメリーだった。
イギリスの言い伝えによると猫は九回生き返ることができるそうで、その猫をも殺してしまう好奇心に用心しないといけない、らしい。
正直に言えば、私はこのことわざが嫌いだった。まるで知ることから逃げているようで腹立たしかった。
逃げたくない。知って大したものじゃないと鼻で笑いながら安心していたい。『未知』の不意打ちで訳もわからず死ぬくらいなら、全てを受け入れて絶望したかった。
だから私は誰よりも……きっとメリーよりも、メリーの瞳の真実を知りたかった。彼女の正体が何であろうと、それを知って後悔はしない。
知らないうちにメリーがいなくなるくらいなら……メリーに殺された方が数千倍マシだと、思えたから。
弾かれたようにベットから起き上がると、そこはだだっ広い病室だった。
寝起きの頭で辺りをぼんやりと辺りを見回すとら真っ先に目を引いたのは緑で覆われた山岳部の景色だった。しかし、その部屋を彩る色は窓の外にしかない。
ホコリひとつない床、シミひとつない天井、汚れのないシーツにベッド……室内は白一色。完全に清潔な空間に、私は一人だった。
「何よ……ここ」
自分が置かれた状況が理解できなかった。ふと身体を見下ろすといつもの服じゃなくて、病人がよく着ている白い服……病衣っていうのかしら?を着ていた。お気に入りの中折れ帽も近くにはない。
ただ身体には点滴の管や、何かしらの測定装置が取り付けられていた。まるで私が機械に生かされているようで不快だ。
「こんなもの……!」
八つ当たり気味に片っ端から管や電極を剥ぎ取ると、ベッドの後ろからアラームが鳴り始める。が、知ったこっちゃない。
これは私の身体だ、私が一番よくわかる。怪我も病気もしてはいない。すこぶる快調だ。なんで海辺の灯台にいた私がこんなところにいるかは全然見当がつかないけれど……そんなことは後から勝手にわかることだ。
早くこんな部屋から出たい。そんな焦り混じりの衝動に駆られるがまま、ベッドから立ち上がる。床に降りると、ひんやりとした感触が素足から這い上がってくるが構わない。
脇目も振らずに扉へと向かい、ドアノブを回す。しかし、押しても引いても扉は開かなかった。
「鍵……!? そんな!?」
建て付けが悪いわけでも錆びついて動かないわけでもなさそうだ。扉の内側に鍵穴も錠前も見当たらない。
まさか閉じ込められている……!? 不気味な想像に駆られた何度も扉を叩くが、大した音にもならないし反応もない。
破るつもりで体当たりをしてみるが、鉄製の扉にぶつかっても痛いだけだった。私は扉に肩を預けたままズルズルと座り込んでしまう。
「なんで……私……こんなところに……」
私は思わず独りごちる。薄々気付いていた。私はこの場所を知っている。いや、実際に見たわけじゃない。メリーから又聞きした話で想像していた病室に、私はいた。
おそらく……ううん、間違いない。この山奥の療養所は……
サナトリウム……以前メリーが原因不明の病に掛かったとされ、療養していた場所だった。
無機質な部屋に機械音がうるさく響いている。そのせいで、誰か来る気配はまったく感じ取れなかった。
けれど、これだけの騒音が鳴っているのに誰かが様子を見に来ることもないあたり、まともな医療機関ではないのは確かね。
……そういえばここを退院したメリーが、療養中誰にも合わせてくれなかったとぼやいていたっけ。
私もメリーと同じように何かしらの病気と認定されたのだろうか? ありえない話じゃない。私が体験したことを医者に話せば、精神異常だと決めつけてくるに違いないもの。
「異常なのは……どっちよ」
私はベッドに戻る気にもなれず、扉に背中を預ける。
窓の外をぼんやりと眺めていると、山林に夕日が落ち始めてきてきた。もうすぐ夜が来る。けれど部屋に明かりが灯る様子はなかった。あたりにスイッチらしきものもない、せいぜいベッド前の機械のライトぐらいしか明かりになるものはなさそうね。
けれど、月さえ見えれば場所を知ることができる。ここが本当に、メリーが療養していた信州のサナトリウムなのか、はっきりするだろう。
