遠くに蝉の声が聞こえる。夏の音だ。けれど、頬を微かに撫でる風は涼しい。冷房の効き過ぎで頭がガンガンする以外はいつまでも眠れそうな環境だけれど……ふと前の記憶が戻ってる。その瞬間、私の身体は唐突に強張った。
「北斗!」
思わず伸ばした掌。それを誰かに握られて、私は目覚めた。見慣れ始めてきた天井が見える。私は自分のベッドに眠っていた。そして傍で私の手を握っていたのは……こいしだった。
「あっ、起きた」
目を合わせるとこいしはパッと手を離して柔和な笑みを返してくれる。つい此の間まで命を狙われていた相手だけれど、その陽だまりのような笑顔が凍り付いていた身体を一気に溶けてくれた。
私……助かったんだ。弛緩した身体をベッドが優しく受け止めてくれる。相当疲れているか、自分の身体が随分重く思えた。
窓の外は炎天下の町が広がっているけれど、冷房と冷や汗のせいで寒い。自分の身体を撫りながら起き上がると、すぐ側に跪いているこいしとその隣で椅子に座る紫の姿があった。
……メリーと北斗の姿がない。そういえば、夢の醒め側北斗は私に何かを言ったわよね。確か、メリーを救えるのは私、だけ……って。
「紫、メリーは」
「………………」
「メリーはどうしたの? それに、北斗も……」
「二人とも眠ってるわ。さっきの貴方のように、醒めない夢の中に閉じ込ったままよ」
俯きがちに呟いた紫の言葉に、私は一時的に思考能力を奪われてしまう。紫はメリーが無事だって……
いや、きっと紫と北斗が私達を見つけて部屋まで運んでくれたのだろう。それはわかるし、助けてくれたことは感謝してる。
けど、私はベットから立ち上がって紫に詰め寄る。つまずきかけてこいしに身体を支えられるけれど、感謝の言葉を掛ける余裕もなかった。
「どうしてメリーを先に助けなかったの!? 無事だって言ってたじゃない! 私が助けられるなら、メリーだって……」
「助けようとしたわ。けど……出来なかったの。私には」
紫は椅子に座ったまま動かない。そこで私は気付く。普段紫は感情をひた隠しにするために、胡散臭い笑みを浮かべ続けていた。けれど今は……その顔が落胆の色に染まっていた。
思わず紫の目の前で立ち尽くしてしまう。これ以上彼女を責められるほど、私は無神経でいられなかった。エアコンの稼動音と蝉の声が耳につく。こいしはただ困ったように私と紫の顔を交互に見合っていた。
しばらくして、私は紫に尋ねる。
「メリーに、何があったの?」
「……私にもわからないわ。ただメリーは、私を拒絶したわ。真実を知るくらいなら、夢の中に居たいと」
「真実……」
灯台の下でも言っていた。不安を吐露して、迷っていた。知ることが、戻れなくなることが怖いと。そして今メリーは夢の中から出て来ようとしない……まるで部屋に閉じこもった子供のように。
私は、メリーのことを知りたいと思っていた。いつか霧のようにいなくなってしまうくらいなら最初から知っていて諦めていたかった。けれど、本当は知りたくなかったのか。私が押し付けていただけだったのか。
ううん、違う。きっと私は……拒絶したかったんだと思う。自分の世界が、メリー自身が変わっていくことを受け入れられなかったんだ。
だとしたら、私は……私の平穏を得たいがために、メリーを苦しめていたことになる。そう思うと手が震えた。眼球の奥に熱いものがこみ上げてくる。
「ッ!」
私は首を振って、自分の頬を思いっきり叩く。それを見て紫とこいしがギョッとしているけれど、気にしない。
今私が泣いても、メリーを助けることは出来ない。助けて、謝ってから、ちゃんと話し合おう。泣いていいのはそれからだ。私は涙を堪えて紫に向き直る。
「……それで、北斗は? 何で寝ているの?」
