あらん限りの清潔を保っていた病室に、むせ返るような生臭い鉄の匂いが充満していく。窓枠から染み込んできた血のせいだ。
何が何だかわからない。窓の外に浮かんでいた紫の腹部に傘が突き立てられたと思ったら、身体の自由が戻っていて……そして今、私の身体は北斗と二人目の紫に支えられていた。
二人は私を立ち上がらせると、窓の外に向き直る。窓の外は血飛沫のせいでほとんど見えないが、僅かに影が揺らめいているのは辛うじて確認出来た。あれはメリーか紫かそれとも……
「来るぞ! 下がれ蓮子!」
「えっ?」
北斗が叫んだが早いか、突然窓ガラスが割れ、闇夜から小さな何かが飛び込んでくる。比喩するなら……小鬼、いや猿、だろうか? 子供のような小柄な生物がそこにいた。
その体格に不釣り合いなほど腕が長い。肘が床に付くほどだ。その長細い両腕には錆びだらけのノコギリが握られており、自身の肩をガリガリと削りながら不愉快な音を鳴らしていた。
そして、暗闇の中で淡く光っている石のように無機質な眼球と目が合ったその時、小鬼は私に向かって飛びかかってくる。
「邪魔、だッ!」
けれどノコギリが私の首元に届く前に、北斗のハイキックが小鬼を撃ち落とす。蹴り飛ばされた小鬼は体をくの字に曲げながら吹き飛び、窓の下の壁へと叩きつけられる。
凄まじい衝撃だったけれど、痛がる素振りもなく小鬼はすぐさま起き上がろうとする……だが、北斗はその間に間合いを詰めていた。
靴底で小鬼の頭を壁に押さえつけ、そのまま体重を掛け頭蓋を踏み抜く。咄嗟に目を逸らしてその瞬間は見ずに済んだけれど、生々しい嫌な音だけは耳に残ってしまった。
「ッ……!」
「北斗、女の子が二人いるんだからもう少しやり方を考えなさい」
「手段を選んでる余裕なんてないですって。あと自分と同じ姿のやつの腹に傘ぶち込んでおいて何言ってるんですか。あれだって下手なスプラッタ映画よりグロいですよ」
……私に言わせてもらったらどっちも十分グロかったけれどね。私スプラッタ系の映画、本当に駄目なのよ。
けれど、今の呑気なやり取りで二人が本当の北斗と紫ってことはわかった。そして、あの腹を刺された紫がおそらく偽物だってことも。じゃあ、あのメリーも偽物ってこと……?
「……そうだメリー! 紫! メリーはどうなったの!? 私、メリーを追った先で灯台で変な奴に出会って、そこから記憶がなくて……メリーは無事なの!?」
「今のところは大丈夫よ。ちゃんと身体は確保してあるわ」
「そ、う……」
紫の言葉に私はつい身体の力が抜けてしまう。自然と目尻から涙が流れていく。よかった、本当によかった。メリーが無事でよかったのも私の考えていたことが、全部間違っていて……
また崩れそうになった身体を、紫が支えてくれる。けれど私は紫の顔も北斗の顔もまともに見れなかった。
さっき私に話しかけてくれていたあの声……きっとこの二人のものだろう。随分捻くれたことを言って蔑ろにしてしまった。私の思考まで筒抜けになっていたのかどうかはわからないけれど……今すぐ謝りたかった。
そう考えていると、紫が私の肩を叩きながら顔を覗き込んでくる。
「安心している場合じゃないわよ。さ、またアレが出て来る前に行きましょう」
「アレって、あの小さなバケモノのこと? 偽物のメリーと紫といい……一体何の妖怪?」
「さあ、狸か狐か……はたまた鬼か、どれかしら?」
真面目に聞いたつもりなのだけれど、紫は適当にはぐらかしながらさっさと部屋から出て行ってしまった。
鬼って……確かにさっきのは小鬼っぽかったけれど、私まさか鬼に取り憑かれたの? そんな罰当たりなことした覚えもないし、嫉妬に狂ったこともないわよ?