「はっきりして……どうにかなるのかしら?」
抜け出す? どうやって? 窓を破って飛び降りてみる? ここから見える景色から鑑みてかなりの高さだろう。私は妖怪でも北斗でもない。ただの人間は重力に引かれて潰れたトマトになるだけだ。
私は体操座りになって自分の引いたのは膝小僧に頭を埋める。
「また私は……自分の不甲斐なさを自覚させられるのね……」
こいしの時と変わってない。また私は北斗達に助けられる側だ。こうやってまた二人の足を引っ張るだけしかできない。この状況ではいくら思考し続けても、結論は変わらなくて……悔しかった。
「嫌になるわね」
……いや、情報が少な過ぎるから、その選択肢しか見えてこないだけかもしれない。暗くなる前にもっと部屋を調べておこう。何か見つかるかもしれないし、なくても夜までの時間潰しにはなるわ。
無理やり前向きに矯正した感情を引っさげ立ち上がると、計ったようにずっと鳴っていたアラームが止まる。耳障りだった異音が消え、病室らしい静けさが戻ってくるが……かえってそれが不気味だった。
「な、何なのよ……!?」
自分の放った言葉が、部屋の中を乱反射していく。気持ち悪い。よく考えたら大したことじゃないはずなのに、私は探索も忘れて身構えてしまう。そのせいで物音に対して過敏になり過ぎていた。
「ッ!?」
突然背後で微かな振動と共に鍵が開くような音がする。私は驚きのあまり扉から逃げるように尻餅をついてしまう。誰か来たの?ここの職員だろうか?アラームも止まったっているし可能性はありそうだけど……
しばらく無様な格好で扉を開くのを待つが……扉は一向に開くことはない。西日の作る影法師が徐々に長くなっていく。が、いくら待っても誰かが入ってくることはなかった。
「まさか私の勘違いでしたみたいなことはないわよね……?」
痺れを切らした私は戦々恐々としつつも、立ち上がって扉に近付いていく。そして、ゆっくりと扉を引いてみると……意外とすんなり開いてしまった。内心拍子抜けしつつ、私は出来るだけ音がしないよう静かに開け、首だけ外に出す。
むせ返るような草の匂いが鼻を突く。眼前には鬱蒼とした木々と、蔦と根に侵食されつある吹き抜けの廊下が広がっていた。
どうやら施設の中央に中庭があるようね。背の高い木々が青々とした葉を夕焼けに染まる空に向かって伸ばしていた。さっきまでの部屋とは大違いの、有機物だらけの空間だわ。
「療養施設なのにこんなしめった菌だらけの場所でいいのかしら?」
まるで異次元に飛ばされたかのような感覚に戸惑いながらも、部屋から出る。そして鍵を開けただろう相手を探して辺りを見回す。
すると……廊下の向こう、昇降口の前で一人の少女がこちらを見つめているのを見つける。ナイトキャップのような帽子に、紫のワンピース、羨ましいほどに長く美しい金髪。見間違えるわけもなかった。
「メリー!」
私は裸足のまま駆け出してしまう。床を這う根に足を取られそうになるが速度は落とさない。
身体が勝手に動いていた。彼女の温もりが恋しくて仕方なかった。けれどメリーは……何故か私から背を向けて昇降口へと消えてしまう。
「待って! なんで……どうして置いて行くの!?」
冗談ならまったく笑えない。ずっと一人でいた反動でのせいか、私は随分打たれ弱くなっていた。孤独に耐えきれない。話をしたくて、その手に、肌に触れたくて……もう足は止まらなかった。
昇降口前まで辿り着くと、下の踊り場でメリーが待っていた。が、私の姿を見るや否や下の階へと降りていってしまう。
「メリー、なんで私から逃げるの……」
追いかける足が止まってしまう。その後ろ姿の残滓が、一つの景色をフラッシュバックさせた。あの時、灯台を登るメリーも私を待ってはくれなかった。ずっと私から目を逸すように先を歩き続けて、結局私は……追いつけなかった。
また知らない内にメリーは何処かに行ってしまうの? 嫌だ。私だけ置いてけぼりにされたくない。向こう側に……触れることすらできない境目の行ってしまったら、二度と私はメリーに会えなくなってしまう。そんなの、絶対に嫌だ!