「あくまで私の推測だけれど……きっと夢の中にいるからでしょうね。当然だけれど、貴女の夢の世界に入るには私も北斗も眠っていなければいけない。そして本来なら貴女の目が覚めれば世界は崩壊するのだけれど……いや、事実崩壊していたわね」
「そんな。それじゃあ北斗は……」
崩壊した夢の世界に閉じ込められた人間は……一体どうなるのだろうか?もしかしたら、二度と目覚めない、なんてことないわよね。
頭から血の気が引いていくのを感じるが、目の前の紫は特段心配したような表情をしていなかった。
「貴女が見ていた夢の世界に閉じ込められたか、はたまた別の……自分の夢の中に逃げ込んだか、どちらにしろ何かしら決着が着くまで目覚めないでしょう」
「そんな……」
「……心配なのはわかるけれど、北斗が自分の意思で残ったのだからきっと大丈夫よ。それにこれから手は打つわ」
素っ気なく聞こえるけれど、北斗を一番よく知っている紫が大丈夫というなら、それを信じるしかない。
けれどあの別れ方じゃ、北斗が私の身代わりになったみたいで後味が悪い。できるだけ早めに帰って来てもらいたいわ。
とりあえず聞きたいことが聞けたので、私はベッドに戻って腰掛けた。それを見た紫は……少し考え込んでからこいしを呼び掛ける。
「悪いのだけど……外してもらえるかしら? 蓮子に話しておきたいことがあるの」
「……いーよ、おにーさんの様子見てくるね」
こいしは紫に言われるがまま素直に部屋を出ていく。何だか、二人きりになるとどうも緊張する。いつもの紫ならともかくあんな目に見えて凹んだ表情を見せられたら……私もどう接すればいいかわからなっちゃうじゃない。
数十秒ほどの気不味い沈黙の後、紫が静かに喋り出す。
「これはメリーにも、北斗にも話していないことだけれど……貴女だけには話しておくわ」
「……メリーの、こと?」
「ええ……貴方も、きっとメリー自身も気付いているでしょうけど、私とメリーは無関係じゃありません。私達が貴女達を助けたのは偶然ではあるけれど……そう言っても信じてもらえないほどに数奇な運命に導かれて私達はこの街で出会ってしまった」
微かに吐息を漏らしながら、紫は窓の外を眺める。釣られて振り向くと、巨大な入道雲がこちらに近付いてきていた。夕立が降るかもしれない。そんな予感を覚えながら、私は半ば茶化すように肩を竦めてみせる。
「まるで出会わなかった方が良かったみたいな口振りね」
「出会わなかった方がよかったわよ。少なくとも彼女……マエリベリー・ハーンにとっては、ね」
「……じゃあ、なんであんな選択肢を提示したの? 無理矢理にでも帰らせればいいのに」
「そうねぇ……まあ、打算的な理由は色々あるわ。貴女達に最初伝えた言葉だって嘘じゃない。貴女達のおかげでこの街の異変に接触出来ている、結構本当に感謝しているのよ?」
紫はそう言いながら悪戯っぽくウィンクを飛ばしてくる。そういう軽薄な態度のせいでイマイチ紫を信用しきれない要因の一つなんだけれど。
なんて内心で呆れ気味に皮肉っていると、おもむろに紫が立ち上がる。そして数歩歩いてから私の前に立つ。不思議に思った私は、ベッドの上から紫の顔を見上げる。
「けれど、何より貴女達に選んで欲しかった。これから貴女とメリーには様々な真実が突きつけられる。そして……そう遠くない未来で選択をしなければいけなくなる」
「………………」
「きっと誰も正しさなんて証明出来ない。数えきれないほどの後悔をするかもしれない。でも貴女達が選んだ選択じゃなければ意味がないの」
呼吸が詰まる。胸がいっぱいになってはち切れそうになる。紫はどんな秘密を知っているのか、どんな想いを込めて私にこんな言葉を送ったのか、私とメリーをどう思っているか……私は紫のことはまったくわからない。