不安になった私は北斗に目線を送ってみると、困ったような笑みを返された。
「悪いけど、俺達も正体がわからない。だからここを調べてみたいんだ。何かヒントがあるかもしれないし……」
「そういえば、聞き忘れてたわ。ここってどこなの? 一見サナトリウムみたいだけど……」
まあ、月を見ればすぐわかるのだけれど……さっきまでそんな余裕なかったし、今見ようとすると否応なく潰れたトマトが目に入ってしまう。
残されたのは二人に尋ねる以外無かった。首を傾げながら問いかけると、北斗はキョトンと首を傾げた。
「……気付いていなかったのか? ここは蓮子の夢の中だぞ?」
「はっ!? 夢!? 私の!? 嘘でしょ!?」
私は耳を疑ってしまう。そういえば何時ぞやメリーが境界の向こうから洋菓子と食べれない筍を持って帰ったことがあった。
あの時メリーは頑なに夢だと言っていたけれど……その時みたく北斗と紫が勘違いしてるんじゃないの?なんて疑ってしまうが、今目の前で助けてくれたこの二人に限ってそれはないだろう。
まあ、夢に関するオカルト話は結構あるし、私の夢ってのは本当でしょうね。むしろあんなの、悪い夢であってほしいし。
……あれ? もしそうなら今目の前の紫と北斗も夢の産物ってことになるんじゃないかしら?と、嫌な想像が頭を過る。が、そんな私の焦りをよそに北斗は呑気に親指を立てながら解説をし始めた。
「いや、本当だよ。今現実世界の蓮子は部屋のベッドに寝かされてる。俺と紫さんは蓮子の夢の中の世界にお邪魔させてもらってるわけだ」
「そんなこと、どうやって……」
「紫さんの能力でね。境界を操る力は空間どころか、概念の境界も越えることができる。つまり夢と現の境目を超えて蓮子の夢の世界に介入しているってわけだ」
「は、はぁ……」
相変わらず科学的根拠のない説明ねぇ……まあ、納得できなくもないけど。要は『夢の中も世界の一つ』という考えでいいのかしら?
確かに夢を見るメカニズムは解明出来ていないし、幻想郷の仕組みを知っていたらあり得ない話ではないと思うけど……
人の脳内にも世界があるなんて、パラレルワールドどころの話じゃない。もしそうなら現実世界なんて存在しなくて、誰も彼も誰かの夢になっちゃうじゃない。本当北斗達といると物理学的な思考が致命的に瓦解していくわ。休み明けのゼミ、付いていけるかなぁ……?
まあ、こんな非科学的な説明を真面目してくれたあたり本物の北斗でしょうね。私の脳内の存在ならもう少し私らしく科学的な言い訳するだろうし。とにかく今はそれだけははっきりしたから良しとしよう。代わり7に、私はまた新しく浮かんできた不安に肩を落とした。
「それしても私、こんな変な夢を見るなんて……私、精神的にキテるのかしら? サナトリウムに入院に閉じ込められメリーと紫に裏切られた挙句、あんな変な化け物まで出てくる夢を見て……」
夢はその人の記憶から作られるというけれど……私、あんな猿っぽい化け物見たことないわよ。こんな私の夢をメリーが見たらなんて言うかしら? きっとカウンセリングが必要ね、なんて言われそうだ。内心で愚痴っていると、北斗が病室の出口を開けながら呟く。
「それなんだが……俺もずっと疑問に思っていたんだ。この夢が本当に、蓮子自身の夢かどうかってね」
「私の……夢? 私が見てるんでしょ? だったら私の夢に決まってるじゃない」
「……そうとは限らないんだよ」
そう言って北斗は扉の外を指差す。そこは木々の生い茂る中庭はなく、太いパイプと歯車だらけの硫黄と油の臭いが漂う空間が広がっていた。
ゴウン、と遠雷の様な重厚な機械音が聞こえてくる。そして目の前を横切るように単線の線路が砕石の上に敷かれており……
いつの間にか私と北斗は病室ではなく、ベンチと看板くらいしかない簡素な無人駅に立っていた。
「こんな光景、見たことがある?」
「ある訳ないじゃない。どこよ、ここ……」
私は呆然と呟く。いくら私が都会派だと言ってもこんな前衛的な工場の景色、見たことないわ。まあ、秘封倶楽部の活動で無人駅に降りる機会は少なくないけれどね。
何気なく自分の身体を見下ろすと、ご丁寧に服装まで変わっている。いつもよく着るカッターシャツにプリーツスカート……ご丁寧な帽子とネクタイまで付けてるじゃない。何でもありね、夢。
思わずため息を吐いてしまうが、その音も機械の稼働音でかき消されてしまう。と、私達の横から配管を潜りながら紫が歩いて寄ってくる。
ずっと外にいたみたいだけど……さっきの空間の移り変わりは、彼女の目にどう映ったのかしら? あとで聞いてみよう。
紫は私と北斗を交互に見遣ってから、両腕を組んだ。