「私は……」
『知りたいの?』
メリーに手を伸ばそうとしたその時、耳元から男とも女とも取れない無機質な声がした。瞬間、背筋に虫唾が走る。遠くでカツーン、カツーンといつか聞いた硬い打撃音が響いた。
突然腕を、足を、首を……全身を小さな腕に掴まれ、動けなくなってしまう。石のように硬く生気のない土気色の腕なのに、まるで身体の皮を剥ごうとしているのかというくらいに力が入っている。
そのため幸か不幸か、この腕の持ち主を確認することは出来なかった。私は目を瞑って必死にもがこうとするが、その度に身体中の骨と肉が軋むだけ。些細な抵抗にすらなっていなかった。
「……ッ!ッ!」
さらには口元を押さえられて、まともな悲鳴も上げられなかった。まるで万力に頭を挟まれたかのように首が固定され、力づくで目を開かされる。いつの間にか病室に戻されていた。
私は強制的に窓の外に目を向かされる。日はすっかり落ちてしまい、外に闇が広がっていた。明かり一つない冷たい部屋。なのに……何故か私の目にははっきりと見えていた。
窓の向こう……闇の中に浮かぶメリーと紫の姿が。
外に足場らしきものはない。二人とも宙に浮かんでいる。服装は合わせたように一緒で、ナイトキャップのような帽子に紫色のワンピースドレスを着ている。見た目と相まって、どちらがどっちかは身長と顔付きでしか判別できなかった。
「ずっと探していたわ……マエリベリー・ハーン。私と同じ力を持つ貴女を」
紫は私には目もくれず、メリーの手を取って蠱惑的な笑みで呟く。男性なら一目で惚れてしまいそうなほど美しい笑顔だけれど……私がそれを見た瞬間、つま先からえもいわれぬ恐怖が這い上がって来る。
形容するなら……甘い猛毒かしら。メリーと似た容姿のせいか、彼女の立ち振る舞いのせいか、私は紫を妖怪だと思い知らされることが少なかった。北斗と同じ、少し変な力が使える人間っぽい妖怪、程度にしか思っていなかったのかもしれない。
けど、今は……神社で遭遇した大蜘蛛よりも、無邪気に私を殺そうとこいしよりも、今私の身体を縛り付けている正体不明の腕よりも八雲紫のことが恐ろしくて、震えていた。
「貴女がいる場所はここじゃない。私が誘いましょう。貴女がいるべき場所に……」
「はい……」
駄目よ!と叫ぼうとするけれど、口が塞がった上に身体を襲う震えでまともな声が挙げられない。
命を奪われるかもしれない危機感は数週間で過剰な程に味わってきた。けれど今感じていたのは……裏切られたことへの憎しみと悲しみ、目の前で大切な人がいなくなろうとすることへの、恐怖だった。
まるで腹の底に穴が空いたかのような喪失感が体内に広がっていくのと並行して、紫に……メリーに裏切られた憎悪もブクブクと泡のように膨らんでいく。
それら全てが胃酸になって吐き出してしまいそうになる。とてつもない、嫌悪を覚えていた。紫に、北斗に、この状況を作り出した誰かに、何もできない私に、そして……何も言わず私から離れていく、メリーに。
気付けば二人は窓越しに私を見ていた。二人で手を繋いで嘲笑しながら、私を見下ろしていた。助けることもしない。そう気付くと、もう拒絶反応が止まらない。鳥肌が立って仕方がなかった。
ただ私は涙を流しながら憎悪を込めた視線を返す。許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない……
けれどやがて……どうでもよくなった私は強張らせていた身体を弛緩させる。途端に私を拘束していた手がジワジワと力を込め始めた。まるで弱った獲物を捕食しようとしているみたいね。このまま四肢を捻り切られるのかしら?