けれどその悲しげな笑顔を見た瞬間、私には察することのできないほど複雑な感情が流れ込んでくる。
「……今、夢の中のメリーを救うことが出来るのは貴女しかいないわ。私は、既に彼女と彼女の世界に拒絶されてしまった。夢の中に誰かを送ることは出来ても一緒に入ることができないの。貴女を守る人は誰もいない……その上で問うわ」
「紫……」
「メリーを連れ戻してくれないかしら?」
紫はそう言うと私に扇の先を向けてくる。あの時と同じだ。真夜中の神社で紫は私達に選択肢を与えた。私はすぐに選ぶことができなかったけれど、メリーのおかげで私達らしい選択を出来たと思う。だから今度は……私が連れ戻す番だ。
「もちろん、引き摺ってでも連れて帰ってみせるわ」
案の定、窓の外から遠雷の音が聞こえて始めた。雨はまだ降っていないけれど……数十分もしたら降り出すだろう。
薄暗いメリーの部屋に入った私は灯りを付けようとして……止める。これから眠るんだから明かりは不要だ。私、明るいと眠れないし。
部屋の中、窓のすぐ手間のベッドの上でメリーが眠っている。そして枕元に寄り添うように紫がしゃがんでいた。紫は私の方を向くといつもの薄ら笑いで尋ねてくる。
「さて、月並みの台詞だけれど……準備はいいかしら?」
「いいも何も今更準備するようなことなんて大してないわよ。精々心の準備をするくらいよ」
まあ、あれからシャワーを浴びて着替えたり、紫が買ってきた……であろう菓子パンを齧ったりはしたけれどね。
これから夢の中に単身で乗り込むというのに、不思議と気分は落ち着いていた。目の前のベッドで静かに眠るメリーの手を取る。
怖くないわけじゃない。けれど、北斗の言葉と紫の表情、そして……メリーの手の温もりが、私を支えてくれていた。
少しの間そうしていると、頭の上の方から紫の声がする。
「言いそびれていたけれど、夢の中がどうなっているかは未知数よ。私の時はごく普通の大学校内だったけれど……もしかしたら、一生メリーの夢の中で彷徨うことになるかもしれないわ」
「直前にそれを言うのね……今更何言われようとも可能性があるなら私は行くわよ。それに占いが言うには、何でも願いが叶うらしいし」
紫を見ずにそう返すと、くく、と堪えたような笑い声が聞こえる。その声は、一瞬目覚めたのかと思うほどメリーに似ていた。
「……その、不思議にも恐怖にも向き合おうとする勇気は貴女の長所だけれど、稀に蛮勇にも思えるわね。どこかの誰かさんに似ているわ」
「褒められている気がしないわね」
「諌めているだけですもの。以前北斗が伝えた言葉を忘れないように、ね」
それはどういう意味か、聞こうとする前に私の目の前が真っ暗にされる。紫が私の視界を目隠ししたのだ。それはメリーが自分の見る景色を見せる時と全く同じやり方だった。
「とにかく貴女はメリーを見つけなさい。何を話すかは……貴女に任せるわ。次目覚める時はメリーと貴女、二人で起きることを願っているわよ、蓮子」
目隠しされたまま頷く。瞬間、身体全体が浮き上がるような感触がする。視界に光が溢れたかと思ったら軽い衝撃と共に息苦しさがやってくる。
淡い光の中に無数の気泡が浮かび上がる。冷たい感触が全身を包む。これは水の中か。浮かび上がらないと……
そう思ったその時、視界の端に緑の何かが見える。両手両足をバタつかせなんとか体勢を整えると、薄暗い水底に鬱蒼とした巨大な森が広がっていた。
「……ッ!」
直感だった。私は身体を反転させて水底に向けて泳ぎ始める。息継ぎもしない。今こうしないと……水面に上がってしまったらもう戻って来れない気がして、無我夢中で潜行していく。