「揃ったわね。それじゃあ、そろそろ終わらせましょうか、この悪夢を」
「終わらせるって……私を起こせばいいんじゃないの?」
「それで終わるんなら簡単なのだけれどねぇ……そういうわけにはいかないのよ。私達からしても、相手からしても」
相手から……? なんだが意味深な言い回しだ。私が眉をひそめていると……突然一際眩しい光が近付いてくる。気付くと私達の前を電車が横切っていく。あまりに唐突だったので、私はついたたらを踏んでしまう。
走ってたのは時間にして数秒だ。電車が通り抜けると、その線路上に黒い塊が置かれていた。いや……違う、私はこれを、こいつを知っている。
「あんたは……!」
灯台の上、カンテラが照らす雑然とした部屋、その奥で、私はこの黒ローブに出会ったのだ。そして『何か』を見せられて……気付いたらこうなっていた。まだ引っ掛かりはあるが……だんだん思い出してきたわ。
そこで私は、さっきの北斗の言葉が頭を過る。これは私の夢じゃない方もしれないと言っていた。だとしたら誰の夢? 簡単だ、私にこんなものを見せたのは……推理するまでもない。
「北斗、きっとこいつが!」
「この夢を見せてるのか!?」
北斗達が身構えるのが早いか、黒ローブの周囲の闇から先程の小鬼達が現れる。二、三体どころの数じゃない。十数体の小鬼達が私達を値踏みするように見上げていた。手には手には武器……と呼ぶには非効率な、ペンチや釘抜きなどを持っていた。
そう、武器というより拷問器具だ。気付いてしまった瞬間、腹の底から虫酸とともに恐怖が湧き上がってくる。
「本当に……悪趣味ね」
紫も頬に手を置きながら、嫌そうに呟く。その言葉を合図にしたように小鬼達が一斉に襲いかかってくる。凄まじい跳躍力で私達の頭の上から各々の器具を振り上げ……そこまでは確認出来た。
「邪魔だ! 雑魚は……」
「お呼びじゃないのよ」
が、瞬きした次の瞬間にはその小鬼達の四肢や首が切り取られてなくなっていた。グロテスクな光景だけれど、先程よりも嫌悪感はない。
そんな奴らよりも、血の線を描きながら片手で刀を振るう北斗と、自らの髪を払いながら無数の境界を操る紫の方がよっぽど鮮烈な印象を与えていた。美しくも恐ろしい、二人の姿。
前後の光景で察することしかできないけれど……きっと北斗達がこいつらの腕を切り落としたのだろう。私は武術に疎いから明確にはわからないのだけれど……今見せられた光景は明らかに人知を超えたそれだった。
斬り裂かれた小鬼達は、まるで流水に落とされた墨汁のように霞んで消えてしまう。残ったのは切り落とされた無数の腕だけ。地面に幾つもの腕が落ちてる様は正視に堪えないものなのに、二人はそれを気に留めた様子もない。
「何匹生み出しても無駄だぞ……紫さんにはな」
「あら、北斗ならこれくらい一人でいけるでしょう? 今度やってみる?」
「まだ死にたくないんで遠慮しときます」
こんな状況なのに二人は軽口を叩く余裕すらあった。本当、二人が味方でよかったと心底思わせられる。もし敵だったらなんて……あまり考えたくないわね。
紫は私の前に壁になるように立つと、扇子の先を黒ローブに突きつけた。
「さて、貴方には聞きたいことがたくさんあるわ。この夢のこととか、蓮子とメリーに何をしたかとか……貴方の正体とかね」
「………………」
紫が問うけれど、レールの上の黒ローブに動きはない。ただ騒音に紛れてブツブツと何かを言っているだけだ。はっきり言えば気味が悪くて仕方がなかったけれど……私達は辛抱強く向こうの動きを待つ。
ややあってから不意に砂利が擦れる音が鳴る。黒ローブが裾を引きずりながらゆっくりとこちらに近付いて来ていた。
と、おもむろにダボダボのローブが膨らんでいき、巨大な右腕が露わになる。北斗の方からから息を呑む音が聞こえくる。
いや、位置的に右肩から生えていたから右腕と言ってしまったが……
正確に言えばそれは無数の腕の束だった。
私は思わず口元を押さえ、嗚咽を堪えた。血色の悪い複数の腕がまるで蛇の交尾のように絡まり合っている。そして虚空を掴もうと開く手はまるで花束のようにも見えた。そこまで観察したところで私は足元で何かが蠢いていることに気付く。
「う、腕が、動いて……!」
私達の周りに転がっていた腕が、芋虫のように這って黒ローブに集まろうとしていた。切り口から血を流しながらも、意志を持ってるかのように、ゆっくりと、着実に……黒ローブへと近付いている。
異質な光景に恐怖が湧き上がってくる。けれど、頭は疑問に溢れていた。何であんな数の腕が付いているの? しかも切り取られた腕も動いてるし……いや、そもそも何で腕だけ残って……腕?