抵抗する気は既に失せていた。どうせ私じゃこの腕を振りほどく事は出来ない。もしできたとして……何もしたくない。私は……もう真実を受け入れたから……
『……それでいいのか、蓮子?』
滲む視界の中、どこからか男の声が聞こえてくる。ノイズ混じりの小さな問いはどこか私を心配してくれているような優しさが籠っていたけれど……答えるつもりはなかった。
何を言わせたいのか知らないけれど良いも悪いも何もない。真実はただの観測された事象だ。それを否定するなんて道理が通らない。結果はもう出ている。もういいよ私は……
『真実かどうかを決められるのは自分だけよ。世界でも、ましてや他人でもない。例え誰かが理路整然と裏付けしようとも、自分が受け入れられないならそれは虚偽でしかない』
次は女性の声が耳に届く。誰だかわからないけれど……今の詭弁は、流石に業腹ものだわ。今まで人間が築き続けていた物理学……いえ、科学、世界の真理を『信じない』という一言で否定できるわけがない。
すべての人間が観測出来るからこそ、それは真実のはずよ。たった一人が違うって言っても……真実は、変わらないわ。
『……じゃあ、メリーはどうなるんだ?』
再度耳朶を揺らした男の声の問いに、しばらく思考が止まってしまう。けれど、それも一瞬。すぐに頭に血が上っていく。
……よりにもよって、今メリーの名前を出すの? 私より紫を選んだメリーを、私にずっと嘘をつき続けていたメリーを、私を裏切ったメリーを!!
『裏切った? 彼女は貴女に約束したの? 一緒にいるって。貴女に嘘をつかないって』
それは……してない、けど……それでも私は、メリーに理解して欲しかった。独りよがりだった。望んでいなかった。そんなこと。わかってる。この感情は私の身勝手だ。
それでも私は……ただ信じたかっただけなの。私がメリーだけしか見えない世界を体験して、何も間違っていないって証明したかっただけなの。それだけなのに、なんで私が、こんな、思いをしないと……
『じゃあ、どうして信じられたい相手を信じられないの? 一方的に信頼を強要する関係なんて……ただの洗脳じゃない』
違う! 私だってメリーのことを信じたい! 恨みたくなんてないもの! ずっと祈ってるわ! 嘘だって、夢だって、偽物だって! 私達はずっと隣に居られるって……
けど、今目の前のメリーがそれを拒んだじゃない。これを否定できると偉そうに講釈たれるなら……
「私に思わせてよ! メリーを……信じさせてよ!」
私は首を振り僅かに出来た手の隙間から叫ぶ。半ば八つ当たりの心からの願いを。叶えられるものなら叶えてみせろ、と。すると、頭の中ではっきりとした声が響く。
「あぁ、わかった。蓮子が望むなら」
「私達が払いましょう。この悪夢を」
突然氷が割れるような音が鳴る。ガラスの向こう側で薄ら笑いを浮かべていたメリーと紫の背後の空間に亀裂が走っていた。
それに気付いた二人が同時に振り向いたその時……紫の身体から日傘の先が飛び出ていた。まるで水道管の破裂のように鮮血が吹き出て、窓ガラスを赤に染める。
悲鳴をあげる暇もない。それと同時、私の身体を掴んでいた腕の拘束が緩む。しかしまともに立っていられない。よろめく視界、床に倒れこもうとした私を、誰か……二人が支えてくれる。
「遅くなってごめん」
「起こしに来ましたわよ……この悪趣味な悪夢から、ね」
私の肩を支えていたのは黒の変な服を着た北斗と、薄紫色のサマードレスを着た、二人目の紫だった。