全く理にかなっていない。根拠の一つもない。けれど、身体は第六感を信じて動き続けた。泳げないわけじゃないけれど、素潜りなんてしたことない。けれどまるで重量に惹かれているかのようにゆっくりと、着実に水底に近付いていた。
もうすぐ、もうすぐと自分に言い聞かせる。が、限界はすぐに来た。息が続かない。酸素不足で視界が霞んでくる。もうどこへ向かって泳いでいるかすらわからなかった。
その時、突然新鮮な空気が肺に送り込まれたと思ったら、再度浮遊感が襲ってくる。いつの間にか私は水中から飛び出ていた。
「プハッ……! なっ……」
いや、浮遊感じゃない。これは……ただの自由落下だった。足元に目をやると水面と月、そして星が遠ざかっていく。私は真っ暗な森に向かって頭から真っ逆様に落ちようとしていた。
「嘘でしょおおぉぉぉぉ!!??」
私は絶叫するが身体はドンドン加速度を増していく。いつか空を飛ぶ夢を見たことがあるけれどそんな楽しいものじゃない。
死ぬ。夢の中で死んだらどうなる? やり直しできるの? そのまま永眠? 笑えないわよまったく!? 脳内はパニック状態だ。
そんな中……奇跡か、それとも仕組まれた必然か、迫り来る森の木々の合間、ちょうど私の落下地点に誰かがうずくまっているのが見えた。月明かりに輝く金糸の髪、間違いない、あれは……
「メリー!」
私は状況も忘れて叫ぶ。メリーの背中へと手を伸ばす。ここに私がいると、ここまでやってきたんだと。
その時頭上に夜闇より暗い空間が広がる。これを……私は見たことがある。メリーが何度も見せてくれた境目だった。背中に翼のない私じゃどうすることもできない。私はなす術もなく境目の中に落ちていった。
気が付くと私は夜の森の中に立ち尽くしていた。右も左も前も後ろも真っ暗闇で、目を凝らしても薄っすらと木の幹が見えるだけだった。私はびしょ濡れになった服に不快感を覚えながら、空を仰ぐ。
「雨……」
落下中は気付かなかったけれど、森にはしとしとと小雨が降っていた。ただ空に雨雲は掛かっていない。
微かに揺らめく満天の星空から雫が降り注いでいた。私が潜っていたあの水が降っているのかもしれない。流石メリーの夢、なかなかファンタジーかつ非物理的ね。
私はつい癖で帽子を直そうとするが……そもそも帽子を被っていないことを思い出して、代わりに濡れた髪を撫でつけた。
さて、無事着地出来ているのは喜ばしい限りだけれど……辺りにメリーの姿はない。あの境目は咄嗟に私を助けてくれたのか、はたまた私をメリーから遠ざけたかったのかはわからない。
が、月の位置を見る限りメリーとの位置は遥か遠くに離れてしまっていた。
「まったく……こんな森の中で独りぼっちで、メリーは何をしているのかしらね?」
半ば呆れながら、独り言を呟く。けれど、なんとなく私はわかっていた。
この森はメリーの迷いなんだと思う。きっとメリーは何かから逃げるために、ここに迷い込んでしまったのだろう。
出るにも出られず、ただ森の中で助けを待っている。落ちている最中に見たメリーのあの姿はそう映って仕方がなかった。
「なーんて、酷い妄想だわ」
メリーが今のを聞いたらきっと頬を膨らまてそう言いそうだわ。私は小さく吹き出しながら、足元を探るように一歩踏み出す。
硬い根と腐葉土の柔らかい感触。気を抜いたらすぐ転んでしまいそうだ。気を付けないとね。
……先程落ちる時にチラリと見た月の位置から鑑みて、かなりの距離歩かないといけない。けれど、わかる。月が、私とメリーの距離を教えてくれていた。
「確かに私じゃないと救えないわね」
きっと北斗にも、こいしにも……きっと紫にも無理だ。今、メリーの手を取れるのは、私しかいない。私は月を頼りに、おぼつかないながらゆっくりと歩き始めた。