唐突に頭の中で一つの映像がフラッシュバックする。テーブルの上、桐の箱の中に入れられた……小さな動物の、ミイラの腕。そうだ私、灯台の上であいつに、腕のミイラを見せられたんだ!
ようやく全てを思い出したその時、世界全てにヒビが入った。線路に、歯車に、闇に、月に、亀裂が走りボロボロと崩れ始める。前触れも何もなかった。強いていうなら私が腕のミイラのことを思い出したくらいだけれど、これってもしかして……
北斗も気付いたようで辺りを見渡す。
「そんな……夢が終わり始めてる!? 誰かが蓮子を起こしたのか!? 紫さん、蓮子を!」
「わかってるわ! 早くスキマの中に!」
流石の紫も焦り気味にそう言うと私達の背後にスキマを作り出す。対して北斗は黒ローブに向かって疾走していく。
黒ローブは世界の残骸にぶつかりながらも、こちらに近付いてきていた。北斗は、アレの相手をして時間を稼いでくれるつもりなのだろう。
私は急かされるままそこへ飛び込もうとするが……何かに足を引っ張られ、コケてしまう。足元を見ると切り取られた腕の数本が、私の左足に纏わり付いていた。どこのB級ホラーよ……!?
「はな、せっ……てば!」
私は右足で腕を蹴りまくって必死に抵抗するけれど……いくら引き剥がしても執拗に掴みかかってくる。紫も柄になく必死に私の手を両手で引っ張ってくれるけれど……僅かにしか動かない。空間の崩壊は続いている。
地面も崩れ、底の見えない闇が私を飲み込もうとしていた。あそこに落ちたら……私は目覚めることが出来るのだろうか? 嫌な想像が頭を過る。
「蓮子!」
「なっ!?」
そんな時、北斗の声が耳に届く。いつの間にか戻って来ていた北斗が刀を駆使して、腕を一本一本退かそうとしてくれる。その気持ちは嬉しい、けど……もう足場はギリギリだ。このままじゃ二人で落ちる。
せめて、北斗だけは……そう祈りながら目を瞑って襲ってくる浮遊感に震えていると、不意に私の右手が掴まれ身体が引き起こされる。
「諦めるな」
声が聞こえた瞬間、トン、と私の身体が軽く突き飛ばされる。そこで私はようやく目を開けた。流れる視界の中、そこで私は北斗の姿を見つける。
無数の腕に身体を掴まれながらも左手一本で、私の背を押した姿を。私はスキマの中の紫に抱きとめられるが、すぐに立ち上がって北斗に向き直る。
「北斗!? 早くこっちに……」
「行け! 俺じゃあメリーを助けられない……お前が、できることをするんだ!」
「メリー!? メリーがどうしたの!? いや、それより手を!」
私は閉じていくスキマの中から必死に手を伸ばすけれど……その手は届かない。その瞬間、一際大きな世界のカケラが地面を砕き、反動で北斗の身体が宙に浮く。
「後は、頼んだ」
私が確認できたのはそこまでだった。スキマが完全に閉じたと同時に、私の意識は遠のいた。